揺れる紅
きっと、恋ではない。背中合わせの沈黙が心地良いから。
本作含む短編3作は、連載予定の長編『紅華四季恋浪漫譚 蛍夏の章』の一年前を描く前日譚です。
大正浪漫と魔術が息づく帝国。苛烈な令嬢・火花と、滅びた隣国の青年・玲。
二人はぶつかり合いながら、運命の糸を絡めていきます。
この短編だけでもお楽しみいただけますが、長編の前に触れていただくと二人の距離感がより鮮やかに味わえます。
紅苑高等学院の訓練棟は、帝都の真夏の熱を遮るように、分厚い瓦屋根を広げていた。
高い天井の梁は黒々と磨かれ、壁際には竹刀や木刀、防具が整然と並んでいる。普段なら武科生たちの掛け声と木刀のぶつかり合う音で賑わうはずの板張りの広間も、この日は雨音で満ちていた。
外は土砂降りだった。
高窓を叩きつける雨音が、広い空間を低く震わせている。
湿り気を帯びた風が、開けたままとなっている戸から雫と共にしきりと吹き込み、火花の制服の裾を重たく揺らした。
本来なら今日、隣にある演習場で紫苑玲と手合わせするはずだった。
しかし、この豪雨を理由につい先刻、中止が宣言された。胸の奥で高まらせていた熱が、急激に居場所を失ったように火花の身体の中を彷徨っている。
どうにも諦めきれず、同級生たちが足早に校舎に戻っていく中、彼女は隣の訓練棟へと足を踏み入れた。
濡れるのも構わず、熱を振り払うように木刀を振るい続ける。代わりの講義があるから直ぐに教室に戻るようにと指示はされていたが、火花にその言葉に従うつもりはまるで無かった。
汗か雨か分からない雫が刀身を伝い、床に散るたびに、火花の熱は散っていくどころか、反対に増幅されていくようだった。
やってみたかった。
火花の心に呼応するように、低い声がした。
「やるか?」
振り返ると、同じ制服姿の玲が立っていた。
真夏の雨に濡れ、紫水晶のような瞳が淡く光を宿している。
火花は心臓が強く鼓動するのを感じた。
笑みを隠せず、濡れた髪を耳に払いながら、まっすぐに玲を見据えて告げる。
「いいの?」
挑むように火花が言うと、玲は無言で壁にかけてある木刀を手に取った。
二人は雨に濡れた床を踏みしめ、間合いを詰める。
数秒の睨み合いの後、先に動いたのは火花だった。
水滴を散らしながら、鋭く切り込む。だが、玲はほとんど動かず、わずかに身をずらすだけで受け流した。
簡単にかわされた事実に、苛立ちが胸を刺す。
だが同時に、心の奥がざわめき、よりいっそうの熱を帯びていく。
火花はさらに踏み込む。吹き込んでくる雨粒が頬を叩き、裾が重く張り付くが、そんなことはどうでも良かった。
玲の瞳が細められる。
その紫に映るのは、楽しそうに全力で挑んでくる黒い瞳の少女。彼女はとても速かった。
その速さを力に変えるのが上手だと玲は思う。
彼女の剣先を再びかわそうとしたが、そうはさせないとばかりに急激に火花は太刀筋を変えてくる。二人の木刀が真正面から激しくぶつかり合い、鈍い音が訓練棟に響いた。
華奢な腕から放たれたとは思えないほど、重い一撃に玲は唇を噛む。
木刀を合わせ、肉薄し、二人の距離が近くなる。
紫と黒の瞳が、お互いを貫いた。
――違和感。
火花の黒が、ふと鮮やかな紅に揺らめいた、気がした。
玲がその紅の正体を確かめる間も与えず、火花は一度後退し、先ほどよりも速度をつけて玲へ打ち込んだ。
玲はそれを受け止め、ぎり、と木刀同士が鈍く鳴る。雨音さえかき消すような衝突だった。
その衝突音に重なるように、雷のごとき怒声が訓練棟に響き渡った。
「何をしてる!!」
教師の怒声だった。
激しい雨音にもかき消されない声量に、二人は我に返り、木刀を引く。
傘を片手に濡れながら立つ中年の教師は、痩せ型の眼鏡が特徴的な、座学を重視することで有名な人物だった。良くも悪くも実技のみの成績が傑出している火花は、彼のことが嫌いである。こっそり見た目が似ているからという理由で、河童と渾名をつけていた。
教師のほうも、火花のことを講義中に惰眠を貪る問題児として認識しており、この怒号は火花にとって何度も経験したものであった。
毎度毎度よくこの熱量で怒りをぶつけられるなあ、と火花は内心感心さえしているが、表面上は大人しく頭を垂れる。
横の玲をちらりと見ると、彼は息一つ乱さぬまま、いつもの無表情を貫いていた。
その様子に、また火花は苛立ちを覚える。
烈火の如く叱りつける教師の声が、雨音と入り交じって響いていた。
「お前達、実習は中止だと知っていただろう!講義はどうした、とっくに始まっている時刻だ!特に黒宮、いつもいつも不真面目な態度ばかり取って!紫苑も転入早々、問題を起こすな!」
「……申し訳ありません」
玲が低く答えると、火花も渋々頭を下げた。
「河童め、雨に流されろ…」
下げながら、雨音にかき消されるくらいの音量で悪態をつく。
隣にいた玲には、呟きがしっかり聞こえていたらしい。彼の表情は変わっていなかったが、肩が僅かに揺れたのを火花は見た。
「何か言ったか黒宮!」
「いいえ、まったく。なーんにも。」
少しおどけた様子を見せた火花に、教師の額に青筋が浮かび、顔色は沸騰するように真っ赤になる。拳を震わせ怒りに耐える姿に、玲は嫌な予感がした。
「お前達…反省文を書いてもらうからな」
「なぜ俺まで」
玲が思わず呟く。
「口答えするな!」
教師の怒りの炎は燃え盛る一方のようだった。
「やろうと言い出したのはそっちだから仕方ないね」
「望んだのはそっちだろ」
「口の減らない奴」
「そっくりそのまま返す」
小声で応酬を始めた二人に、教師が黙れ!!と怒鳴る。息があがって肩で呼吸し始めた教師に気づかれないよう、そっと頭を垂れて、火花はぼそりと呟いた。
「河童が沸騰してる」
玲がまたもや肩を揺らした。
「お前達、まだ何か言いたいか!」
「「いえ、何も」」
二人が見事に声を揃えると、教師は「まったく……」と頭を抱える。
「だいたい、この訓練棟は今改修工事中で立ち入り禁止だとあれほど周知してあっただろうが!それに戸も閉めずに遊びよって、見ろ、床も壁もびしょ濡れだ!」
続く教師の罵声を右から左に聞き流しながら、玲は隣の女のことを考えていた。
先程の、黒宮火花の瞳に感じた違和感はなんだったのだろうか。漆黒の中に、一瞬だけ紅が揺らめいたように思えた。
今の彼女の瞳はいつもの漆黒で、先程感じた色は見えない。
不思議と、ただの勘違いではないと確信していた。
きっと彼女とは、この先何度も斬り結ぶことになるだろう。その中でこの違和感の正体を知ると、何故だかそうはっきり思えたのだ。
「いい度胸だお前達。この訓練棟を雨粒ひとつ残さぬよう掃除しろ。終わるまで帰さんからな!」
心ここにあらずの玲に気がついた教師は、呆れを孕んだ語気でそう命じた後、踵を返して去っていった。
雨の音はまだうるさい。
そのはずなのに、あの河童教師が去ったことで、訓練棟は少し静けさを取り戻したような気さえした。
湿気た空気が板の間に染み込んで、木と汗の匂いが充満する空間。その夏の匂いを吸い込んで、玲は火花へ視線を向ける。
「お前」
火花に問いかけて、やめた。
「なに?」
「いや、なんでもない」
「……そう」
火花は疑問に思ったが、仕方なさそうに掃除を始めようとする玲を見て、短い返事を返すのみにした。
それからの二人の間にはもう、言葉はなかった。濡れた床を拭う音が、板間に広がっていく。
火花は乱暴に雑巾を押しつけるようにして、玲は静かに、そして丁寧に濡れた床を拭っていく。
拭いても拭いても、濡れた床はなかなか乾かない。
けれど、不思議と火花は嫌ではなかった。玲の気配が、遠くで、でも確かに感じられる。
ふと、火花は手を止めて玲の方を見た。
玲も偶然、顔を上げたところのようで、視線が、かすかに交錯する。
言い表せない気まずさを覚えた二人は、すぐにそれぞれの拭き掃除に戻った。
ただ、それだけのやり取りが、妙に火花の胸に残った。
雨音はいつの間にか、ほんの少しだけ穏やかになっていた。