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猫又ルリ子と放課後の標本室  作者: 猫又ルリ子
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第二章 仮面の水音 4

 目を開けると、またあの部屋だった。

 暗がりの中で、瓶の中の液体だけがわずかに揺れている。


 川島サユリの記憶は、確かに今、少年の中で終わった。けれど、その名残は、確かに残っていた。

 瓶から手を離すと、空気がわずかに震えた。棚に並ぶ他の瓶の水面も連鎖するように揺れ、川島サユリと記されたラベルのインクが滲み出していく。


 その時だった。

 ルリ子がふと窓の外に視線を移し、言葉をこぼす。


 「人は死して名を遺す……名乗ることを許されなかった名は、どこへ還るのかしら」


 彼女の眼差しの先、中庭の小径には、春の気配に包まれながら歩く二人の姿があった。

 一人は、若い介護士の女性。もう一人は、車椅子に乗った老女。


 白髪の影を落とすその横顔には、なぜか見覚えがあるような気がする。

 やがて、介護士がやさしく語りかけた。


 「白石さん。桜、そろそろですね」


 「今年も楽しみですね……」と、老女は微笑みながら返す。


 その声に、少年はふと我に返った。

 不意に、ルリ子がこちらへと振り向く。


 「ところで、私は名乗ったのに。あなたはまだ、名乗っていないじゃない」


 その言葉に、少年は一瞬戸惑う。

 けれど次の瞬間、胸の奥に沈んでいた言葉が、するりと口をついて出た。


 「……吾妻漱一郎」


 それは、どこにも力のこもっていない、ごく自然な名乗りだった。

 だが、口にした瞬間、彼の中に妙な感覚が走る。


 ──今、初めてこの名前を声にした気がする。


 けれど、それなのに懐かしい。

 まるで、遠い昔に落とした何かを、ようやく拾い上げたような、そんな感覚。


 チリン…という静かな鈴の音が先ほどまで触れていた瓶から聴こえたような気がする。


 視線を戻した瓶の中では、黒く濁った液体の中から、再びインクがゆっくりと集まり始めていた。

 にじむように、浮かび上がった一文字──


 「白……」


 それは、かつて名乗ることを許されなかった名の、ほんの始まり。

 瓶の中に、仮面の奥に、長く沈んでいた「本当の名前」が、静かに還ろうとしていた。

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