序章 鈴の音の導き
放課後の廊下には、誰もいなかった。
夕暮れが廊下の窓を薄く染め、古びた床に長い影を落としている。薄明の空気は乾いていて、どこか満たされぬ感触を残していた。少年は、その廊下を静かに歩く。
音もなく、ためらいもなく。どこへ向かっているのか、自分でもよく分かっていない。ただ、その足取りには、何かを確かめようとするような揺らぎがある。
──チリン。
風もないのに、鈴の音がひとつ鳴った。遠くから、けれどはっきりと。呼ばれたような気がして、少年は立ち止まり、そして振り返らずに歩き出す。音のする方へ。
薄暗い廊下の突きあたり、古い扉がひとつ開いていた。
「生物準備室」と札のかかった扉。もう何年も使われていないはずのその部屋から、かすかに光が漏れている。夕日の色ではない。もっと柔らかく、もっと古びた光だ。
少年は、扉を押す。
部屋の中は、埃っぽくて、ひどく静かだった。棚の上には、大小さまざまな瓶が並んでいる。古びたガラスの内側に、薄い影が眠っていた。
そして──その部屋の、窓際に。
ひとりの少女が、窓辺に立っていた。
黒髪は肩より少し長く、毛先はゆるやかに波打ち、二股に分かれて揺れている。琥珀色の瞳が光を受けてわずかにきらめき、どこか猫のような反射を湛えていた。紺地の古風なセーラー服には、白い襟と袖のラインが入り、胸元にはくすんだ青のリボンが結ばれている。少女の佇まいは静謐で、まるで額縁に収められた肖像画のように現実感がなかった。
夕日の差す窓辺に、じっと背を向けて立つその姿には、時間の流れそのものが止まってしまったかのような空気が漂っていた。
少女は、静かに振り返る。
「来たのね」
その声が、部屋の空気を少しだけ震わせた。まるで古い鈴の音のような、やさしくて、懐かしい響き。
その言葉に、少年は何も返さない。返す言葉が見つからなかった、というよりも──ただ、その声に耳を傾けることしか思いつかなかったのだ。
少女は、ゆっくりと彼の方へ歩み寄る。足音はしない。影だけが静かに床を滑っていく。
「久しぶりに人が来たわ。……でも、あなたは、少し違うのね」
そう言って、少女は彼の顔を見上げる。瞳の奥で、何かを探すような光が揺れていた。
部屋の隅には、古ぼけた木製の棚がある。そこに並ぶのは、十も二十もある、さまざまな形の瓶だった。理科室で見かけるような標本瓶、香水の瓶のような細長い硝子、古い漢方薬が入っていたような分厚い蓋付きの壺──そのすべてが、まるで“何か”を封じ込めるためにそこにあるかのように、整然と並んでいた。
「これはね、記憶の瓶なの」
少女が指さしたのは、棚の中央に置かれた小さな球形の瓶だった。ガラスの内側には、澄んだ液体がゆらりと揺れている。中に何かがある気がしたが、目を凝らしても、はっきりとは見えなかった。
「ここにあるのは、誰かが忘れてしまった放課後。心に鍵をかけてしまった記憶。名前すら残っていない想い」
少女がそう言ったとき、棚の瓶のひとつが微かに揺れる。まるで彼の存在に反応したかのように。
彼は、無意識のうちにその瓶に近づいていた。言葉は要らない。瓶の中にあるものが、自分にとって意味を持つと、どこかで感じていた。
「触れてごらんなさい」
少女の声は、遠くの鐘のように響いた。呼びかけではない。許しでもない。ただ、そこにあるべき言葉として。
少年は、棚の一角に手を伸ばす。古びたガラスの瓶。指先が触れた瞬間、空気がかすかに波打った。
──世界が、ほどけた。