Ⅷ 嘘つきの告白
「あれ、お疲れっスか隊長」
歪に連なる山々と稲刈りを終えた田んぼが続く長閑な景色の中、長い上り坂が見えたところで不意に古矢がブレーキをかけた。あたりはすっかり明るくなっていつの間にか寒さも和らいでいる。
「あたりまえだ…何時間俺ひとりで漕いでると思ってんだよ…もーむり休憩休憩」
俺が自転車から降りると、ヤツは疲れたた顔で自転車を押して路肩の方へ歩いて行った。その先に、見上げるほどの立派な銀杏の樹が黄色い炎みたいに聳えていた。古矢はその樹の下までたどり着くと、おもむろに自転車を放り、ぐしゃぐしゃにジャケットを脱ぎ捨てて黄色と緑の絨毯の上に自分も一緒に倒れ込んだ。どこぞの高い古着も前に見せびらかしていた念願の自転車も、相変わらずコイツはお構いなしだ。俺は呆れながら傍までゆっくり歩いて行って寝転がる古矢の横に座り込んだ。街から遠く離れたこのあたりは、山に挟まれた畑と田んぼと草むらばかりで車すらろくに通らない。むしろ猪や狐の方がのびのびと暮らしていそうなほどだ。後ろで生い茂っている草むらの奥で名前も知らない虫が秋の声を奏でている。穏やかな風が伸びすぎた前髪をゆらした。銀杏の枝がさわさわと揺れ、扇形の黄色い葉っぱがひらひらと膝に舞い落ちてきた。見上げると一面、鮮やかな黄色の傘が広がっている。やわらかい木洩れ陽が降り注ぎ、目を閉じた古矢の顔の上に淡い光の模様を描いている。ヤツは仰向けになり、頭の後ろで腕を組んで休んでいた。時々紅い唇を薄く開けて澄んだ空気を吸い込んでは、うっとりとした表情で寛いでいる。俺はそこら辺に生えていた猫じゃらしを一本むしって、指先でくるくると転がした。
「なぁ鈴、俺もさぁ、ついてっていい?」
「どこに」
「北海道」
「…来てどうすんだよ、何もねぇぞ」
「いいよ別に。お前んとこに住むだけ」
「何それ、ヒモ?転がり込んでタダ飯食らう気かコノヤロー。ばあちゃん泣くぞ」
「お前ほんとマジでむかつく」
俺は猫じゃらしでピアスが三個もぶら下がった古矢の耳をくすぐってやった。ヤツは鬱陶しそうに頭を振り、払い除けた手の勢いのまま俺の手首を掴んだ。思わず目が合い、時間が止まった。古矢は無表情で、さっと手をどけた。頭の後ろに手を組み直して何ごともなかったかのようにまた目を閉じている。今度はその澄ました顔にそっと手を伸ばした。サングラスの黒い縁を指で掴んで、ゆっくりと外してみる。ヤツは薄目を開けたが、また閉じてされるがままに放っておいた。薄く青みがかったレンズをかけてみた。古矢が見ていた世界では銀杏は暗い緑色だった。サングラスを外して空にかざした。黄色い葉っぱの間から気まぐれに射し込む、きらきらした陽射しで遊んでみる。
「鈴ちゃんさー、俺のこと好き?」
ヤツは咄嗟に切れ長の目を大きく見張った。声を確かめるように俺を見ていたが、またすぐに顔を逸らしてどこか向こうの方へ視線を向けた。黄色い傘を見上げて何か声が返ってくるのを待った。息の止まるような、長い長い時間に思えた。傘の向こうに広がる水色の空。どこまでも続く木のトンネル。誰もいない道で踊る影絵。知らない虫の声。揺れる葉っぱ。きらきら光る虹色の粒。山の上から流れてきた、ゆったりと泳ぐトンビ。
「好きだよ、大好き」
ため息の混じったような小さな声が聞こえて、振り向いた。
「おれ……」
「勘違いすんなよ、友だちとしてな、とーもーだーちーとーして」
「はあ?何その言い方!ムカつくお前!ばか!ばか鈴!」
俺はサングラスをヤツの胸の上に投げつけてやけくそに寝転んだ。こいつは見かけ倒しでこういうところは本当に小学生みたいなヤツだ。がんこで、意地っ張りで、引きこもりでふざけて誤魔化して、すぐ自分の殻に閉じこもりやがる。つまらん。話にならん。しばらく目を閉じて、古谷の悪口を好き放題に思い並べていると、ふと、蒼い草の匂いがふわりと立ち、急にまぶたの向こうが暗くなった。目を開けてみると古矢の黒い瞳が目の前にあった。左目の下の薄いほくろ。眉毛の上の小さな傷跡。まつ毛の一本一本まで数えられるど間近に見える。瞬きをするのを忘れ、思わず、息を止めた。
「風邪うつるよ」
「いいよ」
唇にやわらかく、しっとりと熱いぬくもりが伝う。初めて味わう感覚だった。自分の間抜けなセリフを少し後悔しながら、どうしていいかわからず、ぎゅっと目を閉じて、おずおずと古矢の首元に手を回した。ふさふさのタテガミが腕を触ってくすぐったい。それに気づいた古矢が離れそうになると、思わずその唇を追いかけた。唇がなめらかな肌に触れ、反射的に目を開けた。穏やかな艶っぽい瞳が嬉しさに潤んで真っ直ぐに見つめている。なぜかそわそわと逃げ出したい衝動に駆られながら、その瞳に吸い込まれるようにじっと見つめ返していると、ヤツは少しはにかんで悪戯っぽく笑った。そして、もう一度顔を寄せてきた古矢の腕を咄嗟に引っ張って、俺はヤツの身体を横薙ぎに転ばせた。古矢は少し驚いたようだったが、すぐにやんちゃな顔を見せ、寝転んだまま腕を伸ばして子どもみたいに取っ組みあった。転がしあって草まみれになって声を立てて笑った。黄色い葉っぱがひらひら降ってきた。風が躍り、銀杏も枝を揺らしてさわさわと一緒に笑っていた。笑っていると軽くなれる。心の隅にある湿っぽい感情も薄暗い靄も、色んなことが吹き飛んで、何もかも全部忘れられて、無邪気だったあの頃に戻れるような、そんな気がする。
「あのさー仁哉、一個言っていい?」
一頻り笑ったあとに、古矢が笑いを堪えながら俺の方を向いた。
「え、何?」
「俺の実家って、北海道じゃないの」
「え?」
「っていうかこの辺」
「ぇぇえ!チャリで来れるじゃん!」
「そ。来れる」
ヤツは何やら嬉しそうにニヤニヤしている。なるほど、してやったりというわけだ。
「うわ最低お前、わざと黙ってただろ」
俺は両手でヤツを突き放して起き上がった。騙された。ヤツの魔性にすっかり乗せられた。やっぱりこいつは本物の魔性だ。
「でもお前は行くんだろ、どっか遠く」
見ると古矢は真顔になっていた。その、たくさんのものを諦めているような寂しい瞳に見つめられると、胸の奥が軽い火傷を負ったようにちりちりと熱くなった。
「行かねーよ」
「え?」
「あれなー高橋が流してるデマ。っていうか勘違い。だいたいさあ、ばあちゃんいんのに置いて行けるわけないじゃん。金もねぇし」
「んー……まあそうか……そうだよな……高橋、あいつ」
「あれぇ鈴ちゃん、俺がいなくなってもどうもしねぇんじゃなかったの」
俺は目を細めて、仕返しにヤツの頬を手の甲でぺちぺち叩いた。見た目によらずやわらかい。古矢は顔を顰めながらも、草の上に片肘をついた姿勢でまたも、されるがままになった。
「困るって言っただろ」
「そうだっけ」
「だから、格ゲーと洋楽とか……」
「まだ言ってんのか、ばか鈴」
「いてっ」
最後に一発ヤツの額を思い切り叩いて立ち上がった。
「そろそろ行こうぜ、陽が暮れるぞー」
俺は自転車を起こして道路の方へ押して歩いた。俺は胸の奥の変な痛みを吹き飛ばしたくて、また調子に乗ることにした。なぜかヤツの顔をまともに見れない。古矢が草を払ってのっそり起き上がっている間に自転車を立てて跨った。スニーカーの先が爪先立ちでギリギリ自転車を支えている。
「ほらー、早く乗れよー」
「何後ろ乗ってんだよ、お前いいかげん代われよ」
「いやだ。お前むかつくからお前漕げ」
「あんなお淑やかなばあちゃんから何でこんな子が育つんでしょーねー」
「おーい、早くしないと俺一人で行くからなー」
もたもたしているヤツを尻目に、力があり余っている俺は少し自転車を寝かせてサドルに移動し、悪ノリしてすいすいと坂を上った。さすが、いい自転車だけあってギアを使えば坂道も楽勝だ。
「おい、わかったわかったわかりました!わかったから、こんなとこに置いてくな!」
ヤツは腰に巻きかけたダウンジャケットを押さえながら駆け寄って、もう片方の手で荷台を掴んだ。
「あっぶねーな、引っ張るなよ!今ちょっとバックしただろ!」
ヤツはけらけらと笑いながら横に立ち、俺が文句を言いつつ自転車を降りる間、ハンドルを握って倒れないように支えてくれた。入れ替わりざまに俺にジャケットを投げつけて、古矢は袖を捲り上げながらサドルに腰掛けた。引き締まった長い腕に筋肉の形が白く浮き出ている。後ろに跨ろうとすると、さっと古矢が振り返った。
「あのさ、仁哉さん。上り坂なんだけど」
「はぁ?もーしょーがねぇなあ、じゃあ押してやるよ」
俺はヤツのジャケットを腰に括りつけ、荷台に貧弱な両手を突いて体重をかけた。古矢がペダルを踏み込むと自転車はどんどんスピードを上げて長い急坂を一気に駆け上がる。手元の車輪が銀色に光りながら勢いよくよくカラカラと回っている。アスファルトのにおいが鼻を掠めた。俺は心地よく息を切らし、踵を蹴ってぐいぐい押した。
「お、いいぞいいぞ、乗れ、仁哉」
気づくともう峠のてっぺん近くまで登っていた。古矢がブレーキをかけて俺を促している。片足でトントンとタイミングを見計らって荷台の後ろに飛び乗ると、ヤツの腰にしがみついた。自転車は二人の重みでゆっくりと平行になり、すっと一瞬止まったかと思うと、一気に加速して滑り降りてゆく。また声を上げて田舎のジェットコースターにはしゃいだ。振り落とされそうな怖さと緊張が堪らなく可笑しかった。片手を上げて風を掴んだ。空も、雲も、山も、目に映るものすべてがきらきらと輝いている。二人を乗せた自転車は田畑に囲まれた農道を猛スピードで滑走した。地面を滑り、風に乗る、まるで低空飛行の鳥になった気分だ。
「さいっこー!俺嘘ついてよかったー!」
「お前、思いっきり犯人じゃん!」
「あはは、まぁまぁ、お互いさまってことで」
「お前ねー、明日ちゃんと高橋にあやまっとけよ、あいつすげぇピュアなのに……」
「えぇ?……あー……うーん」
「何その返事」