Ⅶ 終わりの始まり
翌日の早朝、四時半過ぎ。俺はベージュのブルゾンの下に生成りのパーカーを着込んで家を出た。やっぱり外はまだ暗い。重たい空に星影は見えず、冷気で鼻の奥がつんと痛む。正直風邪は全然治っていないが、とりあえず台所の机の上に置いてあった薬を飲んでごまかした。昨日ヤツと約束してしまったので今日は行くしかない。しんと静まり返った青黒い住宅街に光る冷たい街灯を見ていると、一層心が寒く感じた。乾いた落ち葉を蹴りながら踵を擦って歩いていると、また前髪が目に入った。適当に切ってくれば良かったと後悔したがもう遅い。後悔なら、昨日からずっと続いている。くだらない嘘も、断らなかった約束も、古矢に舞い上がったことも出逢ったことも何もかも全部だ。足が重い。ヤツにどんな顔をして逢えばいいのかわからない。すべて正直に告白するべきなんだろうか。もしくは黙ったまま、清々しい顔で見送るべきなんだろうか。
入り組んだ住宅街を抜けた。用水路を挟んだフェンスの向こうに、鬱蒼とした黒い塊の木が並ぶ校庭の横を進むと、二車線の道路に差しかかった。無機質な信号がそっと赤に変わり、自然と足が止まった。何となく辺りを見渡したが、通りに車は一台も無く、街はまだ眠っている。立ち止まっている間、何度か携帯を開き、古矢の連絡先見つめては閉じ、開いては、また閉じた。この先を抜けたらもう後戻りはできない。断るのは簡単だ。熱が上がったとでも言えばいい。でも、たぶん、それで終わりだ。もう、元通りにはなれない。
視界の端に見えていた信号が黄色に変わり、やがて赤になった。人型つきの信号が青に変わるのを待って、ためらいがちに一歩右足を踏み出すと、突然横から現れた一台の車がすぐ鼻先を猛スピードで駆け抜けた。遅れてきた突風を浴びながら、茫然と走り去った車の方を見つめたが、既に、車は闇に包まれ消えていた。俺なんて、まったく見えていなかったんだ。俺が今ここで消えたって、少しの間だけ噂になって、すぐに誰の記憶からも忘れ去られるんだ。虚ろな意識でその場に立ち尽くしていると、歩行者信号が音もなく点滅し始めていた。俺はまた一歩ずつ、古矢の待つ場所へと重い足を進めた。
細い路地に入って角を二つ曲がると二階建ての小さなアパートが見えてきた。顔を上げると、駐車場の隅で脚の長い洒落たヤツがポケットに手を突っ込み、黒っぽい自転車に寄りかかっている。光沢のある薄手のダウンジャケットを着てボディバッグを前に下げ、まだ暗いのに気取ったサングラスをかけていた。俺は無意識に歩調をゆるめた。視線が下がり、それにつれて自然と顔も俯いた。
「おぅ、おはよ」
何度か頷いただけで俺は何も言わなかった。古矢の声に曇りはなく、いつもどおりの空気を漂わせている。目元は色の薄いサングラスのせいでよく見えない。気まずく緊張していたが、その普段の声色に俺はほんの少しだけ気を許した。
「風邪治った?」
「まぁまぁ」
「声は昨日よりマシだな。何むくれてんのお前、まいいや、乗れよ」
そう言いながらヤツはスタンドを蹴り上げ自転車に跨った。俺はその後ろへ跨り、斜めがけのバッグを背中に回して冷たい荷台へ腰を下ろした。散らばった黒いタテガミが目の前に迫っている。
「よし、しゅっぱーつ」
サングラスを額に上げたヤツはやけに張り切っていて、前屈みになって腰を浮かすと力強くペダルを踏み込んだ。自転車はぐらぐらと蛇行しながら目覚めかけた仄暗い街の中を進んで行く。行き先は古矢しか知らない。
車が少ないのをいいことに、古矢は車道を独り占めしてぐんぐんとスピードを早めた。ヤツの背中越しに吹く風が前髪を吹き飛ばして、開けた視界に見慣れた景色が伸びたフィルムみたいに流れてゆく。
「お前どこ持ってんの、ちゃんと掴まってる?」
「うん、持ってる」
荷台の端の細い鉄を両手で挟んで支えている。正直頼りないのはわかっている。ずっとぐらぐらしているし、さっきの角で危うく振り落とされるところだった。
「こっから坂だからしっかり掴まってないと落ちるぞ」
「だってこのチャリほかに持つとこねぇじゃん」
「俺のマッチョな腹筋を貸してやろうって言ってんだよ」
ヤツはきっと俺がなぜそれを避けていたかわかって言ってやがる。こいつは魔性で、ずるくて、残酷だ。
「おい、聞いてんの?」
俺はおずおずと片手ずつ前に手を回してヤツの腹を掴んだ。ダウンの下は薄着で硬い筋肉と腹の肉だか皮だかが指先に触れる。その気の抜ける感触は俺の中の何かを吹っ切った。古矢は今、目の前にいる。今日一日一緒なんだ。仁哉、今この瞬間を、楽しめ。
「うわ細ぇー、何これ、ぶよぶよー」
「ばかばかばかやめろ!こけるだろうが!」
「あっぶねーなー、ちゃんと運転しろよー」
「お前……あとで覚えとけよ」
二人を乗せた自転車は風を切って勢いよく坂を下った。がたがたと揺れ、軽く跳ね、時々ふわっと時間が止まる。古矢はキザな歓声を上げて風に乗っている。あの古矢鈴男が子どもみたいにはしゃいでいる。ジェットコースターのようなヒヤヒヤする楽しさに、だんだん俺は笑いが止まらなくなってきた。
次第に民家やコンクリートが少なくなって、街の終わりを感じてきた。古矢の肩越しに見えるのは、こんなところで見えるはずのない小高い地平線と横に広がる空だけだ。ゆるやかな傾斜を登ると道路の上に山の頭がのぞいてきた。この道は知っている。子どもの頃によく来た場所だ。懐かしいはずのこの先の景色を見るのが、俺は少し恐いような気がした。何も知らない古矢はカチカチと手元のギアを切り替え、足の回転速度を速めた。ゆっくりと坂を登りきると曲がりくねった大きな河が現れた。古矢は軽く息を乱し、自転車を止めると、片足を突っ張って休憩がてら景色を見渡した。土手の上を走る道がずっと向こうまで伸びていて、屋根が足元よりも低く見える。その土手の向こう側には水辺や山が連なり、まるでここから別の島に渡るような不思議な感覚がある。ジャングルみたいに生い茂った中洲。橋の下のテトラポット。誰もいない河川敷には遊具や小さなコートが点々とある。あの頃と同じだ。古矢は向かいの山に開いたトンネルに続く橋を渡って対岸に向かった。橋の上から見下ろす広大な河は巨大な蛇のようにうねりながら、山の周りを迂回して、遥か遠くの方まで広がっている。
この河をずっとずっと辿っていくと海に出るんだ。そう父親が教えてくれた。芝生の上を駆け回る、俺が見えた。キャッチボールをしたり、凧を上げたり、ダンボールで土手をすべったり。父親は俺を見守りながら、時々空を見上げて鳥の声を真似ていた。それがとてもきれいで、俺はよく本物の鳥と間違えた。父親は自然が好きだった。あの山の上からハングライダーができるんだ。父親が言った。トンビみたいに飛べるんだ。無邪気なその顔が浮かんできて、俺は古矢の背中に顔を埋めた。
「おい仁哉さん、朝陽だぞー見てるかー」
息を切らしながら古矢が言った。目を開けると空が淡く色づき、青白い山の間から、やさしい光線を放つ太陽が、靄に白む街を、眩しく照らし出している。
「おぉー、朝だー」
「目ぇ覚めたかー、じゃあそろそろ交代かなー」
「えー」
「えーじゃねぇよ、俺ずっと運転してるよねぇ?」
「俺さーこのチャリ足届かないと思うんだよねー、危ないじゃん?」
「仁哉さん、サドルってね、動くんですよ」
「ばあちゃんの真似すんな。あ、俺、風邪もひいてるわ」
「はー……どうせこうなると思ってたよ」
「いいじゃん。お前の背中落ち着くんだもん。乗り心地さいこー」
荒い息づかいの合間にヤツは小声で何か呟いた。聞き慣れない声だ。照れくさそうにしている洒落た顔が思い浮かぶ。俺は古矢の腰に両腕を巻きつけて体ごとその背中に委ねた。ヤツのぬくもりと筋肉の動きのひとつひとつが頬に伝わってくる。街が横向きに見える。俺の育った街があんなにも遠くにある。小さな瓦屋根や四角い建物がパステルカラーのジオラマのように浮かんでいる。あのジオラマの中で独り、とぼとぼと歩いている自分を想像した。