Ⅴ 夜の女王
寒い。頻りにがしゃがしゃと騒いでいるフェンスの音に目が覚めた。途端に鳥肌と身震いが全身を駆け上がり、寝返りをうって背中を丸めた。今何時だ。閉じていられなくなった瞼を開けるとフェンス越しに飛び込んできた燃えるような空に、一瞬寒さを忘れた。煌々《こうこう》と輝く太陽は棚引く雲の縁を黄金色に焦がしながら、みるみるうちに光を呑み込んで山間に沈んでいる。振り返ると、もう夜がすぐそこまで迫っている。この退屈な街のどれほどの人が、今この景色を見ていただろう。まるで自分だけが特別な世界に居るような変な心地だった。青紫色に染まった雄大な雲に見惚れながら、俺は両腕を抱えて体を起こした。覚束ない足取りでフェンスに向かい、網目からグラウンドを見渡してみる。伸びた木の影と掠れた白線、誰かの靴跡が残るだだっ広い土があるだけで、そこに人影はなかった。熱心な部活の生徒すら消えている。アラームでもかけておけば良かったと悔やみながらポケットに手を突っ込んだ。携帯がない。机に置いてきたか。仕方なく、とぼとぼと出口へ向かった。
「マジかよ、俺、閉めたっけ」
背筋が冷やりとした。引き戸に手を沿えて力を入れるが、開かない。俺は焦り、思い切り蹴飛ばした。寒いのに嫌な汗が噴き出てくる。この厄介な鍵は完全に閉めてしまうと屋上側からは開かない。なぜならこいつは常に向こう側から鍵がかかった絶妙な状態で壊れているからだ。ボロいくせになぜかオートロックに進化やがった。しかも俺が今蹴ったせいで変形したのか、より硬くなった気がする。「絶対締めんなよ」いつかの、古矢の声が頭の隅に聞こえてきた。ヤツは運良くこの危機を独りで脱したらしいが、日ごろの行いが悪いのか、俺は為すすべもなく、途方に暮れた。この秋の寒空の下、風を凌ぐ場所もない。吹きっさらしの冷たいコンクリートの上で夜が過ぎるのを待つのかと思うと、心の底から深いため息が漏れた。一瞬、磨りガラスを割ってやろうかとも思ったが、あとのことを考えると得策ではない。俺は仕方なく閉め出された出口の前に腰を下ろした。太陽が消えたばかりの空に、気の早い一番星が見えている。どうせなら朝まで寝ていれば良かった。携帯もないし煙草もない。いつも古矢が一本くれるからな。また、あいつか。
おそらく数時間が過ぎた。西の方にあった明るい星が見えなくなって、東に現れた別の一等星が真ん中辺りまで昇っている。俺は膝を抱えて縮まり、腕や脛を摩りながら空を見上げていた。空は濃紺色に様変わりし、どこからか現れた小さな星がいつの間にか点々と輝いている。中にはホログラムみたいに煌めいている不思議な星も見つけた。その星たちを従えて、ひと際目を惹くのは神秘的な夜の女王だ。やさしく冷めた白い顔で惨めな俺を見下ろしている。ばかみたいに薄着でなければ最高の景色なのに。俺は何度目かのため息をついて女王と見つめ合った。そうしていると、時々輪郭に青い光が浮かび上がりぐるぐると月の縁を廻りだす。何の現象だか知らないが、とにかく退屈な俺は、吸い込まれるようにそれを眺め続けた。空を眺めていると、時間の流れを忘れられる。微妙に欠けたその月の周りを虹色に縁取られた雲が取り囲うように浮いている。月は宇宙にあって雲は地球にあるのに、これはどういう原理なんだ。たまたまか。気を紛らわそうとひたすらそんな考えで暇を潰していたが次第にもたなくなり、一等星が西に傾いた頃には冷えた足先を見つめて、ただただ震えていた。古矢はあのあと帰ったのか。やっぱり病院で何かあったのか。携帯がほしい。ばあちゃんが心配する。
ふと、静まり返ったコンクリートの世界に、遠くの方からくぐもった音が聞こえてきた。耳を澄ますと校舎の中の方から一定の間隔で響いて来ている。人か、いや、人であってくれ。一瞬胸が躍ったが、時間が時間だけに不気味な疑いも湧いてきた。俺は硬直した。音はコン、コン、とゆっくりと確実に近づいて来る。心臓の音で自分の身体が揺れている気がする。呼吸の仕方もわからなくなってきた。無意識に立ち上がって音と向き合うように身構えた。寒さと恐怖で腰が引ける。音は間延びした鈍い音は次第に大きくなりコツ、コツ、と迫って来たかと思うと、やがて、引き戸の前でぴたりと止まった。俺の視線は音に張りついたまま、じりじりと踵を擦って退いた。擦りガラスの向こうで黒い塊がうごめいている。人か、人だよな。正体を確かめようと、そうっと顔を近づけた、その瞬間、引き戸に何かがドン!とぶち当たり、俺の身体は風圧を喰らったように後ろに吹っ飛び、ぶざまにその場へ崩れ込んだ。もう寒さどころではない。腰が抜けた俺は足をばたつかせて後ずさりながら武器になるものがないか手当たり次第に探り、目は隠れる場所を必死に探した。その間にも引き戸は正気を失ったようにガタガタと激しく揺れ、こじ開けられていく。覗いた暗闇の隙間からざらざらとした黒い影が動き、白い指がぬぅっと伸びてきた。俺は思考回路がめちゃくちゃになり、腕で顔を覆いながらなり損ないの四つん這いで逃げようと背を向けた。その時、背中でギュルギュルと奇声を上げ、バン!と轟音が弾けた。
「ぎゃああああああ!」
叫んだ勢いで手を滑らせ、肩をぶつけて転がった。その場にうずくまって必死に両腕で顔をかばっていたが、頭の隅っこの冷静な俺が、今声が二重に聞こえたぞと呟いた。
「ひ、ひとなりさん?」
黒い影から腑抜けた声が聞こえ、ハッとして振り返った。
「え、す、すずちゃん?」
このとんでもなく情けない姿に急に恥ずかしさが襲ってきた。俺はすぐさま体勢を整えて傾きながらも何とかすくっと立ち上がった。服が砂利まみれだ。ばあちゃんに怒られる。
「あーびびった。ついに幽霊見ちゃったのかと思ったわー」
古矢も相当肝を冷やしたらしく、気の抜けた顔でへらへらと笑っている。のんきな声を聞いてほっとした俺はまた力が抜けて、その場に両手をついて座り込んだ。時々天然でこういう奇跡みたいな事をやらかすから、こいつはずるい。
「こっちのセリフだよ」
何かくすぐったい感じが腹の方から昇ってきて、俺は自然と顔がニヤけた。
「捜したぜー、荷物置いたまま消えやがって。家にもいねぇし」
古矢は俺のカバンと携帯を手に持っていた。
「べつに消えてないし。寝すぎただけだし。なのに、このくそ寒い中締め出されて最悪だったんだぞ」
「寒いよなあ、そのカッコじゃ。おーきれいなお月さまだこと、満月か」
ヤツはあったかそうな黒いチェスターコートのポケットに手を突っ込んで、空を見上げた。気のせいか、息が少し白く見えた。今一体何度なのか知らないが、俺は薄手の白いシャツにベージュのベストを着ているだけだ。腕を摩りながら嫌味ったらしく見せつけてくるヤツを睨んだ。
「コートはいいぞー。あったかいぞー。入るか?」
古矢は意地悪く微笑んでにコートの前を変態みたいに開いて見せた。天然なのか魔性なのかヤツは本当に何を考えているのかわからない。
「ふざけんな、脱げ、そして貸せ、俺が着る。っていうか上着は?俺の上着持ってきてないの?」
「お前ねー、俺が来なかったら今ごろ朝まで凍えてたっつーのに。仁哉さん、もっとほかに何か言うことあるでしょっ」
「うるせ、ばあちゃんの真似すんな!」
俺は手を突いて立ち上がり、とぼけた顔で口を尖らせている古矢を通り越して階段の方へ向かった。
「何だよ、もう帰んの」
「は?」
「せっかくだし、もうちょっといようぜ」
「だから俺は寒いんだよばか」
「だからさ、ほら、遠慮すんなよ」
ヤツはまたポケットに手を突っ込んだままコートの前を大きく広げた。洒落た真顔が悪戯に誘っている。蜘蛛が巣を張って待ち伏せしいるみたいだ。それなら俺は蛾かちょうちょか。ヤツの真意が掴めず、その場でがたがた震えながら考えた。どちらかと言えば帰って風呂に入ってあったかい布団で早く寝たい。しかし、まあ、一応、こんな時間まで俺を探し回ってくれたんだ。仕方なく俺はヤツにつき合うことにした。
星空のドームの下、俺と古矢は広げたコートの中で肩を寄せ合い、屋上の真ん中に座り込んで空を見上げた。大きなコートはあたたかな包容力でゆったりと二人を包み、余った裾がコンクリートを掠めていた。ヤツのことだ、おそらくどこぞのブランドのいいコートなのだろうが、持ち主は大して気にする様子もない。
「あー、生き返るー、ぬくぬく」
「俺寒いわー、お前冷たすぎ」
「もうこれ冬だろ。寒すぎだよなぁ」
口を丸めて息を吐くと、仄かに白く浮かび上がる。古矢はもぞもぞとズボンのポケットから煙草を取り出して咥えた。
「要る?」
俺が受け取らなかったことは一度もないのに、ヤツはまたも律義に訊いてくる。俺の咥えた煙草の先にヤツは片手で囲いを作って火を付けた。この瞬間がたまらなく好きだ。フィルターの尖がちりちりと焦げ、息を吸い込むとオレンジ色に輝いた。背徳的な煙が冷たく肺を満たしていく。
その男、寒空の下、紫煙を燻らす。
俺はなぜかキザな言葉を思い浮かべながら、目を細めて眉根を寄せてみた。昔テレビで見た何かの映画にこんなシーンがあった。眉間に皺を寄せて肩をすくめ、煙草を咥える男の姿は惚れ惚れするほど色気が立っていて、俺はこの美味くもない煙草に憧れたんだ。あのシブさ、あの色気、あれは俺の永遠の憧れだ。でも今は、あの頃の理想とはかけ離れた俺がいる。柄でもないキザな演技とは裏腹に、俺の中では手に負えない片想い少女がきらきら輝いて躍っていた。そう、これはまるで映画みたいだ。夜中の屋上、古矢鈴男と二人きり、満天の星空の下、ヤツのコートに身を寄せ互いにあたためあっている。抑えきれなくなった嬉しさがついに口元まで舞い上がってきた。ふと、すぐ傍の古矢が咥えた煙草を指で摘み、目を細めて俺を見た。
「寒さでどっか壊れた?」
「うるせ」
悔しいが、俺よりヤツの方がよっぽどシブい。私服の古矢は妙に大人びていて、流し目の気怠げなその表情はどこかの雑誌のモデルみたいだ。どうやったってガキっぽくなる俺と違って、どうせコイツはこのままシブいオヤジになるんだろうな。俺は夜空に向かって上機嫌に煙を吐き、夜の女王を見返した。
しばらく口を閉じ、指先の冷たさや肩で繋がっているぬくもりをじんわりと味わった。夜に溶けていく煙。目を凝らせば凝らすほど浮かんでくる星たち。誰もいない自由。何も聞こえない自由。ここに時はない。幻想的な夜空とやわらかな毛布のようなぬくもりに包まれ、心も身体も満たされている。シャツの向こうの古矢もまた、この贅沢な夜をゆっくりと堪能しているらしかった。気まぐれに煙草を咥えては艶のある黒い瞳を細め優雅に星の数を数えている。
「なぁ、仁哉」
ふと、静かな声が呟いた。反射的に振り向いたものの、あまりの至近距離に俺は思わず顔を背けた。古矢がすぐ傍で俺の顔をのぞき込んでいる。
「明後日、温泉行こうか」
「は?温泉? 何それ寒いから? お前こそ思考回路凍ってんじゃねぇの」
「いや、本気本気」
「何で急に温泉なんだよ、っていうか免許ないじゃん俺ら、どうやって行くの、
電車?」
「そりゃお前、決まってるだろー」
「え、何、新幹線?リッチだなー」
「チャリよ」
「ぜったい行かねぇ」
「何で?、いいじゃん」
「俺、何で歩いて来てるかお前に言ったよな」
「おう、壊れたんだろ?だから俺ので。二十分交代ぐらいでこうさ、のんびりと」
「あのなー鈴、ちゃんと考えてみろよ、どこの温泉行く気か知らねぇけど、ここから
チャリで行ける範囲に温泉なんか無いだろ。諦めろ、その辺の銭湯で我慢しとけ」
「うるせーな、とにかく俺は温泉一泊旅行がしたいの」
「何おばちゃんみたいなこと言ってんだよ。しかも一泊って何、泊まる気?」
「あたぼーだ。湯冷めは風邪ひく」
「何があたぼーだよ……」
「何、お前、行きたくないの。温泉やなの」
コイツはずるい。とにかくずるい。俺が断らないのをわかって誘っている上に、俺がゴネればこうして睫毛の生え揃った切れ長の目で、捨てられた猫みたいに見つめてきやがる。そして断ったあとの顔もだいたい読める。拗ねるでもなく怒るでもなく、無表情のまま幼児みたいにしょんぼりして見せるんだ。
「……お前二十分、俺十分ならいいよ。交代条件」
「うわセコッ、セッコイねー。じゃあ俺四十分、お前三十分でどう?」
「地味に俺の分増やしてるだろ。却下」
「まぁまぁ、細かいことはいいから、とにかく行こうな」
古矢は珍しく強引だった。ちらりと横目でヤツの顔を窺った。唇は微笑んでいるが、黒い瞳の奥に何か少し寂しげな翳りを見つけた。なるほど、高橋のおかげか。俺は折れたふりをして、そっと心の中でほくそ笑んだ。
「しょーがねぇなー」