Ⅳ 片想い少女
満腹になると二人で煙草を燻らせながらのんびりと過ごした。心地よい気怠さに誘われて、俺は階段に凭れて腹を伸ばしていた。古矢は猫背になって肘をつき、煙草を咥えて携帯を開いている。校舎から遠く離れたこの場所までわざわざ足を運ぶ連中はいないらしく、あれだけ騒がしかった浮ついた声のひとつも届かない。聞こえるのは、さわさわと揺れる風の音と、気まぐれに飛んでくる見慣れた小鳥のおしゃべりくらいだ。俺はフェンス沿いに立ち並ぶつるつるした細い枝の木々と、凸凹したコンクリートの壁を順番に眺め、ほとんど日陰にも関わらず、いつもまばらに雑草が生えている黒っぽい土をただぼーっと見ていた。何の変哲もない、昨日と変わらない風景だ。変わったことといえば、この間よりそこの木葉っぱが少し赤くなって、地面の端の方に名前も知らない小さな花が咲いていることくらいだ。その先にある校舎の方までたどってみても、目に留まるものは何ひとつない。こんなところまで誰が手入れしているんだろうと、ふとした疑問がよぎったが、わざわざヤツに言うほどのことでもない。いつもなら、陽が暮れるまでこうしていたくなるほど長閑な時間のはずなのだが、今日はやけに落ち着かない。
「お前さぁ、今さらだけど進路どうすんの」
つい痺れを切らして俺はつい口走った。訊き返された時の返事なんて考えてもいないのに。
「んー? どうって、べつに」
「なんだよそれ」
「親父入院してんのに大学なんか行ってる場合じゃないしな、行きたくもねぇけど」
「…そうだよな、じゃあ、就職か」
「まあ、とりあえずバイトかなー」
ヤツは物憂げに煙を吐いて、短くなった煙草を飲み干したコーヒー缶の口へ押し込んだ。しまった。もう少し慎重に訊くべきだった。ヤツの後ろでこっそり反省していると、空を見上げるように古矢が少し仰け反った。切り揃えた眉の間から、真っ直ぐ伸びた鼻先がつんとそびえている。
「お前は、何か決めてんの」
「べつにー、なにも」
古矢のばらけた短い前髪に息を吹きかけてはぐらかした。話がこれ以上深掘りされないことを祈る。
「ふーん。やる気ねぇな」
古矢はまた前髪を指先で二、三度触って整え、頭を起こした。ほっと胸を撫で下ろしながら、内心俺は片想い少女の悪戯心と格闘していた。今変に動けばせっかくの下準備が台無しになってしまう。でもこのまま帰ったら今日は眠れそうにない。
「鈴さぁ、もし俺がどっか行ったら、どうする?」
「どっかって、なに、どこ」
ヤツは振り返ることなく、タテガミをよけて首の後ろに手を組んだ。めくりあげたシャツの袖から青い血管の透ける肌が見え、骨と筋の浮き上がった手首を複雑な絵柄が彫り込まれた銀色の輪っかや、赤や水色の石が飾っている。
「まあ、とりあえず、どっか遠いところ」
古矢はいつものように黙り込んだ。今までヤツが怒ったところは見たことないが、俺がこういうめんどうくさい話を始めると、コイツは大抵遠くを見はじめる。俺はやきもきしならヤツの顔を想像した。どうにかしてもう一度振り向かないものかとひたすら念を送ったが、ヤツは前を向いたまま動かず、腕とフサフサした後ろ髪が邪魔で横顔すら見えない。前のめりになってやっとの思いで横顔が見えたかと思うと、眠そうな真顔の紅い唇から無気力な声がこぼれた。
「どーもしねぇ」
「なんだよそれ、お前俺いなくなったら一緒に格ゲーしてくれるヤツとか、洋楽の話
できるヤツとかいなくなるんだぞ」
「あそっか、それは困る。一人で格ゲーって死ぬほどつまんねーよな」
ヤツはへらへら笑いながら煙草をふかした。そのふざけた態度が妙に癪に障った俺は、黙ってカバンを鷲掴みにして立ち上がり、古矢をよけて階段を降りた。
「なんだよ、もう行くの」
能天気な声なんて俺には聞こえない。死ぬほどつまんねーのはお前だ、鈴。変に期待して訊くんじゃなかった。
「おーい、仁哉さーん、今の話なに、なんかあった?」
「べーつにー。そろそろチャイム鳴るから行くわ」
背中で言って、俺はポケットに手を突っ込んでざくざくと歩き出した。古矢が遠くからまだ何か言っているが、振り返る気は一ミリもなかった。
「次って体育だろ、サボらねーのー?」
「たまには顔出しとかないとなー」
古矢の声はそれ以上追って来なかった。誰もいないところを選んで、あてもなく大股で歩いた。歩けば歩くほど、なぜだか苛立ちが増してきた。俺の中の片思い少女が思い切り拗ねている。なんだあれ。全部俺の勘違いか。俺が独りで思い上がってただけか。だいたいあいつはいつもぼーっとしてて、何考えてんだかさっぱりだ。百年生きたじーさんかあいつ。去る者は追わずってわけか。だからロクに友だちも居ねぇんだ。独りでせいせいしてやがるんだ。そうだ、あいつはそういうヤツだ。
無意識に教室に入りかけた俺は、はっとして立ち止まった。腹の虫がおさまらないまま闇雲に歩いていたら、いつの間にか教室の前まで来てしまっていた。今何時なのか知らないが、チャイムはまだ聞いていない。教室の中では楽しげな声が飛び交い、それぞれのグループが思い思いの場所でかたまって盛りあがっている。このまま廊下で突っ立っているわけにもいかず、俺は後ろの入口からしぶしぶ顔を伏せて教室に入った。ふと、ひとりが俺に気がついたかと思うと、浮ついた声はざわめきに変わり、数人が俺の方を白い目で振り向いた。目が合うとすぐに逸らし、また振り向いたりしながら、何やらひそひそと話しはじめている。予想以上に居心地は最悪だが、どうやら高橋は首尾よくやってくれているらしい。俺はその様子を尻目に素知らぬ顔で自分の席に着いた。こいつら普段なら俺に興味なんてないくせに。
「あれ帰ってきた。玖珂くん体育出んの?」
席で二、三人と盛り上がっていた高橋が机に突っ伏した俺に気づいて振り返った。
「出ない。寝る。欠席だって言っといて」
「おっけー、ちゃんと見つからないようにな」
「うん、さんきゅ」
俺は、組んだ両腕に顔を埋めながら気軽に返した。高橋はそのあと、すぐにほかの連中と更衣室に向かったらしい。左右に身体を揺らしながら歩く特徴的な足音が廊下の向こうに遠退いていった。そして午後のチャイムがうるさく鳴り響くころには、教室からすっかり気配が消えていた。俺はおもむろに体を起こすと開けっ放しになった扉と廊下側の窓を閉め、再び席に着いた。頭の中は古矢鈴男のことでいっぱいだ。空っぽの教室で独り、俺はそんな自分を恥じている。
もし、全部間違いだったら、友だちが居なくなるのは、俺だ。
…いや、べつに告白するわけじゃない。たぶんしない。
そもそも俺がおかしいだけなら、片想い少女を黙らせればいいんだ。
一生黙らせる。それなら、今までどおりでいけるだろ。
頭の中でそんなことばかりがぐるぐると廻っている。どんなに目を閉じて寝ようとしても、あの無駄に洒落たヤツの顔やちょっとした仕草が浮かんでくる。俺は机を蹴って席を立つと、倒れた椅子を無視して乱暴に扉を開け放ち、突き当たりの階段へ向かった。前のめりで廊下を歩く俺を、大人しく席についている顔が窓の向こうから不思議そうに見ている。
「おい、授業始まってるぞ、どこのクラスだ」
角刈りの教員が目敏く扉を開けて俺を後ろから呼び止めた。確かこいつは生活指導だ。どおりでお節介で出しゃばりなわけだ。
「保健室です」
無視しようかとも思ったが、半分だけ顔を向けぶっきらぼうに言って逃げた。偉そうな声がまだ後ろでぐだぐだ言っているが、速足で声を振り切った。長い廊下の先にある音楽室の前から階段を上ると、磨りガラスの四角い窓とアルミでできた引き戸に行き当たる。息を整えながら、慣れた力加減で右下の角を蹴った。繋ぎ目にある古びた鍵は壊れていて、こうすると鍵が浮いて隙間ができる。この開け方は以前古矢が教えてくれた。今はそんな思い出すら憎らしい。ガタつく引き戸を両手でこじ開けると清々しい風が俺を出迎えた。鬱屈したトンネルを抜け出たような、晴れやかな気分に自然と胸が開き、大きく新鮮な空気を吸い込んだ。空の色はやわらかく、扇のように広がったひつじ雲が見渡す限り一面に浮かんでいる。いたずらな風になびいた髪が睫毛に触れ、思わず目を瞬いた。そろそろ鬱陶しくなってきた。前髪を掻き上げながら四角く区切られたコンクリートの上をぶらぶらと歩いてみた。フェンスからグラウンドを見下ろすと端の方にクラスの男子たちが見える。どんな内容だか知らないが陽気な金髪頭が何人か巻き込んでふざけている。
あんな風に生まれていたら、どこで誰と何をしたって楽しいんだろうな。
虚しい高みの見物を決めながら、不機嫌に古矢を探したがヤツのタテガミはどこにも見当たらなかった。病院から電話でもあったのか。いや、俺には関係無い。白い高台に乗っかった満月みたいなタンクの傍まで歩くと、その足元の砂利を払って無造作に腕枕を組んで寝転んだ。影からはみ出たへそから下が、やわらかい陽射しを受けてぽかぽかと心地よい。もう今日は放課後までこうしていよう。俺は尖った神経を鎮めてまぶたを閉じた。