Ⅲ のら猫と、のら狼
「ひーとーなーりー、起きろ、おーい」
俺の頭を何か硬いものでぺしぺし叩くヤツがいる。気持ちいい眠りから文字通り叩き起こされ不機嫌に顔を上げると、黒い長財布を手にした古矢が隣で俺を見下ろしている。どうやら、あのままぐっすり眠ってしまったらしい。いつの間にか教室の中はざわついていて、色んな食べ物の匂いが漂っている。その芳しい匂いが起きたばかりの俺の胃を刺激した。
「もう昼~? 早いなあ」
「しっかり寝てたもんな」
「お前も寝てただろ」
あくびをしながら右目を擦った。古矢は急ぐ気のない俺の肩を、今度は手の甲でぺんぺん叩いている。
「おーい早くしろよ、俺腹減ってんだよ」
ふざけてまた寝ようとすると、古矢はめんどくさそうに腕を掴んで無理矢理俺を立ち上がらせた。手のひらの温もりと骨張った指の感触が薄いシャツの上から伝わってくる。それは一瞬だけで、すぐに離れて扉の方へと歩き出した。俺はカバンを握ってだらだらとヤツの背中を追いかけた。
校舎の方から微かに生徒たちの声が聞こえる。人気のない体育館の裏まで来ると、無機質のざらざらしたコンクリートの壁が続く先に、塗装があちこち剥げた白い階段が見えた。やわらかい檻のような薄い緑色のフェンスの横には、赤や黄色に色づいた広葉樹が並び、雑草の生えた黒っぽい土の地面が曲がり角まで細く伸びている。ここは、一年のころ、二人で校内をあちこち巡って探し当てた秘密の場所だ。俺も古矢もうるさいのは苦手だし、何よりあの居心地の悪い狭い教室から離れたくて、屋上や帰宅部の部室や、色んなところに忍び込んだが、結局ここに落ち着いた。誰の目も気にせず、何にも縛られず、ゆったりと羽根を伸ばせる二人だけの秘密基地だ。
コンビニ袋をぶら下げ、少し前を歩く背中を何気なく眺めていると、ズボンのポケットから携帯を取り出し、さっと通知を確認して、またすぐにしまった。体育館のニ階へ続く白い階段の前に来ると古矢は半分ほど上ってから、振り返ってゆっくりと腰かけた。ヤツはグレーのベストの胸元に手を突っ込んで煙草と銀色のライターを取り出し、さっそく火を点けている。ヤツはシャツのボタンを三つほど外していて、はだけた胸元に銀色の羽根や、丸い玉が幾つも連なった装飾品がじゃらじゃらと重なって垂れていた。俺は遅れて階段を上り、またふざけて同じ段へ座ってみた。するとヤツは怪訝な顔で俺を見る。
「ずれろよ、せまいだろ」
「数学、怒られてたなーお前」
さっきの仕返しにヤツの頭のてっぺんをぺしぺし叩きながら、俺は二段上に上った。古矢は即座に俺の手を追い払って乱れた毛先を直すと、指の間に煙草を挟んだまま反対の手で白いナイロン袋を漁りはじめた。
「なんか俺ばっか怒るよなー、あのじーさん」
他人ごとのような口ぶりで応えながらカツサンドを探り当てると、古矢は勢いよくビニールを剥いで大口で齧りついた。本当によほど腹を空かせていたらしい。犬みたいなヤツを横目に、俺は弁当の結び目をほどいた。
「俺の席は最高だぞー。なにしててもバレないし」
「昼から代われよ」
「いやだね」
俺は卵焼きをほおばった。この売物のような弁当を作っているのは我が家の祖母、もとい、ばあちゃんだ。俺に親はない。俺が知らない間に離婚して、母親に引き取られたが、四年前に他界した。じいちゃんは、ばあちゃん曰く、昔、戦争が連れて行った。ばあちゃんは、やさしくて気丈な性質で、たったひとりで自分と俺を養ってくれている。毎日栄養たっぷりの弁当を作ってくれるし、俺がいくら遅く帰っても、晩飯は必ず食卓に置いてある。アル中で、自分の世話に忙しかった母親より、よっぽどできた人だと俺は思う。
「お前さぁ、コンビニばっかりだと栄養偏るんだぞ」
「しょうがねぇだろー、あのスーパー遠いんだよ」
「なんか作ってれよ、肉とか炒めてさぁ」
「作れねぇヤツがよく言うよ」
「目玉焼きとゆで卵とスクランブルエッグなら作れるぞ。作ってきてやろうか?」
「遠慮しとくわ」
古矢の家は父子家庭だ。母親は、ヤツが中学に上がるころ、離婚届を置いて消えたらしい。そのうえ残された父親の方は、もうずっと入院している。母親が出て行ったのは、看病疲れもあるんだろうと、いつか珍しく古矢自身がこぼしていた。ヤツが毎日コンビニで昼飯を調達する理由は、まあ、そういうわけだ。