Ⅱ ぬるい嘘
「なぁ、大学どこ行くの」
俺は目の前で片肘をつき、机の下で携帯を弄っている背中をつついた。高橋は一瞬、挙動不審になって黒板の方を確認すると、散らかった机の中に右手を携帯ごと突っ込んだ。
「え、なんて?」
「だから、どこ受けんのかって」
「ああ、大学?俺はもちろん東大」
でかい小声で当然のように平然と言う。こいつは本当に小学生のころのままだ。俺は組んだ腕に顔を埋めて声を隠した。
「俺より頭悪いだろ退学寸前ヤロー。今まで謹慎何回くらったんだよ」
「五回だよ。でも半分は誤解だよ? 意味わかる?」
「わかりたくねー」
「玖珂くんは? どこ受けんの?」
筋書きどおりの展開に、俺は内心ほくそ笑んだ。高橋に見えないよう口元をシャツに押し当て、少し浮かない顔をしてみせた。
「実はさぁ…留学するかも」
「えぇ!」
飛び出した盛大な音量に教室内の数人が振り返った。その中に数学教師の視線も混じっている。素直すぎるこいつに内緒話は無理だったか。高橋以外に聞かれたくなかったとはいえ、授業中を選んだ俺は少し後悔した。
「高橋、聞いてたのか」
「聞いてますって」
「じゃあこの問題を解いてみろ」
数学教師が黒板に書き連ねたご自慢の呪文を、ちびたチョークでカツカツと指した。いかにも優位な展開を確信しているような顔つきだ。高橋は俺の机に椅子をぶつけながら、ばつが悪そうに立ち上がった。
「あ~えっと、わかりません! でも先生、俺が止めちゃうとみんなの迷惑になるん
で、授業終わってから怒られます!」
どんよりと静まり返っていたクラスに、ぱっと花が咲いた。数学教師の顔だけが悔しさに引き攣っている。理屈では、天然のひまわりには敵わない。俺は高橋のはみ出たシャツを横目に教卓の方をのぞき見た。古矢は反省の色もなく相変わらずの無関心で寝続けている。
「先生どうぞ、進めて進めて」
高橋はおどけて見せたかと思うと、俺を振り返り「ごめん」という大げさな仕草で鼻にシワを寄せた。数学教師は恨めしそうな視線を残しつつ、腕時計をちらりと見て渋々と呪文の続きに取りかかった。高橋は黒板の方を警戒しながら席に着くと机の中から携帯を探り出し、カチカチと弄り始めた。少しして、俺のズボンの右ポケットが小刻みに振動し始めた。
〈マジかよ〉
高橋は椅子をギリギリまで後ろに下げて背凭れに背をあずけた。細いカチューシャで何とかまとまっている爆発した金髪頭が目の前に迫ている。俺は少し考えたが、後々面倒になることを避けて、携帯を見ながらそのひまわり見たいな頭に向かって独り言を呟くことにした。
「マジだよ。ばあちゃんの妹の息子のいとこがそっちにいてさ」
〈どこ?アメリカ?〉
「ドイツ」
「えぇ! あぁ…」
高橋はまた張り上げそうになった声を抑えて、わざとらしくお決まりの咳払いをした。仕返しを目論む数学教師がチョークを持ったまま眉を寄せて高橋を睨んでいる。
〈ドイツか! ドイツってどこだっけ?〉
「ヨーロッパだよ」
〈すげぇな! お前、なんか頭いいもんな〉
「そうでもないよ。でも受験とか引っ越しとか色々大変らしいんだよなあ」
〈そうだよな、でも応援するぜ!〉
「あ、あのさ、鈴にだけは言うなよ」
〈なんで? まだ言ってないの?〉
「うん、俺から言おうと思ってるから」
〈そっか。じゃあ、古矢くん以外は大丈夫?〉
「まあいいけど、でもあんまりバラすなよ。何か変に注目されたくないからさ」
〈わかった! 大変そうだけど、ガンバレよな!〉
「さんきゅ」
うまくいった。高橋のことだ、口止めしたって何の意味もない。あとは流れて古矢まで届くのを待つだけだ。ヤツには日ごろからどこか遠くに行きたいとぼやいているし、洋楽も好きだし、何も突拍子すぎることじゃない。いざという時の防衛線も張っておいた。独りでしたり顔を浮かべながら、俺はまた机にうつ伏せて昼を待った。