Ⅰはぐれた狼
教科書とノートを広げた机に顔を伏せて目を閉じていた。べつに眠たいわけでもないが、おそろしく退屈で不毛な時間が流れている。目を開けている方が余計に長く感じる気がした。耳に気忙しく黒板を叩く音だけが小気味よく続いている。チョークは二本目。今あいつは上機嫌だ。白髪まじりの顰めっ面で、どうせまた小難しい呪文を書き連ねてるんだろう。そろそろ首が痛くなってきた。薄目を開けて教室を見渡すと、俺とお揃いの頭が三、四人。あとは真面目に手を動かしているか、机の下で携帯を弄っている。心ここにあらずで、ちらちら時計を見ながらぼーっとしている眼鏡もいた。高三の十月後半という時期だけあって受験だ何だので空席も目立つ。
同じ姿勢に飽きた俺は体を起こして軽く伸びをした。一番後ろの窓際。姿勢を低くしていれば教員からはほとんど見えない、何ともありがたい特等席。オマケに図体のでかい高橋の後ろだというのも運のいい話だ。俺は少し腰を前にずらして、だらりと腕を垂れ下げた。あの板の向こうに誰かいるのか、黒板を叩く音に抑揚のない独り善がりな声が加わった。俺はさっきからあの柱の時計は電池切れなんじゃないかと疑いはじめている。
「こら、起きろ」
半分開いた窓から、ぼんやり遠くの山を眺めていた視線は、無意識に声の方を向いた。当たりくじを引いた俺とは逆に、最前列の教卓の真ん前という最悪な貧乏くじを引いたヤツがいる。そいつは気怠そうに頭を起こして顔の方に手をやった。数学教師の顔は沸騰していて、神経質にチョークで教卓を叩きながら取り留めのない小言をヤツの顔に浴びせている。ああなったら、しばらくは止まらない。
「もうわかったからそれやめろよ、粉が飛んでんだよ」
古矢鈴男。ヤツは、奇抜な見た目と変な名前で有名だった。
学校の少ないこの街では、小学校の時の連中が、ほぼ全員中学でも一緒になる。特別勉強好きだとか運動神経のいいヤツ意外は、受かりやすくて校則もゆるい、この高校に入る。そのせいか、高校に上がっても大して新鮮味はなく、そこら中で縄張りつきのグループが、すでに出来上がっていた。
そこに放り込まれたのが、この古矢だ。どこの不良中学からこっちへ来たのか知らないが、ヤツには驚かされた。見たこともない民族風のピアス、ネックレス、ブレスレッドがあちこちにぶら下がって、一足歩くごとにじゃらじゃらと音を立てていた。それに、飾り物だけではない。目を惹く要因はその見た目にもあった。少し陰のある切れ長の目に、真っ直ぐそびえる鼻筋、すらりとした顎。そのうえ手脚の長い、無駄のない長身で肩幅もそこそこある。極めつけは、尖った髪を肩まで散らした、ヤツ独特のヘアスタイルだ。それはまるで、黒い狼のタテガミみたいだった。それも暑い夏の日まで毎日ばっちりキマっている。まあ、要は生まれつき恵まれているうえに、努力にも抜かりのない洒落たヤツだった。
入学したての頃は、何かと忙しそうだった。色んな女子に話しかけられている姿をそこら辺でよく見かけた。派手なグループの女子から、気の小さそうな女子にまで、とにかく人気者だ。でも、ヤツの態度はいつも素っ気なくて、なぜか、誰の誘いにも乗らなかった。そのせいか、やたらと出所不明の噂が燃え上がっては飽きられたころに立ち消える。それが日常になった。慣れているのか、そんな暇な連中にどこで何を言われようと当の本人はいつもどこ吹く風だ。いつか尾ひれつきの噂が悪さして、やっかみをこじらせた連中が、帰りに古矢を待ち伏せてリンチにしたことがあった。その時もヤツは平然としていて、次の日には青痣つきの腫れた顔を晒したまま、不気味なほど平気で登校してきた。これには、それまでちやほやしていた女子も口をつぐんだ。担任には酔っ払いに絡まれたと言い訳していた。次に狙われたときには、ヤツは伝説をひとつ作っていた。何でも、たった一人で男五人を伸したらしい。ちなみにこれは高橋からの情報で、真相は定かではない。とりあえず、古矢はそんな飄々とした何となく近寄りがたいヤツだった。
俺はと言えば、ずっと一緒だった唯一の親友が、中三の夏ごろ、突然、よその高校を受験すると言い出した。勝手な俺は、落ちてくれる事を密かに願っていたが、あえなく、そいつは立派に合格した。そのあとすぐに彼女でも出来たのか、浮ついた三度の連絡のあと、音沙汰はきれいに途絶えた。何が親友だ。それとも、そいつの不幸を願った俺にバチが当たったのか。そんなわけで、高校に入ってからの俺は常にはぐれていた。別にいじめられてるわけでもないが、まあ、やんわりと仲間外れだ。それでも普段はべつに問題ない。面倒なのは定期的に催しの係りや委員を決める、あれだ。グループ持ちの連中はもちろん俺なんて眼中に無い。たまに、見えてないのかとすら思う。俺はいつも隅に座り、盛り上がる教室を冷めた目で傍観していた。そしてある時あまったのが、俺と古矢だったわけだ。
初めてヤツの声を間近で聞いたのは、なぜだか知らないが男子二人が美化委員に割り振られ、花壇の世話をさせられた時だった。
「めんどくせ」
「教員がやるだろ、ふつう」
独り言のつもりだった俺のぼやきに古矢は応えた。どうせサボるんだろうなと思っていたが、意外にもヤツは真面目に顔を出していた。ためしに話してみると、そこそこいいヤツだった。妙に落ち着いていて意外と気が利くし、趣味も合う。何より派手な見た目とは裏腹に、のんきで気取らない性格なのが気に入った。それから俺は何だかんだあって、古矢とつるむようになった。
それから、古矢とは運良く同じクラスに当たって、仲もより深まったわけだが、俺は以前から、密かに気になっていることがある。どうも古矢は俺を、親友や友だちとはまた違った目で見ているような、そんな気がしてならない。ヤツに女っ気はまったく無いし、過去を探ってもひとつも形跡がない。その代わり、休みの日にまで電話をかけてきて、家に来いよと俺を誘う。だからと言って、べつに何か無理強いされるようなこともなかったから、俺は軽く流していた。まあ、中にはそういうヤツもいるだろ。
しかし、困ったことになった。
そんなヤツにどう触発されたのか知らないが、最近、俺の感情が妙なところで揺さぶられている
あれは、ある日の体育の時間だった。普段からやたらと距離感の近い俺の嫌いな体育教師が、座り込む古矢の腕を掴んで顔を寄せていた。ヤツは体育教師の腕に掴まり、そいつのくだらない冗談にはにかんでいた。体育教師は高跳びの着地に失敗した古矢を気遣っていただけなのだが、俺はなぜかイラついていた。
何か、ヤツがいつもより嬉しそうに見えた。
あのへんから、俺は頭がおかしくなった。目の動きは無意識でも古矢に固定されているし、昼の体育館裏で過ごす二人だけの時間がやたらと待ち遠しい。週末が近づくと憂鬱になり、携帯も休みの日にまで肌身離さず握っている。
青春真っただ中の片思い少女か俺は。
それからというもの、俺はどうにかして古矢の気持ちを探ろうと、健気に努力するようになってしまったのだ。