エピローグ
「だから誤解なんだってばー、信じてよせんせー」
上履きに履き替えて廊下を歩いていると、職員室の入口に立つひまわりみたいな頭を見つけた。朝からまた担任に捕まったようだ。高橋のでかい言い訳が廊下中に聞こえている。何しろズルも悪さもあけすけなヤツだから、こんな光景は日常茶飯事だ。
「あ、渋谷せんせー」
何の前触れもなく、突然古矢がのんきな声で水を差したので、俺は少しうろたえた。どんな教員が相手でもこいつは大抵こんな調子だ。何を話すつもりか知らないが、俺は教員と喋るのが好きじゃないのでそっぽを向いていることにする。眼鏡の担任が子どもを叱る母親みたいな顔のままこっちを見た。
「あー!ちょっとお前ら助けてよー、先生がさあ」
高橋はあたり構わず大声で呼びかけながら、大げさに手を振っている。俺は古矢の背中に隠れながらこそこそと歩いた。できれば今俺の話には触れないでほしい。職員室の前まで行くとポケットに片手を突っ込んだまま古矢がつらつらと喋り出した。
「何、どしたの。あ、そうだ先生、あのこと黙っといてって言ったはずなんスけど」
「え?あのことって……引越しの?私は…誰にも言ってないけど…?」
「えー先生言ってたじゃん、この間ここでー俺それ聞いたんだから」
「え、あ……ほかの先生にも?」
「うん。だって関係ないし。それでこいつ勘違いしちゃったんスよ」
「え、待って、ごめん俺なんか勘違いしてた?」
「うん。北海道は親父の実家。あさって法事で帰るだけ。親父入院してるから俺が来いって。あと俺の実家って、すぐそこ」
「えー!ごめーん!」
棒立ちの古矢に両手で掴みかかった高橋を見て俺は笑いが込み上げてきた。
「いいよ別に。あ、先生も気にしないで。じゃ、またあとで」
古矢は無表情で淡々と言って軽く受け流すと、高橋をさらって三階の教室にスタスタと向かった。
「あ、ちょっと高橋くん、ちゃんと反省しなさいよ…あ、古矢くんほんとにごめんね!」
朝の廊下に間の抜けた声が響いて、前を行く顔がちらちら不思議そうに振り返った。古矢は軽く手を上げて返事をすると、古矢に縋りついて謝り続けている高橋の背中を押して階段を上がった。俺は二人の後ろで声を抑えて笑いたが、ふと、忘れていたことを思い出した。
「玖珂くんもごめーん!」
「気にすんなよ、ただの勘違いだろ」
教室に着いてから、留学のことは俺ではなくてばあちゃんの妹の息子のいとこの話の聞き違いだときちんと説明したら、高橋がまたこうなった。俺の机に腕ごと乗っかっているでかい両手の向こうで、縮こまった高橋が子犬みたいな目をして俺の代わりに反省している。
「俺、嘘だけはつかないって決めてるのに……」
「まぁ、高橋が嘘ついてなくても、最初のヤツがなぁ」
俺のあやふやな言い訳を渋い顔で聞いていた古矢が、じっとりとした目で俺を見た。
「え、うん、そうだぜー最初にテキトーなこと事言ってたら意味ねぇじゃん」
「だいたい、どいつもこいつも好き勝手言ってるし、どれもアテになんねぇだろ。もういちいち構うなよ」
「はぁー……そうだなー……何か俺自信無くしたわー」
高橋はすっかりしょぼくれて小さくなり、椅子の背もたれを抱えてうな垂れている。俺はむしろお礼を言いたいくらいだが、それは何か違う気がする。カチューシャで押し上げてある高橋の黄色い頭を何となく見つめていると、ふと、俺は閃いた。
「まぁそんなに落ち込むなよ高橋、俺がお前にだけイイこと教えてやるからさ」
そう言いながら横にいる古矢をちらりと見上げてみた。ヤツは疑り深い目で俺の思惑を探っている。高橋はころっと態度を変えてぱっと花の咲いた顔を上げた。
「え、なに?」
その時古矢が何かに思い当たったらしく、呆れながら笑いそうになる顔を背けてごまかした。
「ただし、誰にも言うなよ」
教室の中はもうほとんどが席につきはじめている。俺は慎重にあたりを警戒しながら口元に片手を添えて、こそこそと手招きをした。
「え、なに、なになに」
そのあと高橋の絶叫が廊下まで響き渡ったが、その声はほとんどチャイムの音に掻き消された。時間通りに担任が前の入口から名簿を持って教室に入ってきた。古矢は笑いを堪えたまま、教卓の方へと向かった。席に着いたあとも黒いタテガミが揺れ、あの背中が笑っていた。俺は机に突っ伏して必死に声を抑えながら腹を抱えて笑っていた。
「高橋くん何してるの、ちゃんと前向いて座りなさい」




