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Lukewarm Lie  作者: 八尋ヨカ
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Ⅸ あたりまえだった、特別な日々

坂道が終わると田んぼと畑の間に真っ直ぐ伸びている何もない田舎道をのんびりと走った。道端に時々現れる電柱を古矢はゆらゆらと避けた。布切れや麦わら帽子のカカシが通り過ぎる。。向こうの方まで続く畑に葉っぱを広げた黄緑色の野菜がきれいに並んで植っている。その橋でピンクや白の背の高いコスモスが咲いていた。畑の真ん中で腰を曲げていた誰かが振り返った。遠くでカラスが三羽ケンカしながら飛んでいる。古矢は文句も言わず、ひたすらゆっくりペダルを漕いだ。俺はお気に入りの特等席であったかい背中に頭をあずけて、田んぼを啄むスズメを眺めたり、紅葉が映える山に秋を感じて寛いでいた。

「鈴ちゃんさー、モデルのバイトとかすれば? いい服いっぱい着れそうじゃん」

「まぁなー、でも何かああいうのって、スカした人ら多そうだしなー。めんどくせんだよなー、そういうの」

「まぁなー、鈴は見た目はスカしてんだけど中身じいさんだから合わないよなー」

「じいさん?……え、何?俺じいさんだと思われてんの?」

ヤツのとぼけた声にけらけら笑っていると一羽の大きな白鷺が優雅に翼をはためかせて頭の上を飛んでいった。ヤツも顔を上げてその後ろ姿を追っている。

「お前はー?どうすんの、大学行く気ないんだろ」

「うん。もう学校はやだなー。ばあちゃんも好きにしていいって言ってるし。でも何も考えてねー」

「ふーん。じゃあ、お前も何か、バイトでもすれば?」

「まあ、そうだなー。めんどくせーけどそうしようかなー」

古矢が喋ると、その背中の奥から耳の奥にまで落ち着く声が響いてくる。それが最高に心地よくて、俺はいつもよりおしゃべりになった。もう何時間も山と田んぼの間を走り続けている。古矢は地図も見ずに、一体どこへ向かっているんだろう。もしたどり着けなくても、たとえヤツが嘘をついていても、俺はもうどうでもよかった。くだらない会話が楽しかった。行くあてがあるのかないのか、ただ二人で何もない道をこうして走っている。ただそれだけで、今あるすべてを感じられた。


「鈴さぁ、気づいてたよな」

「まぁなー」

何の気無しの相変わらずのんきな返事が返ってきた。古矢がいつもこうなのは、俺を見透かしているからだろう。何を言おうとどうしようと、自分はどうにもできないと、はじめからわかって、ぜんぶ諦めているんだ。

「でも、どっか行きたいのは本当だろうなって思ってたよ」

「ごめん」

「いいよ。わかってるよ。お前はそんなヤツじゃねぇよ」

胸の奥の方から熱い何かが込み上げてきて、俺はまた古矢の背中に顔を埋めた。まだ、謝らなければいけないことが山ほどあるのに、何も言葉にできない。唇が震えて、嗚咽を堪えるのに、ただ必死だった。


こいつは、俺の親友で、兄貴で、父親で、かけがえのない、古矢鈴男だ。


「何かヤな音したんだけど、お前、俺に鼻水つけんなよ」

「うるせ」


 陽が傾きかけたころ、やっとの思いで宿に着いた。人里離れた山奥に時代劇に出てきそうな古い町並みが見えてきた時には俺は目を疑った。ヤツがまた変な奇跡でも起こしたのかと思った。俺は半ば疑い始めていたが、古矢は、本気で温泉を目指していたのだ。そこはかつての趣をそのまま残した小さな宿場町だった。しかもヤツが予約していたのは何やら立派な瓦屋根の老舗旅館だった。出迎えてくれた上品な仲居さんに連れられて生け花や掛け軸が飾られた廊下を歩いた。明らかに場違いで居心地の悪い俺とは違って、古矢は妙にこなれた様子だった。部屋に通されると、ヤツはふらふらと三歩進んでどさっと仰向けに倒れ込み、だらしなく口を開けてそのまま畳の上で寝息を立てはじめた。俺は呆れたが、とりあえずバッグと靴下だけは脱がしてやった。そこは草まみれの男二人にはもったいないような侘び寂び香る格式高い部屋だった。十畳はある座敷の真ん中には鏡のように磨かれた黒い長机が据えてあり、高級そうな座布団つきの座椅子と脇息が二つ向かい合って座している。奥の床の間には一輪挿しの素朴な花瓶と四角い和紙の灯籠が奥ゆかしく置いてある。そこに転がっている古矢は、まるでボロ雑巾みたいだった。

 そのあと、ヤツは電池が切れたようにひたすら寝続けた。揺すっても叩いても引っ張っても何かもごもご言って寝返りを打つだけで、一向に目を開けない。仕方なく俺は独り浴衣を抱えて露天風呂を堪能し、机いっぱいに並べられた色とりどりの会席料理に、独り舌鼓を打った。ついでにヤツの分もたらふく食ってやった。それから、仲居さんが布団を敷くのに邪魔だったので、古矢はごろごろと壁まで転がしておいて、布団くらいはかけてやった。結局ヤツはそのままで、朝まで一度も起きなかった。


「お前さー、せっかく温泉行ったのに何もしてねぇじゃん」

「しょーがねぇだろー疲れてたんだから…脚いてー…もう二度とチャリでは行かねー」

 翌日、俺は古矢を誘って登校した。ヤツのアパートは学校のすぐ近くで、チャイムの十分前でも走れば間に合う距離だ。玄関を開けるとすぐに廊下があり、小さなたたきにヤツ愛用のブーツやスニーカーが箱と一緒に積み上がって並んでいた。まだ筋肉痛らしく、狭い廊下の向こうから長い脚を変な風に突っ張った古矢が出てきた。奥には洒落た服や装飾品を飾った古矢鈴男の巣が見える。どうせ寝坊するんだろうと思って迎えに来てやったが、今日もタテガミはばっちりキマっていて、不良気味の身だしなみも、気まぐれに変わるじゃらじゃらした装飾品もいつも通りだった」

「何でだよ、チャリ楽しかったじゃん」

「まぁお前はな……そうだろうよ」

結局俺は一度も運転してない。古矢はたぶん俺より重いし、俺は道も知らなかったのだから仕方がない。温泉と豪華な栄養のお蔭か、風邪もすっかりよくなった。古矢は片手をポケットに突っ込み、いつもの気怠げな澄まし顔でどこか遠くの方を眺めなて歩いている。俺は少し離れたヤツの隣を歩きながら、この洒落た顔をくしゃくしゃにして額を掻いていた、昨日のこいつを思い浮かべた。


 古矢はあの場所を知っていた。まだ小さかった頃の記憶らしいが、何となく覚えていた景色をたどりながら、ヤツはずっと自転車を走らせていた。あの趣ある部屋にも古矢の家族が過ごしたそのままの思い出が残っていた。寝起きのボサボサ頭でお茶を啜りながら話す古矢の、そっぽを向いた黒い瞳がそこに居ないない誰かを映していた。

 帰りは古矢の提案で、バスを乗り継いで帰ってきた。自転車をどうするかで揉めたが、ヤツがゴネ続けたので、自転車は旅館にお願いして送ってもらう事にした。頼み込んでいたところに、古矢をよく知る仲居さんが通りかかって助かった。少しだけ昔話に花が咲いた。照れくさそうにはにかんでいるヤツの横で聞いていた俺は、どうせコイツはマセた子どもだったんだろうなと勝手な想像を楽しんだ。


 田舎のバスは一時間に一本あったり無かったり。散々歩き回ったあと、何もない道の途中に佇む掘立て小屋みたいなトタン屋根のバス停を見つけて、二人でぼーっと座っていた。古矢は隣で船を漕いでいたが、しまいに俺の肩に倒れ込んできた。放っておくとそのままずるずると滑り落ち、膝の上に転がった。精根尽き果てたとはこういうことか。いつ来るかわからないバスをのんびり待ちながら、何の気なしにちくちくするヤツのタテガミで遊んだ。閉じた左目の下の薄いホクロに気付いて、あの銀杏の樹の下での出来ごとを思い出した。あの時、なぜ逃げ出したくなったのか、まだ自分でもよくわからなかった。

 やっと来た古びたバスに長い時間揺られた。年配の男女がぽつぽつと乗っていた。どの顔も俺と古矢を見るなり遠慮もなく怪訝な好奇の視線を浴びせた。その視線を威圧し返しながら強張る俺の前を、古矢はすっと背筋を伸ばし、何食わぬ顔で堂々と奥の席まで歩いて行った。そこでのヤツはまるで珍獣だった。乗客は古矢を見上げ、中にはわざわざ振り返り、排他的な目つきで古矢をじろじろと晒し者にしている。まあ、どこでも、似たようなもんだ。

 古矢はほとんど喋ることもなく、俺に寄りかかって寝てばかりだった。まるで安心しきった子どもみたいに口を開けて、気持ちよさそうに揺られていた。車窓を金色に染まる田畑が流れてゆく。俺は窓枠に肘をついて二人ではしゃいだ景色を思い眺めた。時折、ぽつぽつと集落が見えてくるたびに、ヤツが育った誰もいないはずの家をあてもなく探してみた。その時、古矢が、俺をあの場所に誘った理由が、何となく、ほんの少しだけ、わかったような気がした。


「こんどさあ、俺んち来いよ、泊まりに。っていうか、引っ越すまでうちに住めば?」

「何、急に、どしたの」

「ばあちゃんがこの間のお礼したいって言ってるしさぁ。タダ飯食えるし、いいじゃん」

「あー……でも俺おからとか煮物とかあんまり好きじゃないんだよねー」

「お前ばあちゃんなめんなよ、洋食くらい作れるわ!」

「あそうなの?……でもなー、お前んち遠いから朝がなー」

「うるっせぇな、いいから黙って荷物持って来いよ!」

「こっわ」

ヤツはわざとらしく驚いて俺をからかっている。こいつの遠慮はかわいくない。

「お?その顔は、何か企んでるよねーひとなりさーん」

「べーつにー」

ぶっきらぼうに言い放って俺はズカズカと進んでヤツの前を歩いた。アスファルトに擦れる不揃いの足音だけが聞こえている。だらだらと歩いていると、後ろから車輪の音が聞こえて、自転車が一台通り過ぎた。縁に線の入った白いヘルメットに紺色のブレザーを着こんでいる。俺も古矢もまだシャツにベスト姿だったが、確かに、今朝は少し肌寒い。あのダボダボのダサいブレザーとも、あと少しでお別れだ。少し向こうに見慣れた校舎と、いつもの体育館が近づいて来た。フェンスの向こうの木々の間に、あの白い階段が見える。雪のちらつく冬枯れの日も、若葉の芽吹く春の日も、蝉の声合唱が響く夏の日も、物悲しく木々の色付くこの秋も、毎日、毎日、くだらない会話を交わしながら、雑草のようにただ生きていた。それでも、あの場所で過ごす、すべての時間が楽しかった。すべての思い出が特別だった。

 いつの間にか立ち止まって、校庭の隅のぼろぼろの階段を見つめている俺の少し後ろで、古矢もつられて足を止めた。古矢も思い出に耽っているのか、何を思っているのか、すぐ後ろに居るのに、俺はまた、なぜかその顔が見れなかった。


「ありがと、仁哉」


振り返ると同時に、古矢は通り越して前を向いて歩き出した。その言葉の意味を少し考えてみたが、答えはもやの中に消え、ただ、あたたかなぬくもりだけを感じた。


「ありがと、鈴」


気がつくと、声が溢れていた。ヤツはほんの少し首を傾けただけで振り向かなかった。俺はまた、歩き始めた。黒いタテガミの無愛想な背中は、誰かを待つような歩調で、ゆっくりと前に歩き出している。


ふと、階段の上で煙草をふかしてのんびり過ごす、俺と古矢の姿を見た気がした。


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