3 世界が優しさに溢れていたら(2)
もう、あれから何十分たっただろうか?
未だに追いかけっこ――かわいらしい表現をしなければ襲撃を続けている様子は終わっていなかった。
でも、自ら終わらせるわけにはいかない。私の直感がそう言っていた。
限界を迎えている体力をさらに削りながらも、ずっと彼女の背中を追い続けていた。
標的である彼女も、きっと限界はとっくに超えているだろう。だってずっと空を飛び続けているのだから。
「いつまで追いかけて来るの……っ! トリラ…………っ‼」
私は何も答えなかった。どうせ私が追いかけている理由もわかっているのだろう。
だったら教える必要はない。
彼女の声は途切れ途切れで、呼吸も荒い。もう少しだ。もう少しでいける。
そのときだった。
――背を向けていた彼女が、いきなり後ろを向いて私の顔を見たのは。
「……何を喜んでいるのですか」
それも、奇妙な笑みを浮かべて。
「…………本当に、それでいいのかな~ってさ。ちょっとした警告だよ」
彼女は私と違って、その質問に答えてくれる。
でも、警告……?
「何を言うかと思ったら、そんなことですか。……騙されるわけないでしょう? 子供だましのおつもりですか?」
私は思ったことをそのままぶつけた。
「そっか……。ならいいんだけどさー」
何というか、とても腹立たしい。まるで侮辱された気分だ。
私の中で熱い何かが湧き上がってくる。
(……でも、今はそうこうしている場合じゃあない……!)
警告ははったりだと思ってる。でも、もしかしたら――?
もし、その警告が本当だったのなら。
すぐに追いかけるのをやめて最初のように考えながら立ち振る舞うのが最適だということになる。
でも、今の私に、そんな時間はあるのか……?
答えはノーといえる。
ここで勝たなければいけないのだ。この選択に、賭けなければいけないのだ。
どちらにせよ、今決着を迎えるしか方法がないのだ――――。
あれからまた少しのときが過ぎた。
未だに私の襲撃は終わらなかった。いや、もう襲撃とは呼べないかもしれない。
神の子の様子の変化も特にない。あと少し、あと少しで勝てる。押し切ることができる。
私はそう思った。
だから、残っているすべての体力を使うつもりで追いかけた。
1メートル、80センチ、60センチ。
彼女が私の方を振り向いたころには50センチもなかったと思う。
(これで……終わりだ…………!!!)
――――手を伸ばし、彼女をつかむ。
彼女の目は大きく見開かれ、顔は大きくゆがんだ。
「……っ……!」
(当たった……‼)
でも、まだ終わってはいない。
でも、もう詰みだ。彼女がもう、私に勝てることはない。
あと少しで彼女はここから消えてもらう。
どうせ往来魔なんだから、別にいいだろう……?
――すべての命に感謝を込めて。
「……いただきます」
彼女の皮膚を、私は鋭くとがった犬歯で切る。
「……ははは」
彼女は荒い息を整えて、力のない笑いを浮かべる。
「あーあ……。もう、決着はついちゃったわけだ」
(えぇ、私の勝ちでね)
皮膚を切ってあらわになった肉を噛み、その中にある血を取り入れながら、私は思う。
「フェンリル」
その一言で、至近距離にいた彼女から煙が現れて。
その煙が私を飲み込んで。
(何かの技……⁉)
だけど、体には変化がない。
「私の勝ちでね」
その瞬間、はらりと何かが下へ落ちる。
それは誰かのの手の一部で。
「~~~~~~~~~~~!!!」
左手を見ると、手の甲と親指を除く4本の指がなくなっていて。
誰かじゃない。
それは私の手だった。
「言ったじゃん。『本当にそれでいいのかな~』ってさ」
血も肉もあらわになってボロボロになっていた彼女の笑顔は、まるで私を見放した女神のようだった。
それもそうか。
だって、女神はあなたについていたのだから。
トリラに追いかけられてから何十分とたった後。私――いのりはトリラに勝つための方法を手あたり次第検討していた。
検証はできない。
だから、こういうものでは私よりずっと詳しいであろう教師に、一問一答を行っているかのように質問を続けた。
(神の力の定義って神話に登場しているかであってる?)
〈わからない……。まだいのりが試したことがないから……〉
(じゃあ、もし神様以外の者の力が使えたとしたら、どうなると思う?)
〈攻撃が当たる確率は低くなるだろうね。本来の力の派生になるから精度も落ちる……。勝つのは少し難しいんじゃないかな〉
教師と話していることを相手に悟らせないため、ブラフとして彼女と話していた。
だから彼女が何と言ったのかはあまり覚えていないし、思い出そうとも思わない。
その途中で、ある打開策を見つけた。
――吸血を始めたときに攻撃をすれば、当たる確率が極めて高くなることに。
そこまで至近距離になったら精度がどうこうとか関係ない。
トリラのエサにはならない。
でも、トリラに食事はさせる。
唯一の方法だったとはいえ、自己犠牲を強いられたことに最初は少し抵抗したが、そうしなければ死ぬのは私だということがその抵抗を極限までなくしてくれた。
トリラに私を食事させるため、「早く追いかけるのをやめた方がいい」と裏で煽ったのだ。
そうすることで、逆にそのまま続けようと思うから。
そこでフェンリルを出したのは、この場でふさわしいと思ったからだ。
フェンリル。
――北欧神話の最終戦争で最高神とされるオーディンを飲み込み、殺した狼。
しかしそのフェンリルも、神に打ち殺されてしまう。
「あのとき、追いかけるのをあなたがやめていたら、私は死んでいただろうね……」
トリラは少しずつ体が切り落とされるように離れ、その離れた体は塵のように消えていく。
「なん、で…………?」
彼女の目や口は開いていた。
きっと、負けるだなんて思ってもいなかったのだろう。
あそこまで行ったのだから。正直言って、危険すぎる殺し合いだった。こんなのはもう懲り懲りだ。
そういえば、自己紹介をしていなかったな、と思う。
「私はいのり。たぶんだけど、往来魔」
「なんで今、それを……? ここは物語の世界ではないのに……」
「私にとっては物語みたいな世界じゃない? あなたも言っていたけど、普段はここにいないからさ」
終わったから余裕ができて思うけど、どうして私に恨みを持っていたんだろう……。
私だけというか、往来魔全員の恨みだったけど……。
〈それを聞くはやめておきな。だれしも、秘密にしておきたいことがある。それはヴァンパイアだって同じだよ〉
そう言われたから、私はトリラに聞くのをやめた。
確かに、クラスメイトに往来魔のことを問い詰められるのは辛かったから、納得がいった。
「……ごめん、なさい」
もう体も消えつつある中、彼女は小さな声で、だけどはっきりと呟いている。
それは、私に向けての言葉だった。
「自分で勝手に戦いを始めたのに……。自分の力不足で負けたのに……。恨むことはたくさんあるだろうに……。それでも、あなたは優しくしてくれる」
トリラの体はもうほとんどない。
でも、彼女はめいいっぱい笑った。
「世界が、そんな風に優しかったらよかったにね」
はらり、と。
最期のひとつが塵になって消える――。
『世界が、そんな風に優しかったらよかったのにね』
彼女――トリラの最期の言葉だった。
(……世界が優しさに溢れていたら…………か)
100パーセント達成することはできない。
でも、いじめや虐待は優しさでない悪いものが溢れているからだ。
譲り合うことができたら、この目標には少しでも近づけるのだろう。
廃墟を出ると、すでに夕方だった。
廃墟をの背にはオレンジ色の夕日が今にも沈みそうだ。
私は視線を夕日から廃墟に向け、手を合わせた。
確かに殺したのは私だ。
でも、だからといって放置するのは違うと思った。
「譲り合ったり助け合ったりすれば、解決できる問題はたくさんあるのにね」
私は伝える、今はもういないトリラに向かって。
私は廃墟を後にした。
しばらくして指輪を回し、家に帰った。
実に久しぶりだった。