とある代書人のぼやき
この作品は法改正を元に書かれたフィクションです。
特にヤマもオチもありません。
さらっとお読みください。
令和6年3月1日午前0時。
今、まさにこの時、この瞬間。
この日本という国において、そこそこ歴史的な時代の転換を迎えたことを意識している人間は一体、どれぐらいいることだろうか?
いや、一人ぐらいはいるだろう。
具体的には法律を生業としている司法書士方である。
だが、同時にこうも思うことだろう。
―――― 自分たちの仕事、却って面倒になるのではないか?
そして、その予測は恐らく間違ってはいないと思われる。
今回はそんな職業についておられる人の話。
****
令和元年5月24日成立。
同月31日公布された「戸籍法の一部を改正する法律」。
これにより、日本国民たちは気付かぬうちに様々な恩恵を受けることになる。
1.行政手続きにおける戸籍謄抄本の添付の省略が可能となる。
具体的には社会保障手続き等のためには、親子関係の証明を必要としているが、その際に、これまで証明書としていた戸籍謄抄本を提出しなくても良くなるのである。
「なんだ、それ? 戸籍の省略ってどういうことだ?」
「戸籍ってさ~。基本的に戸籍が置かれている本籍地でしか取れなかったんだ。それが、個人番号カードでコンビニエンスストアにあるマルチコピー機を使えば、取得できる自治体も増えてきた。ここまではオッケー?」
目の前で顔を顰めた男に対して、私は、そう答える。
「あ~、マイナンバーカードで取れるっていうのは知ってたけど……、俺の所は確か駄目だったはずだ」
個人番号カードで戸籍事項証明書をコンビニエンスストアで取得できるようになったのはここ数年の話だ。
但し、それは、本籍地が個人番号カードで取得できる設定にしている自治体のみであった。
詳しい部分は、自治体の判断になってしまうのでよく分からないけれど、個人番号カードによって住民票や印鑑証明書は取得できても、戸籍事項証明書等が取得できない国民も少なからずいたのである。
「だから、まあ、本籍地の自治体で社会保障の手続きが全てできる人は良いけれど、他の自治体、例えば、関東に住んでいながら、自分の本籍地は配偶者の実家である九州で、実親の本籍地は東北地方なんて状態だったら、かなり手続きが面倒だったわけだね」
「なんで?」
「実の子であっても、親子関係を証明できる戸籍がないと手続きできないの。だから、九州と東北に直接行って取るか、郵便で請求して取り寄せるかしかなかったわけだよ」
これが本当に面倒だった。
自治体によっては、戸籍事項証明書の郵便請求をしても、二週間以上も音沙汰がないという酷い所もある。
山間部、離島の郵便配達事情を鑑みれば、それも仕方がないと思えなくもないが、それでも、請求する人間の大半は、急いで手続きをしたい者ばかりなのだ。
「今回の法律改正によって、その証明書の添付が不要になったということは、その手間がなくなるってことになるってことだね」
「ここから九州や東北か。確かに行くのは辛いし、郵便請求ってやつも面倒な匂いしかしないな」
厳密に言えば、自分の親との関係の証明だけならば、子の本籍地である九州から戸籍事項証明書を取り寄せれば良い。
提出先や内容によってはどちらも必要な場所もあるけれど、親子関係の証明だけならば、子の戸籍を取得すれば、その実父母の名前や、仮に、養子縁組をしていれば、養父母の名前も記載されているため、親子関係の証明は可能となる。
まあ、これが、戸籍に記載されている親の苗字が変わっているとかなると、また面倒であるわけだが。
戸籍に記載されている情報は、その戸籍編成時の情報でしかないのだ。
情報の更新のためには、戸籍の訂正申し出が必要になるが、それを知っている一般市民の方が少ない。
まあ、それらのことが一気に解決するのが、今回の法律改正ではある。
その提出先となる機関が、それらの情報を取得できるようになるらしい。
そうなると、親子関係だけでなく、自分やそれに連なる身内の苗字変更まで分かるようになってしまうのだろう。
その情報は、自分たちが見ることはできないから、具体的にどんな形でそれらが届くのかは分からないが、恐らくは、戸籍事項証明書に載っている情報が分かるのではないかと推測している。
「確かに郵便請求はかなり面倒だったんだよ。必要な戸籍を取り寄せるための郵便請求って、郵便局で定額小為替を買う必要があるんだよね」
この郵便による戸籍事項証明書の請求が、また面倒なのだ。
社会保障の手続きはそうでもないが、相続が絡んだ時の戸籍はとにかく面倒くさい。
被相続人の出生から死亡までの戸籍情報が必須となるためである。
そして、必要な戸籍の数や種類が人によって違うのだ。
生まれた年代にもよるし、転勤族が何度も本籍地を移動していたら、膨大な金額になるというのに、実際に取り寄せるまで、必要な証明書の数とその総額は分からないのである。
しかも、役所は問い合わせをしても、個人情報の観点とやらで、そこにある戸籍の種類や必要通数を絶対に教えてくれない。
その分だけ、郵便でのやりとりが増えてしまうことになる。
何度、これに泣かされたことか。
「定額小為替ってなんだ?」
しかし、目の前の男は別の部分が気になったようだ。
「戸籍事項証明書取得のために手数料となるものだね。自治体がただで戸籍事項証明書を送ってくれるわけがないでしょう? そして、普通郵便に現金を直接入れることは郵便法で禁止されているから、金銭移動を為替というものを使って行うようになっているんだよ」
そして、その定額小為替を購入すると、一枚当たり手数料がかかってしまう。
郵便局は、民営化された今も、独自の法律に守られている部分は多い。
2.戸籍届出における戸籍謄抄本の添付の省略が可能となる。
「なんだ、それ?」
「婚姻届や離婚届を届け出る時、本籍地以外で提出する時は、戸籍謄抄本があった方が良かったんだよ」
これは自治体によっては必須ではないらしい。
ただ、新しい戸籍の出来上がりがかなり遅くなるとは聞いている。
「分籍届や転籍届は戸籍法によって本籍地と新本籍地が異なる場合、添付が義務付けられていたけどね」
具体的には戸籍法第100条第2項と、戸籍法第108条第2項だ。
「分籍届と転籍届ってなんだ?」
「それぐらいは調べて?」
転籍届は、戸籍の筆頭者及び配偶者の意思で、本籍地を変更することだ。
引っ越しなどで住所を変更するたびに届け出る人もいるし、実家を本籍地にしていたが、自分の家を持った時に変更する人も少なくない。
だが、転籍届は筆頭者も配偶者も死亡によって除籍されている時は、届け出ができないようになっている。
その戸籍に残っている構成員ではその本籍地を変更することができないのだ。
だが、残された構成員がどうしても本籍地を変更したい時は、分籍届という方法で、一人だけその戸籍から抜け出て、自分が筆頭者となり、新たな本籍地を定めることができるのである。
それ以外にも分籍届をしたい理由というのはあるが、それは個々の事情となるため割愛する。
「結局、説明してくれる辺りは人が好いよな」
「職業病だよ」
思わず、答えたくなるのは仕方ない。
日常会話だから、金はとれないが。
「戸籍届で、戸籍謄本が要らなくなるのは助かるかもな。俺の知り合いも婚姻届で取り寄せたと聞いている」
「その方が戸籍の出来上がりも早くなるだろうからね」
この辺りは役所の事情になるため、実際、どれぐらいの処理速度に変更があるかは分からないが、少しでも迅速な処理を望むばかりである。
「本籍地でない自治体に提出された死亡届の情報が、戸籍に反映されるのが本当に遅すぎて、相続手続きの時は毎回、か・な・り! 困るから」
「それも、職業病だよな」
3.本籍地以外での戸籍謄本の発行
「正直、これにすっごく期待していた」
戸籍事項証明書の広域交付と呼ばれているものだ。
これが可能になると、本籍地以外でも戸籍事項証明書が取得できるというものである。
「なるほど。本籍地以外で戸籍謄本が取れるようになるのか。それは助かるな」
目の前の男はのほほんと言うが……。
「取れないんだよ」
これが問題だった。
「あ?」
そうなのだ。
取れないのだ。
少なくとも、私たちには取る権利がない。
「これは、あくまでその戸籍に記載されている本人と配偶者。そして、戸籍に記載されている人の直系親族だけが、近くの窓口に行くことで、可能となる制度なの」
しかも、公的機関が発行している写真付きの身分証明書が必要らしい。
具体的には運転免許証、個人番号カードなどだ。
だが、それは良い。
最近は免許証を返納した年配の方も、個人番号カードを持っている人が増えているため、そこが問題なのではないのだ。
尤も、運転免許証も個人番号カードも住所変更手続きをきちんとしていなければ、身分証として役所は認めてくれないことの方が多いのだが。
「この制度は、八士業には適用されないんだよ」
「あ~」
それだけで、事情を知る男はいろいろと察してくれたらしい。
八士業と呼ばれる、国家資格を有する「弁護士」、「司法書士」、「行政書士」、「弁理士」、「税理士」、「社会保険労務士」、「土地家屋調査士」、「海事代理士」は、戸籍法第10条の2第3項から第5項の規定により、その受任した職務を遂行するために必要な範囲に限るが、当人に替わって戸籍事項証明書などの請求をすることができる職業である。
私はその中で「司法書士」の資格を有していた。
主に登記または供託に関する手続についての代理をする職務が多いため、相続等で戸籍と言うものに関わることも少なくない。
そして、その相続に関することで厄介なのが、その戸籍の取得なのである。
一般の人は、戸籍なんて、ほとんど知らない。
だけど、相続手続きは待ってはくれないのだ。
相続税の申告は開始を知った日(通常は亡くなった日)の翌日から10カ月以内と法律で決まっている。
つまり、被相続人が亡くなったことを知ってから、相続人たちの長い戦いが開始されることになる。
そのために、大半の相続に関する事務手続きは、金額にもよるが、私たちが代理で進めることができる。
ただ、その中で、戸籍証明書や住民票、固定資産の評価証明書など、役所で発行される証明書の取得だけは自分でやると言われる方も多い。
それも含めてこちらに依頼すれば、それだけ金額が高くなってしまうから当然といえば当然なのだろう。
ただ、その説明はかなり面倒である。
相手は証明書の「しょ」の字も知らないといっても過言ではない素人たちなのだ。
そして、散々、懇切丁寧に説明しても、持ってきた証明書が足りないことも珍しくない。
被相続人の出生から死亡までの戸籍謄本だと言っているのに、どうして、死亡事項が入っている戸籍しか取ってくれないのか?
いや確かに、戸籍には、「出生年月日」、「出生場所」とかの出生事項は記載されているのだけど!!
意味が違う!!
戸籍の編製年月日を見てください!!
大正生まれの被相続人の、平成や令和に編成された戸籍事項証明だけでは足りないの!!
明治時代に編成された最初の全国的な戸籍と呼ばれる「壬申戸籍」とまでは言わなくても、せめて、被相続人の生年より前に編成された明治の改製原戸籍などを取ってきてください!!
しかも、被相続人の抄本(一部事項証明書)だけを持って来られてもあまり意味がない。
相続人調査だと言っているのに、個人だけの情報で何が分かる!?
相続人の情報をください!!
「終わらない郵便請求の日々……」
今日から始まる広域交付の制度によって、その本人が自治体の窓口に行き、それら全ての戸籍請求をできるか?
いや、できまい。
勿論、窓口で説明を受けながら取得できる人もいるだろうけど、できない人の方が多いだろう。
この事務所に相続登記の手続きのために来る方々はご年配の方が圧倒的に多いのだ。
そして、その窓口請求ができなければ、郵便請求するしかなくなるのである。
目標期限は半年までの完了。
戸籍など必要書類さえ整えば、後は申請して約二週間程度で完了するのだ。
だから、大変なのは必要な戸籍を揃えることである。
「第三者請求は不可だし」
「第三者請求?」
「戸籍証明書の請求権があるのは、原則、その戸籍に記載されている構成員の直系親族だけなんだよ。それ以外の兄弟姉妹、甥姪などとなれば、相続権があっても、第三者になってしまうから、広域交付申請の対象外になるわけだね」
相続手続きに必要だというのに、血が繋がっていても傍系血族は広域交付申請ができないらしい。
「まあ、これまでは配偶者が亡くなったら、その残された夫や妻も相続権がありながらも第三者となっていたけれど、そこの救済があった点は救われるかな」
相続順位第一位よりも確実な相続人。
夫婦は一心同体。
だけど、戸籍法は無情で、配偶者が亡くなってしまって戸籍に残された生存配偶者は第三者として扱っていたのだ。
昔は配偶者が亡くなった時点で「夫」や「妻」の文字に削除用の線が引かれていた。
そして、今の戸籍は「夫」や「妻」の文字が消されている。
生存配偶者は、もう、誰かの「夫」や「妻」ではない。
離婚と同じように、死によって二人が分かたれた時点で、婚姻が解消されたことになるのである。
その事実を知った時は少なからずショックだった。
理屈では分かるが、感情的に納得できなかったほど若かったのだと思う。
そして、今回の広域交付申請に関しては、そこが救済されたのだ。
これまで、夫が亡くなった妻の婚姻前の戸籍を取得する時は、その妻の父母と養子縁組をしていない限り、直系親族ではないため、直接、妻の婚姻前の本籍地の市町村に赴いて窓口請求するか郵便請求し、さらにその提出先や取得理由を明記しなければならなかった。
相続のために必要な上、自分の妻の戸籍だというのに、わざわざその使い道の詳細を記入しなければいけなかったのである。
だが、今回、窓口請求でもその理由などを明記する必要がなくなった上、広域交付申請の対象となってくれたのである。
これはある意味、救いだろう。
具体的には、何故、配偶者なのに取れない説明をする手間が省ける。
「それ以外で面倒なのは、来月から義務化される相続登記だね」
令和6年4月1日より、「令和3年改正不動産登記法」が施行されるのだ。
そして、最近の仕事量が増えたのは、間違いなくこれが原因だろう。
これによって、相続登記の申請が義務化され、これまで相続登記の手続きをしていなかった土地や建物は、三年以内に手続きを行わなければ、過料が科されることになる。
まあ、つまりは、相続登記の手続きを何らかの事情で怠っていた相続人たちに、過料が請求されるのだ。
この「過料」は刑罰ではないが、金銭の支払いが生じる以上、対象者にとっては「罰金」のようなものだろう。
そのため、管轄法務局や市区町村から、既に相続登記をされていないことに対して通知が届いていた相続人たちが、大慌てで、我が事務所に駆け込んでいるわけである。
相続登記をしていなければ、いろいろ大変なのに、大した遺産ではないと、年単位で放置している人も珍しくない。
被相続人が亡くなった後に、相続人が亡くなっていたら、その次の相続、さらに次の相続と、次々に相続が発生してしまう。
そして、今回の「過料」の話だ。
下手すれば、受け取る遺産相続の取り分よりも、「過料」が上回ると考える人もいる。
そこまで追い詰めなければ、相続登記が放置されていたことも問題なのだが、そんな人に限って、文句だけは言うのだから始末に負えないわけだ。
そのため、本来は、仕事が増えるならば嬉しい悲鳴になるはずなのに、呪詛のような奇声ばかりが増えていく。
これが、当事務所、一番の問題であった。
はっきり言えば、人手が足りない。
それなのに、やることが……、やることが多い!!
つまり、今、当事務所はてんやわんやの状態。
一種のお祭り騒ぎだった。
先ほど、ようやく、一息吐いて、同時に、友人に愚痴を吐いていたところなのである。
大丈夫。
個人情報は出さない。
事実のみの愚痴だ。
守秘義務には触れていないし、相手も、それが分かっているから、多くを聞いてこない。
適度に合いの手のような言葉を挟み込んでくるだけ。
これだけでも十分、助けられる。
愚痴を吐ける場所は大事だ。
それにしても、戸籍法の改正だけでもお腹いっぱいなのに、民法の一部改正、そして、この不動産登記法の改正とか、法務省を含めた上の方々は、八士業たちを過労死させたいとしか思えない。
「まあ、死なない程度に頑張れ」
「もう頑張ってる」
そして、他の司法書士事務所も死屍累々だと聞いている。
そうなると、行政書士などの八士業も似たような状態だろう。
一介の司法書士としては、精々、同じ職務を遂行される同胞たちの無事を祈ることしかできない。
これらの法律改正に振り回される方々、本当にお疲れ様です。
死なない程度に、お互いに頑張りましょうね。
そう心の中で私は強く思うのだった。
タイトルの「代書人」とは、「司法書士」や「行政書士」の昔の呼び名です。
戸籍法の改正に伴い、こんなこともあるかもと思い、またも想像で書いてみました。
思い立った時期が遅かった上に、戸籍法改正のタイミングにあわせようとしてしまったため、かなり無理矢理感が強くなりました。
さらに、これらの法律は難しく、素人にはなかなか読み解けなかったことも敗因です。
戸籍にふりがなが付く改正もあったと思っていたのですが、それは今回の改正ではないようですね。
尚、作者は法律家ではなく、自分で調べて書いたものなので、法律部分の解釈については、多少の誤りはあるかもしれませんが、ご承知ください。
専門家の方からは、ツッコミたいところが多々あるかと思いますが、生温い目でさらっと読み流してくださると嬉しいです。
法律は本当に難しいですね。
専門に勉強されている八士業の方々を本気で尊敬します。
ここまでお読みいただきありがとうございました。