表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

初雪

作者: 富永 真一


初雪


 二〇二五年の関東地方を襲った寒波襲来以来、東京には十年間雪は降っていなかった。その冬はそれ以来の寒波が、長く関東地方に居座っていた。


「じいちゃんがお前くらいの頃はよ、一年に三回か四回は降ったんだぞ」

少年の祖父は寒そうな窓の外を見ながら、雪は自分が降らせたかのように自慢げに膝の上の少年に言って続けた。

「じいちゃんはお母さんと一緒に雪だるまをつくったもんだよ。雪だるまって知ってるか?」

唐突な祖父の言葉に、少年は丸い目を更に丸くしてきらきらと輝かせた。

「雪だるま? 本物の雪は見たことないよ。見てみたいな」

「雪が降ったら一緒につくろうな」

「雪、降るかな?」

「降るさ」

「ゼッタイ!?」

「きっと降るさ」

祖父はあたかも自分が降らせるかのように言った。少し考えた後で少年は訊いた。

「じいちゃんのお母さんてどんな人だったの?」

少年は見たことのない雪にも心惹かれたが、それよりも祖父の口から出た「お前くらいのころ」や「おかあさん」という言葉に驚いた。

間髪いれずに少年は矢継ぎ早に質問を繰り出した。

「じいちゃんも小学校行ったの? 幼稚園も?」

「ひでおと同じように小学校も幼稚園も行ったよ」

自分に比べると途轍もなく長い年月を生きてきたであろう祖父に、自分と同じように少年として過ごした時期があったことが、にわかには信じられなかった。祖父が当たり前のことのように語る母親のことも、改めて考えてみると、何とも言えない不思議な気分になった。

「じいちゃんもお母さんのこと好きだったの?」

「そりゃあ好きだったよ」

「なんか……へん!」

「そこに飾ってある写真はよ、じいちゃんのお母さんの写真だよ。前にひでおにも言わなかったか?」

少年は、振り返り部屋の壁の写真の中から祖父の母と思しき笑顔の老婆の写真を見上げた。

「お前が生まれるずっと前に死んじゃったけどな」

「じいちゃんのお母さんなんて、やっぱりおかしいよ」

 少年は大きな声でそう言って笑い、祖父も笑った。いつまで二人で笑っているのだろうかと思うくらい笑った後で、少年はあることを打ち明けようと思った。

「じいちゃん、僕ね、ひらがながまだ書けないの。覚えているつもりなんだけどね、この前、テストに名前をかいたら『ひでお(・・・)』を間違えちゃった」

そう言って少年は祖父の左の掌に一字ずつひらがなで自分の名前を書いた。祖父の分厚く大きな掌に、少年に鏡文字になったお(・)の字が書かれた。祖父は少年の右手を取って少年の左の掌に正しいおの字を書かいてやった。

「自分の名前なんて、何べんも書いてればそのうち書けるようになるさ」

祖父の慰めを遮るように少年は言った。

「でもクラスのみんなはもうカタカナも漢字も書けるよ。僕だけだよ、ひらがな間違えるの。他の授業なんかもう全然分からないよ。九九なんてゼッタイむりだよ!」


 先生が板書した字をノートに写していく授業風景が少年の脳裏に浮かぶ。書き間違えた字を慌てて消そうとするが、誤って隣の行の字を消してしまう。急いで消してしまった行を書き直し、間違えた字を消し、正しく書き直すのだが、焦った右手はその字をまた間違えてしまう。板書を写し終えるころには先生の話は終り、また新たな文字がこつこつと乾いた音を響かせて黒板に書かれている。意味も考えることもできず、また板書を一心にノートに写す。見かねた補佐の先生が少年の横にやってきて助けを差し伸べるが、それがまた少年の気を重くする。一つの授業が終わると少年はくたくたになった。

 不甲斐ない自分の姿を思い出し、さらに心細くなって少年は泣き出しそうになった。自分は駄目な子どもなんだ、そんな思いが芽生え始めていた。その不安は寄せては返す波のように彼に押し寄せ、日増しにその不安の波は大きくなっていた。その不安に襲われる度に少年の胸は締め付けられ、どこかに一人置いていかれたような気持ちになるのだった。

祖父はどんな顔で自分の話を聞いているのだろうか。少年が身を捩って後ろを向くと、祖父の深い皺が刻まれた笑顔があった。どうしたらこんな深い皺が出来上がるのだろう。少年は思わずその皺に見入ってしまった。それは目が細くなった優しい顔に刻まれていた。その笑顔にこの前同じように膝に抱かれたまま我慢できなくなって、おならをしてしまったことを思い出し、少し気まずく、でも嬉しくなった。

少年は抱えきれなくなった恥ずかしさと嬉しさから、吐き出すように続けた。

「じいちゃん、僕勉強全然できないの。ゲームだって勝ったことないし。走るのだっていつもビリだし。運動会だって、一年生の時も二年生の時もびりケツだったでしょ。体育の授業も嫌い、算数も国語も、他の授業もみんな嫌い・・・・・・」

言っているうちに急に胸の辺りがひんやりと冷たくなるように、さっきまでの嬉しさはどこかに消えてなくなった。

「いんだよ、いんだよ。字が上手く書けなくたって、ゲームに負けたって、走るのが遅くたってよ」

全て分かっていると言っている、相変わらず優しい祖父の顔があった。

「いいんだよ」

 祖父の膝に座り後ろから抱えられながら、少年はその言葉を聞いていた。さっきよりも祖父の腕はずっと温かかった。温かく大きな腕に抱かれている。少年は幸せだった。学校でいつも惨めな自分も、今だけは広い世界の主役だった。

「そっか……いいのか」

一度冷え切った体の芯が、また急に温まり始めるのを感じながら、ただ祖父の腕に抱かれていた。窓から注ぐ柔らかな冬の陽射しを浴びながら、少年は祖父の匂いと、自分たちを包む部屋の匂いを吸い込んだ。部屋にある箪笥や本棚、机と椅子、それら自分の生まれる前からそこにあるものが、不思議ととても愛しかった。

「じいちゃん、この部屋のもの、ゼッタイ全部捨てないでね」

今の自分を囲むものは、どれも欠けては欲しくない、そう思った。祖父は、一瞬意表を突かれた顔をしたが、すぐにまた笑った。

「捨てないよ」

「ゼッタイだよ!」

 

 少年は元気になって祖父を自転車の練習に誘った。自転車に乗ることができない少年は習い事に出かけるときは祖父の自転車の後ろに座り、自分で自転車に乗れないことを隠すように友人と遊ぶことを避けがちになっていた。

「じいちゃん、ゼッタイに離さないでよ!」

少年の高い声が誰もいない小さな公園に響いた。後ろから支えている祖父の存在を感じながら、少年はペダルを漕ぎ始めた。前輪が力なくユラユラと揺れる。自転車がスピードに乗ってきたころ、その手が離れた。恐怖のあまりブレーキを握ることもできず、慌てて両足を地面につけて自転車を止める。

「ゼッタイ離さないって言ったじゃん!」

抗議の視線を腕組みをして笑う祖父に向ける。もう一回やろうと言って祖父は自転車の荷台を掴んだ。

「僕が離していいって合図するまでゼッタイに離さないでよ!」

あまりの寒さに公園の木々もじっと押し黙り、鉄の遊具は冷え切って、音も立てず二人を見ているようだった。今朝のニュースでは十年ぶりの寒波が南関東に到来したと告げていた。二人は小さな公園を、対角線上に何度も走った。少年はサドルにまたがり、祖父は荷台を押す。走っても走っても少年は祖父に手を離す合図を出せなかった。冬の夕方は短く、あっという間に公園を夜の闇が包み始めた。毛糸の手袋の中で悴んでいる指先から感覚が失われたころになって、自分に耐えかねた少年はついに叫んだ。

「いいよ!」

「行け! ひでお!」

祖父の声が背中を押す。

 手が離れた途端、左右に揺れだした自転車。そのペダルを少年は懸命に漕いだ。足に力を込めたが、怖さから足からは力が抜け、揺れは収まるどころか自転車は暴れ馬のようにますます少年の思うようにならなくなる。揺れる自転車を乗りこなせないまま、自転車に少年は一層力む。走っているのか、それとも走らされているのか。公園の中で、少年と暴れ自転車は互いに主導権を奪い合う。悪戦苦闘の末、自転車にいきかけた主導権を、彼は少しずつ手中に納めかけていた。あともう少しで。

「ひでお! 前!」

その声に驚き、前を確かめた少年の前に公園の柵が突然立ちふさがった。突然現れた鉄柵に、彼はブレーキをかけることもできずに勢いそのままに正面からぶつかった。びくともしない柵に自転車のハンドルは左に折れ、少年は前方に放り出され鉄柵に胸を強くぶつけた。その際に舌を噛んだのか、口内に痛みと錆びた鉄の味が広がる。

「また練習しような」

帰り道、自転車を押す少年の背中を押しながら、祖父はそう励ました。

「もういいっ! ゼッタイやだ」

少年は大きな声で言い、立ち止まって地団太を踏んだ。いくら少年が力んでも地面はびくともしない。少年の苛立ちは固いコンクリートに跳ね返され、そのまま少年の中に押し寄せる。言いようのない不安や空しさが堰を切ったように涙となって流れ出す。思い通りにさせてくれないこの世界に対する少年の抗議を、誰が聞いてくれるのだろう。きっと誰にも届かない。そんな気持ちで少年の胸は満たされた。その日、少年のできないものがまた一つ増えた。算数、国語、体育、プログラミング、そして自転車。

「また練習すればいいんだよ。じいちゃん、また付き合ってやるから。明日もやろう」

家まで少年を送った祖父は帰り際に言った。

「もういいよ、これからもじいちゃんの自転車の後ろにのせてよ」

少年は鉄の味がする血の滲んだ唾を飲み込んだ。見つめた玄関の床の模様が滲んだ。


 その帰り道、少年の祖父は心臓発作で倒れ、帰らぬ人となった。祖父の体は激しい運動と十年ぶりの寒さに耐えられなかったのだ。

 少年が初めて経験する葬儀は、共働の両親よりも一緒に過ごす時間が長かった祖父のものだった。少年の見慣れた祖父の顔は、蝋人形そのもので、死化粧と棺の中に入れられた見慣れない菊の花が、その不自然さを助長させていた。つい昨日まで傍にいた祖父の抜け殻は、もう祖父ではなかった。棺には祖父が生前愛用していた品が入れられていたが、少年には祖父の体も、添えられた遺品も、同じもの(・・)にしか見えなかった。代わるがわる死に顔を拝んではその頬に触れて涙している人々を、少年は遠くからただ眺めているだけだった。抜け殻になった祖父への別れの言葉を囁くことも、硬くなった頬に掌をあてることも少年には不要な行いに他ならなかった。参列した人々を眺めながら、あの人たちは一体誰なのだろうかと、一人ひとりに思いを馳せたが、祖父の友人なのだろう、それ以上の想像は少年にはできなかった。ただ、祖父が本当に手の届かない遠いところに行ってしまったということと、祖父を大切に思っていた人が、これほどたくさんいたことを、少年は知った。

 

 葬儀の数日後、白髪の婦人が少年の家を訪れた。一人暮らしだった祖父の家から、位牌は少年の家に引き取られていた。祖父の旧友と名乗る婦人は、訃報に遠方から訪れたという。骨壷に納められた祖父に手を合わせた後で、父母とともに後ろで正座していた少年に彼女は言った。

「あなたが大ちゃんのお孫さんね。ひでお君ね……」

何も応えない少年に、婦人は包み込むような声で続けた。

「あなたのことはおじいさまからよく聞いているわ。思った通り賢そうな子ね」

少年は何も言えずに、その婦人をじっと見ているだけだった。初めて会った人に言われた、自分には到底そぐわない「賢そう」という言葉が、少年をしばしたじろがせた。この婦人は自分のことを知っている。一度も会ったことのない彼女が自分のことを知っている。その不思議な事実は、とても大きなことのよう少年には思えた。もしかすると、祖父にとってこの自分は想像以上に大切な存在だったのかも知れない。自分を膝に抱きながら客人に自慢げに自分を紹介している祖父が思い出された。自分の知らないところでも、きっと祖父は自分のことを話して聞かせていたのだろう。自分を、賢い孫として。

「お前はじいちゃんの何だと思う?」

「たからもの」

すぐにそう答えた自分と、

「そうだ」

と満足げな笑みを見せる祖父。それに続く抱擁。

じいちゃん――。

胸の底から思い出となって蘇えった祖父の温もりは、柔らかく少年を抱いた。あの日以来遠くに行ってしまった祖父を少年はすぐ傍に感じた。祖父の笑顔は、少年の瞼に様々な出来事を蘇えらせた。そしてそれらの思い出は、静かに湧き出すように、少年から溢れ出た。それまで少年が流したことのない、温かい涙だった。

 婦人が帰った後、少年はひとり放置していた自転車を公園に持ち出し、練習を始めた。久しぶりに動いたその自転車は、相変わらず少年の言うことを聞かなかった。少し漕いでは足をつき、また漕いでは足をついた。祖父とそうした様に何度も公園を往復した。ユラユラと心許なく走っていた自転車だが、次第に少年の意のままに走るようになり、暮れ始める頃には、何とか少年は自転車を乗りこなせるようになっていた。

「僕もじいちゃんみたいに自転車、乗れるよ」

少年は、公園の外に出て、どこまでも続く道を走りたくなった。公園を出た自転車は、少年がペダルを漕ぐたびに軽く、速くなっていく。少し前まで自分に冷たかった自転車は、今では友人の様になっている。サドルとハンドルを通して地面の僅かな凹凸も少年に教えてくれる。火照った頬を冷たい風が撫でる。興奮と寒さで膝が笑う。少年の中では、いつの間にか炎がこうこうと燃えている。笑う膝に、更に体重をかけた。少年は自分の力で景色をこんなに速く動かしたのは初めてだった。このままスピードを上げていくと、終には宙を駆けてしまうのではないか、突然頭をもたげた恐怖にも、少年は踏み込む力を緩めなかった。冷たい風が、勢いよく進む少年の鼻の奥をつんと突き上げる。初めて嗅いだ真冬の匂いだった。

「じいちゃん、僕はどこまで走れるのかな」

「どこまでも行ける」祖父の声が聞こえた。

今までは祖父の自転車の後ろに乗って通る緩やかな下り坂。少年の速度はさらに増していく。冷たい空気を体いっぱいに吸い込むと、再びペダルを漕ぐ足に力が入った。少年は、ずっと自分の中につかえていた何かが一気に溢れるのを感じていた。かじかんでいた手も、もう寒くはない。浮き立つような思いにペダルを後ろに回す。チェーンがシュルシュルと心地よく鳴く。次はペダルにかけていた両足を前に投げ出してみた。祖父の背中越しから見ていた坂の下の風景が目の前に広がる。夕闇に深く沈んだ街並みが眼の前に開けた。街にはすっかり明かりが灯っている。

誰かに呼ばれたような気がして、少年は空を見上げた。暗い灰色の空から、ひとつ白い雪が降りてきて鼻先に落ちた。

その夜、大寒波は街を一面の銀世界にかえた。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 2035年のお話という不思議な感覚 「祖父」というのは「私」のことだろうか 最期の日は孫のために全力を尽くした。「同世代」の祖父はきっと自分の人生を満足したに違いない。 仮に今日が人生最後の…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ