ラ・マルティーヌの点描
台風の過ぎ去った、六月の昼下がり。南から時折吹く風のおかげか、まだいくらか涼しい。しかし、毎年やってくる蒸し暑さは、すでに京都市を覆い始めていて、感覚を研ぎ澄ませば、そこかしこに夏の気配を感じ取ることができた。水気を含んだ空気の味、精力にあふれた雑草の醸す匂い、光を吸って色濃くなったアスファルト、顔にぶつかっては弾ける日差し、心なしかゆとりある喧噪。……
右京区の佐井通――三条通や四条通と垂直に交わる、ありふれた通り――にも、夏の気配は訪れている。昼の二時を前にしたこの時間は、人通りも車通りも少なくなるため、その空気をより一層感じ取りやすいことだろう。と、佐井通の一角、家電量販店の向かいにある大乾ハイツという黄色い建物の前、厳密に言うと、そこに備え付けられている自動販売機の前に、六、七歳ほどの少年がやってきた。彼こそがオザワ少年である。
オザワ少年は、同年代の平均的少年と同じように、やかましくて自分勝手で残酷で思慮に欠けていて移り気で屈託のない、愛すべき少年である。そしてまた、すぐに喧嘩をしてべそをかくという点でも、彼はありふれていた。少年は左手の甲で目にたまった涙を拭い、鼻をすすった。
ケンちゃんめ、今日は絶対遊びに行こうって約束してたのに、また塾だ!そんなに塾が大事なら、学校に来ないで塾にだけ行ってればいいんだ!少年は右に作った拳を開く。そこには、母親からもらった200円が、手汗に濡れたことでより一層キラキラと輝いていた。少年は自販機を見上げ、三段あるうちの一番上の段に180円と値札のついたジュースを見つけると、二枚の百円玉を投入口に、彼のまさに目の前にあった投入口に力強く押し込んだ。彼の腹立たしさとは裏腹に、コインは、カタンカタン、とあっけない音を立てながら自販機の中に落ちていった。購入用のボタンが一斉に点灯する。激しい昼の光に飲まれて、幽霊のように微かな光ではあるが、確かに緑色に点灯していた。
オザワ少年は力一杯背伸びをして、一番上にあるボタンを押そうとする。が、もちろん届かない。彼はかかとを地につけて、一息ついた。そして、もう一度背伸びをした。今度はさらに全力で、かかとどころか、つま先が地面を離れるほどに精一杯に背伸びをした。と、バランスを崩し、ヨロヨロと二三歩よろめいた。幸いにしてこけることはなかったが、恥ずかしいやら悔しいやらで、少年は再び目を潤ませ、全身がかゆくて堪らなくなったのだった。
涙をこらえているうちに、また自販機から、カタンカタン、という乾いた音が聞こえてきた。お金が返却されたのだ。少年はそんな自販機の生理現象を気にもとめず、彼に挑戦的な目を向けた。その視線は、ラインナップの一番下の段から上の段へと、脳に刻みつけるかのように自販機の上を踏みしめていく。下の段は……、コーヒーばかりだ。その中に少年の気を惹くものはない。彼にはこれらの飲料の良さが分からなかった。中の段は……、缶ジュースや小さなペットボトルのジュース。確かにおいしそうだが、少ないのが気にくわない。やはり、一番上の段しかありえない。少年は、釣り銭取り出し口から、200円を取り出し、再び投入口へと入れた。しかし先ほどまでとは異なり、彼の頭には、友人と遊べなかったことへの怒りなど一片もなく、別の悔しさが満ちていたのだった。カタンカタン、と間抜けな音が自販機から響く。
オザワ少年は、Tシャツで顔や首を拭くと、また大きく背伸びをした。つま先とかかとが離れてしまうのではないかと思うほど、大きくがむしゃらに背伸びをした。作戦などはなく、ただひたすら、無謀に背伸びをしたのだった。傍から見れば、自販機と背比べでもしているかのようで、後ろを通りかかった下校中の小学生が、彼を見てクスクスと笑ったが、少年はそのようなことを気にしてはいられなかった。気にしてはいられなかったが、それはそれとして、恥ずかしくて堪らなかった。全身から汗がジワリとにじみ出す。羞恥心と苦しさで、彼の顔は真っ赤になった。ふと、中段の缶ジュースが目に入る。これほど無理をせずとも、普通に背伸びをすれば届くんだから、こっちの方がいいのでは?こんなにつらい思いをしなくてもいいのでは?そのような考えが、妥協案が、あるいは合理的な発想が、少年の心にふつふつと湧き上がる。いいや!だめだ!絶対に!悔しい!少年はその誘惑を断ち切るかのように、強く目をつむり、歯を食いしばり、顔を空に向けて反らす。この小さい、愛すべき少年の顔は真っ赤になり、足は震え、息は止まり、食いしばった歯の間からは断続的に苦悶が漏れ聞こえてくるが、彼はただ単に、自動販売機で180円のジュースを買おうとしているだけなのである。
その時、無謀な挑戦に打ちのめされつつある少年の脳裏に光明が閃いた。そうか!ジャンプすればきっと届くぞ!少年はかかとを降ろし、目を開き、正面を向き、ジャンプの姿勢をとろうとした。その過程の中の、目を開いた時のことだ。目を開き、正面を向く直前のことだ。彼の目は、未知に吸い寄せられるその目は、めまいがするほど青い大空を視界全体で捉えた。夏の予感が、ふんだんに、こんこんと、あふれかえっている、青空を。
青い空だ。濃い青色。胸焼けしそうになるほど青い。濃淡が細やかにひしめき合っている。明暗も。まるで魚群の影を水上から見たかのような光景だ。ちょうど「スイミー」のような。たくさんの魚が空で泳いでいるのである。身動きがとれなくなるほどたくさん。満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めになった魚影。そういった小さい点々がはち切れんばかりに空をうごめいている。さらに、サッと絵筆を走らせたかのような細く薄い雲の白色と送電線の黒い直線が、あちこちに浮かび上がっている。やがて、何か黄色いものが、新たに少年の視界へ映り込んできた。これまた、息をのむほど黄色い。花畑を覆い尽くすひまわりを想起させるほど黄色いそれは、大乾ハイツだ。建物の壁面には、ホールケーキの側面に塗られた生クリームのように、デコボコとした線状の隆没ができていて、それがこの四角いひまわり畑に濃淡と明暗を生み出している。午後の光を浴びたその建物は、もはや極彩色ばりにギラギラと輝きを放っていて――。
「あーーー!」
不意に背後から大声が聞こえて、オザワ少年はビクリと肩を震わせる。急いで振り返り、キョロキョロと首を巡らしたが、とうとうその声の正体を突き止めることはできなかった。背後から、カタンカタン、と眠たげな音が響く。それでもなお、少年は呆気にとられたままだった。
二十年ほどの歳月が流れたある日。その日も六月で、台風が過ぎ去ったばかりで、そして、夏の気配が京都市にもたれかかっていた。
佐井通にある大乾ハイツ――なんと!まだ大乾ハイツは存在したのだ!――の前に一台の車が止まった。至る所がへこんだ白い軽自動車で、社用車なのだろう、ドアには見たこともないロゴと聞いたこともない企業名がプリントされている。その中から、およそ二十代後半ほどの青年が出てきた。彼こそが、二十年前はオザワ少年だった人物である。
その青年は、同年代の平均的社会人と同じように、賢しらでケチで利己的で卑屈な自信家で計算高い、一人前の社会人である。そしてまた、絶えず生活の苦労に板挟みになっているという点でも、彼はありふれていた。青年は左手の甲で額の汗を拭い、唇をなめた。
ああ、暑い暑い。それにしても、やっぱり異動しときゃよかったなぁ。営業なんて、俺ももう二十六のおっさんなのに。体に応えるよなぁ。でも、こんな会計ソフトをこんなに売れるのは俺くらいなもんだしなぁ。俺って、口だけは達者だからなぁ、頭の回転が速いというか……。それにしても、人間関係もしんどいよなぁ。上司には愛想よくしなきゃならないし、部下は部下で、最近はすぐハラスメントだとかなんとか。俺が若い時は……。そういえば、最近恋人ともうまくいってないんだよなぁ。同棲を始めたはいいものの、何だかな。俺は頑張って合わせようとしてるのになぁ。青年はポケットから財布を取り出し、硬貨を二枚取り出す。財布の中にたまっていたレシートの一枚が、その拍子に落ちていったが、彼はそれに渋い一瞥を与えるだけだった。そして、流れるような動作でコインを投入し、慣れた手つきで最下段にあるコーヒーのボタンを押した。ガタン、という投げやりな音と、カチャンカチャン、という滑稽な音が、自販機から調和もなく吐き出される。それを合図に、青年は腰を折ってコーヒーと釣り銭を取り出した。
青年はネクタイの結び目を調整しながら車に戻っていく。彼は二十年前のことなど、毫も思い出さなかった。しかし、車のドアを開ける直前、ふと道路のアスファルトが目に入った時のこと、青年の脳裏に何かがよぎった。日差しを吸って膨らんだ道路は、経年によるへこみも際立たせ、それがあちこちに明暗と濃淡を生み出していて……。それはまるで、無数の人間の足跡が刻み込まれているかのようであった。今までここを通ってきた名も知らぬ人々の足跡。そして、彼らにより踏み固められてきた獣道。足下に自身の靴とぴったり一致する足跡を見つけた気がして、青年はゾッとする。
「ありがとうございましたあーーー!」
不意に背後から大声が聞こえて、青年は振り返った。と、道路を挟んで真向かいにある家電量販店から、車が出庫していくのが見えた。その車の進路を確保するように二人の警備員が立っている。青年は苦笑いを浮かべながらため息をつき、額の汗を拭くと、もう余計なものを見ないようにして車に乗り込んだ。アスファルトも空も自販機も大乾ハイツも。大乾ハイツはそれでも、いや、半年前の改修でより一層、黄色くそびえ立ち、黙然と佐井通を見下ろしているのだった。