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第十二話 距離感 ー結根飛鳥視点

 いつもより早く目覚めた。二度寝するには微妙な時間だった。


 自分の部屋を出ると、お母さんの寝室の扉が開いていることに気が付いた。何気なくこっそりと部屋の中を覗き込む。呼吸で膨らむ掛け布団を確認した私は、ゆっくりと音を立てないようにリビングを目指した。


 朝の支度もいつも通りに済ませ家を出る。早い時間に出たせいか、普段見かけない人たちの姿が目に映った。


「お腹痛い……」


「嘘言うなよ。ほら、行くぞ」


 中学生くらいの男女が大きな声でそんな会話をしていた。


 そんな様子を見ながら、私はふと中学時代のことを思い出していた。


『え、なになに?』

『とりあえず先生呼ぶ?』

『おう、よろしく』

『はあ? お前が行けよ』


 目眩がひどくてへたり込んでしまった時、周りにいた人達がそんなことを言っていた。


 助けて欲しかったけど、すぐに手を差し伸べてくれる人はいなかった。昔からそうだった。私はどちらかというと、人に好かれる人ではなかったから。


 そんな自分が嫌だった。周りが怖かった。日を追うごとに、学校をずる休みする回数は増えていき、その度に心が乾いていくような感じがした。


 お父さんとお母さんは、ずる休みに関しては何も言わなかった。ただ、いつものように優しく接してくれた。それが逆に辛くて、ある日、私はお母さんに胸の内にあるもの全てをぶつけた。


 自分が嫌いだ、と。


 そんな私をお母さんは強く抱きしめてくれた。「お母さんはあなたが好きよ」と。そう言ってくれた。


 いっぱい泣いて泣いた。溢れては流れる涙は、心の中の重たいモノ全てを流してくれた気がした。


 その翌日、今日は学校に行こうと私は何度も何度も自分に言い聞かせて、自身を奮い立たせていた。


 もう両親には迷惑をかけたくない。


 家を出る時間までは、まだ余裕がある。そう思っていると、お母さんが私を手招きしてくれた。何事かと思いお母さんの部屋までついていくと、お母さんは「座りなさい」と言って、ドレッサーの前の椅子に私を座らせた。


「飛鳥にはまだ早いかもだけど、今日はおまじないで少しね」


 そう言ってお母さんは、私に少しだけ化粧をしてくれた。


 目を開け鏡に映る自分を見て、私は息を呑んだ。パッと見では分からないけど、印象が大きく変わったような気がした。もしかしたら、そう思いたかっただけなのかもしれない。


 それでも私は嬉しかった。自分に少しだけ自信が持てた気がしたから。


 あぁ、好きな自分になれるんだと。


 それからの日々は、不思議と楽しかった。学校生活は変わらない。学校に化粧をしていったのもあれが最後だった。


 ただ、休みの日とかは化粧をしてみたりした。好きな自分になれるこの時が、一番楽しかったから。


 高校受験が終わった頃、私は得意だったゲームを動画配信サイトで配信しはじめた。画面に映るのは、私が好きな私。私が私でいられる姿だ。


 コメント欄には沢山の褒め言葉があった。容姿のことやゲームの腕前のこと。


 嬉しかった。学校では空気のような扱いの私が、こんなにも見てもらえるなんて。


 私には、この世界だけで十分だった。高校での学校生活も何も望まない。そう思っていた。


 なのに……。


 貧血で倒れた私を担いでくれた大きな背中。

 翌日の心配してくれているあの表情。


 それに……。


『別人か。んー俺は凄いと思うんだよな。化粧ってさ、なりたい自分になれる手段の一つだと思うし、なりたい自分があるっていうのは尊敬するよ』


 あの言葉がとても嬉しかった。私が肯定されてると思えたから。



 席替えがあった。周りは誰になるんだろうと不安だった。机を運ぶと、斜め前に瀧川くんがいた。


 すごく嬉しかった。胸がトクトクと高鳴っているのが分かった。


 ただ、少しして瀧川くんの隣に浅倉さんがやってきて。


「お! アオの隣だー」


「お、おう」


 瀧川くんは一言そう言っただけ。でも、その横顔は嬉しそうだった。


 商店街を散歩している時も、瀧川くんと浅倉さんは二人でいた。


 きっとお付き合いしているんだろうな。


 そう思うと、何故か心がチクチクと、小さな針に突かれているような気がした。



 委員会で瀧川くんと一緒で良かった。そう思っているはずなのに、今日の活動はあまり楽しくなかった。


 どうして、こんなにも落ち込んでるんだろう。


 分からなかった。


 きっと瀧川くんは気まずい思いをしている。そう分かっていても、どうすれば良いか分からなかった。


 考えても答えは出ないまま、美化活動も半分まで終わった時だった。


「きゃっ!」


 目の前に虫が飛んできた。私は思わずしゃがみ込む。


「ど、どうしたの?」


「む、虫が……」


「虫?」


 瀧川くんの問いに私は頷くことしかできなかった。すると、瀧川くんの手が私の肩に触れた。


「逃げてったよ」


 顔を上げると、瀧川くんが膝に手をつきながら、そう言ってくれた。


「あ、ありがと」


「うん。結根さん、こっちの方やりなよ。俺がそっちやるから」


 そう言って瀧川くんは私が掃除していた場所を変わってくれた。


 胸が高鳴っていた。彼の背中を見ているだけで、呼吸を忘れてしまいそうなほど。


 残り半分の美化活動。本当は少しでも多く会話かしたかったけど、自分の気持ちを抑え込むのに必死で何も話せなかった。



 委員会活動が終わり、瀧川くんが道具を片付けていた。


 もう、この時間が終わってしまう。


 そんな寂しさのせいか、私は何思ったのか彼の方へ歩いていった。


 瀧川くん。私はゆいねこだよ。あなたが憧れてくれている人だよ。


 そう言いたかった。それを言ったら、瀧川くんは"今の私"もあの目で見てくれるかな。そう思ってしまった。


 でも、言えなかった。そうじゃなかった時が怖かったから。ゆいねこの正体が私と分かった瞬間に、どんな顔をされるのかが怖かった。


 失望されるのではと思ってしまった。


「どうしたの?」


「あ! いや……何でもない!」


 不自然なのは分かりきってるけど、誤魔化すしかなかった。当然、瀧川くんは不思議そうな表情を浮かべていた。だけど、すぐに柔らかい表情をしてくれた。


「そっか。じゃあ帰ろうか」


 それって一緒に帰ってもいいってこと?


 そう捉えたい私は、無言で彼の横に並んだ。それが正解だったのかは分からない。けど、彼は表情を変えずに並んで歩いてくれる。


「座席、近くになったね」


 そう言うと瀧川くんは「うん」と一言返事してくれた。


「あの……休憩時間とかも話せたらなって……」


 ドキドキする。こんなこと言って良かったのかな。変に思われないかな。言った後で後悔が押し寄せてくる。


 でも――。


「そうだね。俺もそれはちょっと思ってた」


 私はその言葉に、思わず瀧川くんの方へ顔を向けた。すごく嬉しくて、心が温かくなる。


 このままずっとこうして歩けたら。そんなことを思ってしまう。だけど、駐輪場のところを曲がった時だった。瀧川くんは足を止めた。


 視線の先には浅倉さんたちがいた。瀧川くんは、彼らの後ろ姿をずっと眺めていた。その目は温かいけど、どこか憂いを帯びていた様な気がした。


「瀧川くん?」


「ん? あー、ごめん」


 瀧川くんは、作り笑いを一つ浮かべて、また歩きだした。そのペースは、何故かさっきより遅いような。私としては瀧川くんと歩ける時間が長くなる気がして嬉しかった。


 だけど。


「ごめん、教室にノート置いてきちゃってたの思い出した。先に帰ってて」


 瀧川くんは立ち止まりながらそう言った。私はただ、「うん、また明日」と手を振るしかなかった。

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