第一話 憧れ
人というものは、突然変わることがある。きっかけは様々であると思うが、その中の一つに憧れというものがあるようだ。
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中学の卒業式も約一ヶ月前。今日から始まる高校生活に期待と不安で胸を膨らませている俺は、玄関で腰を下ろしていた。
履き慣れていない学校指定のローファーは固く、足を通すのに少しばかり手こずってしまう。顔を横に向けると、いつもと雰囲気の違う、完全他所行きの母さんが俺を急かしていた。
時間には余裕があるはずなのだが、母曰く俺はマイペースすぎるらしい。
そんな母さんに惑わされることなく、靴を履き終えた俺は、玄関の扉を開ける。すると、二人の女性が視界に映った。
一人は俺が小学生の頃から良くしてもらってる幼馴染の母親だ。そして、その横には見たことのない女子がいた。
制服は俺が今日から通う高校の制服である。それに加え、制服はどこか新品ぽいというか、着られているような感じから、俺と同じ一年生だろうと予想できる。
しかし、知らない人である。なぜ、里奈の母親の横にいるのだろうか。
「あの、どちら様で?」
俺だけが疑問に思ったのだろうか。そう質問をすると、俺の母さん、そして里奈の母親、そして見知らぬ女子が、不思議そうに目を見開いて固まった。
「あっ、そっか! これでアオに会うのは初めてだったかも」
見知らぬ女子が俺の愛称を口にする。俺の名前である瀧川葵。幼馴染の里奈は、俺のことを昔からアオと呼ぶのだ。
「待て……もしかして里奈?」
「そうそう! どう? 見違えた?」
そう言って里奈は挑発的な笑みを浮かべる。
「んー……」
見違えるどころではない。つい数週間前までは、世間一般でいう地味な雰囲気であった里奈がこうまで変わるとは……。
毎日どこかしらに寝癖が付いていた髪は、艶やかでストレートな黒のセミロングになり、分厚いレンズの黒縁眼鏡は、コンタクトレンズになっている。
それに、フェイスラインもシャープになっている気がする。あと、背筋が伸びているからかだろう。どこか自信を感じる。
「というか、突然どうした? 何が里奈をそうさせたんだ」
まだ状況を飲み込むことができていない俺は、眉間を指で押さえながら里奈に疑問を投げる。すると、なぜか里奈の母親が嬉々として語り出した。
「もう、それがねー。この子突然お洒落したいって泣きついてきてね。ねえ、なんでだと思う?」
「いや、全く予想がつかないです」
そう答えると、里奈の母親は「でしょうね」と言わんばかりに口角を上げる。横にいる里奈は、恥ずかしそうに俯いていた。
「なんかね、少女漫画みたいな高校生活がしたいらしいのよ」
「はあ……。ん? もしかして、【俺になびけ】?」
そう聞くと里奈はコクリと小さく頷いた。
【俺になびけ】とは、里奈が一番好きな少女漫画だ。よく見れば美人だが、目立たない主人公が、眉目秀麗で文武両道な俺様系イケメンに不器用なアプローチをされ、少しずつ関係を進めるといった内容である。
「もう聞いた時、びっくりしちゃってねー。まあ、でも理由はなんであれ、やっとこの子もそういうとこ気にしだしてくれて……。良かったわ〜」
そう言って里奈の母さんはため息をついた。里奈は俺の反応が気になるのか、さっきからチラチラと目線だけを俺に送ってくる。
見慣れないせいだろう。俺は咄嗟に目を逸らしてしまった。すると里奈は、呟くように俺に質問を投げてきた。
「それで……どうかな? 良い感じに変われたかな……?」
その目は自信なさげである。だが、俺の答えは一つだ。
「うん。可愛い」
「ちょ、ちょっと、そういうことは真顔で言わないでよ!」
「いや、本当にそう思ってる」
淡々と言っているように見えてるかもしれないが、これでも相当恥ずかしい。ただ、本当に可愛いと思ったのだ。
あまりの恥ずかしさに視線を泳がす。その先では、母さんと里奈の母親がニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべていた。
※
散った桜を踏みしめながら歩くこと十数分。今日から通う高校に着いた俺たちは、外に張り出されたクラス分け表を見に行った。
「あ! 見て! アオと同じクラスだよ!」
「本当だ」
里奈の指先を追って四組のクラス表を見ると、確かに【瀧川葵】と【浅倉里奈】の文字が記載されていた。
「良かった〜。取り敢えずボッチは回避できそうだよ」
安堵のため息をつく里奈。俺も態度には出さないが安心している。知り合いがいる、いないではスタートダッシュに大きく関わると思うからだ。
「しかし、中々の確率だな。俺らの他には同じ中学の人はいないはずだし」
「ね! でも逆にそれだから同じなのかな? はあー! 今日からここに通えるんだねー!」
これから始まる生活に期待を膨らませているのだろう。里奈の横顔はとても輝いていて綺麗だった。
見た目が変わろうと関係ない。少し垂れ目なところとか、笑う時の口角の上がり方とかは、やはり里奈は里奈だなと思う。
入学式が終わり、担任の先生の挨拶や保護者への説明、明日の予定の確認が終わると解散となった。
母さんと里奈の母親は、そのままランチに行くらしい。俺と里奈は、別行動を取ることにした。学校付近の探索という建前の元、近くのハンバーガー屋さんに行こうと里奈が提案したのだ。
「クラスの雰囲気、なんか良さげだな」
ポテトをつまみながら話を切り出すと、里奈は何度も頷く。
「うん! あっ! ねえねえ、なんか凪野くんに似てる人いたよね!」
「いや、見てない……」
里奈の言う凪野くんとは、【俺になびけ】のヒーローである凪野颯だ。
「えぇ! もう、すごい存在感だったよ! キラキラーってしてるっていうか!」
両手を頬に当て、里奈は体を揺らす。相変わらず、分かりやすく楽しそうだ。
「そっか。俺も確認しとくよ」
「うん! 絶対似てるから」
もし本当に凪野くんに似ているなら、里奈にとってこれ以上に嬉しいことはないだろう。
中学の頃、毎日のように凪野くんについて熱く語られた。漫画、アニメは二十周はしたと聞いた時は呆れたものだ。
そんな里奈が今、憧れに手を伸ばそうとしている。
俺にできることは、里奈が理想に近づけるように見守り、支えることだけだ。
取り敢えず、凪野くんに似ているという人が良い人であることを願おう。