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幻想の夜叉  作者: 栗山大膳
光と陰
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第二話

 ビクターが指にぶらさげていた書状に端を発して、フューレルのことをひさしぶりに思い出したものだから、僕は引っ越したばかりの屋敷に帰ると、物置にしている地下室から錆びた短剣を持ち出してきて、書斎でランプのひかりに翳しながら、ためつすがめつした。


 過去に他者から散々虐げられてきた少年の手にあって、何人もの冒険者の血を吸った短剣だ。


 いたましいほどに錆び切っている。


 しかしそれでも鉄や鋼というのは偉大なもので、熟練の研師に数日預ければ、鏡面のような輝きを取り戻してくれるだろう。



 僕はかれにとって腕のいい研師ではなかった。


 フューレルはあれでも、僕とビクターのくだらないやりとりを聞いて笑うことがあった。


 冗談のちゃんと分かる子だった。


 こころが壊れ切っていた訳ではなかった。


 つまり、やりようはあったのだ。



 鉄錆の匂いは、血の匂いに似ている。


 いやでも戦闘を連想させる。


 この短剣を見ていると、僕はなにか大切な問いを突き付けられている気になる。


 その答えを見つけ出すまで、この短剣は錆びついたままにしておくつもりだった。



 僕は短剣を黒檀の机のうえに置き、窓から、夕暮れの薄闇に沈んでいこうとする庭を眺めた。


 石を敷き詰めた小路があり、がっしりとした鉄柵の門があり、火の入った門柱灯があり、ささやかながら薔薇の生垣があり、芝生があり、四頭の馬をつないでおける厩がある。


 決して大きな屋敷ではなかったけれども、立地もよく、僕にはいささか立派すぎる代物だった。


 執事とコックとメイド二人と中間を雇い入れた。


 もっとも僕の家臣にあたるのはそのうち執事だけだ。


 かれはもともと、他国の貴族に仕える騎士だったが、主家が没落し、帝都に流れてきて冒険者、戦士になった。


 寡黙だが思慮のある誠実な男で、貴族の作法や雑務にも通じている。


 それで僕の執事になってくれないかと誘った。


 かれは珍しく微笑んで、よろこんで、と即答してくれた。


 かれは恋人と結婚する機会をずっと待っていた。


 冒険者をやっていたのでは人生の長いプランを立てにくい。


 かれはもうすぐ恋人と式をあげる。


 その際にはかれの新妻にこっそりとどれだけ休暇が欲しいかを尋ね、希望しただけの休みとそれに見合った旅費を与えるつもりでいる。


 かれに直接聞いたのでは遠慮するに決まっているからだ。


 ウォード・ロキシーというのがかれの名だった。


 歳は三十一。



 今日は仕事を早めに切り上げて帰宅したが、なにも短剣を見つめるためにという訳ではなかった。


 客を招待していた。


 シルヴィア・レノにはこのあいだアイスクリームをご馳走になった。


 無理やり招かれたとはいえ、返礼をしない訳にはいかない。


 それで三日前に、職場で彼女に手書きの招待状を渡した。


 シルヴィアは驚いたような顔つきでそれをしげしげと眺めたあと、仕事帰りにではなく、いったん自宅に帰って準備をしてから行くと言った。


 ならば馬車を手配しようと僕は言った。


 それから帰宅して、雇い入れたばかりのコックを呼び、金に糸目はつけなくていいから、とにかく当日は豪勢なディナーを用意してくれと頼んだ。



 馬車の車輪が石敷きを踏むことことという音が微風に乗って響いてきた。


 庭におりてゆくと、ちょうどシルヴィアが馬車から門柱灯のひかりのなかへ降りてくるところだった。


 初夏の宵によくマッチしたノースリーブのドレスをまとい、真珠のネックレスをさげ、手には黒いハンドバックをもっていたが、薄化粧を施した可憐な顔はどう見ても20歳にいくつか届かない少女のものだった。


 ウォードは、


「どのようなお方ですか」


 と、耳打ちするように僕に尋ねた。


 貴族の婦女を迎えるがごとく、屋敷の主と執事がそろって出迎えているが、馬車から降りてきたのは付き添いのない洒落た小娘。


 執事としては万が一にも扱いを間違えたくはないだろう。


 僕は、


「同僚だ」


 と端的に答えた。



「それにしては、だいぶお若いようですが」


 とかれは言った。



「事情があって若返ったが、職場ではそのことを伏せている。


 化粧がなかなか巧みなんだ」



「なるほど……」


 釈然としないところはあるが、だいだいわかった、という顔つきで、ウォードは言った。



 食堂のテーブルに多枝の燭台を置き、それを挟んでシルヴィアと食事をした。



「どうせなら、晩秋の頃に来たかったわ」


 と、シルヴィアは窓越しに季節の過ぎた薔薇の植込みを眺めながら言った。


「そしたら真っ赤なのを選んで手折ってきて、あなたのシャツに挿してあげたのに」



「似合うと思うのか」


 と、僕は仔羊のソテーにソースをからめながら言った。


「僕がそんな真似をしたら滑稽いがいの何物でもないだろう」



「だからよ」


 と、彼女は楽しそうに言った。


「あなたはすごく真面目な野獣なの。


 存在自体が野暮なんだから、それくらいしてくれないとむさ苦しくって見ていられないわ」



「言ってくれるな」


 と、僕は苦笑いした。


 返す言葉がないとはこのことだ。



「ねえ、なにかつらいことでもあった?」


 と、シルヴィアは僕を見つめながら言った。


 蝋燭の焔が紺碧の瞳にうつりこんでいた。



 僕の脳裏に、フューレルのことがよぎった。


 このひとはすこしずつ僕の扱いを理解し始めているようだった。


 なんとなく居心地が悪いような、妙な気分だった。



「君がここに来るまえに、むかしやった失敗をのことをすこし思い出してな。


 なに、大したことじゃないさ。


 すまないな、気を遣わせて。


 さあ、飲んでくれ」



 僕はヴィンテージのワインをとって、彼女のグラスに注いだ。



「ねえマキシム、わたしのこと、酔わせたい?」


 と、シルヴィアが小娘の可憐さに恃んで眉根を寄せ、小首をかしげる。



 蜂蜜色の髪がろうそくの明かりのなかで揺れて、燃えるようだった。



「どのみち僕のほうが先に潰れるだろう」


 僕は視線をはずして、穏やかに言った。


「シルヴィアにはかなわない」



 女錬金術師はすこしがっかりしたという顔をして、椅子にもたれた。



「あなたって律儀よね。


 アイスクリームがそんなに嬉しかったのかしら?」



 僕はグラスのなかで葡萄酒を揺らしながら、



「……とても、な」


 と言った。



「もしかして、もとの世界に戻りたい?」



「そんなことは、もう考えていないさ」



「本当かしら」



 僕は黙っていた。


 シルヴィアが答えを求めていないことは分かっていた。



「ラッセル伯爵のほうは、いくらか未練があるみたいよ」



「ほう。


 なにか知っているのか」



「転移魔法は表向き、禁制になっている。


 関連する書籍を所蔵することもできない。


 けれど、そんな規則をまじめに守っている魔術師なんていないわ。


 当の帝国さえ守ってない」



「それで?」



「ラッセル伯にその手の書籍を納めたと主張する書肆を何人か知っている、と言ったら、あなたは信じるかしら?」



 シルヴィアが子供っぽさを残した眼に、挑むようなひかりを宿している。


 彼女は、ビクターが僕の急所だとわかっている。


 そこを衝けば、僕を野獣にできると思っているのかもしれない。


 僕は、これが60歳を過ぎた女の振舞いかと思うと、可愛らしささえ覚えた。



「異世界に帰ることができるかどうかは知らないけれど、時間を超えるくらいは、できるかもしれないわ」



「ビクターは蔵書家だからな。


 価値のあることが書いてある書籍ならなんでも欲しがる。


 けれども順法意識は旺盛だ。


 知っていても、やらないさ」



 かれは夜な夜なそういう禁書を、中学生がエロ本を取り出すような調子で地下の蔵書室から持ち出してきては、書斎にこもり、興奮の声を押し殺しながら、一ページ、一ページ、じっくりと繰っていくのだ。


 オタクとはそういう物悲しい生き物なのだ。



 食事が終わって、僕はシルヴィアを見送りながら、その眼をまっすぐに見て、はっきりと言った。



「僕がこの先、君を抱くとすれば、それは少なくとも素面のときだ。


 酒の力を借りたり、勢いに任せたり、みたいな真似をする気はないよ」



「あなた、よく童貞を卒業できたわね……」


 シルヴィアは呆れたように言って、馬車に乗り込んだ。


「そういうのってウブな若い子が聞けばときめくのかもしれないけど、おばさんにはちょっとじれったいわ……。


 ごちそうさま、とっても楽しかった」



 僕は馬車が夜の街にひっそりと消えていくまで見届けた。


 シルヴィアは自分では恋愛の手練れのつもりだろうが、あいにく、重要なことにはちっとも気づいていない。


 見た目だけでなく中身まで小娘になってしまったものと見える。


 僕は鼻を鳴らして、屋敷に戻った。



 二階の書斎にあがって、がらんとした書棚を眺めながら、窓を開いて夜風に当たっていると、ふと、通りを挟んでむこうがわの、三階建ての豪邸の窓のひとつが開け放たれ、明かりがもれているのに気が付いた。


 窓辺に貴族のご婦人が身をのりだして、憂鬱げに通りを眺めていた。


 見た感じ、30前後くらいの女性で、長い巻き髪を垂らしている。


 立ち姿がみごとなほどに麗しい。


 コルセットで腰を絞り、胸は豊かだ。


 ただ顔色だけが冴えなかった。


 まさか身投げはすまいが、部屋の明かりを背にしているせいで、やけに青ざめているように見えた。



 雇い入れたばかりのメイドのローラがやってきて、お風呂の準備ができましたと言うので、入浴を済ませ、また書斎にもどってくると、むかいの豪邸の貴婦人は、まだ通りを見下ろしていた。


 椅子を窓辺に引き寄せて腰をかけ、枠に頬杖をついている。



 気になって、ローラに、あのご婦人はどういう? と尋ねてみると、彼女は窓辺までやってきておおきな眼をぱちぱちさせ、



「ああ、この辺りでは有名な方です。


 年頃のころはそうとうにお奇麗な方だったらしく、社交界の花形だったそうですよ。


 海軍の英雄ドリスコル伯爵の許嫁だったのですが、あいにく伯爵がダーリアの海戦で戦死なさってしまい、以来、独身を貫かれています」



 話には聞いたことがあった。


 ドリスコル伯爵は救国の英雄といわれる提督で、宮殿に飾られている肖像画の男ぶりはみごとなものだった。


 しかしあいにく、三日三晩続いた大海戦のあげくに、敵国・フィオールの海軍の司令官と刺し違えるかたちで戦死した。


 まだ二十代だったと聞く。


 しかし許嫁を残して死んでいったという話は初めて聞いた。



「あの方の名前は知っているか?」



「ヨナ・ミリアム様とおっしゃいます。


 ミリアム子爵の妹君にあたる方です」



「ふうむ……」



「きっとあの方はドリスコル伯爵を心から愛しておられたのでしょうね」


 と、ローラがうっとりとした声で言った。


「ああやって昔のことに思いを馳せていらっしゃるのかしら。


 ロマンチックだわ」



 僕は書棚にむかってそっと首を振った。


 むしろ逆だろう。


 死んだ許嫁が救国の英雄では再婚などできまい。


 そのうえ、まわりの連中からはローラのようなことを言われ続ける。


 おそらくヨナというご婦人は、あの家から逃げ出したくて通りを眺めているのだろう。


 死んだ許嫁を裏切るようなことを望む自分に罪悪感を覚えながら、だ。



 再婚どころか、浮いた噂のひとつでも立てれば、世間から英雄を裏切った最悪の女と決めつけられ、帝都ネディロスに居場所がなくなるに違いない。


 兄のミリアム子爵がどんな方かは存じ上げないが、かりに剛毅で男尊女卑の考えのつよい人物であれば、家門の恥として、その場で手討ちにされる恐れもある。



 僕は、気の毒で見ていられなくなり、そっと窓を閉じた。

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