第十八話
僕たちは第四研究所の裏手の丘にあがって、転移魔法の魔法陣に乗り、科学院まで戻った。
シルヴィアとスターリングに協力の礼を言って別れ、まっすぐアパートに戻ると、僕は身辺整理にとりかかった。
リリィにはビクターのもとへ戻るよう言い聞かせ、メイドにはこれまでの礼を言っていくらかの謝礼を包み、ふたりを屋敷へ帰らせた。
それから直属の上司であるビクターに宛てて、第四研究所の探索の結果わかったことを詳細に文書に記して残した。
形式上の主君である皇帝陛下に対しては、此度の任務の失敗について責任を取るという主旨の書状をしたためた。
そしてもう一通、ビクター宛てに、これまでの友誼を深謝し、先立つことと力になってやれなかったことを詫びる、友人としての私信を綴った。
ひどい空腹だったが食事はとらなかった。
うちの剣術の流派にも切腹の作法があって、胃のなかにものが残っていると、首を落とされた拍子に逆流することがあり、とても見苦しい絵になりかねない。
だから胃のなかは空にしておくことになっていた。
それから身体を洗い清め、香を焚いて髪にあてた。
死臭を紛らわせるためだ。
いずれも介錯を前提とした作法だった。
僕の場合には、介錯を頼める人がいなかったので、自分で自分にとどめを刺すしかなかった。
しかし作法は作法として、守っておくことにした。
物置から手頃な短剣をひと振りとりだして、よく砥ぎ、リビングに端座し、チュニックの胸から腹までをひき裂いた。
呼吸を整えつつ、短剣の刃のまわりを紙で幾重にも包む。
腹を十字に裂いて、首をふかく突くまでを、頭のなかでくりかえしイメージする。
しくじると苦しみが長引く。
しかし、所作どおりにやればせいぜい一分も続かないだろう。
いつのまにか、激しい雨が降り出して、あたりを雨音で包んでいる。
辞世の句について少し考えたが、面倒くさいのでよした。
それに、身の回りで日本語を解するのはビクターだけだ。
辞世の句などを詠んだら、それこそビクターに対してあてつけがましくなる。
さあ、もう思い残すことはない。
刃先を腹につきたてようとしたとき、ビクターが部屋に転がり込んできて、僕の手首にとりすがった。
ビクターは顔じゅう雨水と汗にまみれ、黒髪の先からも滴り落ちていた。
おそらくダンジョン管理局からここまで全力で走ってきたのだろう。
呼吸がひどく乱れて、なにか言おうとするのだが、あえぐばかりで、なにを言っているのかさっぱりわからない。
「とりあえず落ち着けよ、兄貴」
ビクターは激しく肩を上下させながら、
「リリィと……君につけたメイドが……屋敷に戻ってきたと聞いて……すぐにピンときた……ばかなことはやめろ……やめるんだ……」
こうなってしまっては、もう自害はできない。
僕は苦笑いをして、ビクターが僕の手から短剣をとりあげるのに任せた。
「ところでマキシム、水を……水をくれ!」
ビクターはうめきながらよたよたとキッチンへ歩いていき、グラスをとって水差しから注いで飲み、そのうち面倒くさくなってきたらしく、水差しに直接くちをつけてガブガブと飲んだ。
ぐったりと椅子に坐りこむ。
「すこしは落ち着いたか」
「それはこっちの台詞だ」
ビクターは烈火のごとく僕を睨みすえて、
「僕をおいて先に逝こうとするとは何事だ。
僕たちの契りは桃園の誓いにも劣らぬものだと思っていたのに。
いいか、劉備と関羽と張飛はな、おなじ日に死のうと誓い合ったんだぞ」
僕はひざのうえに組んだ指の先を見つめて、息をついた。
「すまない兄貴、しくじったよ。
そのうえ、シルヴィアとスターリングを、どうしても斬ることができなかった」
「君はな、腹が決まりすぎているんだよ。
僕を見習ってもっと泥臭く生きろ。
いいか、そもそもシルヴィアとスターリングの身辺調査が甘くなったのは僕の責任だ。
しかし僕はそんなことはどこ吹く風で君に丸投げを決め込んだ。
君もそれくらい厚かましくなってくれ」
「しかし、永久機関が……」
ビクターは立ち上がってふらふらと僕のまえまでやってきて、ぺたんと座り込んだ。
「いいか、一度しか言わないぞ」
僕は顔をあげて、兄貴を見つめた。
兄貴はあちこちに視線をさまよわせた挙句、おどおどした声で、
「僕にとっては……永久機関なんて些細な問題なんだよ……君の命と較べれば」
「赤くなるなよ。
こっちが恥ずかしいだろう」
「う、うるさい」
それから兄貴は棚から勝手にタオルを取ってきて、汗をぬぐい始めた。
「今日は泊めてもらうぞ。
一晩見守っていないとこっちが落ち着かん」
「久しぶりにふたりで浴場にでも行くか」
「それからどこかのビストロに入ってぐでんぐでんに酔ってしまおう。
こんな日はさっさと泥酔してショートカットしてしまうに限る」
「そうだな」
僕は立ち上がって、それからビクターを引き上げるようにして立たせた。
「ではいくぞマキシム。
今日は仕事の話は禁止だからな」
「わかっている」
雨はいつの間にかあがり、帝都の空にはきれいな虹がかかっていた。
僕とビクターは充電を終えて仕事に戻るなり血眼になって永久機関の在りかを捜したが、ゆくえは杳として知れなかった。
ビクターが張り巡らせた監視の網にもまったくかかってこない。
こういう仕事をさせるとビクターはなかなか抜け目がなく、有能だったが、それがなしのつぶてというのはすこし妙だった。
二日ばかり経って、僕はダンジョン管理局の廊下で、シルヴィアから声をかけられた。
サイド・ビジネスのことで相談があるという。
彼女は錬金術師であり、その知識と技術をいかしてひそかに薬局をいとなんでいた。
帝国大学の錬金術科の教授から、違法な素材を仕入れ、それを調合して薬や化粧品をつくり、販売していたが、半年ほどまえに仕入れ先を変えたようだった。
そのことに絡んで教授とトラブルになっているのではないか。
鑑識を務める彼女には日頃から借りがあったので、無下にすることもできず、食事がてら話を聞くことになった。
食前のワインをひとくち、ふたくち付けたところで、僕ははっきりと異変を感じた。
薄れゆく意識のなか、してやられたと思ったが、すでに遅かった。
気づいたときには、高級そうな調度のならぶ薄暗い部屋にいた。
暖炉の薪がめらめらと燃えて、カーペットに延びるテーブルの影があやしく揺らいでいた。
「なんのつもりだ……シルヴィア……そこにいるんだろう」
僕は自分の声がひどくうつろであることに驚いた。身体がほとんど動かない。
ソファのうえで首を曲げるのにも難儀する有様だった。
「自分がなにをしているのかは、ちゃんと分かっている」
と、シルヴィアが言った。
その声はしわがれて、だいぶ年を経た人のもののように思えた。
シルヴィアの声にはもっとはりがあったはずだ。
彼女は沈んだ調子で話し続ける。
「安心して、あなたに危害を加えるつもりはないの。
それに、許してもらえるとも思ってない。
あなたに殺される覚悟はとうにできている。
だけど、すこしだけあたしに付き合って欲しいの」
ドアがひらき、ワゴンが居間に入ってくる。
押しているのはシルヴィアだった。
彼女は横顔に暖炉のてりかえしを受けながら、僕にやりきれなさそうに微笑みかけた。
ワゴンのうえには、得体のしれない装置があった。
まるでえぐり出されたばかりの心臓のように、規則的に脈をうっている。
無数のチューブが各部を繋いでいた。
金属性の光沢はあるが、うねりかたは生きているようにしか思えなかった。
「これが、永久機関の試作品よ……」
「君が隠し持っていたのか……」
「破壊したかったのでしょう?」
シルヴィアはそれに細い指を這わせる。
「すべてが終わったら、あなたの好きにすればいいわ。
でも、そのまえに、これを使って作りたいものがあるの。
構わないかしら」
「この状況では、構うも構わないもないだろう」
僕は投げやりに言った。
「君に『盛られた』のは、これで二度目だな。
我ながら情けなくて涙が出そうだ」
「あなたの飲み物に薬を混ぜたのはこれが初めてよ。
信じてって言ってもむずかしいでしょうけど。
でも本当よ。
あのときはこんなことはしなかった」
あのとき、とは、半年前、シルヴィアを抱くことになった晩のことを言っているのだろう。
しかし、いまとなってはどうでもいいことだった。
「ちょっと見苦しいかもしれないけど、見ていてくれる?」
シルヴィアはブラウスを脱ぎ、スカートを落とし、ストッキングをおろして下着をはずし、それらを丸めて調度のうしろに放る。
そうして僕をまっすぐ見つめながら、頬からあごにかけて指をさしいれ、めりめりと顔の皮膚をはぎ始めた。
そのしたから現れたのは、しわとシミにまみれてたるんだ高齢女性の顔だった。
美しかったシルヴィアの面影をとどめてはいるが、老いによる浸食は隠しようがなかった。
身体の皮膚もおなじように剥ぎ落していく。
胸はしおれて垂れ、腰のまわりには醜い贅肉がついている。
皺だらけになった手で、ただひとつ若々しいままの豊かな髪をうしろに払う。
「これでも半年前まではほんとうに美しかったのよ」
「帝国大学の教授から違法な素材を買い付けて調合し、若い身体を保っていたのだな」
シルヴィアはだぶついた顎をひいてうなづいた。
「なぜ、やめたんだ」
「あなたのことが好きになって以来、死んだ赤ん坊の脂肪やら死刑囚の男根やらを鍋にかけてこねまわすのが嫌になっちゃったのよ。
みじめな気持ちに耐えられなくなっちゃったの。
その結果が、この醜い身体」
シルヴィアの眼がうるんでいた。
「あなたがいけないのよ……責任を取るように求められたら取る覚悟でいた、なんて言うから。
嘘でもうれしかったわ。
すごく、ね」
年老いた女錬金術師は、バスローブをとりあげてまとい、ワゴンからボウルや泡だて器、卵や生クリームをとりだした。
「なにをする気だ」
シルヴィアは僕に諦めのついたような優しい微笑みを投げかけて、
「あなたに食べさせたいものがあるの。
どうしても。
安心して、毒は入れないから」
そうして彼女は、鼻歌をうたいながら楽しそうに料理を始めた。
卵を割るおとが立ち、小麦粉が煙みたいになって暖炉のひかりのなかを漂う。
泡だて器がしゃかしゃかと小気味よくまわった。
どのくらい、経っただろう。
僕は懐かしい匂いに気付いて、胸のなかに郷愁のさざ波が起こるのを感じた。
シルヴィアが黒い小さな瓶をボウルにかたむけている。
バニラだ。
僕の背筋を、得体のしれない戦慄がかけあがった。
「あなたは覚えてないかもしれないけれど、あの晩、ぐでんぐでんに酔っぱらいながら、あたしにこう言って泣きついてきたのよ。
『シルヴィア、僕はアイスクリームが食べたいんだ。
生まれ故郷のアイスクリームがどうしても食べたいんだ』って。
それであなたの話を頼りに作ってみたらあんがいうまくいったの。
待っててね、いま食べさせてあげるから」
シルヴィアは金属板をとりだしてワゴンの上に置き、永久機関とチューブのようなもので繋いだ。
すると金属板から白い靄が生じて、ドライアイスの煙みたいに絨毯のうえに沈んでいった。
「冷気は魔法や精霊召喚で突発的に起こすこともできるけど、持続ができないの。
だからアイスクリームを作るためにはエネルギーを持続させることができる永久機関がどうしても必要だった」
女錬金術師はボウルを金属板のうえに据えて、ゆっくりと辛抱強く回し続けた。
指ですくって舌先でちろりと舐め、うん上出来、と歌うように言った。
彼女は白磁の小皿にアイスクリームを盛りつけると、銀の小さな匙を添えて、うれしそうに僕の隣にすわった。
「食べさせてあげるわ」
と、匙ですくって僕に含ませた。
バニラの豊かな香りと心地よい甘さが口いっぱいに広がると、僕の脳裏に、現代日本のなつかしい風景が次々と蘇った。
夏の夕暮れ、竹藪の薄闇にとけてゆく蚊取り線香の淡いけむり。
いちめんに咲き乱れるひまわりと、麦わら帽子の子供たち。
神輿をおろし、くぬぎの木の影で麦茶をわけあう法被の大人たち。
もの寂びた神社の境内。雪をかぶるクリスマス・ツリー。
破魔矢をもった、赤い着物の女の子。
もう一生見ることのできない、故郷の風景。
僕は不覚にも、涙を零していた。
シルヴィアは僕に感想を求めなかった。
ただ満足そうに微笑んでいた。
「あたし、これでもう思い残すことはないわ」
「……やっぱり君のことは斬れないよ」
僕はゆらゆらと揺れる彼女を見つめながら言った。
「そんなだらしないことを言っちゃだめ。
ひとおもいにやって。
あなたがやらないならあたしがやるわ」
シルヴィアは、ワゴンの下から書類の束をとりだし、まとめて暖炉に放り込む。
そうしてつぎはハンマーをかつぎあげ、高々とふりあげて、永久機関めがけうちおろす。
鉄の心臓はすさまじい煙を吐きだし、反転して収縮し、それらを繰り返すうちにまばゆく輝き始めた。
そうして紫色の幾条ものひかりが激しくうねり、シルヴィアを包む。
「きゃあ!」
光の靄がおさまったとき、そこには滑らかな肌と、仔鹿のように均整のとれた、しなやかな輪郭があった。
「うっそ」
と、シルヴィアが自分のからだをまさぐりながら、娘々した声をあげる。
顔から皺やたるみはすべて消え失せ、かわりにそばかすが散っていた。
とつぜん、シルヴィアはなにかに気付いたように股に手をさしいれた。
白い太ももを黒いなにかが伝い、絨毯にぽとりとおちる。
「うっそうそうそ!」
シルヴィアははだしのまま廊下へ出て、ばたばたと駆けていく。
僕はなんとか立ち上がって、絨毯に滴ったものを指ですくって、暖炉の火にかざしてみた。
それは、鮮血だった。
「きゃー始まってるんですけどぉ! なんで?」
バスルームのほうから、シルヴィアの嬉々とした声が響いてきた。
「やれやれ」
僕はソファに沈むようにもたれて、それからアイスクリームのおかわりをよそった。