第十四話
僕はアパートに戻るなりビクターから連絡はなかったかをメイドに尋ね、さらに盗賊のフィンツからの繋ぎがなかったかを確認した。
いずれもまだだった。
メイドには申し訳ないが、万一ビクターからの使者が来たときにはただちに対応してもらうため、徹夜の番を頼み、自分は下着ひとつになってベッドに横になった。
うつらうつらする頃、だんなさまだんなさまとメイドが僕の肩を揺さぶっているのに気付いた。
ちょっとしか寝ていないつもりだったが、カーテンのむこうはすでにぼんやりと明るい。
「……来たんだな」
僕は身を起こし、髪をかきあげながら言った。
「で、どっちの使いだ」
「いえ、使者ではなく、フィンツさんがじかにお見えになっています」
「すぐにここに通してくれ」
「で、でも……」
メイドは僕がパンツいっちょうなのを気にしているのだろう。
彼女はビクターの屋敷から手伝いに来てくれているのだが、貴族に仕えるメイドとしては、その配慮はまったく正しい。
寝所に得体のしれない盗賊の男を通せという準男爵は、帝国広しといえども僕くらいのものだろう。
僕はメイドに微笑んで、かまわないからそうしてくれ、と頼んだ。
「遅くまで済まなかったな。
フィンツをここに連れてきたら、休んでくれて構わない。
僕は午前中のうちに出仕するが、下手をすると二、三日は帰れないと思う。
リリィと留守中のことを宜しく頼む」
「は、はいっ」
フィンツはメイドに案内されて入ってくるなり、
「旦那すまねえ、シルヴィア・レノのほうは抜かりなく付けたけど、ジェイド・スターリングには尾行を勘づかれたかもしれねえ。
……クソッ、身体がふたつあったらこんなヘマはしねえんだが」
「スターリングは抜け目ない男だ、仕方ない。
で、二人はいまどうしてる」
「いまはどっちも自宅に戻って寝ています。
それで部下に監視を任せてあっしがじかに報告に来たって訳なンですけどね」
フィンツの表情が珍しく冴えない。
どうしたのかと訊くと、
「じつは……夕べ遅くになって二人が高級ホテルのラウンジに相次いで入っていって、いっぱい引っかけ始めやしてね。
スターリングの旦那がしきりにレノ女史を口説いている様子でした。
レノ女史もまんざらじゃねえ感じでして。
こちとら警戒されちまったんでうかつに近づくわけにもいかねえし、詳しいやり取りまではわからなかったンですけど……」
「あの二人がホテルのラウンジで飲んでいただと?」
どうも解せない。
シルヴィアはスターリングの評判には偽りがあると伝えてきた。
スターリングはシルヴィアにはどうも裏がありそうだと知らせてきた。
そのふたりがホテルのラウンジで一緒に酒を飲んでいたとは、どういうことだ。
口論でもしていたならまだ分かるが、スターリングがシルヴィアを口説いている様子だったという。
フィンツがおずおずとした様子で、
「じつはまだ続きがあって……」
「聞かせてくれ」
「レノ女史が、スターリングの旦那のグラスになにか粉末のようなものを落としたように見えたンで、二人が帰ったあと、ラウンジのボーイに金貨を握らせてグラスの中身を持ちかえって、なじみの錬金術師に分析させてみたンですがね、強力な陶酔作用のある薬が検出されたンです」
「ほう」
僕の脳裏に、半年まえのこと、そして昨夜のイクスポーロのことが浮かんだ。
「でね、スターリングの旦那のほうはラウンジに現れるまえに薬局で解毒剤を購入して予め服用していましてね。
これは旦那に付けておいた子分が薬局で裏をとってます。
旦那、酔ってレノ女史の罠に落ちたように見せかけたかったんでしょうよ。
けれどもなじみの錬金術師が言うには、陶酔薬が効いたかどうかは瞳孔を見りゃ分かるらしくて、レノ女史はスターリングが陶酔したフリをしているのを見抜き、警戒して、誘いに乗らずに帰ることにした……そんなところじゃねえかと思うンですがね」
なるほど、そういうことか。
それにしても、あいかわらず油断も隙もあったもんじゃない。
「クスリを巡る駆け引きのこと、よく調べてくれたな。
礼を言う」
フィンツは照れたように頭をかいて、
「ちょっとヘマしちまったけど、旦那のお役に立てたならよかったですよ」
老盗賊にウィスキーの一杯でも振る舞おうと思ってグラスを用意していると、メイドが寝室をノックした。
「なんだ、まだ起きていたのか」
「お見えになりました!
大旦那さまの、ラッセル伯爵さまのお使いが」
僕はメイドにフィンツの接待を頼むと、いそいでズボンとチュニックを身につけ、菊一文字をひっさげて、アパートを出た。
ビクターはあざやかなオレンジと紫がせめぎあう明け方の空を背にして、埠頭の先から大海原にむかって釣り糸を垂れていた。
かれは僕に気付くなり、軽く手をあげた。
「返事が遅くなってすまん、ようやく身体があいた」
「それで朝っぱらから釣りか。
優雅だな。
なにか釣れたら刺身にして食わせてくれ」
「なにも遊んでいる訳じゃないぞ。
リフレッシュだ」
「似たようなもんだろ」
「……長くは話せない。
海軍との打ち合わせがあってな。
そろそろ小舟で拾いにくることになっている」
「じゃあ本題にはいろう」
僕は兄貴の傍にしゃがんで、海を眺めながら、
「作戦は中止したほうがいいかもしれない」
と、言った。
声が掠れていた。
「シルヴィア・レノにもジェイド・スターリングにも不審な点があるんだ。
レノは長期にわたって違法な素材を売買していた可能性がある。
スターリングはフィオール王国の宰相と繋がりがある」
「マジかよ……」
と、兄貴は言った。
「人選から考え直したほうがいい。二人のことが信用できない訳じゃないが……もし疑わしいことがあったときには、証拠があがるのを待たず、あいつらを斬らないといけない。
機密の保持を最優先とするならば、だ」
兄貴はいまにも泣きだしそうな声で、
「……すでにいくつかの国が屈強の冒険者どもをダンジョンに送り込んでいる。
連中は血で血を洗うバトル・ロワイヤルをおっぱじめる気らしい」
僕はどっと疲れがわいてくるのを感じた。
「冗談じゃない……」
「なあマキシム、もういっそなにもかもブン投げて南の国にバカンスでも行くか?」
兄貴はやけくそになって釣り竿で海面をぱちゃぱちゃと打ちはじめた。
この男の現実逃避癖はあいかわらずだった。
「……そういう訳にもいかないだろ、兄貴」
「僕はいっこうに構わんぞ。
この際、領地も爵位も過去も祖国もなにもかも捨ててやる」
僕は兄貴をそっと見上げた。
こいつの眼には、永久機関によって産業革命を遂げた敵国に侵略され、徹底的に蹂躙される帝国の惨状が、くっきりと見えているのだ。
もういっぱいいっぱいなのだ。
「しかし、領民はどうする。
部下はどうする。
屋敷のひとたちは……リリィはどうする」
僕は、兄貴にとってキツい質問かもしれないけど、敢えて聞いてみた。
兄貴がそれらを全て捨てるというのなら、黙って付いていくつもりでいた。
しかしそうでないのなら……踏みとどまって最善を尽すほかない。
兄貴はがくっと膝をつき、朝焼けにむかって、日本語で、
「ダンカンばかやろう!」
と叫んだ。
帝国屈指の軍略家として名を馳せたビクター・ラッセル伯爵が、涙をこぼしていた。
僕は兄貴の肩に手をおいて、口には出さなかったけれども、
(安心しろ。
僕がなんとかしてやるよ)
と、呼びかけた。
やがて海軍の旗をかかげた小舟がゆっくり近づいてくる。
ビクターは素で、
「マジ乗りたくねえ……」
と、うめくように言ったが、いよいよ小舟が接岸されると、袖でぐっと涙をぬぐい、
「しょうがない、やるだけやってみよう」
僕に疲れ切ったような微笑みを投げかけると、いつもの自信に満ちた穏やかな声で、海軍のひとたちを労った。
朝日にむかって遠ざかっていく兄貴に手を振りながら、多分、貴族とはこういうことなんだろうなと、僕は思った。