第十三話
僕は自宅アバートに帰ると、遊んでもらいたくてうずうずして待ち構えていた姪のリリィを抱き上げ、肩車をし、あたまのうえでキャッキャと騒がせておきながら、思慮を巡らせた。
まずいことになった。
いまは一刻もはやく主任捜査官であり上司のビクターに連絡をつけ、善後策を相談しなければならなかったが、いっこうに捕まらない。
かれは永久機関の情報漏洩を食い止めるというとてもデリケートな工作をしなければならないこともあり、消息すら掴めない。
僕はむしゃくしゃしてリリィのお腹にがっつりと猫吸いをキメて、それから、それがしこれから公衆浴場へ行くでござると一方的に宣言し、まとわりつくハーフ・デビルのうつくしい女の子を振り切るようにしてアパートを出た。
むろん悠長に風呂になんか浸かっている気分ではない。
頭と身体をさっさと洗い、歯を磨き、チュニックの胸元を派手にくつろげて家路を急いだ。雨季の曇天は湿気がすごい。
夜風があたってもちっとも涼しくならない。
そのへんの街路樹を睨みつけて、酔っ払いのように悪態をつく。なぜこんなに気持ちがくさくさするのかはわかり切っていた。
僕は面倒くさくなれば人でも魔物でも有無を言わさず叩き斬ることを信条にしている。
しかし、ジェイド・スターリングだけは斬れない。
あいつになら騙されたっていい、くらいに思っている自分に気付いてしまったのだ。
僕はこんな奴ではなかったはずだ。
斬らねばどうなる。
永久機関が敵国の手に渡るかもしれない。
いまはいい。
しかし十年後、二十年後には、我が帝国と敵国のあいだに、恐るべき国力差が生じるだろう。
おそらく戦争になれば、兵器と生産能力の差から、味方にとんでもない数の死者が出る。
民も無事では済むまい。
要するにビクターはそれを懸念しているのだ。
いや、あいつはもっと厚みのある心配を抱いているのかもしれないが、僕の単純な頭には、そういう構図に落とし込んだほうが理解がしやすい。
だが、それはあくまで可能性の話だ。
スターリングの裏切りが決まった訳ではない。
あの男の過去をそのように理解して憎み切っている元騎士がいるというだけの話だ。
とくに歴史や戦争にからむ問題は、立場や信念によってものの見え方がまったく違ってくるものだ。
僕はそこまで考えて、まだ濡れている黒髪をかきまわした。
どうも僕はあの男を弁護したいらしい。
先入観は禁物だ。
事実だけを黙々とかきあつめ、淡々と見つめなければならない。
風呂から帰宅して、思わず声をあげそうになった。
ジェイド・スターリングが馬になって背中にリリィを跨がせている。
あまりの緊張感のなさにこの男のそっ首を刎ねあげてやりたくなったがそこは堪えて、
「やれやれ、明日は大仕事だというのに暢気なものだな。
準備は終わったんだな?」
「暢気なものか」
と、スターリングは首をまげて言った。
「レディのお馬さんを務めるというのもなかなか難儀なものだぞ、準男爵」
「おいリリィ、そのお馬さんは酒ののみすぎで心も体も疲弊しきっているんだ。
あまり虐めてやるなよ?」
「スターリングさん、わたし優しいよね?」
と、リリィが首をのばす。
「もちろんですとも、ご令嬢」
碧眼の劇作家は上機嫌のていでリリィをメイドに預けると、僕にはワインの要求を一切せず、かわりに、
「……ヴォイド殿、これから出られるか」
と、耳元で低く囁いてきた。
「探索を翌日にひかえて夜更かしをしなければならないような急ぎの要件でもあるのか」
「シルヴィア・レノ女史に関することだ。
耳に入れておいたほうがいい」
ビクターの屋敷に出した使いがもどってくるのと入れ違いになるかもしれないが……
「わかった。
すぐに出よう」
アパートの階段をくだりながら、スターリングは、いくらか早口に、
「じつは旦那に頼みがある。
これから会う男をひとつめこぼししてやって欲しいんだが」
「やれやれ、犯罪者か」
「サイド・ビジネスをすこしばかり張り切りすぎちまったのさ。
こういう輩は泳がせて情報を提供させたほうがなにかと役に立つぞ?」
「なるほど、話が見えてきたよ」
と、僕は言った。
「違法な材料でも売買しているのか」
おおかた、なにかよろしからざる素材を、シルヴィアに卸している、という話だろう。
こんなタイミングで同僚の身辺調査をしなければならないとは。
しかし放置はできなかった。
もしシルヴィアが違法な取引に手を染めていたら、その延長上に永久機関に関するものが絡んできてもおかしくはない。
この探索から外れてもらう立派な理由になる。
「……わかった、いいだろう。
僕の一存で目下のところは罪に問わないことを約束する」
「さすがは準男爵、あんたは大事と細事の区別がちゃんとつけられる男だ」
僕はしかたなく苦笑いした。
こういう見え透いた世辞を言う男が、どうしても嫌いになれない。
マスカレイド(仮面舞踏会)は、僕たちの世界ではベネツィアの衰退期に始まったものと聞いている。
ベネツィアは地中海貿易で栄えた海洋都市だが、経済が最高潮に達し、文化が爛熟すると、ものの順序として貴族や商人などの国家の中核をになう層の風紀が紊乱した。
しかし社会の安定と秩序は保たねばならないので、どこかでかれらにガス抜きをさせる必要がある。
そこで恋と愛に飢えた良家の老若男女が、マスクをして舞踏会にあつまり、その場だけの相手を見繕うようになった。
いくらロマン的な表現で縁取ったとしても、実態はそんなものだろう。
我が帝都にも似たような風俗がある。
主にやってくるのは、さかりのついた、それなりに社会的な地位のある男女だが、なかには仮面で顔を隠せるのをいいことに、密談の場として利用するものもいた。
それでダンジョン管理局のみならず当局の治安機関、諜報機関は、こういった場にたびたび潜入する必要に迫られた。
その場合には、大抵は男女でペアを組むが、今日ばかりはそんなことも言っていられなかった。
僕とスターリングは、暇をもてあまして女を漁りに来たボンクラ貴族といった態で、羽飾りのついた仮面をつけ、ロング・ドレスやタキシードの男女で埋めつくされたきらびやかなホールを、縫うように歩いた。
香水とアルコールの匂いでむせかえりそうだった。
声をかけてくるご婦人の幾人かに、悪いが白塗りの豚に用はない、などと断りを返すと、スターリングはいちいち、すまないね麗しきお嬢さん、コイツさっき女の子に振られたばっかりで気が立っているんだ、許してやってくれ、と丁寧にフォローをいれ、僕にむかっては、あんたがこういうところを好まないのはよく知っているが目立つのはまずい、もっと上品に振る舞ってくれ、あんたそれでもダンジョン管理局の捜査官か、と宥めにかかるのだった。
「恋愛は顔を隠してするものじゃない」
と、僕は呟いた。
独り言のつもりだったが、スターリングにも聞こえたと見えて、
「ああ、わかるよ。
あんたは正々堂々とした男だ。
この仕事もときにはさぞ辛かろう」
あとをつけるよう手配した当の男からそんな風に慰められるとは、皮肉なものだった。
「さあ、急ごう」
スターリングは僕をうながして階段をあがり、左手に派手なシャンデリアを見ながら廊下をしばらく歩き、個室の扉をノックした。
返事をまってから上品にひらく。
僕はその様子から、相手はそれなりに地位のあるものだろうと考えた。
デキャンタやらサンドイッチの籠やらグラスやらが並ぶテーブルを挟んで、銀髪にタキシードの、革製の覆面をつけた老人がすわっていた。
左右に派手な仮面の女をはべらせ、談笑している。
「先生、お人払いを……」
と、スターリングが促すと、老人は仮面の女たちに目配せをした。
女たちは値踏みするように僕とスターリングを見やりながら部屋を出ていく。
礼を知らない女どもだ。
よほど抜き打ちに叩き斬ってやろうかと思ったが、なんとか堪えた。
こんなところに豚の死骸を転がしたところでなんの足しにもならない。
「ああ、あなたがダンジョン管理局の……」
老人は立ち上がって、右手を差し出す。
僕はそれをじろっと見やり、
「私に名乗らせるからには、あなたにも名乗って頂くことになるが。
お互い、たまたま仮面舞踏会で相席した者どうし、ということにしたほうが都合がよいのでは?」
すぐ傍で、スターリングが額に手をあて、首を振っているが、知ったことではなかった。
しかし、そうは言っても僕にはこの男がなにものか、だいたいの目星はついていた。
おそらく帝国大学の錬金術科の教授、あるいは助教授、といったところだろう。
その気になればいつでも身元を暴ける。
わざわざ名乗らせる必要もなかった。
「そ、そうですな。
その通りだ」
老人は口元をこわばらせて、
「じつはダンジョン管理局に鑑識として勤務しているシルヴィア・レノについて、幾つか情報提供したいことがありましてな。……」
足許の黒い鞄をとりあげてなかをまさぐる。
「承りましょう」
僕は老人とむきあうように濃緑のソファに座った。
一見、もの寂びた竜皮のつくりに思えるが、もちろんイミテーションだろう。
本物だとすれば、誇り高き種族として知られる竜が、ここの浅薄な連中の尻に敷かれることになって、気の毒なことだった。
僕は無表情を保ちながら、しかし怪訝に思わない訳にはいかなかった。
この男にとってシルヴィアがよからぬ材料の取引先であったにしろ、教え子であったにしろ、その弱みをダンジョン管理局に告げ口してなんの得があるというのだろうか。
公益のためというならこの男こそただちによからぬ材料の仕入れだの納入だのをやめるべきだろう。
たとえカネ目的だとしても、申し訳ないけれど大学の教授がスターリングの用意できる程度のカネで動くとは思えない。
……とすると、怨恨だろうか。
老人はおおきな封筒から一通の文書をとりだして、こちらにむけた。
「これは……」
「帝国大学錬金術科の卒業者の名簿。
写しではなく元本です」
とりあげてざっと眺めるうち、信じられないものを眼にした。
シルヴィア・レノはなんと四〇年前もまえに錬金術科を卒業したことになっている。
「……これが本物である証拠は?」
僕は文書から顔をあげ、老人の仮面からのぞくとび色の瞳を凝視した。
「それは俺が保証しよう」
と、スターリング。
「疑うのなら大学に問い合わせればいい。
ラッセル伯に一筆書いてもらえば大学も照会を拒むまい」
「……同姓同名の別人ということは」
「いや、これはまぎれもなくダンジョン管理局に勤務しているシルヴィア・レノの記録です」
「とすると、彼女は現在、少なくとも六十二歳以上、ということになる」
「そのとおりです」
「シルヴィア・レノをご存じか」
「はい、もちろん」
「あなたには、あれが六十二の老婆に見えますか?」
僕はテーブルに身をのりだして眼を細めた。
「それとも、彼女はほんとうに吸血鬼の血を受け継いでいるとでも?」
「あなたは錬金術の効能というものをよくご存じではないようだ」
と、老人は乾いた声で言った。
「禁制の材料をいくつか用いれば、ときの流れに逆らって若さを保つことは可能です。
……たとえば、堕胎した赤子の脂肪。
サイクロプスの皮膚から採取した魔苔。
ウィル・オ・ウィスプを溺死させたときに生じる赤い灰。
それから……」
悪趣味な品目をいちいち聞いていられない。
僕はさえぎるように、
「で、あなたはそれらをシルヴィア・レノに納入していたわけか」
老人はやや間をおいて、そのとおりです、と言った。
「証拠は」
「これが注文書です」
つぎは紙の束が僕にむかって差し出された。
とりあげてめくってみる。
どの紙にも、得体のしれない品目がならび、その数と代金が記されていた。
筆跡はまちがいなくシルヴィアのものだ。
毎回の請求額は、ばらつきこそあれ、総じて相当なものだった。
いちおう捏造のことを疑ったが、いずれも昨日今日につくられたようには真新しくなかった。
少なくとも作成されてから数か月は経っているだろう。
取引は長年にわたって続いていたようだが、最後は半年ほどまえの日付になっており、それ以降のものはなかった。
「……実は、一方的に取引を打ち切られましてな」
「半年前に?」
ええ、と老人はうなづき、
「あの女は、ほかに調達のルートを見つけたのかもしれません」
「それで腹を立てて、密告に及んだわけか。
あるいはシルヴィア・レノに告発されるまえに先手を打った?」
僕はこの老人の目を見据えてやったが、気持ちは分からないでもなかった。
シルヴィアはダンジョン管理局に勤務しており、その彼女から取引の停止が通告された以上、なにかあったと考えるのが普通だ。
「いや……それは、その……」
「そういじめなくてもよかろう」
と、スターリングはとりなすように言った。
「この際、重要なのは、レノ女史がほかに取引先をもっている、少なくともその疑いが強い、ということだよ。
だってそうだろう、レノ女史はあのとおり美貌を保っている。
どこからか材料を調達しないかぎり、ありえん話だ」
半年前といえば……僕がシルヴィアと一夜を共にしたのが、たしかその頃だった。
僕はため息をつき、それからこの老人に、いま以上にあくどい商売をしなければ、摘発のことは心配しなくていいが、そのかわり、今後、情報の提供に応じてもらうかもしれない、と告げ、さっさと舞踏会を辞した。
潮のかおりの混じったすがすがしい夜風を胸いっぱいに吸い込み、マスクを運河に放り込む。
スターリングはほぼ無人の周囲をそれでも警戒しながら、
「このことをシルヴィア・レノ女史が知っているかどうかは分からんが」
と、前置きし、
「あの男の話によれば、永久機関のコアを成す≪瘴気の結晶≫には、霊薬としての側面があるらしい」
霊薬は、別名を万能薬ともいい、文字通り、なににでも効くという。
また、ある錬金術の学派では、永遠の命をもたらすものともされていた。
「恐らく美容にも役に立つだろう。
レノ女史がそれを欲しがったとしても不思議ではない」
「あの大学教授に永久機関のことを話したのか」
「よく考えたまえ、ヴォイド準男爵」
と、スターリングは腕を組んであごに手をやり、
「帝国大学の錬金術科の教授が、永久機関の開発に一枚かんでいない訳がないだろう。
おそらく設計にも関与しているはずだ」
心配なら、引き返して叩き斬ってくるか、と劇作家は真顔でそそのかしてくる。
「あの男はどうも気に入らない」
「まあ、気持ちはわかるよ」
「しかし、シルヴィア・レノが四十年もまえに帝国大学を卒業していたとは、な」
「あの美女を二十歳そこそこの小娘と思って抱いた奴ぁ、ぎょっとするだろうな。
正体はおばあちゃん、ときたもんだ」
嫌でもあの晩のことを思い出す。
混乱していないといえば嘘になった。
「まさかとは思うが……」
と、スターリングはじっと僕を見つめ、それから急ににやりとして、
「あんた、あの正真正銘の魔女さまに入れ込んだりしていないだろうな? え?」
僕はくだらないとばかりに顔を運河のほうへ向けた。
……この会話が、学生の交わす他愛ないものであったらどんなによかったか。
僕はダンジョンの深層で、斬りたくもない人間を斬らなければならなくなるかもしれない。
もちろんその候補にはこのスターリングも含まれているのだ。
「で、真面目な話、どうするんだ準男爵。
俺の意見を言わせてもらえるなら、計画を延期したほうがいいと思うが、……しかし、猶予がないのだろう?」
僕はしばらく黙ったあと、
「彼女がなにか企んでいると決まった訳じゃない」
「それはそうだが……」
「レノのまえでは素知らぬふりを通してくれるか」
「……ま、よかろう」
スターリングはしなだれる柳の枝先に手をのべ、感情の読めない声でそう言った。