第十二話
かつてカピトラリアという女神を祀る神殿があった丘の一帯は、現在、カピトラリア区と呼ばれていた。
恋愛の成就を願う貴族の子女がよく参拝したことから、この一帯にはファッションから雑貨にいたるまで、小洒落た高級店が集まることになった。
夕方ともなるとカネと暇をもてあました貴族や大商人の小娘どもが、世界は私のためにあるとばかりに長い髪とドレスをなびかせて、石敷きの道を颯爽と歩いているのをよく見かける。
そうして僕のような身なりの貧乏騎士がうっかり迷い込もうものなら、ファッションの最先端をゆく小娘どもから、奇異の視線をがっつり集めることになる。
あまり愉快なものではないので、僕はこの辺りにはよほどの用事でもないかぎり、近づかないようにしていた。
一方、シルヴィア・レノは通りの洒落た雰囲気によく馴染んでいる。
僕はファッションのことはよく分からないが、貴族の小娘が脚をとめてシルヴィアの歩くさまに見入ったりしているのを度々見かけるからには、その方面に意識の高い連中にとっても、シルヴィアのセンスというのはなかなかのものなのだろう。
「なんだかあなた窮屈そうな顔をしているわ」
と、シルヴィアは言う。
「こういう雰囲気の場所はあまり得意ではないんだ」
と、僕はぶっきらぼうに答える。
「もう少しだからがまんして。
そうだ、今度あたしがコーデしてあげようかしら?」
御免被る、と思ったが、口に出しては、
「……機会があれば、な」
と言った。
「もう準男爵さまなんだし、すこしはオシャレにお金を使ってもいいと思うわ」
余計なお世話だ。
「ところでマキシム、あなたナタルマさんとはその後どうなの」
「ああ……」
かつてビクターと僕のことをかぎまわっていた公安のイヌを叩き斬るときに、ダシに使った、昔なじみの女だ。
かつては大手の娼館の稼ぎ頭だったが、いまは港ちかくの穀物商の第二夫人におさまっている。
劇作家でもあるスターリングにせがまれて、いくらかその裏話をしてしまったために、戯曲となって大々的に演じられることになり、僕がナタルマとそういう関係であったことは、公然の秘密のようになっていた。
公安のイヌを叩き斬ったあと、ナタルマと一度も会わないというのも不自然なので、一二度、それなりのレストランに招待して食事をし、花束を持たせて帰らせた。
穀物商の旦那のほうも、今ではそっちの欲も枯れているらしく、自分の第二夫人が戯曲のヒロインのモデルになってむしろ得意に思っているようだった。
取引先などにも好んでその話をしているらしい。
なんにしろ、ナタルマと旦那とのあいだに、問題らしい問題は起こっていないようだった。
ナタルマのほうは、僕との情事が戯曲になって演じられたことに一抹の羞恥と隠し切れない得意を感じているらしく、食事中にもよくその話をした。
僕はとにかくナタルマが穀物商の主人から不興を買ったりしていないか、それだけが心配だったので、さりげなくご主人の商売はどうなんだと水をむけてみた。
ナタルマによると、ここ数年は穀物の価格が国際的に安定しており、その分、変動を利用して大きく儲けることはできなかったが、波風もないので、老齢の主人にとってはありがたい環境なのではないか、ということだった。
以前は、政情不安のせいでゲイルランドの収穫高が安定せず、年によって輸出国になったり輸入国になったりしたものだから、かなりの変動があったらしい。
僕はその話を聞いて意外に思った。
へえ、ここ数年は収穫が安定しているのか。
ナタルマは、そうよ、と言って、ところでそんな話のなにが面白いのかしら、という顔をした。
僕はナタルマのくちびるの端についたクリームを指ですくいとってやった。
「なにを考え込んでいるの」
と、シルヴィアが僕をのぞきこむ。
「わかった。
うまくいってないのね。
よかったら相談に乗るわよ」
「焼いたりしないのか?」
冗談めかして訊いてみると、あいかわらず年齢の推測できないその美女は通りのむこうを見やって、
「少しだけね」
と言った。
シルヴィアのセカンド・ハウスは、路地裏の演奏つきカフェの地下にあった。
といってもレンガ造りのくだり口に立てかけてある黒板を読むかぎり、事実上、美容関係を専門とする薬局となっていて、週に二日、夜半から二時間ほど営業をしていた。
扉をあけて薄暗い店舗に入ると、化粧品に特有の、あの落ち着かない匂いが漂った。
なかはだいぶ洒落たつくりになっている。
機械仕掛けのカピトラリアの像がかかげるトーチが、燭台の色とりどりのろうそくに灯火してまわると、硝子のショーウィンドウが闇からゆっくりと浮かびあがる。
きっとこの辺の小娘どもの趣味にも合うに違いない。
なかにはバスケットに盛られた石鹸やら美容クリームやらが並んでいた。
僕の知るかぎり、価格はけっして法外なものではなかった。
材料費を逆算するならば、おかしなものは入っていないと考えてもよさそうだ。
僕は手書きのポップつきの値札にざっと目を走らせて、すこしホッとした。
しかし、シルヴィアに続いてカウンターの奥からバック・ヤードに踏み入れた途端、様相が変わってきた。
瓶詰になった得体のしれないものが、棚にびっしりと並んでいる。
なにかの眼球やら、植物の根やら、小ぶりの男根やら、そんなものがシルヴィアの手にもつ燭台のひかりのなかにぼうっと浮かび上がる。
お世辞にも、いい景色とは言えなかった。
「こら、ひとのおうちをきょろきょろと見るもんじゃないわよ」
シルヴィアがふりかえって微笑む。
蝋燭のひかりのせいか、すこし妖怪じみて見えた。
「ああ、済まない。
ちょっと驚いただけだ」
女主人が突き当たりのドアを開いて、なかへ入っていく。
続いて入って、僕は唖然となった。
疲弊した髭づらに、明らかに薬物で意識を混濁させられたとわかる表情を浮かべた男が、椅子に縛り付けられていた。
「君は、男を待たせていると言ったが……」
これでは監禁していると言ったほうが正確ではないか。
「この男のためよ」
と、シルヴィアはこともなく言った。
「聴き取りをして予想もしない話が出てきたらどうするの。
あなた、口封じのために殺すつもり?
それに、この男にダンジョン管理局の人間から聞き取りを受けたという記憶を残すのは危険だと思うわ。
言ったでしょう、ジェイド・スターリングには信頼できないところがある」
僕はしばらく言葉が出なかった。
シルヴィアと一夜を過ごすことになった晩、酒を飲み過ぎて前後不覚に陥り、気づくとホテルの部屋でシルヴィアと二人きりになっていた。
僕もこのような状態だったのだろうかと思うと、かるく怒りが込み上げてきた。
しかし、その話は今すべきことではなかった。
僕は椅子をひきよせ、さりげなくシルヴィアに背後をとられない位置に据えて、座った。
「なにを投与した」
「自白剤と一種の忘却薬よ。
この男はいま、嘘をつくことができないし、あたしたちとのやり取りを記憶に留めることもできない。
安心して」
男は唇のはしから唾液をしたたらせている。
「聞いたことに答えてほしい」
「ああ……」
男はうつろな眼つきでうなづく。
「君はかつてゲイルランドで大規模な農奴の蜂起が起こったとき、反乱軍としてこれに参加したそうだが、間違いないな。
名前を教えてくれ」
「ワイエス・イクスポーロ。
ゲイルランド北部の出身で、もと士爵だ」
「私はロン・サンチャゴと聞いたけれど?」
と、シルヴィア。
「それは偽名だ」
と、イクスポーロは言った。
「俺が乗っている貿易船はゲイルランドの各地に寄港する。
本名を名乗るわけにはいかんだろう」
「ジェイド・スターリングとの関係を教えてくれ」
「あいつは!」
イクスポーロはとつぜん眼をむき、椅子に縛りつけられていることを失念しているかのように激しく身を乗り出した。
「北方の大部隊を率いていた。
俺はその副官だった。
ちくしょう、俺たちはすっかり騙されていた。
あのろくでなしめ!」
それから聴取は半時間ほど続いたが、やりとりの全てをここに記すことは省略したい。
要点をかいつまむと、スターリングは戦闘を指揮すれば抜群に巧みだったが、反乱そのものにはもともとあまり乗り気ではなかったようだ。
政府軍との大会戦においては始終山に陣取って動かず、戦の大勢が決する頃にようやく動き出して、敵軍の放置していった食料や物資を強奪した。
しかし反乱軍の本部に供出されたのはそのうちのごく一部に過ぎなかった。
スターリングの部隊が奪った食糧や物資はすべてどこかに
「煙のように」
消えてしまった。
そのような具合だったから、反乱軍の上層部はスターリングをあまり信頼していなかった。
農奴蜂起の混乱が長期化し、フィオール王国の軍事介入を招くと、腰抜けのスターリングは一も二もなく停戦を主張した。
もちろん上層部はそれをはねつけ、ゲイルランドとフィオールの連合軍に決戦を挑み、大敗した。
このときにもおいても、損害がもっとも少なかったのはスターリングの指揮する部隊だった。
これは上層部から指揮官個人の戦意の低さによるものと受け止められ、ジェイド・スターリングにむけられた感情の針は、このとき明確に、不信から憎悪へと振れた。
内乱が終息する間際になって、反乱軍は一発逆転をもくろみ、当時ゲイルランドの首都クリープに外遊していたフィオール王国の王女の拉致をこころみた。
テロである。
この計画にはスターリングも参加した。
王女の拉致には成功したが、この作戦中にスターリングはなぜか姿を消した。
イクスポーロが言うには、このときフィオール王国の宰相が王女とともにゲイルランドを訪れていたのだが、それがスターリングと同門の魔術師であった。
ふたりはフィオールの王立魔術学院の先輩・後輩の間柄だった。
スターリングは旧知であるフィオール王国の宰相に招かれて密談をかわし、王女が囚われている場所を密告したのだという。
こうして王女は王国軍の特殊部隊によって取り戻されてしまった。
次いで、首都に潜伏していた反乱軍の過激派の幹部クラスがあいついで摘発された。
これにより反乱軍は完全に瓦解し、国をゆるがす大反乱は終息にむかったのだった。
「祖国のやつらはジェイド・スターリングをいまだに英雄だと思っているが、とんでもない話だ。
あいつは国を売り、仲間を売ったんだ。
おかげで祖国ゲイルランドはいまだフィオールの属国のごとき立場を脱することができない。
悪いことはいわん、あいつを信用するのはやめておけ」
よほど悔しかったのだろう、ワイエス・イクスポーロは髭を涙とよだれまみれにして、吼えるように言った。
僕はしばらく、地下室の虚空をにらみ続けた。
そうするしかなかった。
「……それでね、マキシム」
シルヴィアは、ハンドバックをひらき、一枚のパピルス紙をとりだした。
それは行政文書の写しであるらしかった。
発行者である郵便省の印がしっかりと押してある。
「これ、海外郵送の記録なんだけど……」
僕は受け取って目を通すなり、舌打ちが洩れた。
今年に入って、ジェイド・スターリングとフィオール王国宰相ジニ・ロンドのあいだに、二度ばかり、私信の行き来があった。
このとき、まず僕が思ったのは、直属の上司にして義兄のラッセル伯のことだ。
兄貴は有能な男だ。
この程度の、調べればすぐにわかるようなことを見落とす筈がない。
しかし、あいつにはおひとよしなところがあるのも確かだった。
とくに相手が文学仲間のスターリングであったので、裏取りが甘くなった可能性はある。
シルヴィアは腕をくみ、紫に染めたネイルでトントンとやりながら、
「スターリングはああ見えてかなり強力な魔術師よ」
「ああ、それは知っている」
「念のため、計画を変更したほうがいいわ」
「だが時間がない」
僕は椅子のうえで前かがみになり、髪をかきあげ、足許の石敷きの模様をじっと見つめた。
スターリングには疑わしい点がある。
それは確かだ。
しかし、裏切りが確定した訳ではない。
戦力的にも、あの男は必要だった。
「ともかく、この件は僕が預かる。
君はスターリングに対しては普段どおりに接してくれ」
「あなたがそう言うのなら……」
シルヴィアは柳眉を寄せてうつむいた。