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幻想の夜叉  作者: 栗山大膳
永久機関
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第三話

「……気の滅入る話はこれくらいにして、仕事の話をしようか」

 ビクターは机のうえの水槽をピンと指で弾いて、

「こいつを見てくれ」


「めだかでも飼う気か」


「きみは相変わらず発想が貧弱だな。

 まるで小学生だ。

 あのな、僕はエントロピーのことを考えていたんだよ」


「エントロピー?」


「まあ、見ていたまえ」


 ビクターはインク壺のふたをとって、羽根ペンの先にインクをつけ、水槽のうえから、一滴ぽたりと垂らした。


 インクは水のなかで煙のように揺らぎ、やがてゆっくりと拡散していった。


「それがどうした」


「なあマキシム、こいつには『諸行無常』の趣きがあると思わないか?」

 ビクターは机のうえに頬杖をつき、

「自然な状態では、熱も運動も粒子も、拡散してゆくことはあっても、集まってくることはない。

 それがこの世の普遍的な法則だ。

『奢れるものは久しからず』だよ。

 言い換えれば、すべては『滅び』にむかって進んでいる。

 その逆はない」


「そんなことばっかり考えているからウツになるんだよ」


「茶化すな。

 僕は頭が痛いんだ……」


 僕は腕をひろげた。

「すまん。続けてくれ」


「きみの菊一文字だって、あの本棚に並んでいる書籍の数々だって、すべてはゆっくりと傷んでいき、しまいには朽ち果て、土に帰っていく定めだ。

 手入れをすれば多少は先延ばしにできるが、その流れを止めることはできない。それは分かるか?」


「分かるよ」


「ではなぜ、この世界は存在するんだ?」


「……ん、なんだって?」


「すべてが滅びにむかって進んでいっているとしたら、世界が存在すること自体、矛盾ではないか」


 なんだかこんがらがってきた。


「言われてみれば、そうかもしれないが……」


「あるいは、この世界は滅びにむかう過程における、いっときの夢なのかもしれない。

 しかしそれでも、エントロピーに逆行するなんらかの『力』がなければ、この世界は存在しえなかったはずだ。

 ……僕が考えていたのは、それは一体なにか、ということだよ」


「話が見えないな」

 僕はカウチの背にもたれ、黒髪をかきながら言った。


「……君は、《永久機関》が成立しうると思うかい」


「ああ、《日本》でのことを思い出すよ。

 ドクター・ボンバイエがそんなものを発明したとかなんとか言って、マスコミを集めていたが。あれは結局、どうなったんだ」


「猪木と中松をごっちゃにするのはやめたまえ……」


「すまん、なにしろ遠い昔のことで……。

 ビクター、そんなに怒ることはないだろう。

 まあ座れよ」


 かれはしぶしぶという感じであげた腰をおろし、

「……まあ、あれだけ科学の発達していた日本において、《永久機関》がただのイロモノに過ぎなかったのは確かだ。

 あるいは、スチーム・パンクのモチーフのひとつだな。

 つまり、まったくのフィクションさ。

 なぜなら、エントロピーの法則があるからね。

 運動量は拡散していくことはあっても、集まってくることはない。

 だから古典物理学の枠組みのなかでは、《永久機関》など絶対に成立しえない」


 ところが。

 ビクターは机に肘をのせて、身を乗り出し、


「……驚くべきことに、我が国の研究機関の錬金術師たちが、《永久機関》の開発に成功しつつあるらしい」


「ボンバイエ中松が聞いたらきっと驚くな」


「茶化すなと言っている」


 ビクターの目つきが殺伐としてきた。


 僕はちいさな声で、

「すまん……」

 と言った。


「わかればいい――」

 かれはむすっとした顔つきで椅子にもたれ、

「僕は魔法のことならいちおう分かるが、あいにく錬金術のことはまったく分からない。

 これでは仕事に差し支える。

 それでさっき、シルヴィア・レノ女史から緊急に講義を受けていたという訳だ」


「それで、理解できたのか」


 ビクターは視線を床の一点にすえて、しばらく黙っていたが、やがておもむろに口をひらいた。


「……この世界がエントロピーの法則に逆らってここまで発展したのはなぜか。

 それは《欲望》のおかげなのだろうと思う。

 生き物のもっと喰いたい、そのためにもっと効率よくほかの生き物を殺したいという欲求からもろもろの進化が起こった。

 人間のもっと楽をしたい、快適に暮らしたいという欲求から科学が発達し、文明が発展した」


「ふむ……」


「欲望というやつは残酷なものでな」

 ビクターは、頭痛のためか、深い思考のためか、ややうつろな眼つきで宙を見上げて、

「ひとは欲望を遂げようとするときに、他者を傷つけ、罪を犯すんだ」


 きっとかれはいま、リリィのことを考えているのだろう。


 僕はといえば、あの美しい年齢不詳の女錬金術師のことを思っていた。


「欲望とは、言ってみれば鬼みたいなものさ」

 と、ビクター。

「残酷ではあるけれど、他方、悲しいものでもある。

 ……むかし読んだ小説に、こんなことが書いてあった。

 人間に詩を詠ませたり絵を描かせたり、唄を歌わせたりするのは、『鬼』だ、だからひとのなかの『鬼』を殺したら、芸術は死に絶えてしまうだろうと。

 ……こう言うとわかりにくいかもしれないが、『鬼』を『欲望』に置き換えてみたまえ。

 じつに明瞭になる」


 僕は腕を組み、唸った。


 かれは続ける。


「『鬼』は、この世界で言うならば、魔物とか、悪魔とかということになるだろう。

 つまりだ、摂理としてのエントロピーに逆らいうる唯一の存在、それは魔物である、ということだよ。

 魔物のちからをもってエントロピーを打破することができれば、あるいは《永久機関》の実現は不可能ではないかもしれない。

 ……レノ女史が僕に説明してくれたことを、わかりやすく整理すると、つまり、そういうことだ」

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