第二話
彼女とは頻繁に顔をあわせるが、仕事の話のほかには、同僚どうしの雑談の範囲を超えるものはなかった。
が、このあいだビクターに呼ばれてそのオフィスにむかう途中、ちょうどオフィスから出てくるシルヴィアと鉢合わせたときには、彼女はあいかわらず年齢の推測できない美人然とした笑みを浮かべて、僕の胸元についた糸くずをとり、
「おめでとう、ヴォイド『準男爵』」
と言った。
雨の降りしきる、肌寒い午後のことだった。
入れ違いにビクターのオフィスに入ると、季節性のシリアス・モードに入った主任捜査官殿は、水をはった硝子製の水槽をデスクのうえに置き、それを腕をくんで凝視していた。
「聞いただろう、色男――」
と、ビクターは水槽から眼を逸らさずに言った。
「叙勲式は来月、宮殿の謁見の間で行われる。
皇帝陛下手ずから書状と銀のシグネット・リング(指輪印章)を下賜してくださるが、このとき、古代キュローヴ語でもって御礼を申し上げねばならん。
ほかの者と重複した挨拶をすると大変な失礼にあたるから、いくつかの言い回しを用意しておくんだぞ」
「これだから出世はいやなんだ」
と、僕は言いながら、ビクターが勧める先から客用のカウチに腰をおろした。
「もう決定なのか」
かれは重々しくうなづき、
「という訳で、慣例により、きみは本日からマキシム・ヴォイド準男爵だ。
……そんなに厭そうな顔をするな。
貴族に列せられるのは男爵からで、きみはまだ騎士階級だ。
男爵髭を生やさなければならない訳でもないのは、僕を見ればわかるだろう。
準男爵の響きがいやなら上級騎士とでも名乗っておけ。
俸給だってガッツリあがる。
悪い話ではあるまい」
「あれはカルディオネの手柄だぞ。
なにが悲しくて後輩の手柄を横取りしなきゃならん」
「……マキシム、いいから受けろ」
ビクターは顔をあげて、やや疲れたような眼で、僕をまっすぐに見た。
「きみにはいずれ、子爵以上になってもらわないと困る。
帝国に十二ある軍団のひとつを指揮する将軍になるためには、子爵以上の爵位が必要だ」
僕は眼をほそめた。
「ビクター……なにを企んでいる」
「いまは言えない」
「親友の僕にも、か」
「そうだ」
「わかったよ――」
僕は腕をひろげた。
「ならば聞くまい。兄上の仰せのとおり、準男爵を拝命つかまつるといたしましょう」
「……すまないな」
それからビクターは、顔をしかめながら紙の薬包をほどき、口にいれてコップの水でながしこんだ。
「あいかわらず、痛むのか」
「なに、たいしたことはないよ」
かれは辛そうにゆっくりと息を吐いて、
「ところで、うちのリリィがおたくさまに迷惑をかけていないか」
「ああ、なにも問題ない。
ビクターんとこの屋敷からお手伝いさんが来てくれて、かえって助かっているくらいだ。
怪獣娘は元気にやっているよ」
「小動物を……いじめたりしていないか」
「うちに来た日に、おおきな蜘蛛にすこしいたずらをしたが、そのあとはとくにない」
「そうか……いや、こないだ、つい声を荒げてしまってな」
「ああ、シオン殿から聞いた」
「あの子を引き取ったときに覚悟を決めておいたつもりだったが……ちゃんと育てられるのか、自信がなくなってきたよ」
ビクターはやや眼を赤くして、雨の降りしきる窓のほうを見やった。
「僕はどうやら、魔物の血というものを甘く考えすぎていたようだ。
……だって、悲しすぎるよ。
小鳥や蛙だって生きているんだ。
その腹を裂いてなにが面白いのか。
あの子はいつか、人間の腹を裂きはじめるのではないかと思うと……僕は恐ろしくて仕方がない」
「ビクター、あの子を変えようと思うな。
リリィが小動物をいたぶって面白く思うのは仕方のないことだ。
だが、あの子のちいさな胸のなかには、それにも劣らない体温がある。
優しさがある。
そう信じるんだ」
ビクターはかすかに微笑んで、
「そうだな……そうしよう」
それから大きくため息をつき、
「だがマキシム、僕は父親としての責任から逃げるつもりはないよ。
リリィがひとに害をなす毒婦になってしまったら、僕はこの手で彼女を殺し、僕自身も死ぬ。
……そのときは、ラッセル伯爵家のことを、よろしく頼む」
「そう物事を詰めて考えるなよ。
なにもかもうまくいくさ。
心配するな」
ビクターは恨めしげに窓から灰色の空を見上げて、
「……はやく雨季が終わればいいんだが」
「そうだな」