第十話
歯を食いしばりながら、手探りに近い状態でダンジョンの闇を歩いていると、遠くに無数の松明の光が見えた。
そのオレンジに輝く輪のなかに、血まみれの女剣士がいる。
泣きながらリザード・マンと戦っていた。
――間違いない、ラミア・カルディオネだ。
僕は息をひそめてリザード・マンどもの背後に迫り、ほとんど音も立てずに七匹のリザード・マンを斬り散らした。
ラミアのほうも顔にながれおちてくる血を拭いながら、《暁の雲》を振り回してなんとか二匹を仕留めて、数匹の手負いのリザード・マンが走って逃げてゆくと、ラミアはその場に膝をついて泣き出した。
よほど、怖かったものと見える。
武官の制服はぼろぼろで、全身生傷だらけだった。
僕は背中の痛みに顔をしかめながら、
「生きていてよかった。さあ、戻ろう」
と、声をかけた。
彼女は泣きながら、黒髪を揺らして首を振った。
「……いい加減にしないと、怒るぞ」
「わたし、なんにもわかっていなかった……」
とつぜん、ラミアが言った。
「なに?」
「やっと、気付いたんです。魔剣を腰に佩くということの意味に」
ラミアは、涙と血でぐちゃぐちゃになった顔をあげて、子供っぽく微笑んだ。
「わたしはこの《暁の雲》と、一緒に戦ってきました。
わたしにとっては、もう、かけがえのない親友みたいなものなんです。
……わたしはこの剣が大好き」
「………」
「ヴォイドさんもご存じだと思いますが、この剣はかつて、蛮族の勇者ゲネスが佩いていたものでした。
ゲネスは野蛮でおばかだったけれど、とても気のいい、勇敢なひとだったんです。
そう、まるでこの剣みたいに……」
ラミアは魔物の血にまみれた《暁の雲》を自分の服でていねいに拭い、その肌にいとおしげに頬をあてた。
「ゲネスは、神聖歴七三一年の夏、リザード・マンの君主、ガガーマンと戦って敗れ、死にました。
でもゲネスは野蛮でおばかだから、負けたとは思っていないのです。
アイツを絶対にぶっ倒してやると、もう百年いじょうも……執念を燃やし続けているんです」
ラミアはたちあがって、しっかりとした手つきで、剣を構えた。
「わたしはゲネスが大好き。
だから、かれと一緒に……ガガーマンを倒しにゆきます」
どうやら、僕のほうこそ、魔剣のなんたるかをよく分かっていなかったようだ。
二十歳まえの小娘に、剣のことを教えられるとは。
思わす、苦笑いがこぼれた。
「そうか……」
僕は背中の激痛をなんとか噛み殺して、
「そういうことなら、僕も手を貸す」
「いいのですか……?」
「気に入ったよ、そのゲネスという蛮族の戦士が」
背後で、リザード・マンの爪が地を踏む特徴的な音がした。
ふりかえると、ローブをまとったひときわ大きなリザード・マンが、手下を引き連れて、黄色い瞳をこちらに向けていた。
ラミアの手のなかで、《暁の雲》がざわつくのが分かった。
「あれがリザード・マンの君主ガガーマンか……」
「気をつけてください」
と、ラミア。
「ガガーマンは幻術を使うそうです。
ゲネスが、そう言ってる……」
やれやれ、幻術か。
そう言っているそばから、ガガーマンとその眷属たちの輪郭がぐらぐらと歪み、煙みたいに消えた。
多分、蛮族の戦士ゲネスも、この術にやられたのだろう。
それで負けを認められないでいるのだ。
気持ちは分かる。
僕もビクターに幻術をかけられて、どうにも釈然としなかったものだ。
しかし、幻術というのは現にある。
はまったら終わり、あとは敵のいいようにやられるだけ。
背にもう一本、矢がつきたった。
こんどは当たりどころが悪かったらしく、出血がひどい。
あっという間に背中から尻までぬめってきた。
もはや無の境地に至って術を破るか、このまま殺されるか、ふたつにひとつだろう。
また、矢が刺さった。
さいわい、腕ではない。
まだ刀を振るうことはできる。
……どこを狙っている、下手くそめ。
やせ我慢でも、そんなふうに開き直ると、心が落ちついてきた。
と、思った瞬間、右手がひとりでに躍動した。
キン、キン、キンと鉈で枝を払うような音が四方に散って、足許にパラパラと切断された矢が落ちた。
――無想剣だ。
ということは、僕はほんの一瞬でも無の境地に至ったのだろうか。
顔をあげると、ガガーマンと複数のリザード・マンのすがたがはっきりと見えた。
幻術、見破ったり。
僕は猛然と駆けて、ロング・ボウごとリザード・マンを切断してまわった。
ダンジョンの薄闇に血煙がたち、魔物の叫喚が空気をぴりぴりと震わせる。
僕はほとんど痛みを忘れて、ガガーマンに斬りかかった。
まずは呪文を封じるために頬から口にかけて斬りつけ、武器を扱わせないために右腕の腱を断った。
が、とどめをさすほど野暮な僕ではない。
ふりかえって、大声でよばわった。
「カルディオネ、ゲネス、いまだ、やれ!」
そうして、あっと思った。
ラミアの細い身体に、何本もの矢がつきたっていた。
あれではとてもではないが、剣は振るえない。
それどころか、立っていることすら難しいだろう。
僕は舌打ちをして、彼女に駆け寄り、《暁の雲》を引き受けて、かわりにガガーマンの胸を貫いてやる気になった。
が、ラミアは凄まじい眼つきでそれを拒み、一歩、一歩、よろけながら前にすすもうとする。
他方、ガガーマンは背をむけて逃げようとしていた。
僕はそれに背後から迫って、脚の腱をずたずたにした。
そうして、懸命にラミアを励ました。
どうせ、やめろといってもやめはしない。
死ぬまでやめはしないのだ。
彼女は騎士であり、もとより死を覚悟している。
命がけで、ゲネスと共に、ガガーマンを討ち取るつもりでいる。
だったら、やり遂げさせるしかない。
ラミアの足許には、大きな血だまりができていた。
膝が震えている。
顔は青褪めて、眼つきはうつろだった。
僕は祈るような気持ちで、ラミアを激励した。
「頑張れ、あと数歩だ!
殺せ!
おまえの友に勝利を掴ませてやれ!
百年の宿願を遂げさせてやるんだ!」
僕にしても、実際のところ、ひとのことをどうこう言っている場合ではなかった。
背中には三本の矢が刺さり、出血がひどく、目が霞みはじめていた。
ただでさえ薄暗いダンジョンが、すっかり闇に埋もれつつある。
崖のうえの戦場から射してくる、淡い光だけが頼りだった。
ラミアは、幽鬼のようによろめきながら、少しずつまえに進み、そうして剣を逆手に握り、倒れ込むようにして、ガガーマンの胸に深々と刺し込んだ。
「オノレ……」
ガガーマンは裂かれた口をうごめかせて、怨念のこもった耳障りな声をあげ、なにやら喚きちらしたが、すぐに動かなくなった。
やった、よくやったぞ。
僕は思わず、大声で叫んでいた。
僕はそのとき、ダンジョンの虚空に、天を仰いで咆哮をあげる、蛮族の勇者のすがたを幻視した。
魔物の頭蓋骨を抉ってつくったマスクの下から、歓喜の涙が滴り落ちている。
カルディオネ、よくがんばった、あとは僕に任せておけ。
死なせはしないからな。
歯をくいしばって、意識を失ったラミアを肩にかつぎ、崖のうえのひかりをめざして、ゆっくりと歩いた。
すぐに、後を追ってきた小部隊の連中が僕たちに気づいてくれた。
医僧の指示で、応急処置が始まる。
鏃を抉りだすときに思ったとおりの激痛が走った。
もうろうとする意識が、切り裂かれるようだった。
やがて、回復魔法の緑色のひかりが、蛍みたいにじんわりと明滅して、身体にすこしずつ力がみなぎってきた。
ふと、隣を見ると、ラミアの細い身体は、包帯でほとんど覆われていた。
彼女は眼を覚まさなかったけれど、近衛軍団付の医僧――かれはウルヴァンと名乗った――は、命に別状がないことを請け負ってくれた。
普請途中の砦のまえは、幾百というリザード・マンの死骸であふれていた。
砦の篝火のまわりでは、重々しい甲冑をまとった近衛軍団の精鋭たちと、軽装の冒険者たちと、制服のダンジョン管理局の武官たちが入り乱れて、勝ち鬨をあげている。
どの顔にも、安堵と喜びのいろがあった。
ウルヴァンが言うには、ラッセル伯爵が援軍を率いて駆けつけてから形勢はいっきに逆転したらしい。
そうして、伯爵は各部隊に矢継ぎ早に指示をだし、まるでお手本のような包囲殲滅戦を展開して、圧縮されて身動きのとれなくなったリザード・マンどもを、一匹残らず奈落の底へ送り返したということだった。
ふと見上げると、ビクターが崖のうえから戦場を見渡し、鬨をつくる兵士たちのうえから、はっはっは、あーっはっはっは、と勝利の高笑いをあたりに響かせていた。
僕はこの軍事的才能にあふれた義兄弟を誇りに思って然るべきなのだろうか、身内としてどうにも恥ずかしく感じてしまうのはなぜだろう。
いまだによく分からない。
第二章完結です。
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