第一話
副業というほどのものではないけれど、ときおり帝都の刀剣商から、所蔵する品物のよしあしについて意見を求められることがあった。
僕に剣術のいろはを教えてくれた祖父は、人を斬ったことのないものには剣のことなどなにも分からない、というのを持論にしていた。
僕は人を殺したことがあろうがなかろうが剣術は剣術であり、力量のある者が力量のない者から一本取るまでだと思っているけれども、こと剣のよしあしを見る眼に関しては、たしかに、人を斬ったことのない者には、剣の理屈をこえた玄妙な部分を理解するのは難しいだろうと思う。
まず、刀剣を美術品と思っている者は論外だ。
機能性ではかるべきものを美醜で論じては剣に対してはなはだ無礼であろう。
剣はひとごろしのための道具である。
それ以上でもそれ以下でもない。
むろん地金の曇りかたや澄みかた、色合い、刃の吸いつくような感じなどから、剣の「出来」の良し悪しは分かる。
しかし、「出来」のいい剣が必ずしもよい剣とは限らない。
うまく説明できないのだが、剣には鍛冶職人のこころみたいなものが焼き付けられているように思える。
日本の刀鍛冶は、鍛冶を神事と心得ていた。
槌のひとふり、ひとふりに魂を込める。
それが地金にしみ込んでいって、刀の本質を練り上げ、剣術つかいの技量とあいまって、奇跡的な切れ味を生む――こういうのは、剣と生死を共にしたことのない者にはなかなか分からないかもしれない。
名工が打ったとされる刀が案外斬れず、すぐに折れたり曲がったりすることもあれば、一見ど素人が仕上げたとしか思えない肌のきたない蛮刀がズバズバ切れてしかも長持ちすることがある。
ながく人を斬っていると、剣を持った瞬間にそういうことが分かるようになってくる。
むろん鋼鉄の質が悪かったり、製作者の技量がなってないのは問題外として、剣には、鍛冶職人の執念だとか、それを戦場で振るってきた戦士の闘志だとか、殺された者の怨念だとかが、蓄積されてゆくものらしいのである。
それが剣の物質以上の部分をかたちづくっている。剣のほんとうの良し悪しは、ここを見ないとけっして分からないだろう。
僕は迷信家と言われようと、世の鑑定家が付ける評価よりも、自分の持った感覚を優先して剣を選ぶ。
なぜなら、剣が折れたり曲がったりしたとき、それがいつの時代のなんという名工が鍛えた高額な名剣なのだと言ったところで、なんの足しにもならないからだ。
生き死にの責任は、結局自分で負うほかにない。
ひととおなじで、相性やめぐりあわせというものもある。
そういうことは他人には決して判断してもらえないし、またしてもらうべきでもない。
こういう天の配剤が、なんの変哲もない剣を名剣にすることもあれば、その名剣を魔剣に変えることもある。
実際のところ、魔剣というものは確かに存在する。
それを腰に帯びているだけでひとを殺したくなってきたり、枕元に立てかけておくと必ず悪夢を見るような剣が、あるのだ。
持ち主を死地に導かずにはおかない不吉な剣もあるし、所蔵するひとを没落させる貧乏神のような剣もある。
刀剣商は経験からそのことをよく知っている。
が、かれらは人殺しではない。
由来や故実、世界各地の剣の製造法には精通していても、じっさいに剣を手にとって命がけの戦いをしたことのある者はほとんどいない。
それで、そういう経験を積んだ剣士に、吉とも凶とも判じかねるいわくありげな剣を見せて意見を求めるのである。
いきなりタイトルが変わるかもしれませんが、気にしないで下さい。