第一話
いちいち歳など数えてはいないけれど、僕が異世界に来たのは、もう一〇年以上も前のことになるのではないだろうか。
いずれにせよ、だいぶまえのことなので、どういう経緯でこっちに来ることになったのか、記憶を詳細にたどることができない。
それどころか、近頃では、自分がほんとうに西暦二〇〇〇年代の日本という国にいたのか、あれはただの妄想と記憶の混線にすぎないのではないか、という気さえしている。
それでも「国語の授業」で「暗記」させられた、祇園精舎の鐘の声云々だの、奥山に紅葉ふみわけ云々だのといった古典の断片を、ときどき意味もなく諳んじたりすることがある。
するとかつて存在していた「日本」の、夏の夜の軒先いっぱいに散る花火だとか、コーンのうえに白く渦をえがくジェラードだとかが、まぶたの裏にはっきりと浮かんでくる。
けれども、それらが、僕の想像力が暴走したあげくに偽装された記憶、ただの幻影なんかではないと確実に証拠だてられるようなものは、なにもないのだった。
あのころ僕がまだ一〇代前半であったことはたぶん確かで、ひとをひとり殺して、内的にも外的にも混乱の渦のなかにあった。
こっちの世界ではひとが当たり前のように死ぬし、人々はそれが身内や友人でもないかぎりいちいち重く受け止めたりはしないが、むこうの世界――日本では、ひとがひとり死ぬというのは一大事だった。
しかも、それが殺人ともなると、尋常ではない騒ぎになる。さらに、その殺人に未成年が絡んだりすれば、驚天動地の事柄として扱われた。僕はその当事者になった。
ひとを殺したことについて、確たる恨みや憎しみがあった訳ではない。
殺さねばならぬと思った。
だから殺した。
僕は室町のころから続く剣術の宗家に生まれ、幼いころより祖父から厳しい指導を受けた。
が、けっしてスパルタ方式ではなく、祖父は僕に剣士としての背中を見せて感化するという方法を執った。
祖父が聡明な人であったかどうかについて僕はあまり考えたくないが、「分かっている」人ではあったと思う。
僕は祖父の筋骨隆々たる傷だらけの背中を見て育った。それは確かなことだった。
祖父は若いころ、戦場カメラマンとしてベトナム戦争を取材した。
背中の傷はそのときに受けたらしい。
南部経由ではなく内陸経由でベトナムに入った。
つまり、アメリカ軍の側からではなくベトナム人の側から取材したのだ。
ゲリラ兵にまじってジャンクルに息をひそめ、サバイバル・ナイフ一本でアメリカ兵を殺しまくった。
むろんこれはのちになって分かったことで、祖父は、幼い僕がいっしょに風呂に入るたびにおじいちゃんその傷どうしたのと尋ねても、笑ってはぐらかすばかりだった。
祖父がアメリカ兵を殺しまくったことを僕に教えてくれたのは、たしか一〇代前半の誕生日のことだった。
祖父はその年齢を昌晴(僕の名である)の元服の歳と決めていて、ひと振りの日本刀と銃刀類登録証を贈ってくれた。
世間はともかく、これからおまえは一人前と心得ろ、と祖父は重々しく言った。おまえはいずれ宗家を継ぐが、それまでに人を斬らねばならぬ。
人を斬ったことのない剣士は女にたとえれば生娘のようなものだ。
剣の大切なことはなにも分からぬ。
だから折を見てひとを斬れ。この刀で斬れ。
いうまでもないが善人はけっして斬るな、悪人をやれ。そやつを斬れば多くのひとを救えると思えるような者を見たら、躊躇わずに斬れ。
それが祖父の教えだった。
日本という社会において、それは許されざることだ。
ところが僕は、祖父の話を至極当然のこととして受け止めた。
違和感のかけらも抱かなかった。
それほど、祖父の背中は僕をつよく感化していたものと見える。
そうしてある夜、僕は、となりの学区の中学でとある男子生徒をいじめ自殺に追い込んだ少年に、いじめの有無を三度確認したうえで、斬りかかった。
凄惨な殺人になった。
行間をかっちり詰めて下書きしましたが、さすがに読んでもらえないかと思って行間をあけてみました。