7.天邪鬼、友達になる
夏の始まりを告げるセミの鳴き声が早朝から響いていた。
ケインの知る限り、セミの鳴き声はケインの住むナフレから随分と離れた南の森からするのだが、薫子だった世界のセミとは違って体長50センチはあろうかという小型の魔物だった。
たまたまなのだろうが、この世界の言葉でもセミと名付けられ、似たようなミンミンという五月蝿い鳴き声を持っているようで、一目見てみたいと密かに思っていた。
まだ4歳のケインにとって、小型の魔物であろうと脅威になることもあって、それは未だ叶わぬ夢である。
ケインは幾分筋肉質になった身体を転生前の体操で丁寧にほぐすと、毎日の日課であるランニングを始めた。
ブンという低い唸りに似た音を立てて、血塗られたような深紅の壁の部屋は拡張された。
12畳ほどだった部屋はまるで大きな会議室ほどの広さになると、その壁の動きを止めた。
薫子にマグリットと名付けられた神は、壁と同じ色の事務机に設えられた深紅の椅子に、濡れた黒髪と同じ黒いドレスをまとって俯き加減に座ったまま様子を窺った。
突如、黒いムートンの敷き詰められた床の上に、マグリットの深紅の机と同じ大きさの机が姿を現す。輝く太陽の下であればきっと目に痛いであろう黄色に染まった事務机だった。
「悪趣味ね」
俯いたままの黒い前髪越しに見やって、マグリットはぼそりと呟く。
「名無し! あんた、勇者を跳ばしたね?」
黄色の机の主であろう派手な黄緑のスーツを着た女──神のひとりが開口一番にそう言った。濃く長い金髪を高い位置でポニーテールに纏め、いかり肩の張り出したAラインのタイトスーツはキャリアウーマンを彷彿とさせる。スーツの胸元は大きく開いて、開襟のブラウスからはこぼれそうな柔肌がこれ見よがしに覗いている。
「エクレイア。残念ですが、もう“名無し”ではありません。マグリットです」
マグリットは顔を上げ、その深い青黒い瞳で目の前に現れたもうひとりの神エクレイアの淡い緑の瞳を見据えた。
エクレイアは苦虫を噛み潰した表情をして、蔑むような視線でマグリットを見据え返した。
「あんたに名前をつけるような変わり者がいたとはね。驚きだわ」
ありえないとでもいう風に、エクレイアは手のひらを上に向けた両手を肩の高さに上げるジェスチャーをしてみせる。
「さらに驚きなのは、あたしたちのステージに、あんたが介入したことよ! いったい誰の差し金かしらぁ?」
「アリエンテよ」
抑揚なく即答するマグリットに、エクレイアは一瞬の間を置いた。
「誰よ?」
険しい顔つきで低くゆっくりと訊ねる。
「アリエンテよ。わたしたちの神」
「はっ! あいつにまで名前を与えたの? そういうことね。介入どころか加護まで使えるってことよね。やってくれるじゃないのさ」
「加護は偶然。介入したのが先よ」
「どっちにしたって邪魔する気なんじゃないのさ!」
エクレイアは語気を強めると、片手の手のひらで自分の事務机の天板をばんっと叩く。
「邪魔などしてない」
感情的になっているエクレイアと違い、変わらぬ抑揚のなさでマグリットは反論する。
「このままでは別の世界と同様に崩壊します。パラレルの正常な軌道修正が必要なのです。あなた方が、わたしの介入できる人物が産まれぬように細工したことも分かっています」
細工と聞いて、エクレイアは心当たりを突かれた顔でたじろいだ。ばれるはずがないと思っていたのであろうことが、泳いだ視線から見て取れた。
マグリットは音もなく立ち上がって右手を前に突き出す。
そして横に払いながら、言い捨てた。
「退去なさい。此処はわたしマグリットの城です」
エクレイアは居丈高に現れた時と打って変わって、畏れ慄いてたちどころに消えた。
マグリットの城は再びその間取りを小さく、深紅と漆黒の調和を取り戻した。
ケインがいつもと同じ商店街の通りを一定のペースで走っていると、店のひとつの軒先に同じ年齢くらいの少年が立っていた。
ただ立っているだけなら気にも留めずに走り抜けるのだが、その少年は何故かケインを呼び止めてきた。
「おい、おまえ!」
声変わりのしてない少女のような高い声は騒がしい商店街でもよく通る。
ケインは足を止めて軒先の少年を見た。
赤毛の長髪の少年は高価そうな服を着こなし、店の軒先からケインのもとまで歩み寄ってきた。すでに整った顔立ちで、色素の薄い肌は赤みが差している。
近づいてきた少年は乱暴な口調で言う。
「おまえ、この辺にすんでるのか?」
「おまえじゃない。ケインだ」
「生意気だぞ!」
少年は唐突にケインの肩を平手で突き飛ばしてきた。
普通の4歳児なら間違いなく倒れていただろうが、ケインは毎日のランニングのおかげで足腰が強くなっていた。太らないためにと始めた日課だが、確実に身体は鍛えられている。
ケインは半歩下がっただけでそれを耐えることができた。
何の前触れもなく突き飛ばされたのは、さすがに精神的に大人のケインでもむかついた。それなりに手加減はしたが、やられたことをそのままやり返す。
果たして、その少年は尻餅をついた。
少年はじわりと目に涙を浮かべてケインを見上げたが、
「や、やるじゃないか。友達になってやってもいいぞ」
と、涙目でぎこちない笑みを作ってみせる。
『あぁ、天邪鬼か……』
ケインはそう感じ取って、少年に手を差し伸べて助け起こした。
「悪かったな」
と、ケインが言えば
「どうってことないよ。僕はいつか大物になるんだから」
と強がって見せた。
ケインは薫子だったころに友達なんて呼べる間柄の知り合いなんかいなかったから、どう接していいのかも予想もつかなかった。とりあえずお互いの自己紹介でもしたらいいのかなと軽く考えることにした。
「大物になるなら名前くらい教えてよ。俺はロンケイン・ベルリアルだ」
「グシュタワ・アテフ。そこの“アテフの服屋”のこどもだ。うちの店は伯爵様のところにも作ってるからすごいんだぞ」
グシュタワは大きく胸を反らして自慢したが、ケインは冷ややかに『それはおまえの親がすごいだけじゃん』と思っただけだった。
「僕も将来はえらくなって伯爵様みたいな貴族になるんだ」
さらにグシュタワは大きく目を輝かせて夢を語ったが、ケインは冷静に『貴族は基本世襲だから平民はよっぽどじゃないとなることができないよ』と心の中だけに留めた。
「そうだ。ケインって“両替”のベルリアルのとこなのか?」
「うん。そうだよ」
「そうか。まぁ、僕が貴族になったら、使用人として使ってやるから安心しろよ」
まだ4歳くらいのこどもの戯言だ、とケインは拳を握り締めて我慢するしかなかった。
「いい遊び場を知ってるんだ。ついてこいよ」
グシュタワは返事も聞かずに駆け出して、遠くから聞こえるセミの鳴き声の中、ケインはその少年の背中を追った。