5.転生し、迷子になる
少年はひどい頭痛に襲われていた。
目の前には黄土色に乾いた地面が見え、ぱたぱたと脂汗や涙の落ちるシミが滲んだ。
頭の中はいろんな感情や情報が渦巻き、ガチャガチャと音を立ててどこかに嵌り整理されていく感覚がする。4歳になったばかりの脳にとって30年の記憶が蘇るのはひどく苦しいものだと他人事のように感じた。
「なんで……?」
なぜ30年の記憶だと理解しているんだろう。
疑問を持つとそれを肯定する答えが現れる。
「あぁ、転生したんだっけ……」
富山薫子は新しい人生の主役である少年、ロンケイン・ベルリアルであることを自覚した。
脳内がピンと音を立てるように晴れて、自覚が整合性を得た。
まだぼやける視界に壁を見つけ、うまく動かない両手両足で這い寄る。壁に背中を預けるように体勢を変えて、空を見上げた。
ここ数日の記憶は問題なく鮮明に思い出せる。
この世界の両親の顔も名前も一致する。
富山薫子だった世界の両親も思い出せた。
「4年経ったのか」
インターネットでたまたま見つけた脳の成長の記事では、4歳までに脳の80%が完成するとグラフつきで説明されていた。たぶん、転生前の記憶を呼び起こすのに、その程度に脳が成長しなければ耐えられないために封印されていたのではないかと予想してみる。そうでなければ先ほどまでの頭が割れそうなほどの痛みは説明できない。そういうものであると思うことで痛みがやわらぐのであれば、整合性を取らなければ人格を維持できないのかも知れない。
転生前の世界で読んだラノベでは難なく人格の入れ替えが当たり前のように行われていたと言うのに、妙なところでリアリティがあるものだと神を恨んだ。
神といえば、2人の神様がいたっけ、と思い出す。
3つの願いのうち2つしか叶えなかった神アリエンテも大概だが、まな板おっぱいの2人目の神マグリットも大概だった。
『転生を行う前に、あなたには女神の加護を行使できる権利が付与されます』
そう説明をすると、薫子の目の前によく見知った“さいころ”と呼ばれる道具が現れた。真っ赤に染まった四角い六面体の各面に黒い星が1個から6個まで刻まれている。
『転生先でわたしマグリットの支援が必要になることもありましょう。賽を振りなさい。その出た目に応じた回数だけ助力いたしましょう』
あまりにも適当である。
半ばやけくそになって振った“さいころ”の出目は4を示していた。
幸先の悪い数字だった。
『では、4度加護を行使できることを覚えておいてください。富山薫子を、わたしマグリットの名に置いて転生を行います。よろしいですね?』
よいもなにも、言い終わるが早いか突然送り出してくれた。
その結果がこれだ。
とにかく今は30才プラスアルファの富山薫子ではなく、4歳児のロンケイン・ベルリアルだ。
ここがどこなのかも理解できているし、帰り道も覚えている。
当然4歳児の記憶なので、ナフレという名前の街だということしか分からないが。
「俺ってこんなに適当な子どもだったんだなぁ……」
改めて映像でしか記憶されてない帰り道を整理しつつ空を見上げた。
グモルドア伯領にある交易中継都市として名高いナフレは、グモルドア伯爵直下のアザイ男爵によって治められていた。
治められていたといっても、権限はわずかに裁判長と税収官でしかなく、自治権そのものは市民の手に託されていた。市民は各都市に倣うように街区を十二の地域に分けて、各地域でヴェルマと呼ばれる警備兵を募ることで様々な面倒事に対処させていた。
ヴェルマは“12”を意味するトゥエトと呼ばれる者を隊長に、地域ごとに十人前後がその役務についている。トゥエトは男爵の権限の補佐も兼ねているため、各地域から一人が選出される習わしになっていて、地域の住民からは良くも悪くも特別な存在として認知されていた。
当然、ロンケイン・ベルリアル──ケインの住んでいる街区にもヴェルマは存在し、案の定迷子になったケインを救ってくれたのは顔馴染みのヴェルマであった。
そのヴェルマは、ケインの家の左3軒隣にある雑貨屋の四男、名をコーチ・ハザウェイという20歳になる青年だった。彼は家業を継ぐような心配もない立場で毎日遊んで暮らすのも忍びないのと、トゥエトの地位に憧れてヴェルマに志願した。そういった性格上なのか役務に対して実直で、ケインがおそらく迷子になっていることに気づいて声をかけてきたのだった。
4歳児の記憶でも近所の顔馴染みは覚えていたようで、薫子はケインとしてヴェルマのコーチに怪しまれぬように接することができていた。
おかげで自宅に送ってもらう間の雑談がてらに、自治の性質を知ることもできたのだった。
ちょうど話が終わることにはケインの自宅兼父親の店の看板が見えてきた。
「コーチ兄ちゃんもはやくトゥエトになって、俺のこと贔屓してね」
ケインはできるだけ幼さを演出するように言った。
「生意気なことを言うんじゃないよ」
と、ヴェルマのコーチは笑った。美男子ではないが、そばかすの浮いた頬の愛嬌のある顔は、どこかしら優男の雰囲気を醸し出していた。
ケインは道すがら金属やガラスなど、鏡面の代わりになるものを見つけては自分の顔を映すことで、コートと同じように栗色の髪を有する外見だということも把握していた。道行く人も栗色の髪色が多く見かけられ、髪色が違えばほぼ余所者なのだろうと推測することも容易だった。
『まずはこの異世界のことを片っ端から調べよう』
ケインはコーチとの雑談からやるべきことを見つけ、軽やかな足取りで自宅へと駆け出した。