3.神の名、マグリットとなる
神と名乗ったモノは小さく頷いた。
長い金髪が揺らめき、猫のように切れ上がった目を細めて薫子を見据えた。汚物を見るような視線に慣れていた薫子にとってそれは、ひどく純粋でまっすぐな眼差しで、味わったことの無い新鮮さを纏っていた。
「ほう。人生をやりなおしたい、と」
確かめるように復唱する。
どこか得心したやわらかい笑顔を一瞬見せたが、薫子に気づかれまいとでもするかのように無表情を張り付けた。
「おぬしにちょうどよい物件がある。それを融通してやろうではないか」
「えっ? いいんですか?」
「かまわぬ、かまわぬ。すぐに行くがよいぞ」
言うが早いか、神と名乗る美少女は右腕を差し出す。
金髪がその手に煽られてぱさりと揺れれば、先ほどまで覆っていた右の乳房の先端の桜色が顔を覗かせた。薫子は一瞬でその桜色の粒を凝視したが、自身の豊満な体を包みはじめた光にそれどころではなくなった。
「ちょ、ちょっと待った!」
「待てぬ。おぬしはすでに転生の間へと送られておるわ」
無慈悲な返答が美少女の唇から漏れる。
体の下半分の自由が奪われ加速してゆく光に、薫子はありったけの抵抗で叫んだ。
「まだ3つ目の願いが残ってるだろぉおぉう。ありえんてえぇぇえ──」
真っ白な光の空間にぽつんと残されて存在する全裸の美少女。
所謂ところの神はしまったという風に容貌をはにかみに変えて、
「忘れておったわ……」
と、呟いた。
血のごとく真っ赤な壁に彩られた、黒いムートンの敷き詰められた12畳ほどの部屋に富山薫子は落とされた。
空間から生じるように現れて、およそ50cmの高さから尻餅をつくように落とされた。
下がふかふかのムートンの床でなければ3桁に届く体重を桃のような尻ですべて受け止めるために相当な激痛を受けたに違いなかったが、薫子の中での当社比ではおよそ半分以下の衝撃で済んでいたようだった。
そしてそれは、神と名乗った美少女のいた空間とは違って、重力があることを明確に伝えていた。
「あのアマーっ!」
神の外見を決めたのは自分だということも忘れて、薫子は一気に立ち上がる。脂肪の貯まったおなかが揺れ、振動が収まると自分に向けられた視線に気づいて顔を向ける。
そこには黒い人物があった。
真っ赤な机の天板には事務で使われる道具や書類のようなものが整然と置かれ、仕事をしない部長の机のような綺麗さではなく、整理整頓された仕事人の美しい配置がなされていた。
その仕事机の主は、濡れた黒髪に常闇の黒いドレスで雪のように透き通る白い肌の、まるで高級なフランス人形のような佇まいで微動だにせずにそこにあった。
薫子は彼女の瞬きを忘れた深い海の底の青黒い瞳に見つめられて、一気に怒りを忘れて固唾を呑んだ。
「よろしいですか?」
黒髪のフランス人形は透き通る抑揚の無い声で言う。
抑揚が無いだけでそこに感情や意思がないわけではなかった。
有無を言わさぬ強い意志がそこにあり、その仕事机から対面の程よい位置に深紅の丈夫な椅子が忽然と現れる。
「富山薫子さんですね。どうぞお掛けください」
大学時代の就職活動以来の圧力がそこにはあった。
「新しい人生を歩みたいと聞き及んでおります」
単刀直入であった。耳たぶの下で切り揃えられたボブカットの髪を一度たりとも揺らさずにまっすぐに彼を見つめて言った。
薫子はその太った外見とそれに見合わぬ女子につける名前のために、今まで初対面の相手にたったの1回も笑われずに会話することが無かった。
まぁ今さっき神と名乗る美少女をカウントに入れなければの話だが。
このような事態にどう対処していいかも分からずに、薫子は立ったまま硬直して考えあぐねるしかなかった。
「まず、お掛けください。ここは“転生の間”と呼ばれる場所です。神から説明はありませんでしたか?」
黒髪のフランス人形は淡々と物事を進めるタイプのようだ。
神と言われて、改めて先ほどの金髪美少女を思い出しながら椅子に腰掛ける。
「あ……アリエンテのことかな?」
とりあえず個人認識するために先ほど自分が言い放った言葉から勝手に命名して訊ねてみる。先ほどの神と違って姿の見えるこの人形には名前があるのかも知れないし、あわよくばそれが分かれば話しやすいと考えてのことだった。
「アリエンテ? あなた方の世界でそう呼ばれているのであればそうでしょう。それで、そのアリエンテからの説明はありませんでしたか?」
「あったようななかったような……」
彼の自信の無い曖昧な返事にも感情の起伏を見せることなく、黒髪のフランス人形は机上の書類を片手に取ると視線の高さに掲げて目を走らせた。
もしかしてあれは自分の身上書のようなものなのかな、と薫子は冷静に感じ取る。変化しすぎる状況に適応する能力が高まることによって自身の感情を平静に保つような防御機能があるとするなら、薫子のその機能はかなりずば抜けたものだったようだ。
すでに緊張はほぐれ、次なる彼女の所作に注目していた。
彼女は一分の隙も無い機械じみた動作で目を通していた書類を机上に戻す。
そして、相変わらず瞬きをしない瞳で彼を見据えて言葉を発した。
「あなたがこれより転生する先が決まりました。とある夫婦の間に身籠られた新しい命は風前の灯であり、これを失うことは世界のパラレルのひとつが消滅することになります。その失われるはずの世界のひとつをあなたのために解放しましょう」
ずいぶんと大仰な話であった。
「えっ? ちょっと待ってください」
先ほどまでの金髪美少女の神のような軽さは微塵も感じられないぞ、と焦りに焦る。
「それは世界の命運をかけた勇者になるような話ではないですよね?」
ただ単に生まれ変わって今までとは違う生活を満喫したい──それだけの気持ちで童貞魔法を使ったのだ。
目の前に提示されたのは、消滅するはずの世界を引き継いでその世界を構築するという大それた話ではないか。そんな責任重大な話から逃げ出すための新しい人生計画なのだから、決して承服するわけにはいかなかった。
「だいたいにして、貴女は何者なんですか?」
「わたしはあなたが転生する世界を管理する名も無き神です」
「神だって? ここに来る前に出会ったあいつも神と名乗ったぞ」
「アリエンテですか? あれは我々神の世界を管理する神です」
薫子の理解力がぎりぎり追いつくような話だ。
「待ってくれ。どちらも神ではこんがらがる。あんたにも名前が必要だ」
「そうですか。解りかねますが、よろしいでしょう」
こんなシュールな話は無い。
世界を司る神がいて、その神々を複数束ねているのではなく、彼女らが暮らす世界を司る神がいるというのだ。
まるでシュールレアリスムの巨匠ルネの描く世界のようではないか。
たまたま最近に絵画展でルネの作品を見ただけの癖に、美術に造詣の深い批評家気取りの発想が脳裏に浮かんだ。
「そうだ。マグリットと名付けよう」
「マグリット、ですね?」
ルネ・フランソワ・ギスラン・マグリット。
シュールレアリスムの巨匠のフルネームだ。
ここでフランソワのほうを選ばなかったのは敢てのことで、ちょっとした嫌がらせとも言うべきものだった。
我ながら良いネーミングセンスだと薫子は満足気な笑みを浮かべた。
「名前が決定したところで話を進めましょう。まず、あなたが転生する先の世界では勇者のような任務を背負う必要はありません。次に、転生する赤子に関しては、その魂を入れ替えるので混在することはありません。みっつ目に、あなたには転生するにあたって一つのスキルを協議選択することができます。最後に転生し成長するにおいて、神であるわたしマグリットは基本的に関与いたしません」
どや顔で集中を欠いていた薫子は、一気に言い放つマグリットの言葉を数秒後にはもう一度説明させていた。