2.神様、美少女になる
薫子の周囲は見渡す限り真っ白な世界であった。
常に重力に負けている体の鈍さは感じられず、ふわふわとした感覚のまま、その真っ白な世界を感じ取ろうとしてはみたが、奥行きも地の果ても感じられない。白い壁のようなものに囲まれているというよりも、強い光に囲まれているという印象だ。
30本のろうそくの火を残らず吹き消した直後に一瞬気が遠くなったと思えば、次の瞬間には目の前にこの光景が広がっていた。
彼は驚くよりも先に何かしらの感動が湧き上がった。
「魔法が……使えたのかな?」
30才の誕生日を迎えたとき、童貞ならば魔法が使えるようになれる。それはインターネットでまことしやかにささやかれるミームのようなものであるはずだった。そんなことがありえるとするのならば、世の中おっさんの魔法使いだらけになってしまう。
しかし、今自分が置かれている現状は確かに童貞魔法が存在していなければ説明のつかないことだった。
もしそうならば、このあと起こるであろう出来事は予測がついている。しっかりと予習復習してきた異世界への転生の儀式である。この儀式なくして異世界での活躍は約束されないのである。
薫子は期待に胸を膨らませた。もっとも30才のおっさんなので、今胸を膨らませているのは、飽食と間食によって蓄えられた脂肪でしかないのだが。
果たして彼の期待通りにその声は響いた。
「わたしが神じゃ」
声はすれども姿は見えず。
男とも女とも、老人とも子どもとも取れるような、複雑な音域の絡み合った声で、ともすれば荘厳な威圧を含む声色だったが、薫子はそれを意にも介さずただ面白くなさそうに腕組みをして見せた。
「ど、どうかしたのか? なにやら不満そうじゃが」
神と名乗ったモノは恐るおそるといった感じに様子を窺っている。
今にもブヒブヒと鼻を鳴らしそうな丸々とした容貌で、薫子は静かに不満を漏らした。
「俺のいた世界にはライトノベルというジャンルの小説がありましてね。その小説の中では度々こうして神様と対峙するシーンが描かれるのですが、神様が声だけって言うのはなんかこう情緒がないとでも言うんですかねぇ……」
歯切れの悪い言いかたをする。
言われた方の神もリアクションに困った感じで、ただ
「はぁ……そ、それで?」
と、続きを促すしかない。
「そりゃあ俺だって神様には嫌われたくないですからね、多くは望みませんよ。でもね、姿くらいは見せてもらえると話もしやすいじゃないですか。それも飛び切りの美少女だったらなおのことよし。背はこのくらいで、金髪はこうふわっと背中の中ほどまで伸びて、年のころは不謹慎ですが14歳くらいでですね、胸は──」
薫子は身振り手振りを交えて語りだす。
鼻息を荒くするというのはこのようなことを言うのだろう。
語りだすと止まらない彼の言葉を遮るように、神と名乗ったモノは
「わかったわかった。こういうことであろう」
と、突如姿を現した。
注文通りに、年のころは14歳くらい、長い金髪はさらりと伸びて、すらりとした裸体には申し訳程度のふくらみが胸に2つ。前髪の両サイドから垂れた髪の束によって胸のふくらみの先の乳首券は発行が阻止され、薄い尻を持つ下半身の重要なファクターは全く遮るものもなかったが、そこにあるはずの一本線もなくつるつるののっぺりとしていた。
「ない……だと!?」
「おぬしの脳内の偶像を参考に生成したのじゃから、これ以上の造形は不可能じゃぞ」
夢も希望もないことを、切れ上がった猫目のような大きな瞳を持つかわいらしい顔で、艶々に光った唇の小さな口から紡ぎ出す。
そう、おっさんの声で。
「その声ぇええぇぇえっ!」
思わず薫子が大声でツッコミを入れるほどの聞き覚えのあるおっさんの声だった。
「なぜ、よりにもよって、俺の声が、美少女から出るのかなぁ? なんでかなぁ?」
「おぬしの脳内ではおぬしの声でセリフが用意されておったではないか」
「神様、ダメ、ぜったい、そのセリフを今声にしちゃあ、ダメっ!」
薫子は必死になって腕をバツの字にクロスさせて神を制止する。
神と名乗ったモノの作り出した美少女は、口を尖らせて拗ねた表情をつくって長い髪の先を左手の指先で捕まえていじくり始める。
そのかわいらしい仕草にまいったのか、薫子は冷静さを取り戻すため片手で両目を覆うように視界を遮った。
「あーもう、神様。少女に似合う声ってのがあるでしょう、普通は」
「そうじゃの」
神と名乗った美少女は心地よい高さの声音で答えた。
薫子が今まで見てきたアニメの声優の誰とも似つかない声だが、今の神様の外見にしっくりと来ていた。
「できんじゃんよっ!」
「これでよいのだな、富山薫子よ」
「モチのロンです!」
「よかろう。では最初の望みは叶えられた。残りの二つの望みを言うがよい」
薫子は自分の耳を疑った。
今までの話の流れで、どこからどういう脈絡でそれが決まっていたのかさっぱり理解できなかったからだ。
彼は目を丸くして美少女、もとい神様を見据えた。
無い胸を張って、小首を傾げる様には愛くるしさしかなかったが、薫子は騙されるわけにはいかないと絆される心を振り払った。
「今、なんて?」
「残りの二つの望みを言うがよい、と言ったのじゃ」
「ん? ん~~っ?」
嫌な予感しかしない。
薫子は恐るおそる真意を問い質す。
「あの、もしかして3つの願いってやつですか?」
「まぁ、相場じゃからのぉ」
「そんな当たり前のように言われても初耳ですよ? しかもすでにひとつ叶えちゃってるとか詐欺じゃないですか!」
冷や汗や脂汗がだらだらと噴き出してるのは彼が単に太ってるからという理由ではない。
何の心の準備もなく3つの願いのうちひとつが叶えられ、残り2つになっているなんて鉄板過ぎて笑えない。
脳裏をぐるぐると様々な思考が駆け巡る。
せっかく童貞魔法によってこの状況に至ったというのに、何の説明もなしに願いを叶えるアホを絵に描いた神様に台無しにされるわけにはいかないのだ。今後の予定のためにも残り2つの願いは簡潔に分かり易くを心掛けねばならないだろう。
そんな薫子の高速思考を知ってか知らずか、神と名乗ったアホ美少女はあくびを交えて願いの続きを催促する。
「で、次の願いは?」
薫子は意を決したように、低くはっきりと答えた。
「新しい人生をやりなおしたい」