1.富山薫子、三十路になる
富山薫子、男。
童貞のまま30才の誕生日を迎えると魔法が使えるなんてことを、臆面もなく信じ続けて生きてきた。
そんなことはまやかしだっていうのは九十九も承知だが、残りの一に縋りたくもなるような人生だった。
薫子という女性につけるべき名前のせいで学生時代はとにかく面倒くさかった。体操服を注文すれば女子の色が届き、入試のたびに性別の問い合わせが鳴り、女子に告白すれば名前を理由に断られた。
そんな現実から逃避するために彼は、おいしいものを食べ、間食をこよなく愛し、毎日の夜食を欠かさなかった。そうして高校を卒業するまでには丸々と肥えた体型を作り上げ、大学に進学すると階段をのぼることでラマーズ呼吸法というスキルを習得するまでに至った。
このままではまずいと思わなかったはずもない。
しかし、痩せるためにフィットネスジム通いを思いつくものの、最初の難関は会員登録で申込書に名前を書くところである。
ナイスバディの受け付けの担当は申込書目を通した瞬間に名前の再確認をするのだ。好みの外見の受付女性に秒で吹き出されたことだってある。
「もういやだ!」
そう思い立って彼が改名の手続きに踏み切ったのは大学も4年になってからで、就職活動そっちのけで数ヶ月かけて裁判に臨んだのだった。
薫子という名前のせいでどれだけつらい目にあったのかと、幾多の女性に振られたことを筆頭に、学生時代に名前をいじられて笑われたこと、あらゆる会員登録で屈辱を受けたことなどを理由事項に列記した。
準備をしてる間はどんなかっこいい名前にしようかと、有名人の名前をリストアップしたり姓名判断にいそしんだりと、実に希望にあふれた時間をすごしたものだった。
結果、改名の手続きは棄却された。
希望に満ち溢れた時間を過ごした反動というものは、ほぼ無気力に近い精神を作り上げた。数ヶ月の間、何も手につかぬまま無為に過ごし、インターネットに蔓延する面白い情報や異世界小説などを追いかけるようになっていた。
しかし、楽しいことばかりを追いかけて精神的に楽になってくると、客観的に自分を見つめることも容易になってきた。そもそも改名できなくても元の生活と何も変わらないのじゃないかと気づいたのは、夏も終わりに近づき「あぁ、海でピチピチ水着ギャルのあふれ出さんばかりのおっぱいを堪能して置けばよかった」と後悔する季節になってからのことだった。
当然のように遅れた就職活動は思うように行かず、小さな会社の営業に運よく滑り込んだようなものだ。
それからというものは毎日変わり映えのしない無味乾燥な残業生活の日々。もちろん好みの女性との出会いなどあろうはずもなく、会社と自宅を往復する毎日が続く。
気づけば童貞のまま、30才の誕生日を迎えていた。
「ハッピーバースデイ、俺」
たわわな肉付きの二重あごを揺らして、薫子はあと数分で日付が変わって30才の大台に乗る日を迎えることを実感する呪文を口にした。
帰りがけに注文していた有名店のホールケーキをテーブルの中央に、小さなろうそくを30本丁寧に並べて挿してゆく。そして、一気にそれらに火を灯すと、ケーキの中央に座したチョコプレートに書かれた文字が照らされた。
『ハッピーバースデイ かおるこちゃん』
「うん。完全に誤解しちゃったね、店員さん」
毎度のことながら間違われるのには慣れてしまっていた。
時計に目をやれば、0時になる1分前。
3桁キログラムの体を揺らして立ち上がり、壁のスイッチを押して部屋の明かりを消す。
準備は整った。
「童貞のまま30才の誕生日を迎えたならば、俺は魔法を使える身へと進化するのだ!」
思えば激務の割に見入りの少ない仕事で、ボーナスもスズメの涙。
毎月の給与は食費や趣味の異世界小説から派生する漫画やアニメ、そして食費と生活費と食費に費やされて消えた。
もっと楽して稼げたらいいのに、と毎日のように思っている。
そしてついにこの時がきたのだ。
時計が0時ちょうどを告げて、薫子はケーキを彩る30本の炎の揺らめきを一気に吹き消した。
「童貞魔法で異世界につれてってくれ!」
それは悲願であった。