喫茶店の女性店長とツンツンな女の子の、ある雨の日の出来事
この物語は、ある喫茶店の扉に掛かった鈴が、からんからん、と鳴るところからはじまる。
この喫茶店の店長は20代後半の、小柄な女性だ。
ショートボブの髪に、大きく、優しげな目が印象的な女性だ。細い体に、白いシャツと淡い茶色のチノパン、さらに濃い青色のエプロンを着ている。
古風な、ウェスタン調のお店を一人で営んでいるこの女性にとって、この枯れた鈴の音は、まるで水道の水が流れる音のように、当たり前にある、身に染み付いたものだった。
しかし、今回は、この店長にとって、他の鈴が鳴った時とは違う、印象的なことが3つあった。
一つは、その日が大雨で、特に30分前から、バケツをひっくり返したような雨が降っていたこと。こんな日はお客はまず来ない。
降り始めなら、雨宿りで寄ることもたまにあるが、土砂降りが続いているときに来店する客ははじめてだった。
さらに、一つは、その客が少女だったこと。若干癖のある、長い髪をした少女だった。
明るい茶色の髪に、やや小麦色の肌、すらりと高い背。少し大人びても見えるが、学校の制服を着ている。隣の市にある、私立の女子高の制服だ。
顔立ちは整っているが、目つきはきつい。いや、鋭い。切れ長の目は、不機嫌というより、敵意に近いものを感じる。あらゆるものを威圧しているように感じる。
最後の一つは、その少女はずぶ濡れだったことだ。
この鈴が鳴った時、店長は、カウンターに座って、新聞を読んでいた。
客は来ないだろうと決め込んでいたので、鈴が鳴った時は少し驚いた。
さらに、ドアの前に立つ客の様相をみて、さらに驚いた。
店長は、しばらくそのまま彼女を見つめてしまった。
少女もそのままその場に立っていた。視線は少し下を向いている。
きついが、綺麗な目だ。
店長は少女の目を見て、そう思った。それが、少女に対する第一印象だった。
でも、と店長は思った。
この女の子、なんだか、とてもさみしそう……
「あの……」
先に口を開いたのは、少女の方だった。
少女にしては、若干低めだが、透き通った、凛とした声だった。
「コーヒー……ありますか……?」
少女がそういうので、店長はしばらくきょとんとしてしまった。
だが、店長は、いつもの、ふっとした、優しい笑みを浮かべた。
「コーヒー、ありますよ。いろんなの」
店長は席を立って、少女に近づいた。
少女は店長に視線を向けた。猛禽類を思わせるような、鋭い目が店長に向かう。
しかし、店長は、優しい目を少女に向けていた。
「でも」
と、店長が言った瞬間、少女の目はヒクッ、と動いた。
ふっくらとした唇がぎゅっと結ばれる。桜色の唇が、若干紫がかっている。
「あなた、ずぶ濡れね」
柔らかな声が、何かを諭すように言った。
少女はあの鋭い目つきを店長に向けたままだった。
店長は、優しく少女と目を合わせ、口元を緩ませながら、穏やかな口調で言った。
「シャワーとシャツ、貸すわ。今日はお客さんも来ないから、服が乾くまでゆっくり休んで」
少女は目を見開いて、驚いた。
白い、少しブカブカしたシャツにジーンズを履いた少女がカウンターに座っていた。
目つきは相変わらず悪いが、戸惑いの色が見られる。
口は少し緩んでいるが、唇を軽くかんで、もにょもにょしているような感じだ。
「さて、何飲む?」
カウンターに向い合せで、店長が少女に聞いた。
「……コーヒーを、一杯……」
少女は、ぼそぼそ、と呟いた。
「コーヒーにも色々とあるよ」
店長は、少女の目の前に、メニューを置いた。
一枚の、ラミネート加工された、ドリンクメニュー表だった。
細かい字が、ずらっと並んでいる。
少女はメニューを一瞥して、怪訝そうな顔をした。
それから、少女は、メニューをばっ、とつかんで、目を近づけて、じっと目を凝らした。
店長からも、少女が、メニューの右から左へ、一文字一文字に視線を動かしているのがよくわかるほどに。
少女は端まで読み終わると、少しメニューから目を離し、ふーっとため息をつく。
「裏にもあるよ」
店長がそういうと、少女はまた、ばっ、とメニューの後ろを見た。表と同じように、細かい字に、少女は目を凝らす。
「後ろのはコーヒー以外の飲み物ね。紅茶とかハーブティーとか、ジュースとか」
少女は肩の力が抜けた。このお店に入ってきて、はじめて、この少女は肩の力を抜いた。
「……細かい」
少女がそういうと、店長は少し気を悪くして、言った。
「悪かったわね。メニューをうまく作れないのよ、わたし」
「それもそうだけど……」
少女は店長の気も知らずに、一番言いたいことを言った。
「コーヒー、色んなのがありすぎる……」
少女は少しふくれっ面になっていた。
少女は無意識だったが、店長はその顔に目を丸くし、それから思わず、ふふっ、と笑った。
「……悪かったね」
少女がそういって不機嫌そうになると、余計に彼女がふくれっ面になった。
店長は少女に、どこか可愛げを感じていた。
「ごめんなさい」
店長は謝りながら、柔らかく笑った。
少女は、その表情に思わず見入った。
とてもきれいな笑顔だ、と少女は思った。
「コーヒー、あまり飲んだことない?」
「……インスタントしか飲んだことない。たまに……」
少女は、優しい表情の店長の顔を見ながら、少しうつむきながら言った。
「濃いのは飲める?」
少女は首を横に振った。
「薄いのは?」
「……濃いとか薄いとか、よくわかんない」
店長は首をかしげて、頬に中指を当てて、少し悩んだ。
少女は、うつむきを深くした。申し訳なさそうな感じになって、目も悲しげになる。
「じゃあ、とっておきの、いれるね」
店長は言った。少女は、ぱっ、と顔を上げた。
店長が、キッチンを動き回り始めた。
少女は、少しだけ落ち着いたのか、周りを見渡す余裕ができた。
まるで西部劇とかに出てくるバーみたいだ、と思った。
カウンターも、古びているが、しっかりとした木のもので出来ている。
他に、店内には木で出来た机とイスが数組ある。窓はあるが、カーテンで覆われている。
壁のあちこちには、昔のアメリカ映画のポスターが掲げられている。
恋愛映画とサスペンス映画が多いようだ。
バーには小さい音量で、ジャズが流れていた。
「あなた――」
店長がそう言ったとき、少女はびくっとした。
怒られた時の、怯えがまじったような、そんな驚きの顔だった。
「いつも何飲んでいるの?」
え? と少女は思わず声を出した。
店長は、少女から少し離れたところでコーヒーミルという、コーヒーの豆を挽く道具を扱っていた。
500ミリペットボトルくらいの大きさがある。
赤く塗装され、古いポストのような形をしていた。金属で出来ているようだ。とても古さを感じる。横には車輪のようなレバーが付いている。
店長はそのレバーを回していた。優しく、ゆっくりと。
彼女は優しく、コーヒーミルを見つめながら挽いている。
少女は、その姿にまた見入っている。
「何を飲んでいるのかなあ、って思って」
店長は優しく先ほどの発言を復唱した。
少女は我に返って、え、あ、と戸惑った。
「……麦茶か、緑茶……」
少女のとっさの一言に、店長は答える。
「いいよね。麦茶は冷たくしてもおいしいけど、温かくしてもおいしいのよね。緑茶も冷たくてもおいしいし、これからの時期に合うと思うわ」
「そう……」
少女は、きょとんとした顔をしながら相槌を打った。
肯定の意味である。その証拠に、きょとんした顔をした後に、少女は少し笑みを浮かべていた。
今度は店長は驚く番だった。
少女に、視線をもっていったとき、その嬉しそうな表情に驚いたのだ。
少しはにかんで、優しく目を細めていた。その目に威圧感はなく、むしろ安らぎすら感じる。
口角も、ほんの少しだけ上がっていた。
その嬉しそうな表情は、彼女が安らいでいることを感じるとともに、見ている側にも安らぎを感じるものだった。
「そう、だね……」
少女が先ほどよりさらに表現を強くして繰り返した。
店長はその表情を見て、同じように優しく微笑んだ。
コーヒーミルによって、粉砕されたコーヒー豆ができた。
白いカップの上に、ドリッパーが置かれ、そのなかに茶色い紙――フィルタが置かれた。
フィルタの中に、先ほど挽かれたコーヒー豆を入れる。
それから銀色のポットにお湯を注いだ。
少女はその様子を見て、目を丸くしながら言った。
「すごい……」
何がすごいんだろう、と店長は小首をかしげながら、お湯を注ぐ。
それが終わると、ドリッパーを取り外す。
店長は、カップを、少女の前に置いた。
「はい、うちの特製ブレンドコーヒーになります」
少女は、カップの中のコーヒーをまじまじと見た。
黒いが、どこか淡い小麦色を含んだ液体から、香ばしさが漂う。
その香りが、少女の心を落ち着かせる。
「うちで豆をブレンドしたのよ。そんなに苦くないと思うけど、好みでお砂糖やミルクも入れて」
店長はそう言った。少女はカップの中を凝視し続けている。
それから、両手で、大事そうにカップを持つ。
店長は、何度この少女に驚かされればいいんだろう、と思った。
取っ手のあるカップを、両手で持つ人ははじめて見た。
確かにうちの店のカップは分厚く出来ているので、それほど外に熱は伝わらないはずだ。
それでも若干熱いと思うが。
店長は、それの行為を見て、気を付けて、と言おうとしたが、出なかった。
少女は、10本の細く長い指でマグカップを優しく抱えていた。
少女の手つきはどこか繊細そうで、まるで赤ちゃんを扱うかのように優しかった。
そして、とても優しい目をしていた。口元には軽い笑みすら浮かんでいる。
店長は、少女の、その姿をみて、どこか凛として、それでいて優し気で、神聖さすら感じた。
少女は、コーヒーを一口飲んだ。
マグカップを唇にあてて、少し口に含む。
少女は口に含んでからはじめて、店長が絶妙に温度調節をして、飲みやすい温度にしてくれたことに気がついた。
温かい、と少女は思った。少し熱さを含んでいるが、それすらも心地が良い。
コーヒーはひたすらにがい飲み物だという、少女の概念が大きく崩れた。
にがいことには変わりはない。
しかし、にがさのなかにも、甘酸っぱさが混ざっていることに気が付いた。
穏やかな甘酸っぱさが、にがさの陰に隠れている。けど、そのおかげで、にがさと甘酸っぱさがうまい具合に、お互いを引き立てている感じがした。
さわやかな雰囲気すら感じる。
コーヒーを飲んで、こんなにもさわやかな気分に浸れるとは思わなかった。
少女はその余韻をしばらく楽しみ、目を瞑って、ふーっと深呼吸をした。
店長は、そんな少女の様子を目を細めて、優しげに見ていた。
少女は、店内に入ってきたときの、威圧的で、どこかで寂しげな少女の様子とは違っていた。
とても穏やかで、落ち着いている、そんな様子だった。
と、少女はそのあと、目を開けて、ささっとカップを置いた。
「……熱い」
少女はそういって軽く両手を振った。
店長はまた、ふふっ、と笑った。
「雨……」と少女が呟いた。
「雨……止むのかな……」
少女は玄関を見ていた。
外は相変わらず、土砂降りだ。
「止むわよ」
店長は、少女と同じ方向を見ていた。
「いつ、止むんだろう……」
「予報だと、夕方までには止むっていっていたけど、最近の天気はコロコロ変わりやすいからね」
しばらく、間があった後、
「……雨って、止むのかな……」
少女がそう言った。
玄関の向こうを土砂降りを見ながら、低く、重いトーンで呟く。
店長はじっと、少女と同じ方向を見ていた。
「……『止まない雨はない』っていうけど、本当にそうなのかな……」
少女はさらに、重いトーンで呟く。
悲鳴に近いものを含むような、そんな言葉だった。
「止むわよ。いつか」
店長は言った。
穏やかだが、真剣で、重みのある言葉だった。
「いつになるかわからないけど、いつかは、止むわよ。止んだあとのことはわからないけど、いつか止むのは確かだわ」
少女は何も言わなかった。
「止むまでここにいてもいいわよ。良かったら、でいいけど」
「……いいの?」
少女はまだ土砂降りの雨を見ていた。
「……邪魔じゃないの?」
「邪魔なものですか」
店長は軽く、口元を緩ませた。
「私は、あなたとこうやっているの、楽しいわよ」
少女は、やっと視線を玄関から逸らした。
そして、店長を見た。
店長も、少女の方を見た。
二人の視線が合う。
「……もう一杯、いい?」
少女が、店長の方をしっかりみて言った。
「もちろん」
店長は優しい笑みを浮かべた。
少女も、ほがらかな笑みを浮かべた。
憂鬱な長雨。
けれども、二人しかいない喫茶店のなかは穏やかな時が流れていた。