第1幕 出会い
高校に入学したばかりの16歳、東条椿はイケメンだけどごく普通の男の子………ではなかった!!
怨鬼が蔓延る世界、彼らはこの地獄を抜け出すことができるのか。未来を担う少年少女たちの思惑は?”赤い月”とは一体何なのか?全ての謎が明かされる日は来るのか?ーーー
全てはここから始まった。
『紅と月』第1幕ー出会いー、どうぞお楽しみください。
水水水
季節は春。街中の至る所が満開の桜で溢れ、寒く厳しい冬を懸命に耐え抜いた草花や樹々の芽、そしてありとあらゆる生物たちが、全身に陽の光を浴びてようやく訪れた春を歓喜して迎えていた。そしてそれは人々も同様で、彼らの多くがこれから始まるであろう新しい生活に期待と心地良い緊張感を抱いていた。
そんな活気に満ちたうららかな晴れの日、都内のある私立高校1年生の登校初日は、穏やかには過ぎそうになかった。校舎の一階にある一年F組の教室とその前の廊下では、先程入学式を終えたばかりの新入生たちが大きな人だかりを作っている。その人垣の輪の中心で、二人の男子生徒が互いに向かい立ち、激しく火花を散らしていた。
「だからぁ…………」
二人のうち、小柄な方の少年が口を開いた。小柄と言っても優に170㎝を超えるくらいの身長だが、もう一人の方が180㎝以上ありそうな程の巨体だったので、並ぶとどうしても小さく見えてしまうのだ。しかし、がっしりとした広い肩や、まくり上げた袖から見える両腕の筋肉が大きく盛り上がっているのを見れば、相当体を鍛えているらしいとわかる。
「ワルかったって言ってんだろ?ワザとじゃねぇんだよ。つーかそれいい加減に返せや。」
少年は、相手が右手に摘んでいるリストバンドを指差して言った。
「……あ”ぁ?それが人に謝る態度かよ。テメェがぶつかってきたせいで、見ろよコレ、台無しになっちまったじゃねーか。」
今度はでかい方の少年が、もう片方の手に持った人気アイドルゲームのキャラクターがプリントされたハンカチをひらひらさせながら言った。その傍らにある机の上に、倒れたコーラ缶から流れ出した液体が炭酸の水たまりをつくっている。どうやら何かの拍子に少年の足が机に当たってしまい、たまたまそこに置いてあったハンカチの上に蓋の開いたコーラ缶が倒れ込んだらしい。ピンク色のハンカチはコーラを吸収してぐっしょりと濡れ、薄い土色に染まってしまっていた。
「だぁから悪かったって。弁償くらいするからンな怒んなよ。ただのハンカチだろ。」
「ただのハンカチじゃねえ、これはな、オレが前日の夜から並んでやっと買えた『ジュエリィ★アイドル』ピンクリリーちゃんの五周年記念限定版ハンカチだったんだよ!!」
「マジかよギャルゲヲタかよきめェ趣味しやがって………鏡見たことあんのかてめえ」
「ッせぇな黙れ!オレの勝手だろ!とにかくだ、てめえはオレの幸福をぶち壊しやがったんだ!目には目を、歯には歯を、だろ?」
そう言うとギャルゲ少年は、リストバンドをコーラがぶちまかれた机の上に掲げた。それを見て、リストバンド少年の眉間に、ピキ、と皴がよった。生まれつきの猫目がさらにつり上がる。
「……返せっつってんだろ。」
「何だあ?何ムキになってんだよ、ただのリストバンドだろ。それともこのボロい布切れがそんなに大事なんか?」
「うっせーな、てめえにゃ言われたくねえよ、このデブ。」
不穏な空気に、その場の全員がゴクリと唾を飲んだ。誰もこの不良二人の間に割って入ろうとする勇敢な者はいなかった。「ヤバくない?」「どうすんだ、これ」「こわ……」…生徒たちはヒソヒソと囁き合い、うろたえることしかできなかった。しかしようやく、下半身の麻痺を破った一人の女子生徒が、教師を呼びに行こうと体の向きを変えた時だった。
「何の騒ぎだ?」
おもむろに尋ねられた女子生徒はぽかんとして、目の前に立っている男をまじまじと見つめた。長身で、すらりと伸びた長い手足。揺れる黒髪。その下から覗かせる瞳は微かに青みを帯びていて、まるで宇宙の銀河を水晶の中に閉じ込めたように美しかった。
「何やってんだ?」
もう一度質問すると、その美少年は女子生徒の肩越しに教室の中を覗き込んだ。思わず見とれてしまっていた女の子はハッと我に返ると、まごつきながらこれまでの経緯を説明し始めた。この時彼女は、少年がまだ肩に鞄をかけているのと、新入生なら全員が胸に着けているはずの「祝.御入学」と書かれたリボンが、制服に付いていないのに気が付いた。少年は説明を聞き終わると、少しの間黙って二人の問題児たちのやりとりを見ていたが、やがて腕組みをした手の指先をトン、トン、と叩き始めた。彼は苛ついていたが、その表情は先刻と全く変わっていなかった為、誰もそれに気が付かなかった。
「なあこれ、まだしばらくかかりそうだよな?」
「えっ?あ、ああうん……そうかもね。ってそうだ私、先生呼びに行こうとしてたん……」
「そうか。」
そう言うと少年は、いきなり人混みをかき分けながら前に進み出した。横から押しのけられた生徒たちはぎょっとして、一体何のつもりかと目を丸くして彼を見た。そして少年が人垣の中から出て問題児たちの方へまっすぐ歩いて行った時、その目的を理解した生徒たちは驚き、そして慌てふためいた。「おい、やめとけって!」「危ないよ!」という切羽詰まった忠告を完全に無視して、少年はスタスタと進んで行った。二人のいる場所まで、あと五メートル。
「てめえ、返せっつってんだろ!」
「やだね。そんなに大事なら自分で取り返してみろっての、バァーカ。」
とうとう、ギャルゲ少年の指がリストバンドから離れた。リストバンドは重力に引っ張られ、コーラの水たまりめがけて落下した。
あと三メートル。
リストバンドが小さな水しぶきをあげた。
「テメェッ!!」
怒りを爆発させたリストバンド少年が腕を振り上げた。
あと二メートル。
「やるかコノォ!!」
ギャルゲ少年も、ハンカチを放り出して構えをとった。
あと一メートル。
「このブタ野郎っ!!」
「くたばれチビ猫がぁ!!」
0距離。
二人が同時に腕を振り抜いた。
キャーッという悲鳴が教室中に響き渡った。思わず誰もが目をそらした。しかし意外なことに、顎の骨格に拳が当たる時の鈍い音や、人が倒れこむ時の振動といったものは何も感じられない。不思議に思って恐る恐る目を開けた生徒たちは、口をあんぐりと開けた。
黒髪の少年は無事だった。どころか、その右手はリストバンド少年の拳を受け止め、左手はギャルゲ少年の手首をがっしりと掴んでいた。顔色ひとつ変えず、まるで余裕といった表情だ。状況を整理できない生徒達は開いた口が塞がらなかった。結局最初に沈黙を破ったのはリストバンド少年だった。
「椿!ワリィッ!」
「……右京……何してんだ、入学早々。」
右京と呼ばれた少年が、突き出した腕をパッと引っ込め、決まり悪そうに言った。
「だってよぉ、こいつがムカつくことしやがるから……あーあ、まじツいてねぇー………。」
右京は机の上に落ちたリストバンドを、顔をしかめて摘み上げた。
(なんで……)
その間、依然として手首を掴まれたままでいたギャルゲ少年は、ひどく困惑していた。
(さっきからずっと引っ張ってんのに。全っ然動かねぇ……!何だこいつ!)
懸命に腕を振り払おうともがくが、椿はピクリとも動かない。むしろ抵抗すればする程手首を締め付ける力は強くなり、ギリギリと皮膚を圧迫した。するとその時、右京の方を向いていた椿がくるりと振り向き、ギャルゲ少年の顔を見た。途端に、ギャルゲ少年の全身に悪寒が走った。首の後ろから背中にかけて、ぞわぞわという気持ち悪い感覚が暴れまわる。額からは冷や汗が吹き出していた。いつの間にか抵抗する力はおろかその気力すらも消え失せていた。椿は目を合わせたまま、低い声で言った。
「…………………………なあ。」
ビクッ!とギャルゲ少年の肩が反射的に跳ね上がる。
「お前、名前は?」
そう聞かれて、答えたくもないのに勝手に口が動いてしまった。いや、かろうじて口は動かせたが、声がちゃんと出たかどうかは分からない。実際、発した声はひどくかすれていて小さかった。それくらい動揺していたのだ。
「威……堺、玄太………。」
「そうか。俺は東条椿。右京とはまぁ……幼馴染ってやつだ。…ところで」
フッと、椿が腕を拘束する力を緩めた。その隙に我に返った威堺は、椿の手をバシッと叩いて拘束から逃れた。椿は特に気に留める様子もなく、その場に屈み込んで床に落ちたハンカチを拾い上げると、威堺のゴツゴツとした大きな手の中に押し込んだ。
「大事なもんなら、そういう風に扱えよ……威堺。」
静かにそう告げると、椿は再び体の向きを変えて右京と話し始めた。威堺は何も言わず、ただそこに突っ立っていた。しかし、ようやく緊張が解けてホッとした野次馬たちは、次第にザワザワと、若干興奮気味に話し始めた。
が、丁度その時担任らしき男の教師がやってきて、大勢の生徒が自分の持ちクラスの前にたむろしているのを見ると、ちょっと驚いたように言った。
「おい、何しよっとか。入学式終わったら各自教室で番号順に座って待機って言われたやろ。」
パンパンと両手を叩いて生徒たちを促す。椿と右京、そして威堺の三人も、黙って席についた。先生は全員が着席するのをニコニコしながら待っている。いかにも人の良さそうな雰囲気をしている彼の肌は、日に焼けて濃い褐色に染まり、マッチョな体格は典型的な体育会系熱血教師という感じだ。
全員が座り終わると、先生は白いチョークを手に取り、カッカッと黒板に大きく文字を書いた。「鼻毛豊」。F組の生徒たちは怪訝そうに小首をかしげてその文字を見つめた。先生はチョークをまた元の場所に置くと、教卓に手をついて話し始めた。
「まずは諸君、入学おめでとう!熾烈な高校受験ばくぐり抜けて来たっばいね、ようやった!とはいえ、ここは区内でも有名な私立進学校やけん、これからビシバシやってくけんな!」
ここで一瞬間が空いた。
「…っちゅーことで、オイがお前らF組の担任、”鼻毛豊”だ!ーーーおいそこ、笑うな。コンプレックスやけんな!おいこら、笑うなって!!」
先生は、口を押さえてクスクスと忍び笑いをしている生徒たちを指差して口を尖らせた。しかし強烈な名前と強烈な九州弁の腹筋破壊力が強すぎて、皆は笑いを抑えることができなかった。笑声はだんだんと大きくなっていった。中でも一番大きな声で笑ったのは右京だった。
「マジかよセンセー、誰が名前考えたん?!めっちゃセンスいいじゃん!!」
どっ!と教室中が湧いた。クラスの全員が、目に涙を浮かべて悶絶している。…ただ一人、椿を除いては。椿は椅子の背もたれに寄りかかり、ぼうっと空を見つめているだけだった。
豊先生は苦い顔をして答えた。
「うっさかな、じいちゃんだよ!!名前の由来なんか聞くなよ?!別に鼻毛の量が多いとかそんなことも無かぞ!!…とにかく、お前らオイば呼ぶときは”先生”か”豊先生”って言えよ!間違っても名前とかフルネームで呼ぶなよ!!」
再び大爆笑。何人かの男子生徒はたまらず机をバンバンと叩いたり、笑いずぎてむせ返ったりしている。あまりの大騒ぎに隣のE組やD組の担任がちらりと教室の中から顔を出した程だ。先生はぽりぽりと頭を掻きながら、笑いの渦が治まるのを待った。三分後、まだヒィヒィ言っている者もいたが、何とか落ち着いた。
「……おし、良かか?そしたらとりあえず、自己紹介でもやってもらおうか。そんじゃ一番、安倍からー。」
えぇーっという不満の声が教室のあちこちから上がったが、先生は「良かけん、早よ。」と言うだけだった。生徒たちは渋々、それぞれ自己紹介を済ませていった。
「…威堺玄太。教えるようなもンは何もねェ。ただ……嫌いなもんは、調子ん乗ったチビ猫だな。」(ハッ!と右京が鼻で笑った。)
「神崎右京っス。運動神経には自信あるんで、中学まではバスケとか陸上やってたんスけど、高校はサッカー部入ろうと思ってまっす。ヨロシクー。」
「えっと、甲本凛です。趣味は読書で、得意なことはピアノです。よろしくお願いします。」
「多田康平です。将来の夢は官僚になることです。座右の銘は『臥薪嘗胆』!ディベートやってます。」
「おお、皆個性的だなぁ。じゃあ次はー……んん?おい東条、お前いつ来たとか。入学式ん時おらんかったやろ。」
「あー、さっきっスよ、センセー。こいつ夜型だから、朝はしょっちゅう寝坊するんスよ。」
椿が口を開くのより先に、右京がケラケラと笑いながら答えた。椿はふぅと一つため息をつくと、すっくと椅子から立ち上がった。すると、教室は急に水を打ったようにしぃんと静まり返った。誰もが、不良の喧嘩に少しも臆することなくズカズカと割って入ったこの勇気ある美少年に、興味津々だったのだ(特に女子)。
「………東条、椿です。えー……………」
ググ、とクラスの女子たちが身を乗り出した。
「…………………………………………………………………………よろしくお願いします。」
* * * * * * * * * *
「えー、そういうわけで、諸連絡はこんだけだ。今日はこれで解散!」
全ての予定を終え、F組の生徒たちはペチャクチャとお喋りをしながら各各の帰路についた。他のクラスもHRが終わったらしく、廊下は教室から出て来た新入生たちでゴタついていた。
時刻は午後二時くらいで、外はまだ日が照っている。グラウンドの方からは運動部員たちの活発な声が聴こえてくる。今日は入学式しかないので二、三年生はいない筈だが、おそらく寮生だろう。椿たちの通うこの学校は、都内でも有名な私立進学校だ。当然、他県からの入学者も多い。そういう生徒たちのために、学校の敷地内には校舎の傍に大きな寮が建てられていた。
「おい、椿!一緒帰ろーぜ。」
神崎右京は、クラスメートたちがほぼ全員教室を出て行ったのにもかかわらず、まだ椅子に座って動かない幼馴染に向かって声をかけた。………返事は無い。
「おーい、椿ぃ?帰んぞー。」
またしても反応無し。右京は呼ぶのをやめ、音を立てないようにゆっくりと椿に近づいて行った。身を屈めて顔を真横から覗き込む。椿は薄く目を開いて、ぼんやりとした表情で一点を凝視したまま固まっている。顔のすぐ傍で右京がじっと見つめているのに、まるで関心を示さない。右京はしばらく彼の顔を黙視していたが、おもむろに息を大きく吸い込むと、彼の耳元で叫んだ。
「起きろーーーーーーーーーー!!!!!」
フッと、椿の瞳に生気が戻った。ゆっくりと眼球を動かし、ようやく右京の顔に焦点を合わせた。
「………………………………………………………………ん。びっくりした。」
「ほんとかよてめー、耳元で怒鳴られたのにピクリともしねぇじゃねえか。その目ぇ開けたまま寝る特技、何回見てもウケるわ。HR中もずっとそれで寝てたろ?」
「………次、移動か?誰もいないな。」
「寝ぼけてんなよ。もうとっくに終わったっつーの。ホラ早く行こーぜ、もうほとんど残ってるやついねーって。」
そう言うと右京はスタスタと教室の出口の方へ歩いて行った。椿は荷物を鞄の中に無造作に放り込むと、右京の横に並んで歩き始めた。ちら、と横目で右京を盗み見る。右京は絶えず話し続け、たわいの無い冗談を言っては一人で笑っている。ーーーイイ奴だと思う。右京とは幼稚園の時からの腐れ縁で、小、中学もずっと同じクラスだった。明るい性格で不思議と人を惹きつける魅力がある彼は、誰とでも付き合えるので友人も多い。本来ならクラスの中心としてもっとたくさんの人に囲まれているのが似合う奴なのだ。それなのにわざわざ椿と一緒にいるのは、彼がイイ奴だからなんだと、椿は考えていた。まあ、唯一欠点と言うべきところは、短気すぎることだろうか。今朝も威堺と諍いを起こしていたが(ギャグじゃないが)、あれも元ヤンの血が騒いだが故なのかもしれない。
「しっかしまぁ、やっぱイケメンはやることが違うな。登校初日から目立ちまくり。なあ、重役出勤の椿君?」
下足室へと続く廊下を歩きながら、すれ違う生徒たちがチラチラと二人を盗み見ているのに気付いた右京は、ニヤニヤしながら言った。
「目立ってんのはお前も一緒だろ。高校入ったらもうケンカはしねえって言ってたのはどこのどいつだよ………。」
「仕方ねーだろ、アレは。一応オレも努力はしたんだぜ、謝ったし。でも威堺の野郎、オレのリストバンドコーラまみれにしやがるから………あーあ、兄貴に怒られちまうなあ………………。」
椿は、右京がそう嘆きながら手首につけた黄色のリストバンドを悲しそうに見つめるのを見ると、胸がちくりと痛むのを感じた。
性格が全く正反対の椿と右京を親友たらしめている理由の一つはここにあった。それは、二人とも幼い頃に家族を失うという悲惨な過去を持っていることだ。右京は仲の良かった兄、京斗を、椿は両親と一人の妹ーーーつまり家族全員を、事故で亡くしていた。そのせいもあって、二人の間に妙な親近感が生じ、互いに互いを放っておけなくなったのだ。黄色の片方だけのリストバンドは、京斗が残した遺品の一つだった。右京はそれを兄の形見としていつも肌身離さず身につけていた。気まずい沈黙が流れる。何と言えばいいかわからずに、二人は押し黙ったまま長い廊下を歩いた。時間で言えばたったの数秒だっただろうが、椿にとってはとてつもなく長い時間に思えた。
「あのう………………………」
不意に背後から、それもかなり近い距離から声をかけられたので、二人は驚いて同時に振り向いた。そこには一人の少女が立っていた。その姿を見るや否や、隣で右京が「うお、」と小さく唸るのが聞こえた。それもそのはず、少女はとても美しかった。白い肌はまるで絹に雪を塗りこんだように綺麗で、輪郭がうっすらと透き通っているようにさえ見える。くりっとした大きな瞳は宝石のようにキラキラとひかり、無垢なあどけなさを感じさせるが、一方で長いまつげが物静かな大人っぽさをも漂わせている。腰まで伸びた長くて艶のある黒髪やスレンダーな体型、そして可憐さと清楚さを両方兼ね備えた彼女の佇まいは、およそモデルか女優を連想させた。
しかしその端麗な容姿も、普段なら椿の心をとらえることはなかっただろう。基本一人でいることを好み、他人、特に異性と関わることを避ける傾向にある彼にとって、女というものは全くもって理解しがたい存在だったし、何より彼自身が他者に興味を持たない性格なのだからどうしようもない。「来る者拒まず去る者追わず」という言葉があるが、椿の場合は「来る者拒んで去る者居らず」と言った方がぴったりかもしれない。要するに、本当に信頼する者以外からの干渉を拒むせいで孤立してしまうので、去る者すらいない、という状態にあるのだが、本人はそれを心地よいとさえ思っている。それが椿という男だった。
が、今回だけは違った。椿は自分でも驚いたが、彼の視線は、心は、全ての神経は、その少女による束縛から逃れることができなかった。外観に見とれたわけではない。もっと別の、なにか”引力”のようなものを感じた。初めての感覚だった。椿は困惑しつつも、少女の顔をじっと見つめた。すると彼女は恥ずかしそうに身じろぎすると、頬を淡い桜色に染めた。
「ご、ごめんなさい、急に呼び止めて………あの、道を聞きたかっただけなんです。帰り道がよくわからなくて。」
帰り道がわからない?自分の家への?椿と右京は顔を見合わせた。まさか、記憶喪失?いや、さすがにそんなことはないか。でも、一体どういうことだろう。不思議そうな顔をしている二人を見て、彼女はいっそう顔を赤らめると、あわてて早口で弁解し始めた。
「えっとあの、道がわからないっていうのは忘れたとかそんなんじゃなくて………わ私、田舎から出てきたばっかりでまだ勝手をよく知らないんです。今朝も叔母さんに車で送ってもらったから、あんまり覚えてなくて。クラスの誰かに聞こうと思ってたんですけど、ちょっと用があって職員室に行ってたら、みんな帰っちゃってて………そしたら丁度あなたたちを見つけた訳で。え、F組の人ですよね?あの私、今朝のアレ見てたんです。」
「あー、なるほどね!てっきり記憶喪失とかそういう系かと思っちまった。そういうことなら全然問題ねぇよ。オレは神崎右京、んでこっちの色男が東条椿な。」
謎が解けた右京は少しも物怖じすることなく、親しげな口調でさらっと椿の紹介まで済ませてしまった。こういう時、右京のコミュニケーション力にはいつも助けられる。椿は自分からは何も言わずに、黙って少女の反応を見ていた。右京の様子を見て安心したのだろう、緊張でこわばっていた表情がふわっと緩み、笑みがこぼれた。その瞬間、彼女の周りだけ花が咲いたようだった。
「ありがとう。私は久麗奈依っていいます。E組です。」
「へー、カワイイ名前じゃん。あ、つーか敬語とか使わなくていいから。むしろタメで喋ってくんねぇ?なんか慣れねーんだよな、そういうの。そんで、家どこ?電車使うか?」
「あ、いや、歩きで行けまs…行けるよ。駅とは逆方向なの。確か結構大きな公園が近くにあったんだけど……。」
「マジ?この辺で公園っつったら一つしかねーぞ。もしかしたらオレらと同じ方向かも。なあ椿?」
「………あー、”緑ヶ丘公園”?」
「あっそうそれ!そういう名前だった気がする。」
「じゃあやっぱ一緒だ。オレらの家もその公園の近くなんだよ。良かったら家まで送ろうか?おい椿、良いよな?」
「……………まあ。」
「んじゃ決まり!そうと決まれば早く行こうぜ、急がねーとそろそろ門を閉められちまう。」
三人は早足で下足室まで歩いて行き、靴を履き替えて学校を出た。椿と右京で奈依を挟むカタチで並び、ペチャクチャと会話しながら歩く。といっても話をするのは主に右京と奈依で(二人はものの数分ですっかり打ち解けてしまった)、椿はたまに適当に相槌を打つ程度だった。それでも右京は、いつもなら黙って後ろからついてくるだけであろう椿が、さほど嫌そうな顔もせずに居るのに少なからず驚いていた。
しばらく歩くと、小さな商店街に差し掛かった。まだ昼ということもあって、道は人で溢れ返り、活気に満ちていた。あちこちから八百屋や魚屋の店主が客に商品を勧める声が聴こえてくる。ある所では老人が井戸端会議をしていたり、またある所では仕事の合間にオフィスから出てきたOLたちが、新作スイーツに舌鼓を打ちながら女子会をしたりしている。並んで歩く三人の間を、数人の小学生がはしゃぎながら走り抜けて行った。
ふと、電化製品店の前を通った時、店頭に設置されたテレビのニュース番組の声が椿の耳に入ってきた。
『ーーーまたしても”怨鬼”による殺傷事件が起こりました。場所は〇〇地区、犯人と思われる鬼は未だ捕まっておらず、警察は付近の住民に注意をーーー』
「また鬼の事件か?おっかねえなぁ。〇〇地区ってこの辺の近くじゃねーの?」
椿が立ち止まってニュースを見ていると、先を歩いていた右京が戻ってきた。その後から奈依もついてきたが、テレビの画面を見るとさっと表情を曇らせた。画面には、怨鬼の出没現場とされる場所が映し出されていた。コンクリートの地面がまるで地雷でも爆発したのかという程派手に割れ、周囲の建物には大きな爪痕のようなものがついている。そして何よりそこら中に飛び散った生々しい血痕が、被害の甚大さを物語っていた。
「ほんと、怖いね………。今年に入ってもう何回目かな?怨鬼って、いつどこに現れるか分かんないのが嫌だよね。」
ーー”怨鬼”とは、ここ三十年くらいの間に国内で突如として発生した超生物のことである。個体差はあるが人間の倍ほどあるその姿は人とも獣とも言えない異形を成し、身の毛がよだつ程におぞましく、非常に獰猛で危険である。さらにタチの悪いことに、彼らは人を喰らう。何の前触れもなく突然現れては、周辺の人間を手当たり次第に食い散らかすのだ。遭遇した場合の我々人間の致死率は七十パーセントを超えるとさえ言われている。知能は無いとされているが、その発生原因や存在理由などは一切不明。生態についても分かっていることはごく少ない。最近では日本だけでなく海外でも出現が確認されているそうだ。時空の歪みから生まれたダークマター的悪魔だと言う学者もいれば、増えすぎた人類に罰を与えるべく遣わされた神の僕だとか言う宗教信仰者までいるらしい。忌むべき怪物、避けるべき災害ーーーーそれが”怨鬼”だ。
「そういえば、ごく稀に真っ赤な月が出ることがあるけど、それも怨鬼の仕業だって聞いたことがあるな……。」
椿がそう呟くと、右京は勘弁してくれと言うように空を仰いだ。
「うへぇ、これ以上ビビらせんなよ。あの赤い月だって、ただでさえ気味悪ぃってのに。」
「でもあながち嘘じゃないかもな。だって、地球上の人類が初めて赤い月を目撃したのは約三十年前……つまり鬼の出現期とぴったりカブってる。直接的には関係無いとしても、全く無関係とも言い切れないんじゃないか?」
「赤い月かぁ………。確か最後に出たのは六年前だっけ?新聞にそう書いてあったやつ。確かにあれを見たときはゾッとしたけど…………なんて言うか、その…………」
奈依が急に口ごもり、椿の顔を窺うように見てきたので、椿は「何?」と先を促した。すると奈依は顔を赤らめると、遠慮がちに、さっきよりも小さな声で答えた。
「こんなこと言ったら変な子って思われちゃうだろうから、あんま大きな声では言えないけど…………その…………キレイだなって、思ったの。」
「どぅえーーーーーッ!!まじかよ久麗、そりゃないぜ!!お前、正真正銘”変な子”だよ!!」
右京が突然大きな声を出したので、道行く人々が驚いて三人を振り返った。奈依は慌てて右手の人差し指を口の前に立てて「シィーーッッ!!」と言いいながら、反対の手で右京の口を押さえようとした。背の高い右京はひょいとそれをかわすと、両手で奈依を指差しながらからかうように笑った。
「変な子、変な子!!」
「ちょっとぉ、やめてってば!」
「………そんなに変か?俺は久麗の言うこと、分からなくもないけど………。」
「は?!何言ってんだよ椿、お前まで!!だぁ〜〜〜もう、俺の友達にまともな奴はいねぇのか?!」
「悪かったな、まともじゃなくて…………。」
「……あれ、椿くん、それ何つけてるの?」
ふと、椿の首元に、シャツの襟から銀のチェーンのようなものがのぞいているのに気が付いた奈依は、何気なく聞いてみた。別に深い意味があったわけではなく、本当にただ気になっただけだったのだが、彼女にそう聞かれた椿がギクッとしたのを奈依は見逃さなかった。
「ペンダント?結構大きいみたいだけど。」
「い、いや、これは何というかその……ただのオシャレ?みたいな………」
「へぇ、意外。ね、ちょっと見せてよ。」
「いや、そんな見せるほど大した物じゃな……………………」
不意に、椿が口をつぐんだ。右京と奈依に動くな、と言うように掌を向け、本人もじっと動かない。ただ目だけが、周囲を窺うように忙しなく左右に走っている。椿のただならぬ雰囲気に奈依はオロオロしたが、右京は青ざめていた。
「おい、何だよ急に?!まさか………」
椿は自分の心臓が激しく脈打つのを感じた。五感の全てに全神経を集中させる。うなじの毛がざわざわと逆立った。ーーーいる。何処かにーーー。この場にいる全ての人々の中でただ一人、椿だけが感じたものーーーーー殺気。それは明らかな悪意を持って、確実に近づいて来ていた。
ーーーーーーーーーーーーーパキンッ。
……小さな、本当に小さな音。商店街のような騒がしい場所では勿論、静かな部屋にいても聞こえるかどうか定かではない程の。一体この場の何人が気付けただろう。いや、おそらくは誰も気付けなかった筈だ。椿を除いては。
「伏せろッッッ!!!!」
椿が出し抜けに叫ぶのとほぼ同時に、すぐ側の電化製品店の壁をぶち破って”何か”が飛び出してきた。物凄い爆音と振動。そのあまりに突然の衝撃に、右京と奈依は反応することができなかった。壁が破られる一瞬先に動き出していた椿は、ほぼ体当たりするようにして奈依を地面に突き倒し、同時に右京の胸ぐらを掴んで思い切り引っ張った。危機一髪で奈依が飛んでくるコンクリートの塊に、右京がその”何か”に、押し潰されるという最悪の事態は回避できた。倒れ込む三人の上を、ゴォッという爆風とともにソレはかすめて行った。奈依は悲鳴を上げたが、自分の声が全く聞こえなかったのは、地鳴りのような轟音に掻き消されたからなのか単にちゃんと声を出せていなかったからなのか、分からなかった。
ソレはそのまま向かい側のビルに激突すると、狂ったように暴れ回りながら商店街の奥の方に進み始めた。
「ゲホッ………………悪い二人とも、無事か?」
奈依の上に覆い被さるようにして身を伏せていた椿は、ゆっくりと上半身を起こした。背中に積もった壁の破片がガラガラと音を立てて落ちる。辺りにはもうもうと砂塵が立ち込めていて、相手の顔がよく見えなかった。すると椿の横でうずくまっていた右京も、ゲホゴホとむせ返りながら顔を上げた。椿に無理矢理引き倒されたせいで頭から地面に突っ込んだので、顔中に擦り傷ができていた。
「ってぇ〜………ンだよ今の…!!耳ん中すげえウルセーんだけど。オレ生きてる?耳もげてねえ?」
「生きてるし、ちゃんと耳もついてるよ。そんだけ喋れれば大丈夫だな。……おい久麗、大丈夫か?」
そう言って立ち上がると、椿はパンパンと服を叩きながら奈依に手を差し伸べた。奈依はまだ放心したような顔をしていたが、椿の手を取るとよろよろと立ち上がった。頭の中でわーんという音が鳴り響いている。
「鬼だぁぁぁァァァァ!!!!鬼が出たぞぉぉォォォォォ!!!!」
街は大混乱に陥っていた。突然の怨鬼の襲来に人々は完全にパニックを起こし、互いに押したり引っ張ったりしながら逃げ惑っている。それが鬼を逆に興奮させてしまい、鬼は走り回る獲物を捕食しようと、周囲をやたらめったらに攻撃した。その度にバチャッ!という嫌な音を立てて、幾人もの人がトマトを握り潰したように真っ赤な血しぶきをあげていった。鬼が通った跡には、レッドカーペットのような鮮血の絨毯ができていた。
奈依はその鬼の姿を見ると、口を押さえて「う”っ………」と呻いた。鬼の身体は肉塊をくっつけて大きくしただけのような歪な形をしていて、濁ったようなどす黒い色をしている。かなりでかい。三〜四メートルはあるだろうか。顔の半分程もある裂けた口には無数の牙が生え並び、その量の多さ故に閉じきれていない。ダラダラと流れ出る唾液はじゅう〜っ……という音を鳴らしながら触れた石や鉄を溶かしていった。そして特に、その背中らしき所から生えている五本の爪のようなものを見ると、さながら映画に出てくるエイリアンのようだ。
鬼は未だに大人しくなる様子もなく、破壊を続けながら商店街のさらに奥へと進んで行った。
「オイオイオイオイ………!ヤベェぞあいつ、広場の方に向かってる!!人が大勢いる方に引き寄せられてんだ!!」
「おい右京、ここ頼んだぞ。まだ残ってる市民をあいつと逆方向に避難させてくれ。」
そう言い残すと、人の流れに逆らいながら、椿が鬼のいる方向へ猛然と走り出した。
「えっちょっと……東条くん?!なんっ………」
驚いた奈依は慌てて後を追おうとしたが、その腕を右京が掴んで引き止めた。
「ちょい待ち、久麗!そっち行くな!!」
「ッ何でよ?!だって東条くんは……ッ東条くんが死んじゃう!」
「いいから!!あいつは大丈夫だから!!オレらが行くと足手まといになんだよっ!!」
「はぁ?!何それどういう………あっ………」
奈依の視線が、遥か前方を走る椿に向けられた。手に何か持っている。奈依はハッとしてそれに目を凝らした。あれって、あの銀のチェーンって………東条くんがつけてたペンダント?!あんなもの一体何に使うの?
「危ないっ!!!」
椿が鬼から五メートル程の距離まで詰めた時、一本の爪が彼の死角から襲いかかった。鬼が椿の脇腹めがけて爪を振り抜いたのだ。ドウッという嫌な音がしたかと思うと、椿の身体がまるでゴムボールを床に打ち付けた時のように空高く跳ね上がった。奈依はたまらずぎゅっと目を閉じた。やっぱり。弾き飛ばされちゃったんだ。あんな大きいのにやられたら、もう………きっと掠るだけでも凄い威力だろうに。
しかし、椿の反応速度は異常だった。鬼の爪が胴を貫こうとしたまさにその刹那、椿は前に踏み出そうとしていた足にグッと力を込め、そのまま弾くように強く地面を蹴った。浮いた身体をわざと横向きにひねって回転させると、その身体は突き抜ける爪の上をぐるんと転がった。そしてまた胴体がフワッと浮いた隙に体勢を立て直すと、もう一度勢いよく硬い爪の表面を蹴った。鬼のスピードとパワーを逆に利用したのだ。ドウッという音と共に、椿は鬼よりも更に高い位置まで飛び上がり、宙を舞った。手に持った鷹の彫刻が施された銀の十字架の付いたチェーンが、イィー……ンと鳴った。
ーー”怨鬼”とは、忌むべき怪物、避けるべき災害ーー。それは、遭遇すること自体が死を意味する、人類にとって最大最悪の敵。彼らは人を喰らい、大地を引き裂き、平和をいとも簡単に破壊してしまう無情な殺人鬼であり、その身が朽ち果てるまで人間への攻撃を止めることはないのだ。…では我々人類は、彼らに屈する他無いのか。彼らに殺されるのを、何もせずただ待つことしかできないのか。ーーー否、それは違う。被捕食者という不条理に怒り、その運命に抗い、覆す為に戦うことを決意した時、人類は”力”を得たのだ。
椿は右手で十字架を胸の前に掲げると、大声で叫んだ。
「来い、鷹神楽!!!」
それを合図に、十字架の中心にはめ込まれている水晶玉が、カッと強い光を放った。同時に、とてつもない強風が突然巻き起こり、周囲に吹き荒れた。右京が興奮した顔で喚声を上げた。
「よっしゃ行けー!椿ぃ!!ブチかましたれ!!!」
「な………何………あれ……………」
奈依は、目の前で起こっている事実に頭がついていかなかった。椿の右手にはもう、銀の十字架は握られていなかった。代わりに、一体どこから出てきたのか、三尺程もある一口の太刀が、ポウッと淡い光を放っている。するとその不思議な刀が現れた途端に、鬼は弾かれたようにビクッと身体を震わせると、目の色を変えて、頭が割れるような怒号を上げた。グオオーッという咆哮が響き渡る。鬼は自分の周囲を逃げ回る人々を追うのをやめ、椿に狙いを定めた。喰うつもりは無いらしい。むしろ、怯えているようにも見えた。鬼は五つの爪の先端を全て椿に向けると、死に物狂いで突貫した。椿は刀を両手で構えると、重力に身を任せて一直線に降下した。3、2、1ーーーーーーーー入った。射程範囲だ。
「破ッッ!!」
渾身の力で、思い切り腕を振り下ろす。刃は風をまとい、青白い光の線を描きながら、鬼を伸び切った爪の先から脳天、そして全身へと走り、その身体を真っ二つに切り裂いた。
鬼は耳をつんざくような断末魔を上げると、切り口から蒸気を発しながら左右にどうと倒れた。その間に着地した椿は、前髪を掻き上げながらビッ!と刀を斜めに振って付着した血を吹き飛ばした。顔や身体中に返り血を浴びていたが、やがて地面に転がっている鬼の肉の残骸と共に蒸発して消えてしまった。
「さっすが椿!あんなデケーのをたったの一太刀で倒しちまうなんてよ!」
市民の誘導を終えた右京たちが駆け寄ってきた。右京は笑っていたが、椿は苦い顔で呟いた。
「それでも、動くのが遅すぎた………人を死なせてしまった。」
それを聞くと右京もすぐにうかない表情を浮かべた。後ろを振り返って、無惨な人の死体が散らばり、あちこち破壊された商店街の道を一瞥すると、またすぐに顔の向きを戻した。それでも彼は吐き気をこらえながら我が友人を励まそうとした。
「確かにそうかもしんねぇけど……でも、お前が助けてくれてなかったら、オレも久麗も今ごろ……お”え”ッ……い、今ごろ、ぺしゃんこに潰されてたよ。他の人たちだって同じだ。お前がいなきゃみんな死んでた。…だから、サンキューな、椿。」
「………いや、俺も………礼を言うよ、右京。…………久麗は?大丈夫か?」
奈依が半歩下がった所に俯いて立っているのを見て、椿が心配そうに声を掛けた。おそるおそる顔を上げた奈依の目には、涙が溢れていた。無理もない。こんな光景を見たら誰だって平常心で居られるわけがない。椿は気の毒に思ったが、ふと、妙な違和感をおぼえた。たった今トラウマを刻み込まれた奈依の目に、死にかけたことへの恐怖やグロテスクな光景への悪心の他に、微かな憎悪の念を感じ取ったからである。椿はそれが、自分に向けられているような気がした。しかし彼女が瞬きをすると、それは跡形もなく消え失せていた。奈依はポロポロと涙をこぼしながら、震える声でつっかえつっかえに言った。
「…東条ッくんは………一体、なんっ、何なの…………?」
椿は答えに詰まった。言うべきか?いや、言っていいのか?このことはまだ右京にしか、それも曖昧にしか教えてない。大事な秘密なのだ。しかしもう、ごまかすのは無理なのではーー?椿にはどうすることが正解なのか分からなかった。
しかし丁度その時、鳴り響くサイレンの音によって三人の意識はそっちに移された。市民の誰かが通報していたらしい。三台のパトカーと一台の救急車が、車上のランプを点滅させながら広場に入ってきた。しかし椿たちの視線は、さらにその後からついてきた一台の黒い車に注がれていた。それはパトカーの横を通り過ぎ、椿たちの目の前で止まった。ドアに”K”という頭文字のついた紋章が描かれている。運転席からドライバーが出てきて後部座席の扉を開けると、中から一人の男が降りてきた。カッ、という靴音が鳴る。その男の顔を見た椿は、少し驚いたような上ずった声を漏らした。
「大雅さん………!」
「よぉ、椿。久しぶりだな。最後に会ったのは二ヶ月くらい前か?」
男は顔に微笑を浮かべながら椿たちの方へ近づいてきた。三十〜四十歳くらいだろうか。その表情は落ち着いていて、ゆったりとした余裕さをたたえている。それでいて、ほりが深いため目に少し影がかかっているからか、どこか憂いを帯びた無言の哀愁を裏に秘めていた。肩に羽織ったロングコートの胸や腕には、彼が乗ってきた車のドアと同じ紋章がつけられている。軍服のようなものを着ているが、上から下まで全部黒なので、やや臙脂に近い赤髪がかなり目立つ。しかし何よりも目を引いたのは、彼の右肩からだらりとぶら下がり、彼が動くたびに無為に揺れている上着の袖だった。ーーーーそう、腕が無いのだ。
「大雅さん、どうしてここに………いつ戻って来たんだよ?」
「ついさっきだ。本部に直行しようと思っていたんだが、途中で怨鬼が出たという報告を受けてね。近かったから、そのまま来たんだ。まさかお前がそこにいて、とっくに始末してるとは思わなかったが………お前がやったんだろう?」
そう言うと男は、まだ微かに蒸気が上がっている場所を顎でしゃくった。椿は頷くと、手に持っていた刀を胸の前で横向きに持ち直すと、「戻れ。」と言った。刀は強く発光すると、グニャリ、と蜃気楼のようにねじれながら小さくなっていった。光がおさまると、椿の手にはまたあの銀の十字架チェーンが握られていた。奈依が驚いたようにそれを見ていると、男が椿に尋ねた。
「ところでさっきから気になっていたんだが、この二人は何だ?椿、お前の友人か?……”知っている”のか?」
「な、何をですか?」
答えたのは奈依だった。明らかに狼狽し、恐怖と苛立ちと不信感がない混ぜになっているといった様子だ。奈依は先程椿に聞きそびれたことを思い出したように矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「貴方は誰なんですか?何故軍人のような格好を?それに……右京くんは知ってたみたいだけど、東条くんが持ってるあの十字架は一体何なんですか?貴方は………”あなたたち”は、一体何者なの?」
男は黙って聞いていたが、奈依が一通り話し終わって息切れし始めると、ジロリと椿を睨んだ。椿はハッとして、慌てて必死に弁解した。
「巻き込まれたんだ、ついさっき!久麗とは今日初めて会ったばかりだし、右京はまぁ……確かに知ってるけど………でもわざと教えようとして伝えたわけじゃない。とにかく、二人とも”意図せず見てしまった”だけで、軍に害を為すようなことは一切無いんだ!だから………」
「……………だから、口封じの必要は無いと?」
グッ、と椿は言葉を呑み込んだ。両手の拳を握りしめ、上目で男の顔を凝視する。男は視線を椿から離し、再び右京と奈依の方へと向けた。二人は予想外の展開に混乱し、焦りを隠せずにいる。椿はジリジリした気持ちで唇を嚙んだ。
しかし男は、三人の切羽詰まった様子を見ていきなり吹き出した。一瞬前までの殺伐とした雰囲気など嘘のように、カラカラと声を上げて笑うと、可笑しそうに言った。
「はははっ!冗談だよ。椿がそう言うんだから、きっとそうなんだろう。君らの反応があまりにも素直なもんだから、少しからかいたくなったんだ。すまなかったね。…………ああそうだ、自己紹介が遅れてしまったな。」
男は目を瞬いてキョトンとしている右京と奈依に向かって、朗らかに言った。
「私は”黒の聖団”特別断罪執行官隊隊長、砲轟大雅。対怨鬼専門の”裁き屋”だよ。そしてーーーー」
男はポン、と椿の肩に左手を置いた。
「同じく特別断罪執行官、東条椿。私の部下だ。」
そう言って微笑む砲轟大雅の左耳につけられた、椿が持っているものと同じような銀の十字架ーーー彼のには猛々しい獅子の姿が掘られていたがーーーのピアスに埋め込まれたルビーが、炯炯と赫い光を放っていた。
いかがでしたか?
まだまだ若輩者ですが、これから皆様に、より「面白い!」と言っていただけるような小説を書いていきたいです。
頑張ります。
感想、アドバイス等ございましたら、ぜひお聞かせください。
ご精読ありがとうございました。
水水水