悪魔少年
長編にする予定だったのを諦めて、一部を短編にしてまとめたものです。
短編としてまとめたと言いながら、続きを意識したモヤモヤとした終わり方なので、それでも構わないという方、どうぞよろしくお願いいたします。
〈悪魔少年〉
凍りつくような夜。ココエリは裏通りのゴミ箱から入手した新聞をくたびれたシャツの中に入れて腹巻にした。とても温かい。人目も気にせず、再度ゴミ箱に腕を突っ込み、奥までかきあさると、使い古しのシガレットライターに届いた。燃料が残っている。今夜は運がいい。
儚げな火が汚らしく伸びた髭面を浮かび上がらせる。表通りの派手な街明かりには到底敵わない。貧困層と富裕層の差がはっきりとしているのはいつの時代だってそう。
ココエリはまた咳き込む。上半身を折りたたむようにうずくまって、ヒュウヒュウと息をする。冷気が喉を待ち針のように刺していく。彼に声をかける気まぐれ者はいない。いたとしてボロ雑巾と同等にしか扱わないだろう。
隙間から適当に表の通行人をにらみつければ、そいつらは目を逸らして早足になる。究極の美脚だというダイアモンドフット……。もはやロボットではないか。健康な脚をわざわざファッションのために切り落とすとは。落とされた脚はどこへいく? ペットのメインディッシュにでもするとでもいうのか?
「畜生。全員くたばりやがれ」
悪態はつけても表に飛び出す勇気まではなかった。
ココエリは一昔前までは湖畔都市の漁師だった。しかし、親が健在の時に水かさが急激に減少、湖の面積が狭まっていた。その湖は運河に、やがては海に繋がっていたが、親が二人とも死去した頃にはすっかり水溜まり程度になり、魚は一匹残らずいなくなった。
世界的に漁獲高が暴落。輸入品の海産物の価格も暴騰。漁業や船匠で生計を立てていた者たちは経営難に直面した。かつてない水不足と、水鳥の大移動に農家も悲鳴を上げた。マリンショックの時代到来である。
ココエリは物心ついた頃から漁師一筋で生きてきた。長男は親の職を受け継ぐと相場は決まっていて学校は通っていなかった。いや、次男だったとしても何百キロとある湖の向こう側にあった唯一の学校へ通うことはなかっただろう。湖畔都市の人口の大部分は高齢者で占め、若者の漁業離れが著しかったからだ。一応、ラジオによる通信教育を受けていた時期があったものの、博士が漁業に警鐘を鳴らしたことにココエリの父親は激怒し、ラジオを机ごと家宝のクジラ包丁で叩き壊してしまった。
大切にしていた漁船もろとも泣く泣く売ってスーツ一式を買ったはいいが、転職しようにも採用側は学歴のある者を優先した。学力の低い者は常識に欠けている、精神廃頽に拍車がかかっていると見なされ、ココエリは一次審査すら一度も通過しなかった。その日暮らしの路上生活になるのに歳月はいらなかった。自慢だったごつごつとした漁師の指は見る影もない。まあ、悪人のような目つきはだけは今昔変化なし。
喉の痛みが和らいだ。真白の息がちらちらと輝いて見えた。幻覚ではない、と思う。
ココエリは歩いた。この先にゴミ捨て場がもう一ヶ所ある。裏通りを抜けた先の思い出の土地だ。今ならまだ常連はいないだろうとふらふらしていると、既に先客がいた。
子どもだ。だぼだぼの麻衣の上下にマフラー、大人用の黒いゴム長靴という粗末な格好。何より目を見張らせたのは、その子は紙袋をすっぽり首までかぶっていたことであった。人気のない電灯も心もとない所で、一人ごそごそと食べ物をあさっては足元にゴミをまき散らしている。
「おい、坊主」
紙袋が揺れた。目の位置に穴が開いている。寒さ避けなのか、それとも自分の生い立ちが恥ずかしいのか。
「僕?」
体型からして十歳くらいだろうか。声変わりし切っていない声音だ。それとも栄養失調で成長が滞っているのか。
「初めて見る奴だな。ガキのくせに新入りか」
紙袋の二つの穴を覗き込むが、暗くてよく見えなかった。ぽっかりと闇が息をひそめているかのようだ。
「僕はずっとこうなんだ」
「いつからだ?」
「うーん……。わかんない。いつもこうなんだ」
「親は?」
「おや?」
「なんだ、物心ついた時から孤児なのか? それじゃあ恥もへったくれもねぇな」
上には上がいるもんだと、ココエリは感心した。
「まぁなんだ、仲良くしようじゃねぇか。俺はココエリだ。同輩からはココって呼ばれている。おめぇは?」
「シェリーネ」
「おいシェリーネ。俺たち家無したるもの、この世を恨んでもゴミを散らかしちゃいけねぇ。なぜならこのゴミ箱様から飯を食わせてもらっているんだ。何から何まで足りねえ世の中なのに、俺たちのために物を確保してくれてる。だから他の奴らが気持ちよくゴミをあされるように、きれいにするのがルールってもんだ」
自分の方がこの生活に慣れている。さっそく先輩風を吹かせた。シェリーネは、わかった、と紙袋を縦に揺らし、足元のゴミを真っ赤な指先でかき集める。
よい子じゃないか。ココエリは健気な子どもを眺めつつ、自分の晩飯を探した。
寒風が顔に打ち付けた。毛穴の一つ一つがすぼみ、筋肉が硬直する感じだ。目の前に広がるのは堤防と、枯れ果てた大地。虚しい夜景。ここはかつて湖があった場所である。ココエリにはもう見えなかったが、点々と黒い物がある。行き場を失った旧船で、もう使い物にはならない、錆びたやつばかり。いずれは全て回収され、分解され、溶かされる。それに便乗して、鉄くずを収集して金の足しにすることもできるだろう。しかしココエリは、廃棄物だとはいえ、人様の船を売る真似はできなかった。漁師だった者としての誇りが未だにくすぶっている。
闇夜がつんざいた。
「こりゃかなり近場だな。逃げるぞ」
ならず者らの縄張り争いが多発している。銃撃戦となれば流れ弾がどこから飛んでくるかわからない。
これは単なるお遊び。浮浪者たちを的にした遊びだ。下流社会の、下の者が下の下の者をいたぶる至って単純なもの。発砲を合図に鬼ごっこが始まり、捕まれば殴るや蹴るやの襲撃だ。弾が当たってしまっても、その場にいた方が悪いと言われるだけなのだ。死人に口無しなのだ。治安なんてうわべだけだ。
ココエリはその場を離れた。今の銃声がクビカリの耳に届いたかもしれない。巻き込まれる前に死角に逃げ込まなければなるまい。クビカリに殺されるのだけは勘弁ならない。
足音が自分の分しか聞こえないことに気づいて、振り返った。シェリーネは上半身をゴミ箱の中に突っ込んでいた。バランスを崩し、ゴミ箱をかぶったまま尻餅をつくと、ざっとゴミがなだれ出る。
ココエリと同じくぼろぼろスーツをまとったロッピと、三人の知らぬ若者が闇から飛び出してきた。
「助けてくれココ!」
ロッピは背後を気にし過ぎたあまり上半身がゴミ箱の子どもに気づかず、ぶつかり転倒した。シェリーネはゴミ箱を脱ごうとするが、ヌルヌルしていてうまくいかないようだ。
「おい、ガキまでいるぜ」
「きったねぇ!」
シェリーネをゴミ箱ごと蹴っ飛ばした。倒れ込むシェリーネにさらに蹴りを入れた。ゴミ箱がスピンしながら転がった。ゴミが擦れて、かぶっていた紙袋も持っていかれた。
「おい坊主!」
「やめてくれ、子どもは」
ロッピが止めようとするが、踏みつけられる。ココエリは立ち往生した。
どうする、俺だけ逃げるのか? 漁師の男なら荒波を恐れてちゃあいけねえんじゃなかったのか?
クジラ包丁を振り上げるかのように、ココエリは雄叫びを上げながら若者に飛び込んだ。
「畜生、俺を甘く見るんじゃねぇ!」
拳を駆使した。相手はきっと未成年だ。体格なら負けていなかった。しかし、シェリーネを蹴った少年が空へ発砲した。ココエリは硬直し、そろそろと両手を上げた。
「ったく、痛ってぇじゃねーかよ!」
反撃はあっという間。ココエリは殴られ、地面に這いつくばった。
(畜生! 畜生!)
彼は自分の腐った運命を恨んだ。
「どうする? マジでやる? それで」
もう一度、薄汚い男の脇腹を蹴り、二人は唯一銃を所持するリーダーをうかがう。
「そうだな。別にこんな奴ら、一人や二人死んだところで何も変わりゃしねぇよ」
「クビカリが飛んできたらどうするんだ!」
ココエリは怒鳴った。しかし三人組は笑い飛ばす。
「クビカリなんて怖くねーよ! この前だって逃げ切れたからなー。間違えてババアを吹っ飛ばしてやんの! ちょろいぜ!」
そんなもの武勇伝でも何でもない。ロッピは「もうおしまいだエミリー」と亡き妻の名前を悲痛に呼びながら頭を抱えた。ココエリも目をつぶり、死を覚悟した。
すると、銃声ではなく少年二人の喚声が上がった。片方のまぶたをそろりと開けると、二人が後ろに倒れ込むところだった。気を失っていた。ロッピまで情けない声を出して白目をむいた。何が起こったのか、ココエリは混乱した。
三人組のリーダーはようやく背後のそいつに気がついた。ゴミまみれのそれを見るなり、彼は目を大きく見開かせた。額に汗を吹き出させ、泡の塊を吐き、ついに白目を向いて膝から崩れ落ちた。
骨にひびが入っていないといいが。ココエリは痛みをこらえて立ち上がり、シェリーネに近づいた。じわじわと子どもの素顔がはっきりしてくると……、息をのんだ。
「お、おい坊主。おめぇ、その顔……、どうしたんだ……?」
「僕はずっとこうなんだ」
「ちょっと待て、待てよ、坊主」
ココエリは慌てて周辺を見回し、誰もいないことを確認するとゴミをあさる。くしゃくしゃの紙袋を見つけると、シェリーネにかぶせた。
人様には見せられない顔だった。人差し指と中指を使って自分の顔に大きく円を描く。親が信仰していた宗教の祈りだ。その間にシェリーネは気絶している若者の銃を手にし、しげしげと観察していた。
「これすごい音がしたね。ここをね」
「待て待て待てっ。子どもが気安く触っていいもんじゃねぇ。これは俺が預かっておく」
「はい、どうぞ」
「素直でよろしい」
ココエリは銃を懐に仕舞い込む。
「ココさん、見て」
今度は無邪気に若者のポケットから銀貨と銅貨を数枚取り出す。恐ろしい顔をしていながら声音は無垢な子どもそのものだ。
「これでね、おいしい食べ物と交換できるんだよ」
「おいおい、盗みはよくねぇよ」
「それはいいの?」
懐に仕舞われた銃のことを指していた。
「これはいいんだ。そいつらは悪さにしか使わねぇが、俺は身を守るために使うんだ。俺の方が正しい」
「そっかぁ」
シェリーネは硬貨を戻した。この子は常識も何もわからない、純粋な子なのだろう。とはいえ、ココエリは久々目にした金が欲しくてたまらず、つい生唾が……。
「ま、まぁ……。銀貨一枚ぐれぇ、もらっとけ」
「これ?」
「それは銅貨だ」
◇◇◇
これは何かの縁に違いない。悪魔だろうが、利用しない手はないのだ……。子ども一人では危険であることを口実に、二人での生活を提案した。シェリーネは一つ返事で聞き入れた。
互いの過去を語ることはなかった。シェリーネの方は単に聞かれないから言わないだけだろうし、ココエリも同じだった。頼まれてもないのに図々しく言う必要はないし、特別知りたいこともない。お互い苦労していると察する。それだけなのだ。
ココエリは一つの賭け事を思いつく。シェリーネの顔を見て耐えられるかどうかという実にシンプルなもの。参加料を払い、シェリーネの顔を見る。耐えることができたなら、その日に集金した参加料を全額支払われる。このアイデアは成功し、裏通りに男の行列ができた。
今日も一人、面白半分の怖いもの見たさに惹かれ、参加料を真新しいボンブルグハットに落とした。大男はこちらも真新しいオーバーコートを着たココエリに促され、郵便ポストみたいな形の箱を上半身すっぽりとかぶった子どもと向かい合わせに座る。『心臓の弱い方は注意! 命の保証はしません』と書かれた段ボール製の看板が小さな膝に置かれている。箱には横一筋の細い穴が開いた観音開きの小さな扉があり、中には紫色のカーテン。
「では、どうぞ」
ココエリはロープを引っ張り、カーテンを開かせた。周囲の者は、大男の背中と直角に開けられた扉によって、箱の中の顔を見ることはできない。
「ひいいっ」
大男は飛び上がり、後ろへ倒れ込んだ。これで十二人目である。まだ顔を拝んでいない者は、挑戦者に容赦ないブーイングを浴びせた。
どんな屈強な男でも、シェリーネの顔を見ればたちまち気を失ってしまう。その情けない顔を見る度に、ココエリは満足した。自分を汚物のように見下してきた奴らが、こんなにも簡単に落ちていくのだから。
「おい、おっさんは平気なんだろ?」
「もちろん」
「大したもんだ!」
どういう訳だかココエリだけ平気だった。シェリーネは自分に与えられた神の産物。そう思わずにはいられない。ようやく自分に運が巡ってきた。辛抱してきた甲斐があったのだと、口角が緩む。
「さあて、今日はもうしまいだ。また明日来てくれ」
金がそこそこに溜まり、引き上げることにした。増やし過ぎると命ごと狙われてしまう。衣類を新調したのはあくまで舐められないためで、それ以上の見せびらかしはかえって危険となる。贅沢はしたい。だが手順を守らなければ。
「坊主。カーテンは開けとけよ」
「はい」
くぐもった声が箱の穴からする。
人気のない道に曲がると、誰かが背後から近づき金の入った袋をかきさろうとした。
ほれ見たことか! ココエリは離すまいと引っ張る。
「坊主!」
シェリーネは教わった通りに手早く扉を開けて素顔を見せた。
「ぎゃっ!」
引ったくりは足をもつれさせ、壁に側頭部をぶつけた。ずるりと膝を折り曲げて倒れ、今度は後頭部をぶつけさせた。もしかしたら打ち所が悪くて死ぬかもしれない。しかし知ったことではない。こいつは失敗したのだ。蹴落とすか否か、生きるか死ぬかの時代なのだ。ココエリは息を上げながら、よくやった、と笑った。シェリーネも照れ臭そうに笑った。
二人は古びたマンションの四階で暮らしていた。ばねが弱いシングルベッドだけで場所を取り、剥き出しのレンガにはネズミの穴があった。それでも余計な寒さをしのぐに至っては十分過ぎ、まともな寝床があるだけワンランク上の生活を手に入れたようなものだった。
ココエリは帽子と上着を黒のコートハンガーに引っかける。一枚脱げばいつものボロスーツ。シェリーネは箱を脱ぎ、新しい紙袋をかぶった。この子も相変わらず、みすぼらしい恰好だった。
「別に部屋の中じゃいらないだろう」
「いらないの?」
「ああそうだ。それに、そんなペラペラの紙袋よりも温かいマスクを自分で買えばいい。その前に金の分配といこうじゃないか」
ココエリはテーブルの上にジャランと流した。金属のこすれ合う音にうっとりしてしまう。シェリーネは紙袋を丁寧にコートハンガーにかぶせてから席に着いた。
「わあ、今日もたくさんあるね!」
「ああ、大漁だ」
「やったね、ココさん!」
「さて、金貨は俺の。銀貨は坊主のだ」
「どうしていつもココさんが金貨で、僕は銀貨なの?」
不服ではなく、純粋な疑問として投げかけたようだ。
「金貨は銀貨よりも大きい価値があるんだ。俺は大人で、おめぇよりも大きい。だから大きい金貨は俺ので、小さい銀貨はおめぇのだ」
「へぇー。じゃあ大きくなったら僕も金貨もらえる?」
「当たり前だ」
「ワーイ!」
シェリーネは喜びを振りまきながら、ベッドの下に隠してあるキャンディー缶の貯金箱に一枚ずつ銀貨を並べた。
ココエリは口に手を当て咳き込き、えずいた。
「どうしたの、ココさん?」
シェリーネは振り向いて近寄る。ココエリの手のひらは赤かった。
「昨日、イチゴジャムをたらふく食ったせいだ。おめぇも気をつけろ、シェリーネ」
「うん、気をつける」
シェリーネは口元を両手で覆った。
「俺はしばらく寝る」
「おやすみなさい」
ココエリはくちゃくちゃのタオルで手を拭ってからベッドに乗り上げた。
(おやすみなさい、か……)
何だか胸の辺りがくすぐったい。
銀貨の並べる音が下でする。カタリ、カタリ、と耳を澄ましているうちに眠りの触手が伸びてきた。真っ暗闇に引きずられる時、幼い鼻歌がぼんやりと頭にこだました。この歌は――。
……細波が聞こえる。小さな漁船はゆりかごのようだ。
――おい、ココエリ。いつまでぼさっとしているんだ。早く手伝え。
――わかってるよ、父さん。
銀色の輝きの上を沿うようにカモメの群れが飛んでいる。
――今日も大漁だぞ! やったな!
――やったね、父さん!
仲間の船団も戻ってきた。歌が押し寄せてくる。大漁を祝う歌だ。
我ら陸の人間の気儘により
大漁となりました
さあ喜びましょう
泣いて喜びましょう
頭を撫でられ少年は見上げる。大声で歌う父。額から滴る汗。日に焼けた肌。筋骨隆々の体。少年もいつかこんなたくましく格好いい男になるのだと信じていた――。
◇◇◇
シェリーネは留守番をしていた。ココエリがたまに拾ってくる新聞や古本の絵を眺めては想像をふくらました。何について書いてあるのかココエリに尋ねることもある。すると彼は口籠らせてから、必ずと言っていいほど「これはおそらく……」で始め、身振り手振りで教えてくれるのだ。彼の話は楽しい。帰ってきたらまた教えてもらうつもりだ。
気に入った絵をスクラップブックに収めていると、ふと、上げ込みの窓が真っ白なことに気がついた。開けてみると雪が降っていた。シェリーネは感嘆を漏らした。綿雪がひらひらと気流に乗っている。手を伸ばすと、手のひらに一つ落ちて、熱でじんわりと溶けていく。
「えへへ、冷たい。きれいだなぁ」
鼠色の空からどんどん落ちてくる。一体誰が降らしているのだろう。誰が作っているのだろう。これも後で聞いてみよう。
向かい側のマンションの一室には老夫婦が住んでいる。たまたま妻の方が窓からシェリーネを見つけた。シェリーネもたまたまそれに気がつく。妻がくらりと失神して、夫がそれをとっさに受け止めて何かを叫んでいた。素顔のままで窓を開けるなというココエリの約束事を思い出し、慌てて窓を閉めた。
ちょうどココエリが帰宅するところだった。彼は食料を詰め込んだ紙袋を両脇に抱え込んでいた。
「おかえりココさん。それはなあに?」
「一週間分の食料と。そしてこれが一週間分の酒だ」
「たくさんあるねぇ」
「当分、外には出ないぞ」
そう言って、ココエリはおもむろに新聞を広げ、窓を塞ぎ始めた。シェリーネは何をしているのか尋ねた。
「良くねぇ噂を聞いちまった。時期に〈エスカルゴ〉がここいらを通るやも知れん」
「えすかるご?」
「クビカリだ。絶対に奴の視界に入るな。なんせ俺たちは悪人面だからな。目をつけられたら殺されちまうぞ。奴は目につかない犯罪は素通りのポンコツだ」
それ以上、ココエリは何も言わなかった。
◇◇◇
裏の世界で生きている者共。悪事を働きながらも堂々と表を出歩く者共。胸に手を当ててみれば何らかの後ろめたさを覚える者共。噂を幸いにも聞いた者共は、こぞって死角へと逃げおおせる。いつやって来るかもわからない、その存在に怯えている。
ココエリとシェリーネが二人で暮らし初めて何日目の朝だろう。いつにも増してしんと静まり返っている。東の冬空がやんわりと白みがかってきた、その頃にそいつはやって来た。
ゾゾゾゾゾ……、ギギギギギ……。
ゾゾゾゾゾ……、ギギギギギ……。
街外れから、ゆっくり、ゆっくり、と。霧の中から巡回してきた。振動に路上の小石は小刻みに跳ねる。まるで街全体が恐怖に打ち震えているかのようだ。
そいつはキャタピラを気だるげにズルズルと引きずりながら、背中から突き出た六本の管から水蒸気を噴射させた。
シェリーネは不気味な物音に目が覚めた。隣のココエリは寝ている。シェリーネは新聞で塞がれた窓に頭を寄せて見つめた。
明かりが右からよぎり、新聞に真っ黒のシルエットが浮かび上がった。
がたん、がたんこ、がすり。
丸く、そして角張ったその影は鉄同士を当てこすり、頭部が重いのか、上体は重そうに前後へゆられ、ブシュルと何本ものパイプから蒸気を噴射させた。シェリーネがいる部屋は四階。単純計算で少なくとも、十二メートルはあった。
ゾゾゾゾゾ……、ギギギギギ……。
ゾゾゾゾゾ……、ギギギギギ……。
躍動感はなく、かといって機械的でもない。鼓動のように鉄をすり減らし、うなだれ、のけぞり、溜め息のように噴射する。それでも生きてはいない、鉄の塊。悪を狩るためにこの世を徘徊し続ける、鉄の亡霊である。のろまだが、通過する時間が長ければ長いほど脳髄に恐怖を浸していく。人は絶滅種でなぞらえてエスカルゴと呼んだ。
「奴がクビカリだ」
ココエリは起きていた。
「俺ぁ奴によって殺されちまった同士をよく知っている。生きるために盗みを働くのが悪だってよ。笑えるじゃねーか」
「それは可笑しいの?」
「おかしいともよ。だったらなぜ、俺たちに仕事を与えてくれねぇんだって話さ。いや、訳はわかってんのさ。俺は最後まで生き延びてやる」
背中を向けていて顔は見えなかった。
「もうすぐ朝だ。まだ寝てろ坊主」
「うん」
シェリーネは布団に潜り込み目を閉じた。灯油のような加齢臭のするココエリの背中がとても温かかくて、安らいだ。
やがて日が昇り、騒々しさに外に出た。そこにはシェリーネの身長ほどありそうな幅の黒くて太い轍が二本、どこまでも伸びていた。
「消えちゃった」
シェリーネは腰を落とす。せっかくの積雪はほとんど溶けてなくなっていた。
「熱で溶けちまったのさ」
あの程度の降雪では水もたまらないだろう。
突然、誰かが大声を上げて、ああ今回もかとココエリは溜め息をついた。
「大変。誰かがひかれて死んでいるわ! ぺちゃんこよ!」
「自業自得だ。借金まみれの酔っ払いなんざ死んで結構!」
◇◇◇
ココエリは蓄えた金を持って、病院で検査を受けた。どこまで病は進行しているのか、彼よりも幾分にも若い医師は気の毒そうな表情を浮かべて言った。
「残念ですが、末期です」
「何? 細胞は移植できないのか?」
「範囲が広すぎるんです。一つを治癒した頃にはまた違うところに転移していると思います」
ココエリは思わず立ち上がる。
「おい、金はあるんだ。この日のために医療費を貯めたんだぞ! じゃあ人工臓器に変えてくれ。旧式なら五臓六腑買えるだろう?」
「もう一つ、脳の方にも問題がありましてね」
「まだ何かあるのか」
「あなた、漁師をしていたそうですね? 魚介類中心の食生活だったんじゃないですか?」
「それが脳とどう関係しているんだ?」
「仮に人工臓器にしても精神廃頽が進行すれば人格は崩壊し、自我が失われるでしょう。さすがに脳は取り換えられません」
自分が自分でなくなっていく。父のように。父の介護で弱っていった母のように。精神廃頽の仕方は様々だ。幻覚、幻聴、痴呆、狂暴化、幼児化……。ココエリは身震いした。粒子並のクビカリが脳内を砕いて回るかのような。火炎放射に機関銃。そして毒ガスで。脳細胞の一つ一つを確実に殺していくかのような。
医師はとうとうと述べる。あの頃の海は汚染されていたのだと。既に食卓に魚介類が出される時代は終わっていたのだと。それくらい知っている。身体改造で汚染を体内除去できるようになっても、何でもかんでもサプリメントだの点滴だの。だから父はラジオを壊したのだ。認めたくなかったのだ。マリンショックが起き始めてから父の精神廃頽は酷くなった。魚はもはや人間の食うものでなくなったことが拍車をかけたのだ。
しかし、だからといって漁師であったことが家庭の崩壊を招いたとでもいうのか。
「じゃあ、あれだ。精神洗浄剤とかいうやつをくれ。あれなら廃頽の進行を和らげれるんだろう?」
「残念ですが、この国ではまだ合法化されてないんです」
「じゃあ、どうしろっていうんだ」
「もう少し早く来て頂ければよかったんですよ」
「ふざけるな!」
感情が高ぶって手が出てしまった。医師は椅子ごと倒れ、目を白黒させながら左頬を押さえた。
「俺は今日やっと患者になれたんだぞ! なのにもうお払い箱か! てめぇも路上でくたばれってか! 薬を寄こせ!」
乱暴な患者を止めようと看護婦が割り込む。それを突き飛ばしてやると壁に激突して医療用ワゴンが倒れた。騒ぎに反応して、人間だか宇宙人だかロボットだかわからない、銀色の複眼をした奴が入室してきてココエリを羽交い絞めする。暴走患者を抑制させる役を充てられているのだろう。
「どいつもこいつも、死んじまえ! 道連れにしてやる!」
ココエリは警吏軍に連行された。取り調べの担当になった相手が悪口言いで、いつまでもねちねちとなじられた。「臭い」「じじい」は必須である。一言一言が癪に障り、ココエリは何度も耐えきれずに反発しようとしたが、取り囲んでいる複数の警吏に怒鳴られ、机に叩きつけられ、押さえ込まれた。窓がないのはクビカリ防止に違いない。
よっぽど暇なのだろう。いいや、本当に重大な事件を捜査する気がないのだろう。上の連中は闇の連中と繋がっているに違いない。「社会のゴミ」と言われた時には爆発しそうだった。クビカリの前に放り出してやろうかと脅されて、その時はお前らも地獄行きだと言い返せば、椅子ごとひっくり返された。
どんなにいいコートを羽織っても、身分は変わらないということなのだろうか。そのコートもはぎ取られてしまった。ただ、例の銃は持ち歩いてなくてよかったと思う。どこまで目ざといのか知らないが、クビカリに発覚されるのを恐れていたからだ。もし持っていたら、今より最悪なことになっていたかもしれない。
ココエリは冷たい雑居房に拘留された。既に九人も押し込められていて、雑魚寝するにも窮屈過ぎた。硬い寝床と寒さには慣れていたが、忘れていたベッドの柔らかさと温かさをもう一度覚えてしまうと恋しかった。
坊主は今頃、一人ベッドで眠っているだろう。帰宅しない自分を心配しているだろうか。食料はまだ残っているし、あいつには貯金がある。やりくりすれば一ヶ月くらいもつ。けれどもそんな能などあいつにはないだろう。
ココエリは馬鹿の一つ覚えみたいないびきをかいている男をにらみつけ、眠りについた。
◇◇◇
湖が消え失せても、深夜も灯台の明かりは回る。
大地の果てから黒の大型船が来る。船は船でも飛行船だ。といっても外見は装甲艦で潜水艦にも見え、重量感がある艦体。飛行艦とでも言おうか。とてもではないが高くは飛べない。あくまで航行の場が水面から路面へと移行された型である。通った形跡はくっきりとは残さず、できるのは風圧による砂紋のみ。
飛行艦は波止場で着地した。
◇◇◇
三日経つと、ココエリは釈放になった。以前と同じ無一文で外光に当たると、懐かしい寒さを感じた。裸になった気分だ。
(俺はこんなにもみすぼらしい奴だったのか?)
悪態すら浮かばない。虚しさが襲い、陽気な日差しが憎たらしくなる。
急に眩しく思えて首を垂らす。仄暗い影が足元に張りついている。運が向いてきただなんてとんだ思い込みだったのだ。学校に通ったことのない無能な人間が下手に頭を使おうとしたのが間違いだったのだ。ゴミはどんなに繕ってもゴミなのだ。もうこのまま、血を吐くなりなんなりしてあっという間に死んでしまいたくもなる。
強がり続けた反動がきたのだろうか。どうやら心を病んだせいで精神廃頽が進行したらしい。シェリーネが走る時に出る、カン、コンと軽快な幻聴まで聞こえてくるではないか。
「ココさーん!」
「坊主……?」
顔を上げると、クッキー缶をかぶったシェリーネが立て駆け寄ってきた。まさか幻覚ではあるまいな。
「ココさん、帰ろう」
「何でおめぇがいるんだ?」
「最初はね、病院に行ったんだよ。そうしたら警吏軍に連れてかれたって言うんだよ」
嬉しそうな声音であるシェリーネの、大事そうに貯金箱を抱えているその姿に、ココエリは事情を飲み込んだ。
「おめぇ。おめぇの金はどうした?」
「お金を払ったら出してくれるって言ったんだよ。お金ってココさんも買えるんだねぇ」
「まさか全部?」
ココエリは貯金箱を奪い取る。音が鳴らなかった。
「ねぇ、ココさんはマッキっていう病気なんでしょう? じゃあまたたくさんお金稼いでお薬買おうね」
「……いや、いいんだ坊主。俺なんかより坊主の病気を治そう」
「僕は病気なの?」
「そうとも。おめぇは病気なのさ。それもとんでもなく憐れな病気さ。誰もその顔を真正面から見てもらえないんだからな」
「ココさんは見てくれるよ。それにココさんは大きいから、ココさんの方が病気も大きくて辛いんでしょう?」
ココエリは言葉を詰まらせた。悔しいかな、涙があふれ出てきた。こんなにも自分に無頓着で、温かで、こんなにも優しい言葉をかけてくれた奴は今までにいなかった。
「わ、やっぱり辛いんだね。泣かないで」
シェリーネは爪先立ちでうんと腕を伸ばし、頬を伝う涙を指で払う。
「ああ……。俺の方がおめぇよりも何倍も辛いんだ。本当はおめぇの方が、これから何倍も辛いってのに……!」
ココエリは濡れた小さな手を握ると膝を折り、小さな体を強く抱きしめた。
「楽しく生きよう、シェリーネ。楽しくな」
「僕はとても楽しいよ。ココさんは楽しい?」
「ああ、そうだな」
焦りと悲しみ。それ以上に愛しさが湧き水のように生まれてくる。枯れ果てていた愛情が湖のように広がっていくのを感じる。ココエリはこの子のために何とかしてあげなくてはと心の底から思った。
二人は一から金を稼いだ。ココエリは違う病院で病状を抑える薬をもらった。シェリーネの顔についても聞いてみようとしたが、そっちは取り合ってくれなかった。仕方なしに本人のそれを見せるも卒倒され、逃げ帰るしかなかった。悪魔を救うなんて、人間にはどうしようもできないことらしい。いいや、この子は神が寄こしてくれた天使なのだ。
せめて引き取り手を見つける必要がある。仲間を頼るか。それも考えたが、最低限でもまともな生活をさせたかったし、何より勉強できる環境を与えたかった。勉強さえできれば、知識さえ蓄えておけば、顔がどうであれ何とかなると信じて。
一人で街をうろついていると、工場の前でロッピと出くわした。ロッピは元掘削機製造工場の職員。解雇された時期がマリンショックだったのが災いし、彼も転職に成功しなかった一人である。彼は時々ここへやって来ては、壁の向こうを覗いていた。まるで地縛霊だ。目の周りは窪んで、煤のような影が痩せこけた頬に浮かんでいる。それでもかつては男前だっただろう面影が残っていた。
クビカリの前に飛び込んで自殺を図ろうとしていたところを思いとどまらせた後で、一度だけ妻エミリーの写真を見せてもらったことがある。手垢まみれのロケットに仕舞われた命よりも大事なそれ。美しい人だった。そして妊婦だった。名前は何にしようか考えていた時期にクビカリの爆撃に巻き込まれ、流産し失血で……。駆けつけた時、彼女は名もなき赤子を包み込むようにして死んでいたという。
クビカリは罪人を狩る代償として善人の幸せを奪っていく! クビカリほど罪深い存在はないではないか。一体誰がアレを裁いてくれるのか!
そういえば、ロッピによればアレはどこかの、社名は忘れたがいくつかの企業が合同で作り出した機械らしい。しかも政府が一枚も二枚も噛んでいるのだとか。身分のよろしい役人共は世を滅茶苦茶にするのがお望みらしい。頭がいかれている。奴らにこそ精神洗浄剤を打ち込んでやるべきだろう。しかし、奴らの暴挙を止められる者はいない。反政府のテロリストはクビカリによって殲滅させられるのだ。一体何が、誰が正義なのか。
ロッピに軽く挨拶すると、彼は目玉を鋭く向けて眉根を寄せた。
「知っているかココ。キャプテン青服が来ている」
「何?」
予期せぬ言葉に動揺を隠せなかった。その名前を聞いたのは何年ぶりだろうか。青服という異名を持った、大海賊だった海境人。マリンショックを引き起こした張本人。
ココエリは見たことがなかったが、ンナウドは我々人間とは違う、もう一つの人類。海で進化した人間だ。漁師とンナウドは敵対と友好を繰り返した、切っても切れない歴史ある関係を持っていた。それも既に過去だ。漁師もンナウドも、絶滅する。ンナウドはクビカリにやられ、漁師は……。
「奴はとっくの昔にクビカリでくたばったって聞いているぞ」
「でもその場に例の上着がなかったっていうじゃないか」
「それを言うな」
ココエリは目を見開く。キャプテン青服らしき大男の死は大々的に報じられたのだ。路上に散らばった号外。燃やし狂喜する姿を至る所で見た記憶は未だ鮮烈である。
「死ぬまでに復讐してやりたかったが、今はいい」
「そうか……。青服みたいな奴がいるから、クビカリもいるんだろうな……」
「いいや、奴がいなくてもクビカリは動き続ける」
ロッピは力なく頷いた。
「この工場も、僕がいなくても動き続ける。海面が極限に下がって、海底資源の発掘に拍車がかかっているみたいだ。僕がいた頃で陸は掘りつくしたからなぁ……。石炭も銅も、随分と手を出しにくい物になったし。青服様万歳って思う奴もいるだろう」
「そう思うのは魚を食わなった奴らさ」
「違いない」
ロッピは小気味よく笑った。
「魚が嫌いな奴ほど海を疎かにした奴はいねえんだ。海を汚したって構わない。その結果がこの世の中だ」
「そりゃあンナウドも怒るだろうね」
「それでも俺ぁ、奴を許さねえのさ。運命共同体なんざ、湖の漁師だった俺にしちゃあいい迷惑よ」
ココエリはさまようようにして歩き回り、礼拝堂に行き着いた。本来はそこまで信心深くない彼にとって縁のない場所だったが、導かれるように足を運んだ。
何人かが祈りを捧げていた。彼もそれに倣い、前方の席で手を組み祈った。よく見ると、聖母の像が若かりし母に似ているような気がした。
(どうか、俺の幸せを一滴残らずシェリーネに全部やってくれ。初めて幸せになりたいって心から思ったんだ……)
聖母は安らかな笑みを浮かべ、薄汚い男を見下ろしていた。ステンドグラスの天窓からは七色の光が降り注ぐ。それは美しく尊い。あそこからシェリーネは下りてきたのだろうか、なんてココエリは思えてしまった。
彼は祈り続ける。まぶたの裏にちらつく懐かしき湖畔。冷たい水に足をつけて釣り糸を垂らす。船団が帰ってくるまで。あの歌が聞こえてくるまでじっと待つ。
――さあ喜びましょう 泣いて喜びましょう――
あの歌は、ンナウドに捧げるものでもあると教えられた。ンナウドの友の死を知らせ、弔う歌。許しを請う歌。我々陸の人間のせいで……と。
どれだけ時間は過ぎたのだろうか。耳元がしんとしていると気づくと、礼拝堂に残っていた参拝者は自分だけとなっていた。
「深いお悩みがお有りのようですね」
初老の神父が彼に近寄り、割れ物を扱うようにそっと話しかけた。
「俺はもうじき死ぬ。その前に子どもを一人、誰かに託したい」
「養子に出すのですか?」
「あいつは顔の病気で、まるで悪魔だ。一目見ただけでみんな泡を吹きやがる。養子なんてとんでもねぇ話だ。食事と毛布と顔を隠せる物を与えて、勉強を教えてくれりゃあそれでいい。坊主は金貨と銀貨の違いもわからねぇ。まだまだわかってないことが山ほどある。一人前な野郎になるまででいいんだ。頼む! ここにシェリーネを置いてやってはくれねぇか!」
ココエリは飛び上がる勢いで立ち土下座をした。
「頼む! かつては孤児院と直結していたと聞いた! 金なら死ぬまで払う! 何だったら丈夫な部分だけ体を切り取って売ってもいいんだ!」
すがる思いで何度も額を床にこすりつけた。熱心な彼の背中を神父は触れた。
「一度その子を連れて来てください」
「すまねぇ、死んでからも恩に着る!」
神父の両手を強く握りしめ、頭を深く下げた。
ココエリは気分が良かった。これほどにも晴れやかな気持ちなのは、魚が大量に網にかかった時以来かもしれない。誰かの肩にぶつかっても、おう悪いな、と笑顔で去ることができた。こんなにも心に余裕ができたのは本当に久しい。こんなにも体が軽く感じるものなのか。
ショーウィンドウに目が留まり、へばりつくようにそれを見た。彼は店内に入り、その商品を買った。
ココエリは勢いだけでシェリーネを夜の街に引っ張り出し、キャバレーに入った。三人の女を囲ませて、彼はあっという間に酔っぱらった。酒も久方ぶりで、体が驚いているのだ。
シェリーネは初めて見る世界をきょろきょろと見回す。
「ねぇ、ボクはどうしてお菓子の缶をかぶっているの?」
黒髪の女がシェリーネの肩を抱き寄せる。
「おっと気をつけな」
ココエリが注意すると金髪の女が無知の彼女に言う。
「知らないの? 悪魔の顔を持つ少年で有名よ? 見るとたちまち、どんな男も気絶しちゃうって話! この前まで貢いでもらってた彼もね、最初は自信超満々で挑んだんだけど、あっという間にオシッコちびっちゃったんだから! もう幻滅! 最悪!」
「でもココさんは平気なんでしょお?」
赤髪の女は猫撫で声で言いながら、ココエリの胸を人差し指で突く。もちろんだ、とココエリは自慢げに、真っ赤な顔で葉巻を吸う。
「ココさんが平気なら挑戦してみよっかなぁ?」
「いいとも。その代わり気絶したらその間にぃ」
ココエリは調子に乗って赤髪の女の頬にキスをした。彼女は笑顔で悲鳴を上げた。
「へっへ。ついでにこっちもだ」
「ついでなんてひどい!」
構わずココエリは残りの二人にもキスをした。
彼は家に帰ってからも上機嫌で、足元ふらつきながら酒を飲んだ。シェリーネは彼の裾を軽く引っ張る。
「ココさん。さっき、ココさん何をしていたの?」
「なんだ?」
「さっきお姉さんたちに顔をひっつけてたの」
シェリーネは自分の頬を指差す。
「あれか? あれはチュウだ! いちいち言葉にしなくたってこれ一つで愛が伝わる。世界共通の挨拶だ!」
べろんべろんのココエリはシェリーネのお菓子の缶を外し、悪魔の顔を両手で掴む。
「こう口に気持ちを込めて、愛してるよーってな! んんん!」
勢いよく唇をつけた。
「どうだぁ? 伝わったか?」
「お髭がくすぐったいよ。それにお酒の匂いが伝わったよ」
「そうか。ワ、ハ、ハ!」
豪快に笑い、カーテンの裏に隠してあった箱を彼に渡す。
「お前に二つプレゼントがある。まずはこれだ」
シェリーネは箱を開けた。中身は新品の赤革のブーツだった。
「これはなあに?」
「これは魔法の靴さ! これさえあればどこへだって行ける」
「どこへでも? お菓子屋さんにも? パン屋さんにも?」
「行きたい所ならどこへでも。疲れ知らず、怖いもんなしだ」
「うわーい! ありがとう!」
シェリーネは大喜びしながらブーツを履きステップを踏む。
「この靴大きいねぇ」
サイズは大人で、歩くとパカパカと音が鳴った。
「大人になりゃあ足は大きくなるからな。丈夫だからいつまででも履けるぞ」
「いつまででも?」
「ああ! 一生歩くのに困らないぞ。それともう一つお前にやりたいものはな、ファミリーネームだ」
「それはなあに?」
「ビーズロホフ。今日からお前はシェリーネ・ビーズロホフになるんだ。なぜなら俺はココエリ・ビーズロホフだからだ。『ビーズ』は『二番目』、『ロホフ』は冬の湖に身を投じて豊漁の神様になった女の名前で、つまりはビーズロホフっていうのは神様の次に偉いって意味だ」
「ココさん、神様の次に偉いの!?」
「どうだ、すごいだろ?」
「すごーい! やったあ、ココさんとお揃いだね! ありがとう!」
シェリーネは嘘と真を巧みに使うココエリに抱きついた。
「家族の証だ。大人になっても俺のことは忘れるなよ?」
「うん! やっぱりココさん、お酒の匂いがするねぇ!」
そう言って顔を腹部に擦り寄せた。ココエリも腕を回すと、小さい寝息が中で聞こえ始めた。一方的に連れ回したので疲れたのだろう。
「また明日、一緒に稼いでやろう」
やつれた顔で微笑み、シェリーネをベッドに運んだ。
◇◇◇
まだ夜は終わらない。賑わう酒場で、青いロングコートを着た青年が大股開きで酒を煽っている。
「お頭、探しやしたぜぇ……」
小柄で坊主の中年男が、髭面で馬面のひょろ長い男を支えながら現れた。途中、何かをふんづける。誰かの背中だった。
「おっと失礼」
強面の男が数名倒れていた。またお頭が返り討ちにしたのだろう。ウェイターが慣れた手つきで倒れたテーブルを立たせ、割れた食器をホウキで掃いている。しかしその視線は青年の方に向けられており、彼の様子を注意深く見ている。
「何でそいつはへばってやがるんだ?」
青年はちらりと目をやるだけで、心配のそぶりは見せない。
「へい。ちょいと賭け事に負けやして」
ひょろ長い男は真っ青な顔を上げる。
「思い出しただけでも吐きそ……、おえぇええええっ」
「馬鹿! 俺の足にゲロを落とすんじゃねぇ!」
坊主の男が頭を引っ叩くと、ひょろ長い男は残りの汚物の塊を吐き出した。
「聞いてくだせぇ。悪魔の顔をしたガキがこの街にいやす。その顔を見て気絶しなかったら金がもらえるってんで、この野郎を使ったんすが、このザマで」
青年は空になったジョッキをどんと置いた。
「悪魔の子どもの足が首狩る者の生家へ導く……」
このお頭は占い好きだ。専属として一人の老婆を船に閉じ込めているくらいである。とうの昔にそうなる未来を読んでいたらしく、老婆は何の文句も言わずに部屋に鎮座し続けている。
腕利きの占い師なら他にもいたのに、なぜあの老婆だったのか。お頭は一言、因縁があるのさとしか口にしなかった。まあ、あの老婆の占いによって船員は集められてきたのだが。しかし。
「ヒュー、ヒュー」
ひょろ長い男が息切れ切れに胃の辺りをさすっている。青かった顔はすっかり泥色になっている。坊主の男は呆れかえった。どういう占い結果だったのか、なぜこんな軟弱な野郎が選ばれたのだか未だ理解できない。
青年は弱り切っている船員を無視し、にやりと笑った。
「明日、そのガキの所へ案内しろ」
◇◇◇
「レーハイドー?」
「今日は先にそこへ行く。会わせておきたい奴がいるんだ」
「わかったぁ」
シェリーネはスクラップブックと貯金箱の入った袋を片手に赤いブーツを履く。その間、ふとココエリは枕元に目を向ける。
そこに銃を隠してある。彼は誘われるかのように手を伸ばし、懐に忍ばせた。万が一のことがある。そんな気がしたのだ。
二人は手を繋いで礼拝堂へ向かった。
「ココさんの手は大きいね」
ブーツを鳴らしながら、シェリーネはウキウキと言った。
「お前もすぐにこんくらい大きくなる」
「いぇーい」
シェリーネはより強く手を握ってきた。ココエリもその感触を忘れないように応えた。
礼拝堂に着くと幾ばくの迷いが生じた。しかしこれでいいのだと、ココエリは頭を振った。
神父は缶の穴の中を覗くなり、力が抜け落ちて失神した。ココエリが揺り起こすと、神父ははっとして、ふらつきながら立ち上がる。
「確かに……、この顔は……」
そう言いながら胸に星を描く。そういえば、ここは両親が信仰していたものとは違う宗教だなとココエリは思った。まあ、些細な話である。
神父はハンカチーフで額の汗を拭い、息を整える。
「これは病気ではありません……。呪いです」
「呪い? なんで坊主が呪われなきゃならねぇんだ?」
「それはわかりません。冷静に考えれば、この顔は気を失うほどのものでないはずなのに、一瞬にして恐怖心を引き出させる……。まるで、心臓をえぐり取られたような……。病気だというなら一体何の病気だというのか……。先代から話は聞いていましたが、実際に目にするのは初めてです」
「ノロいってなあに?」
シェリーネがココエリに尋ねる。ココエリも幼少期に漁師の宴会で耳にした程度だ。ンナウドの骨を砕いたものを煎じ詰めて飲むだの、ンナウドの膀胱を干したものに字を書いて炙るだの、酔っぱらいの尾ひれがついた話しか知らない。ただ、ンナウドは海の力を借りた魔術を扱うのだと。だから怒らせてはならないのだと、最年長の老漁師が子どもたちに真面目に言い聞かせていたのは覚えている。
「病気よりも厄介なやつだ。だが安心しろ。おめぇは何も悪くない。……それで、こいつを置いてやってもらえねぇか?」
「ええ、はい、もちろん。それ以外ないでしょう」
神父の回答にココエリは肩を落とした。
「僕をここに置くの?」
「ああそうだ。俺は時期に旅に出なきゃならないからな。だから大人になるまで、ここでお世話になれ。勉強もするんだぞ」
「僕はココさんと一緒にいられないの?」
「たくさん勉強して、立派な大人になったら会える。そうすりゃあいつまでも一緒にいられるさ。わかったな?」
大人になれば、物事の分別もつく。自分が死んだことも理解してくれるだろう。
シェリーネは唸っている。何かを命ずればすぐ了承していた子が初めて不服の様子を見せている。それが愛おしかった。
「おいシェリーネ。男ってぇのは、受け入れるってことも大事なんだ」
「うん」
「よし、いい子だ」
ココエリはシェリーネを抱きしめて缶をこつりと叩いた。
「どうしましょう。いつから旅へ?」
神父は旅ではなく入院することを知っている。
「そうだな……。あと一日だけ一緒に居させてくれ」
もう少しだけ離れるのを渋ったっていいではないか。シェリーネの荷物を預け、ココエリは二人が出会った船着き場まで散歩することにした。
「ココさん、その歌はなあに?」
無意識に鼻歌を歌っていたようだ。
「ああ、俺の好きな歌だ」
「僕にも教えて」
「ああ、いいぞ」
――今日も大漁だぞ! やったな!
――やったね、父さん!
波にさらわれていく思い出。
――わあ、今日もたくさんあるね!
――ああ、大漁だ。
――やったね、ココさん!
打ち寄せられていく思い出。湖の輝きの代わりに金の輝きだなんておかしな話だ。それでもシェリーネの幸せを願おう。成長した姿は見られない未練はあるが、そこは泣いて喜ぼう。
「ココさん、あれ!」
シェリーネの指の先には白みがかった灰色の大船が泊まっていた。
「わぁ、大きいね。ここから見ても大きいのに、近くだったらもっと大きいんだねぇ」
「車輪のない水陸両用の装甲艦……。青服の船か?」
まさか。
「あおふく?」
シェリーネの問いに、ココエリは艦体をにらみつけた。
「青いコートを着たクソジジイだ。そいつのせいでここから湖が消えちまった。おかげで俺たちは生き甲斐を失った」
「いきがい?」
「そうだ。昔はこの一面が水だった。魚だっていっぱい、いたんだ。朝になりゃあ水面がキラキラ輝いて、そりゃあもう、ダイヤのように綺麗だった。俺はそんな湖が大好きだった」
「さかな? あおふくのせいでなくなったの?」
「何が海の王様だ。ただの欲深い海賊だ。おめぇはそんな奴にはなるなよ」
「うん。僕はココさんになるよ」
ココエリは大笑いした。
「そうか。だがやめておけ。俺は喧嘩っ早くて、怒鳴ってばっかりだからな。おめぇはいつまでも優しい子でいろ。人の話はよく聞いて、考えて、理解して、誰かが困っている時は助けてやるんだ。いいことすりゃあ必ずや幸せになる。天国へ行ける。これは間違いねぇ」
「本当に?」
「そうだ。天国はいい所だ。天国へ行けるような、優しい子でいろ」
「わかった! ココさんも天国行こうね!」
ココエリはシェリーネのお菓子の缶を名残惜しみながら撫でた。
「よし、今日もいっちょ稼いでやろう。そうだ、おめぇ魚食ったことあるか?」
「さかな?」
「ないか? 海や湖、川に住んでいる生き物だ。うんまいぞぉ? 今日の稼ぎで買ってやる。まぁ養殖は飛び上がるくらい高いからな……。小魚一匹ぐれぇだろうが、ぜひとも味を知ってほしい。栄養満点だから、すぐ大人になれるぞ」
「うん! さかな!」
シェリーネは両手を上げて喜び、早速覚えた歌を歌った。
人生は早く尊い。この子と出会ってからは特にそう感じた。稼げるかどうか、本当はどうでもいい。あともう少しだけ一緒にいられれば良かった。
「今日こそリベンジさせてもらうぜ」
常連になった大男が今日も賭けに挑む。またもやシェリーネの素顔を見るなり卒倒した。
「おいおい、いい加減なれろよ!」
「うるさい! だったらお前らやってみろ!」
さすがに目覚める時間は早まったのか、すぐ上体を起こし反論する。次はどいつなのか。参加料は随分と溜まった。そう言って大男は挑発的な態度を取る。観客は互いの顔を見合わせる。無理だと悟っているのだ。
「いないか? ならしょうがねぇ。今日はこれでおしまいだ」
「おい、もう一度挑戦させてくれ」
大男が立ち上がると、おめぇはもう無理だと周囲は呆れ返った。
「俺も挑戦させてくれよ」
観客の輪の中から青年が現れる。悠々と近づいて、子袋を投げつけた。ココエリが中身を見てぎょっとする。金貨だけが詰まっていた。
一体あいつは誰なのか。見かけない男だ。野次馬が口々に漏らす中で、一人が呟く。
「キャプテン青服だ」
空気が張り詰めた。
「青服だって?」
「大海原の三分の二だか五分の三だかを盗んじまったっていう、あの?」
「確か、クビカリにやられたんじゃなかったか?」
「それに、昔の話だぞ。あいつは若造じゃないか」
「手術したんだろ、金持ちなんだから」
「いやしかし」
「青いロングコートを着てるじゃないか。奴の代名詞だぞ。もし他の誰かが真似して着ているとすりゃあ、ただの馬鹿だ」
青い服は禁忌なのだ。飛び交う議論を背に受けながら、青年はココエリに顔を近づけた。
「俺が、ただの馬鹿だと思うか」
「いいや。死に急いでいるようにしか見えねぇ。見つかるなりクビカリが追ってくるぞ」
「当たり前だ。俺がキャプテン青服だからな。二代目、のな」
「何?」
ココエリの額に脂汗が浮かぶ。青年の上着の中で、模様に見えたそれは動いた。青魚が一匹、いや二匹、いやもっと……。泳いでいるのが見えた。この上着が青いのは。青服と呼ばれるその訳は。
これぞ大海賊の大魔術。この中に海がある。この中に、代々ビーズロホフ家が愛していた湖が、ある。
手を伸ばしたくても、体を動かせなかった。二代目を名乗る青年のぎらついた視線が喉笛を狙う刃物のように冷たく感じたのだ。
なぜ二代目なんてものが存在する? 息子なのか? ンナウドには見えない。なぜその上着を継いだ? なぜ元に戻そうとしない? たとえ汚染されていても、それは自分にとってかけがえのないものだというのに。
「さあ、俺にも見せてくれよ。悪魔の顔ってやつをよぉ。気絶しなかったら、そのガキは俺がもらう」
「なんだと? そんなルールはねぇ」
「今ぁ作った。その金は全部くれてやる。半年くらいは遊んで暮らせるだろ」
半年だと。そんな時間はない。あのまま礼拝堂に預けておくべきだったと酷く後悔した。
「いいじゃねぇか。天下のキャプテン青服様でも、そいつの顔には敵わないさ」
大男が余計な後押しをしてしまう。確かに、今までシェリーネの顔を見て平気だった奴はいない。大丈夫だ。またいつものようにあっという間に失神する。そうに決まっている。
奴で最後だ。奴を倒したらすぐこの場を去ろう。そして礼拝堂に行くのだ。魚はもう諦めるしかない。約束を破ることになるが仕方がない。シェリーネのためだ。
「……いいだろう」
喉を詰まらせながらも、ココエリは了承した。青年が箱に顔を入れる。観客は結果を見守る。
一体どうなったのか、それはすぐ判明した。
青服の背中が震えている。不敵に笑っている。
「なるほどなぁ。この世のあらゆる悪を取り込んだような面じゃねぇか」
観客はどよめいた。さすがお頭だと、観客に紛れていた坊主の男が感銘する。
「そんな馬鹿な。目を閉じてたんだろう!」
ココエリは動揺する。
「そ、そうだ。ずるは男としてよくないぞ」
大男が指摘すると、顔を出した青年が鼻を鳴らす。
「おいおい、じゃあ何のためにこの箱の後ろは透明になってんだ? ああ?」
この郵便ポストのような箱。実は上半分から裏側にかけて斜めに大きくカットされていて、透明のプラスチック板をはめ込んである。挑戦者がしっかり目を開けていることを確かめるためだ。シェリーネに確認を取るまでもなく、ココエリはいつも相手の目を見ていたのである。それについては今までの挑戦者も承知している。
そして青年は間違いなくシェリーネの顔を見据え、笑ったのである。それでも。
「よそ見してつい見逃したんだ。おい坊主。こいつ目を閉じていたんじゃないか? そうだろう?」
「え? この人」
「目を閉じていたんだ! なあ、そうだろう!?」
「ココさん、どうしちゃったの?」
シェリーネはいつもと違うやり取りに混乱する。
「おいガキ。目が合ったろう?」
「え、う――」
「言うんじゃない!」
ココエリは怒鳴り、シェリーネは震え上がった。
「聞こえたよなあ? うん、だってよ? そう頷いたよなあ? 約束通り、ガキは頂くぜ」
青年がシェリーネの腕を強引に引き寄せる。慌ててココエリは手を伸ばすも宙をかすめた。
「約束は無効だ!」
ココエリは懐から銃を取り出した。
「ココさん、怒ってるの? ごめんなさい、怒らないで」
「大丈夫、お前に怒ってるんじゃない、怒ってやいないさ」
「本当に?」
「本当だとも。いつも俺は優しかったろう?」
「うん!」
ココエリは冷静になろうとした。胸がやけにむかむかする。
「キャプテン青服の二代目とやら。悪いがそいつはやらん。売り物じゃねえんだ」
「知るかよ。こちとら必需品をそろえてるだけなんでね」
「どういう意味だ?」
「ムカつくクビカリの主をぶっ殺すんだよ。それにはこいつがいる」
「知るか、そんなもん!」
「知るかだあ?」
青年は眉尻を下げてケラケラと笑った。
「おーい、おっさん。これはボランティアって奴だよ。俺が、クビカリをぶっ殺す、って言ってんだよ。毎日ビクビク暮らしてるお前らを代表してな。この勇気、褒め称えてほしいくらいだぜ」
「信用ならねえ! そいつにはもう引き取り手がいるんだ。海賊にやる訳には」
声が詰まった。急に胸が押し潰された感覚になり、激しく咳き込んだ。
「ココさん?」
血を吐いた。
「おい、おっさん。病気だったのか?」
大男が慌てふためいている。
(うう、クソ! こんな時に!)
呼吸がうまくできない。声を絞り出そうとすると、喉がぎりぎりと痛む。青年は子どもからおもちゃを取り上げるように銃を奪った。こりゃあ安っぽいな、などと言いながら。
「辛そうだな。それじゃあ、いつでも死ねそうじゃねぇか」
そう言って銃口をココエリの額に向けた。
「海賊にはやらん……。いい子なんだ……」
金を稼ぐための道具にした罰なのか。
自分のことばかり考えていたからなのか。
それでもあの子だけは。
あの子だけは、守らなければ。
卑しい人間の分際でも、責任を持って、この子を。
「金は返す……。俺のせがれを、返せ……!」
青年は引き金を引いた。
(ああ、そんな)
銃口が火を噴いた。
(俺はろくでもねえ野郎だ)
あの子を不幸にする訳にはいかないのに。
(許してくれ、シェリーネ)
ココエリの青白い額は貫通し、血が後頭部から噴射し、ココエリはのけ反り倒れた。
「ココさん? ココさん大丈夫!?」
シェリーネは彼の傍に寄ろうとするが、青年の腕から出ることができない。
「青服二世!」
誰かが呼んだのか、複数の警吏軍が人の輪を押しのけた。
こりゃいけねぇ。坊主の男は銃殺に目を隠しているひょろ長い男の脇腹を肘で突く。二人はどさくさに紛れて逃げた。
「おお、警吏軍の下っ端のお出ましだな」
「逃げ場はないぞ!」
警吏軍は一斉にライフルを構えた。俺は関係ないぞ、と大男は両手を上げながらこっそりと足を引きずらせ、見た目よりも軽かったココエリの両脇に腕を回すと、またこっそりその場から遠ざかる。
「そうかい。じゃあ逃げ道作らねぇとなぁ!」
シェリーネの箱が宙に投げられた。女が叫んだ。男が卒倒した。人間ドミノだ。青年はシェリーネを肩に担ぎあげて走り出した。
「ガキが誘拐されちまった!」
寸前のところで目を片手で隠していた大男が言った。
「く、クビカリに、信号をお願いします……!」
倒れた拍子に、奇跡的に気がついた巡査は連絡した。規定を持って、警吏軍は付近にいるクビカリに信号を送る権利を有していた。街をおびやかすクビカリはもろ刃の剣。しかし相手はキャプテン青服。無条件にクビカリを呼び寄せなければならない。
二人の船員は飛行艦に乗った。
「エンジンかけろぉ!」
坊主の男の濁声を合図に艦体が目覚める。
「発進だ!」
青年がタラップの手すりにつかまった。その拍子にシェリーネのブーツが片方脱げ、波止場に転げ落ちた。シェリーネは暴れた。
「靴! ココさんの靴ぅ!」
「暴れるな! これだからガキは嫌いだぜ!」
「ココさんの靴ぅ!」
届きもしないのに、必死に手を伸ばした。見かねてひょろ長い男は艦から降りた。焦って最後の二段から飛ぶと、膝が弱いのでガクンとへたり込んだ。
「あんのボロ雑巾野郎、何やってんだ!」
飛行艦はじりじり動き出す。艦尾のスクリューが唸り、砂を巻き上げ、波止場から離れていく。ひょろ長い男はブーツを拾った。足元に銃弾が飛んでくる。追いついた警吏軍たちが次々と発砲した。
「ひえぇ!」
ひょろ長い男は頭を抱えながら走った。坊主の男が身を乗り出して手を伸ばす。彼は腕が短く、ひょろ長い男の手は空振りする。銃弾がまた足元に飛んできて、ひょろ長い男は恐怖で大きく跳び上がった。手が届き、引っ張り上げられた。
「この頓馬! お人好しにも程があるぞ!」
坊主の男は怒鳴り、跳んで彼の頭を殴った。
「だって、靴……。はい、どうぞ」
ブーツの片っぽをシェリーネに渡そうとすると、その顔に倒れ、一回転したブーツが顔面に命中した。
「そいつの顔を隠してくだせぇお頭」
坊主の男は顔を見ないように首をひねった。
「ったく、どいつもこいつも気が弱っちいんだよ!」
青年はシェリーネの頭をぐいっと下に向けた。
加速する飛行艦。斜面を下り、捨てられている小船の残骸を押し退けていく。
『キャプテン。〈サンバー〉が一機』
『丑の方角、五キロ先、確認』
二人の操縦士の報告が入る。サンバー型クビカリは四足で移動した。肩高は三メートルも満たないが、黒光りする二本の角は三段階に伸び、その高さは七メートルに達した。一歩踏み出すごとに左右に揺られるロスはあったが、エスカルゴ型に比べれば雲泥の差で素早い。首は一八〇度に動かせ、視野は一六〇度あった。
「壁と煙幕だ!」
キャプテンの怒鳴り声に、二人の操縦士はそれぞれ防壁魔弾と煙幕弾を射出させた。〈サンバー〉は脚を止めると角を限界まで伸ばし、一度に六機のミサイルを発射させ、反動で二歩後退した。
防壁魔弾が空中で発動し、薄紫の光の粒がドーム状に広がった。ミサイルは薄紫の壁に触れるなり爆発し、直後に地上の煙幕弾が発動した。半円状の煙幕は艦体を隠し、クビカリの電波や熱に至るまでの探知能力を不能にさせた。
今度は艦体からミサイルが二機発射される。操縦室からなら煙幕の向こう側が見えた。〈サンバー〉はジグザグに跳ねながら前進している。飛行艦はその間に煙幕の隅まで移動し、また二機発射させる。ミサイルは首を回している〈サンバー〉を追尾し、右角と左前脚を爆破した。
脚の関節が弱点の〈サンバー〉は電気をほとばしらせながら残りの脚を痙攣させる。〈サンバー〉は特に断末魔の音が酷い。例えるなら狂った女の悲鳴で、青年も不快をあらわにする。
機体はゆっくりと斜め前へ倒れていき、爆発した。爆風が煙幕を完全に吹き飛ばしてしまう前に艦体は進んだ。
「その子どもが婆さんの予言した悪魔の子か?」
副船長に当たる男が言った。首から右腕にかけて火傷の痕があり、無傷な左腕には刺青がある。
「見てみるか?」
「よした方がいいですぜ。あんたまで気を失ったら洒落になんねぇ」
後ろに隠れていた坊主の男がひょろ長い男を引きずりながら言った。
「ココさんのところに帰ろうよ」
青年は子どもの声を無視して艦内を突き進む。研究室を通った際には白衣の男にガキ用でガスマスクでも出すよう命じた。
最奥の黒い木製の扉を開けると独特な渋い香りが広がり、青年は顔をしかめる。その部屋は天井の低い座敷となっていて、黒いローブを着た老婆が鮮やかな紫色の座布団の上に座っていた。
「また殺したね」
開口一番、しわくちゃの顔を波打たせながら言った。
「あんたの言う通り、悪魔の子を連れてきてやった」
「別に言う通りにしろとは言ってないよ」
「けっ」
青年は気に食わなさそうにシェリーネを座敷に放った。
「ここまで近くへおいで」
垂れ下がったまぶたをシェリーネに向けて手招きする。シェリーネは目の前まで這って正座した。老婆はシェリーネの顔を両手で触った。頭、額、目、耳、鼻、口、顎――と、子どもの顔の作りを確かめた。青年は老婆の柔いまぶたが小刻みに揺れるのを真顔で見つめる。
老婆は目が見えなかった。古木の枝のような指がシェリーネに触れるたび、彼女のまぶたの裏に古代の壁画のような動く抽象画として、悪魔少年の本来姿が生き生きと描かれていく。
それを前提に、老婆は尋ねる。
「お前は自分の顔をどう思う?」
「ココさんは病気だって言ったんだ。でもシンプさんは呪いだって言うんだ」
「それは呪いだ。そう簡単には解けない、とっても面倒な呪いだ。お前は母親のことを覚えているかい?」
「ははおや?」
「何、思い出す必要はないよ。それくらいお前の母親は罪深いんだ」
「おばあさんは知っているの?」
「ああ、わかるともさ。子どものお前には口が裂けても言えないくらいにね」
老婆は小気味悪い声で笑った。
「名前はなんというんだい?」
「シェリーネ・ビーズロホフ。いい名前でしょ?」
悪魔の顔した少年は嬉しそうに首を傾げた。
〈了〉