優しい人
N少年は御友人の居ない方でありました。
猫である私の眼からもそう映りますように、いつも御1人で居られたのは確かで御座います。
御友人を「つくれない」と申しますと、そこには語弊が生じまして、「つくらない」と云うのが正しいような気が致します。
しかし、やはりそこにも御幣が生じまして、彼の性質上「つくれない」と申した方が、矛盾は否めませんが、そちらの方が正しいような気も致すのです。
私はと云いますと、N家で食を頂く野良猫ですが、野良猫とは云い難いほどにN家では良くお世話をして頂いております。
N少年と出会いましたのは、一昨年の晩秋を迎える時期でありました。
彼はやはりその時も御1人で居られ、少し不似合いに感じます、頭よりもひとまわり大きい黒いランドセルを背負っておられました。
その時の私には余程印象的でありましたのでしょう、彼の黒い瞳は背筋の凍る冷たい光をもっておりました。
その当時から、人間と「仲良く」というのがお嫌いのようでして、度々近所の子供が仲良く「仲良くして」おりますと舌打ちをならされておりました。酷い時には、その者達を地に沈めるようなことも何度か。
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「これ、友達だから、」
今年の冬で十をお迎えなさるN少年は、初めて「御友人」を家に招かれたのでありました。
私は驚きの余りに、家政婦の横川さんから頂きました煮干を口から落としてしまいました。
しかし、まぁ、それは何と申しますか、「御友人」と云う関係とは少し可笑しな気も致すのですが、そこにはやはり、「御友人」というような言葉しか関係をあらわせれないようなものなのです。
その御友人とは、茶色の毛を持ったまだ幼い子猫でありましたので御座います。
N少年がその子猫を拾ってきたことになるのですが、その子猫の状態から察するに、恐らく近所の子供にでも虐められていたところをN少年が助けたのでしょう。
少し美しくまとめたような気が致しますが。
私は口から落とした煮干を咥えなおし、春紫苑が綺麗に咲く庭を眺めました。
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「坊ちゃま、その子猫飼われるんですか?」
横川さんの問いにN少年は、そうだよ。と短く返事を返しただけで後はご自分の部屋に入ってしまわれました。
「坊ちゃまが友達だと仰るから何事かと思えば、子猫だなんて。ねぇ、ナツフジさん」
横川さんは私の名前を呼ばれ、「ナーゴ」と返事を致しましたが、そこには横川さんの姿はもう御座いませんでした。
何やら、N少年の初めての「御友人」が家に来たものですからご飯やらを慌てた様子で買いに行かれたようでありました。
塀の上で横たわる私の鼻先を夏のにおいを感じさせる風が、通り過ぎたのでありました。
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暫くして、その茶色の子猫は「缶吉」と名付けられました。ご飯として与えられていた「ツナ缶」が大好物だったので。
どことなく趣味が悪うような感じはするので御座いますが、N少年が缶吉に時折みせる、温かみを含んだ優しい眼は少しも悪うような感じは致しませんでした。
私が一昨年の晩秋に見た、凍るような眼もいつの間にか見かけなくなったのでありました。
何もない夜空に星を散りばめたような、
何も書かれていないノートにありったけの字をつめたような、
光を通しても黒いビィ玉に、白い筋をいれたような、
缶吉は兎に角、N少年の心に居場所を作ったのは確かでありました。
***
擬宝珠が花を咲かせた晩夏の頃でありました。
缶吉がN少年にサヨウナラをしましたのは。
元々身体が弱かったのか、何だったのかは、事実を私は分かりませんが、少なくともその小さな命を落としたのは事実でした。
何をそんなに急いたのでしょうか、何をそんなに急いてしまったのでしょうか。
まだ何もない、夜空は小さな星を大切にすることはできなかったのでしょうか。
まだ何も書かれていない、ノートは字をつめることはできなかったのでしょうか。
光を通しても黒いビィ玉は、やはり何も通さなかったからなのでしょうか。
いいえ、違いますでしょう。
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N少年は、また、前の眼をするようになられました。
ツナと居た時間はそこには無かったように、静かに、激しく、その眼を戻されていきました。
仲秋に入った頃には、横川さんが春の間に植えました孔雀草が立派な花を咲かせ庭を彩りました。
缶吉を埋めた土にも孔雀草は覆い被さり、そこにあった寂しさは和らいだような気が致しました。
N少年の心には、その孔雀草は咲き誇らず、土と缶吉だけがあるような風に思えましたは私だけでありましたのでしょうか。
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「学校にカンキチって呼ばれてる生徒がいるんだよ、」
N少年の口からそれを聞いたのは、N少年がランドセルから学生鞄へと移った中学生の時でありました。
他の誰に云ったわけでもなく、恐らく私に申されたのでしょう。
後は、口を閉じて視線をどこか彷徨わせながら意識を手放した様子でした。
只、目を閉じるN少年の顔を私は一生忘れないことだと思います。
そうして、私も意識を手放し、永い眠りについたのでした。
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優しい人