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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
番外編群・アダムの林檎
95/97

林檎の、花言葉

「ち……違います……そんなことはありません……!」


 私の目の前、侍女のフェイスがハンカチに顔を埋めて泣いている。いや、泣いていると言うよりもこれはもはや『泣き崩れた』とでも表現した方が良い状態だと思う。


 ……フェイスをこんなに大泣きさせてしまったのは、どうやら私であるらしい。

 言い訳に聞こえるかもしれないけれど、泣き出した根本こんぽんの原因はまた別のところのある。……のだが、こんなになるまで彼女の気持ちを追い詰めたのは、恐らく……たぶんきっと、私なのだ。


「あの……フローティア様。フェイスを部屋で休ませてもよろしいでしょうか……?」


 何故にこんなことになったのか途方に暮れる私に、テティがおずおずと伺いを立ててくる。


「え……ああ、そう……そうね。テティ、お部屋まで一緒に行って、落ち着くまで側にいてあげて。……フェイス、何か私、酷く変な事を言ってしまったみたいだわね、許してくれる……?」


 フェイスが屋敷内の私室に戻ることに否やは無い。もともと彼女を今日の午後から明日の午前中一杯まで部屋にさがらせ、所謂いわゆる『居留守』を使わせる許可を出していたのだ。

 私の謝罪の言葉に、真っ赤な目をしたフェイスが驚いたように顔を上げ、ぶんぶんと音がしそうな勢いで頭を左右に打ちふるう。

 激しい嗚咽ではっきりとは言葉になっていなかったけれど「とんでもございません」とか「滅相もございません」と言う意味の事を言いたかったのだと思う。


 今日はゆっくりと休み、また明日の午後からこれまでと同じく働いて貰いたい……と、出来るだけ優しく告げると、見開いた菫色の瞳から涙を辺りに振りまく激しさで、フェイスが首を縦に幾度も振った。


「それでは……暫く下がらせていただきますフローティア様。一応エリルージュに声を掛けておきますので、戻るまでよろしくお願いいたします」

「私は大丈夫だから気にしないで。それよりもフェイスの事、ゆっくり休ませて上げてね」


 テティが私に目礼を遣し、部屋を辞して行った。静かに扉が閉じられて二人の気配が廊下の向こうに消え、しばし後。


「……どうしてこんな事になったの……?」


 私は利き手を額に当て、椅子の背もたれにぐったりと身を預けながら呟いた。

 目の前のティーテーブルにはお茶菓子、それから中身の冷め切ったティーカップが三客あるばかり。私の問いへ答など返って来やしない。

 ……それはそうだ。一緒に遅い昼食代わりのお茶を戴いていたテティもフェイスも出て行ってしまったのだもの。

 

 瞼の裏にフェイスの肩を優しく抱きながら退室して行ったテティの姿が残っている。

 あの構図的は、意地悪な女主人から友人を庇う図だ。

 もちろんテティの表情も態度もフェイスを心配し、職務中の中座に対する申し訳なさ以外は示されていなかったから、あくまでも構図的なものだけなのだが。


 ……でも、テティの真意はそうじゃなくとも、実際私は底意地の悪い女主人だったのだと思う。……一体どこがいけなかったのか、自分ではっきり理解出来ていないところが最悪だ。



 大公城に『侍女』として置くわけにも行かぬ為、元婚約者であるゲオルギ青年が家族を説得し『元婚約者』から『元』の文字を取り消し迎えに来る日まで、プシュケーディア姫から身柄を預けられているエリルージュは現在バルドリー家の客室付き使用人として働いていた。

 客室棟はフェイス達の私室ともこの部屋とも反対翼の棟にある。テティらの代わりを務めにエリルージュがやって来るまではまだ時間がある筈だ。


 私はこの状況を引き起こした原因について理解するために、背もたれに寄りかかったままこの半日に起きた出来事の反芻を始めた……。



 

 ***


 真冬と荒天以外の朝、目覚めてすぐにバルコニーの扉を開くのは、ユーシズ滞在時の私の習慣。


 旭日きょくじつに照らされたフドルツ山は金色の靄を羽衣のように纏い、盛りの春の馥郁たる緑の香りがひんやり湿り気のある大気に満ちていた。

 丘陵地帯には青々と牧草が育ち、麦秋を目前、麦は優しい緑海となり清かに揺れる。風に混ざるは休耕地のクローバーだろうか。

 ふ……と、大気に満ちる緑の薫香の中に甘い香りが混ざるのを感じた。


 ……林檎の花が咲いてる……。


 それに気づいたのは、冷涼な高原である故郷エドーニアが林檎の栽培の盛んな土地だったから。

 林檎と言う木は、実を結ばぬ花のうちから『林檎』の香りを漂わす。


 屋敷の奥庭の奥。遠景をなす樹林の後ろにはバルドリー家の農園があり、屋敷で消費される魚以外の、肉類や乳製品、野菜や果実などの殆どがこの農園の生産物で賄われていた。当然林檎の植わる果樹園もあって、この香りの出所はそこだろうと私はあたりをつける。

 胸いっぱいに甘い香の混ざる空気を吸い込み、眼裏まなうらに薄く紅の色を帯びた白い花を咲かせる林檎の木々を幻視した。


 このところサイノンテスの港の改修や街道整備、それに商会の事業関係の会議や会合で外出の多いグラントとは、就寝時間のズレから寝所を別にすることが多い。夕べも彼は資料や書類の確認で就寝が遅く、別の部屋で休んでいた。


 まあ……グラントは驚くくらいに体力のある人だから、今頃はもう起き出して日課の剣術の鍛錬を行っていることだろう。

 今日の午後にはブルジリアから一時帰国のシュトームと、セ・セペンテスから合流したジェイドが報告書を携えてこちらへ来る。

 きっと明日の朝は三人……いいえ、サラ夫人も参加して四人の試合形式の鍛錬になるに違いない。


 朝食まで時間もあるし、林檎の花を見に遠乗りにでも行こうかしら……?


 ふと浮かんだその考えは、浮かぶと同時に自身によって却下される。


 ……駄目。今日は亜麻あま織布しょくふ技術学舎の視察があるのに、まだ資料の確認が出来ていないんですもの。


 このまま私は林檎の花の事など忘れ去るべきだったのだ。……それとも、技術学舎へフェイスとテティを連れて行かなければ良かったのだろう。

 だけど亜麻織布技術学舎には、機購入の為の基金に協賛してくれる何軒かの染色工場の工場主夫人らも来る予定。

 今日の私は上位貴族の妻らしく、侍女を従え鷹揚に振舞うさまを見せる必要があったのだから、二人きりの侍女を置いて行くとの選択肢は無い。


 視察を終え、私達を乗せた馬車は護衛の私兵とともに帰路についた。バルドリー家の正門方面の広い道を町に向かった往路を行かず、やしきの裏手の果樹園を通る帰路を希望したのは半ば断られるのを覚悟してのこと。

 護衛や御者、従僕として同行したシェムスが首を縦に振ってくれたのは、このところ忙しく動き回っていた私を気遣ってくれたからだろう。


 かくして、私と二人の侍女を乗せた馬車は『林檎の小道』と呼ばれる果樹園内を通る農道へ走り入った。

 二頭の馬による八本の脚が鳴らす蹄の響きは軽快。明るい水色の春空を背景に咲き乱れる林檎の花は美しく、空気を満たす林檎の香は私の疲れた心を大いに慰めてくれた。私もフェイスもテティも、このドライブを楽しんでいたと思う。

 ……少なくとも、林檎の花言葉を車内の話題に出すまでは。


 話の流れを思い出すに、それは『摘花てきか』についての話題からだった筈。

 果樹園の林檎は八分咲通り花を咲かせており、既に開花の早かった樹木では農婦らが花を摘み取る姿が見えていた。作業に出ている人数と果樹園の規模、それに満開を迎えた花が散り始める時期から考えて、今日が最高の花見日和だったことは間違いない。


「あと二日三日経ってしまっていれば、さぞ貧相な眺めになっていたでしょうね」


 ……との私の呟きに、肯定の頷きを返して来たのは近辺の農村出のテティで、不思議そうに首を傾げたのはフェイス。


 いまだ花の咲ききらぬ枝もある。二日三日なら花は満開か、早くとも散り始めとでも思ったのだろう。

 林檎栽培の盛んな土地を故郷に持ち生家に果樹園があったから私は知っていたけれど、セ・セペンテスの中心街出身のフェイスが『摘花てきか』について知らぬのも道理。


「大きくて甘い実をみのらすのに、花とかまだ小さな実を必要な分だけ残して毟ってしまう『摘花』って言う作業をするの。ほら、向こうに大勢出ているのがそうよ。花満開の綺麗な状態が見れるのは長くないわ」


 とのテティの説明を受け、フェイスは感心しきりの様子を見せていた。


 ───ここまでは、良かったのだ。

 このまま私は黙って花を眺めていれば良かったものを、どうして私は花言葉の事など思い出したりしたのだろう。

 

「林檎の花の花言葉に『選ばれた恋』とか『選択』と言うのがあるのだけれど、こうして摘花作業を見れば言い得て妙だと感心してよ」

「まぁ? 『選択』に『選ばれた恋』ですか。初めて聞きましたけど、その花言葉を考えた人は随分と果樹に詳しい実際家だったんでしょうね」

しくは……とてもウィットに富んだ詩人だと思うわ。林檎は果実の方にも『誘惑』と『好物』って言う花言葉があるの。枝から落とされずに『選択』された花だけが、甘くて美味しい『誘惑』の果実になるってことかしら」


 これらは全て私とテティの会話でフェイスが言葉を発したのは、この後の事。


「だけど……花を落としてしまった林檎の木は惨めな姿になってしまいますわねぇ。そんな有り様じゃあ、人に好かれる果実をみのらせる事も出来ずに、きっといずれ枯れ果ててしまいますねぇ……」


 常に無い、暗くてしゃがれた声に驚き見れば、フェイスがその菫色の瞳から静かに涙を流していた。

 フェイスの名誉の為に言わせて貰うけれど、普段の彼女は私生活を職場に持ち込むような人間ではない。こうなったのは心に抱えた苦悩が私達の会話をきっかけに、自制を振り切ってしまったのだろう。


 フェイスの涙の理由が恋愛絡みだととは、前後の会話の内容からなんとか察っした。

 ……それに、彼女の心を乱した相手がグラントの部下のシュトームだろう事も。

 まぁ……シュトームはフェイスへのアプローチを周囲に隠すことなく堂々と行っていたから、気づかない方がどうかしているかもしれない。


 うろたえる私の目の前、事情を知っているらしいテティがさっとハンカチを手渡した。

 涙を拭いながら仕事中に取り乱した事を詫びるフェイスだけれど、私は怒ってなどいない。テティにもフェイスにも、グラントに浚われアグナダ公国に入国して以来ずっと世話になっているのだ。

 特にグラントが止めるのを振り切り帰国を決めた後、涙を止めることが出来ずにいる私を彼女たちはとても気遣ってくれた。

 私にフェイスの苦しさを和らげる手伝いが出来るのなら……と考えた時、ふと思い出したのは今日の夕方、一時帰国のシュトームがユーシズにやって来る予定であると言うこと。


 この時点、私はフェイスの言動から彼女とシュトームの関係の破綻……所謂『破局』と言う状況を想定していた。それなら帰国した彼と顔を合わせるのも辛かろう。自分ならシュトームの滞在中、フェイスを匿う事が出来る。

 だから私は柄にも無く自分に手助けできることは無いか……と彼女に聞いたのだ。

 テティも同僚の痛ましい様子を見かね、私に話して協力してもらってはどうかとフェイスを促した。



 ***


「……ここまではいいのよ……」


 今日、林檎の花が朝のバルコニーに香ったことは偶然。果樹園の農道を帰路に通ったのは私の提案だが、認められたのは偶たま。……花言葉など思い出して口にしたのは……若干、本から得た知識の垂れ流しだったかもしれないが、それがフェイスの心を痛めつけるとは想像出来なかったのだから、不可抗力としておこう。


 帰着後の会話の中、私はフェイスがシュトームと別れたと聞いた。

 だからシュトーム滞在中彼と遭遇したくないのであれば、そのようにはからえるがどうしたいかと問い、彼女も仕事に支障を来たさぬのならそうしたいと答えたので、その希望を快諾した。

 午後からは短時間の面談が一件あるだけで彼女がいなくてもなんとかなる。

 フェイスはその顔に憂いを残しながらも、私に感謝の言葉を伝えてくれたのだった。



 ───フェイスは、シュトームからの求婚を断ったのだとか。しかもシュトームが未だ彼女を諦めていないと言うのだから、フェイスが彼を避けたがるのも当然だ。


 花言葉を聞いた時のフェイスの様子が若干状況にそぐわない気がするけど、『惨めに枯れ果ててしまう』のが振られたシュトームの方と考えれば……まあ、辻褄が合うかもしれない。

 きっと別れ話の後、シュトームは酷い落胆でも示したのだろう。そんな風に、終わった相手に対して心を痛めるフェイスは心の優しい娘だと思う。……だけど、うっかりと絆されるのではと心配だった。


 政略結婚が当たり前と考えていた私にとって、恋愛による結婚の概念はあまり馴染めないものがあるが、要は親や家が行うべき『相手』の選出判断を、当人が直接すると言うことだろう。

 判断材料の中心に己の『気持ち』を据え、その上でお相手の人柄、家柄、仕事、経済状況、生活環境等相手に求める条件をはかり、判断する───そんな感じだろうか。

 愛情で埋められぬレベルで『伴侶』として不適当と判断したからこそ、フェイスはシュトームの求婚を断ったに違いない。


 求婚を断った理由は、国の為に働くシュトームに自分は相応しくないからだとフェイスは言う。

 ……シュトームは騎士家の後継ではない次男。フェイスは市井とは言え由緒あるセ・セペンテス家具商組合の組合長を父に持ち、身元も確か。家柄だけでなく彼女の人柄は、私が胸を張って保証出来る。

 自分は相応しくないなどと言う理由は恐らく、振られた側のシュトームの名誉を考えた建前か何かなのだろうと思われる。


 ともかく、シュトームが伴侶として不適格と言うのが彼女の判定であるのなら、私はその決断に齟齬を来たさぬよう助力しようと思った。

 だからこれから先もしもシュトームが煩わしい行動を取るようであれば、私かグラントから釘を刺す事を彼女に提案したのだ。


「いいえ、あのぅ……違うんですフローティア様。あぁいえ……お気持ちはありがたいんですけれど、シュトームさんは何も……その、咎められるようなことなどしておりませんし」


 遠慮か、それともシュトームに対する罪悪感からか、普段おっとりしたフェイスには珍しいほど慌てた様子で彼女は私を止めようとした。

 だが私としても引くわけには行かない。もちろんこのまま何もなければ黙っているつもりだが、もし強引に押し切られて望まぬ結婚をすることになったら大変ではないか。


 そう、男性が強硬な手段に出てしまえば抵抗しきれない場合だってあるのだもの。

 まさかシュトームがそんな事しやしないだろうけれど。


 ……いいえ、そうだわ。グラントだって私がエドーニアに帰ると言った時、既成事実を作ろうとしたではないか。『有り得ない』なんて事はないのだ。


「咎めるなんてつもりはなくてよ。もしも万が一……あまり強引な行動を取りそうに見えたらその時は……ね。いくら優しい人でも、思いつめた男性は何をするか分からないわ」

「まさかそんな……シュトームさんが私みたいな者にそこまで執着する訳が……」


 私の言葉に信じられない……と言いたげな目をするフェイス。やっぱり彼女はあまりに優しすぎるのだろう。人を疑うことを知らな過ぎる。


「まあ……フェイス、私の侍女は魅力的な娘達なのよ。夜会の夜に屋敷内の一人歩きを何故禁じているか、分かるでしょう?」


 日が高く素面しらふの時には働く理性も、アルコールが入ればその限りではない。

 酔いのまわった殿方が戯れに若い使用人を摘み食いするなど良くある話。腕力では当然、その上身分でも抗いようが無い娘らの自衛手段として、客人が訪れる日には女性使用人は基本二人以上が固まって……との決め事がある。 

 とりあえず今日と明日、シュトームの滞在中は間違いなど起きないように出来るけれど、今だけじゃなく彼が彼女を諦めるまでの間に『万が一』があっては大変だ。


「せっかく自分で伴侶を選べる立場にあるのだもの、どうせなら本当に好きな相手と添い遂げる方が幸せだわ。貴女は若く魅力的なのですもの、きっと直ぐに良縁に巡り合えてよ」

 

 私がそう言った途端、テティが顔を強張らせフェイスが顔を歪めた。

 人の心の機微に疎いとの自覚はあるけれど、今の言葉はいくら彼女を心配してポロリと出たと言っても無神経に過ぎたかもしれない。

 破局を迎えたとは言え、シュトームを憎からず想っていたからこそ求婚の言葉が出るほど接近を許したのだろうから。


「この先……彼以上に好きになれる人なんて……」


 呟きを紡ぐ内、乾きかけていたフェイスの瞳に再び涙の粒が盛り上がるのを見て、私は内心大いに慌てた。

 彼女の菫色の瞳には絶望の翳りが宿っていたのだ。


 ───もしかして……フェイスが枯れ果ててしまうと嘆いていたのは、シュトームではなく自分のこの先の人生と言うことなのかしら!?


 私の頭の中に疑問符が溢れる。


 ……でも、それほど好きな相手なのに、どうしてシュトームの求婚を断ったりしたの……!?


「ねぇ……フェイス……? もしかしてシュトームは大きな借金でも抱えているの……?」


 今考えると最早もはや自分を擁護する言葉も出てこないけれど、フェイスがシュトームとの結婚を断った原因で真っ先に浮かんだのがコレ。

 いや……擁護は出来ないけれど、一応これを口に出したのには理由があり、それはもしお金が原因であれば、グラントと相談のうえ手伝えることもあるかと考えたからで……。


「ち……違ぃま……っ」


 涙を流しながらもフェイスが慌てて首を振る。

 どうやら違ったらしくほっとする。……が、ではどういうことなのだろう。


「もし……女性問題だとしても、過去の清算が済んでいるのなら大目に見て上げてもいいと思うのよ。私もグラントの昔の恋人と会った時には酷く動揺したけど、最近はようやく過去は過去と割り切れるようになったし……」


 借金でないとすればたぶんコレだろうと思ったのだが、どうやらまた外れ。

 盛り上がり溢れ出る涙で言葉も発せずブルブルと首を振るフェイス。


 ……彼女の横でテティが微妙に目を泳がしているように見えるのはこの際関係ないとして、だったら愛情ある相手と結婚出来ない理由とは何なのだろう?

 シュトームの家族から反対でも受けている? でも、騎士家の次男に侯爵家勤めの侍女は寧ろ良縁。

 フェイスの実家の方が恐らく経済的にも裕福なのだから、普通は反対なんてしないだろう。だったら……。


「ご実家の反対にでもあっているの?」


 これにも無言で首が振られた。

 もしそうであれば彼女のご実家へ手紙でも書こうかと思ったのだが。

 まぁ……何と言うか、地位と立場を使ったある意味『圧力』をかけることになってしまうのだけれど、フェイスの幸せの為であればそのくらいのコトはしてあげたい。


 しかし、ますますもって分からなくなった。

 女性、借金、実家……全て違うと言うのなら、どこに原因があるのだろう。


「あの……フローティア様……フェイスはシュトームさんとの結婚は自分に荷が重いのだと……」


 ちょっと前から物言いた気にしていたテティが、フェイスの肩をそっと抱き寄せながら口を開く。


「まぁ。それはフェイスの優しさから出た『建前』の理由でしょう。シュトームのお仕事は確かに大変だろうけれど……彼が求めているのは仕事の同僚じゃなく、自分の傍らにいて家庭を護ってくれる伴侶だもの。もしもフェイスみたいに優しくて気働きのある娘が不相応だなんて言い出したら、それこそこの国の為に働いている官吏や税吏の果てまで結婚出来ないことになってしまってよ」


 テティに抱き寄せられていたフェイスが喉の奥から悲鳴を飲み込んだような妙な音を出した。───きっと、相当に辛いのだろう……。 

 だけど本当に何故フェイスはシュトームと別れてしまったのか。


 彼が今はブルジリア王国で仕事をしているからだろうか? でも数年のうちにはレシタルさんとシュトームはリアトーマ国に戻ることになっているし、ブルジリアで結婚後一~二年過ごすとしても、ルルディアス・レイにしろノルディアークにしろ治安の良い過ごしやすい土地だとフェイスも知っている筈だし、これはないだろう。

 シュトームのご両親でも高齢で介護の問題があるとか?

 ……ああ、だけど彼には兄もいるし、シュトームにしろ仕事柄結構な高給を得ている筈だ。人を雇うことも簡単に出来る。


 色々考えていた私の脳裏に、ふとレレイスの面影が過ぎった。

 まさかシュトームが何か特殊な性癖を持っていて、結婚前のフェイスに受け入れ難い閨房での要求でも突きつけたのでは……!?

  いや……まさか。……でも、人は見かけによらないものとも言うし。もしかするとそういうこともあるのだろうか?

 でも……嗚呼……こんなこと、どうやって聞けばいいと言うのか……。


 そんなつもりはなかったのだが、どうやら私は心の中で懊悩しながらコレを声に出して呟いていたらしい。


「ち……違います……そんなことはありません……!」


 ───フェイスが顔を赤く染めて必死にそれを否定し……泣き崩れたのはこの時の事……。



 ***


 どこをどう間違えたのか明確な答えが出せぬうちにエリルージュが来て、来客の到着時にはテティも戻った。


 結局私がいくら考えたところできっと答えなど出てこないだろう。

 人を酷く動転させておきながらその理由が分からないなど誠意の無さを疑われそうだが、それも仕方の無と覚悟して、私は事情に詳しそうなテティにどこら辺が不味かったのかを訊ねた。


「あの……さきほども言ったとおり、フェイスは自分がシュトームに相応しいしっかりした人間ではないと……そう考えているんです」


 ───……?


 どうしたことだろう……やっぱり私には理解出来ないのだけれど……。


「それは……もしかして、本当にシュトームの仕事のせいで……と言うこと?」

「……はい」

「ええ……?!」

「ええと……国の為に働くシュトームさんを支えるだけの覚悟と責任が自分には無い……と、フェイスは」


 駄目だ。……本当に……どういうことなのかしら?

 私の言動の何処が悪かったのかはなんとなく分かったけれど、フェイスが何故シュトームの求婚を断ったのかが分からない。


「ねえテティ? シュトームはフェイスに一体どんな大変な要求を突きつけたの!?」


 妻として寄り添い、家庭の主婦として家を整える。そしていずれは母として自分の子を宿して欲しい。

 それ以外の何を彼はフェイスに求めたというのだろう?

 呆然と呟く私にテティが困ったように眉尻を下げて小さく首を振る。


「たぶんですけれど、普通に結婚の申し込みをしただけだと思います」

「じゃあ……どうして……?」

「それは、あの……ええと……その……」


 眉間に皺を寄せ、自分の中に必死に言葉を捜している様子を見せていたテティは、しばし口ごもった後に強張った後に肩から力を抜いた。


「どうして……なんでしょう……?」


 理解できる気がしていたはずなのに……と、苦く呟くテティ。


「考えてみればそうでございますよね。シュトームさんは仕事の仲間を求めたんじゃないんですよ。軍人の奥さんが武芸に秀でている必要が無いのと同じで……」


 ふぅ……と小さな溜息が漏れる。


「彼女も今、自分でも良く分からなくなってしまっているんです……たぶん。ああ……あの、フェイスがフローティア様にさきほどは取り乱して申し訳ありませんと」

「あぁ、いいのよ。……私も考え無しなことを言ってしまったのですもの」


 自分の馬鹿な発言を思い出し赤面する私に、テティは小さく首を振りながら微かに笑い。


「フローティア様は何もおかしなことなど仰っておりません。ただ……捉え方の根の部分が違っていただけでございます」


 と、言った。


 それは、どういう意味なのだろうか。

 ……とは、さすがに問うことが出来なかったのだが、否定的な色はテティの言葉にもその表情にも存在せず、だがそれを理解出来ないのはやはり、私が人の心の機微が分からぬ鈍い人間だからなのかもしれない。



 夕方近く、サラ夫人がご友人と観劇に出かけられ外出していたグラントが帰宅した頃、ジェイドとシュトームが邸に到着した。

 レシタルさんやダイタルさん同様大公一家の警護などをしていたと言うのだ。シュトームは優秀な人間なのだろう。

 グラントに伴われブルジリア王国での活動報告会に同席した私は、整っているのに何故か二枚目に見えぬシュトームの目が私の周辺を物問いた気に彷徨うのに気づいて、すごく腹が立った。


 ……だいたい彼が勿体つけて自分は国の仕事をしている……なんて言い出すからいけないのだ。


 グラントの商会の公国の情報機関としての側面の存在は一応機密扱いとなるが、シュトームも業務内容までは話してはいないだろうし、フェイスは口の堅い娘。

 本当は私にもそれが自分の立場を明確にした上でフェイスを伴侶に……との、彼なりの誠意だってことくらい分かっているのだが、それにしてもフェイスの断りなど蹴散らし強引に応諾の返事をもぎ取れなかったのかと……彼の弱腰が癇に障る。


 まあ……これは完全に私の八つ当たりなのだけれど。


 グラントとジェイドとシュトームと私、四人で囲んだ夕餐の席。シュトームは邸内にフェイスの姿が見えないのは何故なのか……と聞いて来たけれど、フェイスらと相談した当初の予定通り、彼女はお使いに出かけ留守だと答えておいた。

 隠し切れぬ落胆の色が濃藍色の瞳を翳らせたけれど、フェイスの苦しみはこんなものではない。


 食事を終え私達は部屋を移った。

 春とは言え、夜はヒンヤリと空気も冷える。

 暖炉の中、チロチロと小さく炎が踊るのを肴に戴くのは琥珀色の蒸留酒。私は女主人らしく移動続きだったシュトームに労いの言葉を掛けながら、グラスの中に蒸留酒を注ぐ。


 グラントは私の常に無い程の『愛想の良さ』を訝しんでいたようだけれど、シュトームは何も気づかずに注がれるままに酒杯を重ねたていた。

 アルコールがまわれば難しい話など出来ぬもの。そして、心に懸かる想いも言の葉に零れるものだ。

 まあ……本当のところ私の誘導によるものだが、場はいつのまにやら恋愛相談会場へと変化していた。



「諦めるつもりはないんですよ……だけど、どうすれば色よい返事を貰えるのか」


 などと呟きながら酒盃を舐めるシュトームの器を、私は強いお酒で満たした。

 なみなみと注がれた琥珀の水面から縋るような目をグラントと私へ向け、私達の時はどうだったのか……などと質問して来るシュトーム。

 藁をも縋る……と言うことか、参考になる部分を探そうとでも思ってのことかもしれない。


「俺はフローに惚れた瞬間、気絶させて浚って来たからなぁ」

「そう、木箱に詰めてね」


 聞かれたから答えたまで。と、気軽にグラントが返答を返し、私は彼の言葉の足りない部分を補足した。

 当時の状況を知らず、これを冗談だとでも思ったらしいシュトームは笑みに近い表情でジェイドの方に目を向けた。

 だが、そこに冗談や彼への精神的な助けなどは無い。何故ならそれは本当の事なのだもの。


「あれは楽器を入れる為の頑丈な木箱でしたね」


 あの時、私入りの木箱が運び込まれた倉庫にいたジェイドが状況の補足を行う。


「息が詰まらないように空気穴も開けたし、クッションを敷いて痛くないように気を使ったんだ」

「だけどグラント、あのクッションは私の館のモノだったじゃない。……あの後私のクッションはどうなったのかしら……」


 当時の思い出を話しながらクイとグラスをあおり、未だに曖昧な表情のまま固まるシュトームのグラスに無理やりお酒を注ぎ足した。

 溢れそうな酒盃に慌てて口をつけるシュトーム。

 荷物のように箱の中に詰め込まれた事実は今思い出しても腹立たしいが、シュトームにもそのくらいの勢いがあればフェイスも泣かずに済んだ。


 グラントの空になった酒盃を琥珀の酒で満たし、私は己のグラスに口をつける。グラントがジェイドのグラスを満たし、ジェイドが私の酒盃にお酒を注いでくれた。

 手の届かない位置にある銀の盆お眺めていたら、グラントがチョコレートのボンボンを一粒私に取ってくれた。

 一口齧るとほろ苦いチョコレートの中からあふれ出す甘い蜜。これは、砂糖と蒸留酒で漬け込んだ林檎だ。

 林檎の風味に再びシュトームへの八つ当たり気味の怒りの気持ちが掻き立てられる。


「……それに、結婚の申し込みは母様と兄様、それにレレイスのいる前だったわね。私が驚いている内にレレイスがそれは素晴らしいと賛同して、気がついたら話が纏まっていたわ。そうなるようにグラントが仕向けてくれたのよね。……お陰で幸せに暮らせているけれど……『私は』」


 だが、今もフェイスは泣いているかもしれないのだ。


 私はグラントに少しだけ中身が減ったシュトームのグラスにお酒を注ぐよう要請した。

 グラントがチラリと私を見、私は笑みを浮かべ「さぁ」と目顔でシュトームの酒盃を指し示す。シュトームがグラスを空ける為に慌てて自分の酒盃に口をつけるのを眺めながら


「貴方はずいぶんと暢気な人ね」


 と笑うと、新たに注ぎ足された酒が表面張力で揺らぐグラスにから不思議そうな目をこちらへ向けるシュトーム。


「グラントが来た時、私には結婚話が出ていたのよ。レレイスの婚儀が終わったら話を進めてもらう筈だったわ。適齢期の若い娘がいつまでもそのままと思わない方がいいのではないのかしら。私の可愛い『侍女』も、次の里帰り休暇の時にそんな話が出ていなければいいけれど……?」


 私の視線の先、濃藍のうらん色の瞳がピキリと凍りついた───




 ***


 シュトームが雇用主グラントから休暇をもぎとり、明日早朝フェイスの実家のあるセ・セペンテス向け出発するために自室に引き上げてから暫し。

 事情を聞いたグラントがお腹を抱えて笑い、私は仏頂面で林檎果肉入りのボンボンを齧っていた。


「この先どう転ぶかまだ分からないのに、これで笑うなんて随分不人情な人ね」

「い・いやいや……ぶふっ、アレでシュトームは人との交渉には長けているんだ。きっとキミの侍女の家人を上手く丸めこ……説得して、ご両親公認の婚約者の座くらい手に入れるだろう。大丈夫……くくく。それにしても、お嬢さんは本当に人を誘導するのが上手いな」

「誘導でもなんでもないじゃない。あれだけ分かりやすく圧力を掛けて、それに気づけないなら頭の構造が疑われてよ」

「キミは随分とシュトームに辛口だな」


 シュトームへの攻撃的な圧力は半ば以上私の八つ当たりから来ている。

 そこを突かれると昼間の自分の間抜けぶりや諸々、未だ理解出来ずにいるフェイスの心情の事などの事を思い出し、怒りによって保たれていた勢いが殺がれてしまいそうだ。


「……結婚申し込みの時、彼が普通に商会の仕事をしているとでも言っておけば、フェイスだって悩むことなく応諾したのに。誠意のつもりか分からないけれど、変な風に勿体つけたりするから流さなくていい涙を流す羽目になったんじゃない」

「アイツだって随分悩んでいただろうに」

「悩みもしないのでは見込み無しだわ。貴方なら悩むより先にさっさと行動に移しているでしょうグラント?」


 ぐぅ……と言葉に詰まったグラントは一つ肩を竦めて酒盃に唇をつける。


「しかし、お互いに気持ちがあるんだったらその内には納まる所に収まっていたんじゃないんですか」


 とは、今まで黙って成り行きを見ていたジェイドの言。


「まあ……! 一度断りを入れた相手への前言の撤回なんて、可哀想で私の可愛い侍女にさせなくてよ」


 要は、シュトームが強引に話をまとめてしまえば良いだけの事。


「キミは身内贔屓が激しいな」

「フェイスの想い人なのだもの。シュトームも一応身内認定していてよ」


 呆れ顔でグラントは言うが、私だって何も八つ当たりと意地悪だけの人間ではないつもりだ。

 腰を下ろしたソファと自分の隙間から持ち込んでいた小さなバッグを引っ張り出し、中身をグラントへと手渡した。


「───紹介状よ。貴方のサインも入れてあげて」

「ああ……なるほどね」


 言葉の通り、私が彼に渡したのはフェイスの実家へ持たせるシュトームの紹介状。

 フェイスのご両親を丸め込むつもりでセ・セペンテスへ乗り込むのは良いが、いきなり行っては警戒心を抱かれるにきまっている。

 しかし、フェイスが仕える女主人である私とバルドリー侯爵本人連名での署名が入った紹介状持参ならどうなるか。

 ある意味、身分を使った圧力な部分もあるだろうけれど、そこは……娘の幸せの為と許してもらうしかない。


「ここまでしてやったのなら、『あのくらいの意地悪』に文句なんて言えないだろうな」


 署名を書き入れた紹介状を封筒に入れシーリングワックスを溶かし、バルドリー家の紋章が刻まれたシールで封をするグラント。


「……シュトーム……二日酔いで馬に揺られるのは辛いだろうな」


 ぼそりとジェイドが呟いた。


「全く……部屋を出て行こうとするアイツを呼び止めて、注がれた酒は干して行くものだと言った時のお嬢さんの笑顔と来たら……」


 あれだけ飲ませたのだから明日の二日酔いは確実。

 その状態での移動は確かに辛いに違いないけれど、ここまでお膳立てをしたのだもの、差し引きゼロだ。


 それにしても……今もって理解出来ないのは、フェイスがシュトームの求婚を断った理由……。

 ジェイドやテティはそれに共感を抱いたようだし、グラントにしても共感はなくとも


「責任に萎縮する人間もいる」


 と言ったところを見ると、理解は出来るらしい。

 責任への萎縮はわかるのだけど、フェイスが求められたのは責任ある仕事をするシュトームの妻であり、責任ある仕事本体ではない。


 グラントがなんとなししんみりとした風に表情を改め、私の肩をそっと抱き寄せる。


「お嬢さんにとって、国を背負う立場の男は萎縮する相手じゃなく、寧ろ共にありたい対象だったんだろう」

「それは……私が権力志向が強いという意味なの? それとも自分こそがそういう人間だと言いたいの?」


 どうやらシュトームにお酒を飲ませながら自分も随分と飲み過ぎてしまっていたようだ。

 言っている途中で気づいたけれど、彼は『だったんだろう』と過去形を使っている。グラントの言わんとしたのは、かつての私がどんな願いを持って生きていたか……だろうか。


 ほんの数年前までアグナダ公国とリアトーマ国は冷戦状態にあり、兄の統べるエドーニアはグラントのような間諜が跋扈する国境の地だったのだ。

 私は、より権力がありより国政に近い位置の男性に嫁ぎ、貴族の娘らしく家の役に立つ事をこそを己の務めとして望んでいた。

 ……この脚の事があり、それが不可能であるからこそ、その願いは強く『渇望』とすら表現できるほどに。


「ああ、そう言うことなのね……」


 ……そんな自分なのだもの。フェイスの気持ちを理解出来ないのも当然かもしれない。


「キミはそれでいいんだと思うよ。お嬢さんまで同じ価値観だったら、キミの侍女の苦悩はまだ続いていた筈なんだから」


 彼の逞しい肩の上に頭の重みを預けたまま酒盃に唇をつけ


「そうかしら……?」


 と呟く私。上腕の筋肉を伝いグラントの頷く気配がした。

 ゆらと揺れる琥珀の液体から目を上げた先、ジェイドが肩を竦めるのが見えた。それが肯定の意味を含んでいるらしいことが和んだ彼の目の色から分かる。


「私にも、箱に詰めて浚いたくなるような出会いがあるでしょうかね」


 ブルジリア王国での修行の成果か、以前より人当たりが丸くなったジェイドとは言え、彼がそんな事を言い出すなんてお酒の力だろうか。

 状況と相手を量らず箱に詰めて浚ったりしたら本気で嫌がられても可笑しくないのだけれど、まあそのくらい彼も分かっているだろう。私はテーブルからお酒の瓶を取り上げてジェイドのグラスにたっぷりと中身を注ぎ込み、溜息を吐きながらグラントの肩に再び凭れかかった。


「シュトーム……フェイスを不幸にしたら、絶対に許さなくてよ」


 私は不思議と二枚目には見えない整った顔と濃藍の瞳を思い出し、唸りながら琥珀色の蒸留酒に口をつけるのだった……。



 ***


 翌朝、まだ仄かに林檎の花の薫香が香るユーシズの邸の中庭で、剣を手にしたサラ夫人は一人立ち尽くしたそうだ。

 まあ……それはそうだろう。本来ならこの場ではシュトームやグラント、ジェイドらが剣を打ち合わせているはずなのだ。


 シュトームは明け方、二日酔いの身体を馬の鞍に押し上げて出発し、グラントジェイドと私の三人は、夕べの深酒が祟ってベッドの上でぐったりしていたなんてこと、観劇で深夜まで邸を空けておられたサラ夫人が知っている筈がないのだもの。



 セ・セペンテスに戻るまでの間、普段どおりを装うフェイスの表情の陰に気づいていたが、私は黙ってそれを見守った。

 彼女の憂い顔も暫くの事。

 グラントが信頼する部下はやはりそれなりの能力があったようだ。


 秋、モスフォリアからアグナダ公国に戻って直ぐの頃、私はフェイスから彼女の『婚約』を知らさる事になった。


 エリルージュが帰国してフェイスまでがいなくなっては寂しくなる。けれど、来年にはあちこちの家で侍女修行を行っていたメイリー・ミーが私の侍女として暫く『花嫁修業』を行うことが決まっている。

 テティも実家の『はた』の支払いが終了するまで、少なくともあと五年間は侍女を続けるつもりだと言ってくれている。


「テティがまだ暫く務めてくれるのは嬉しいけれど……五年もここにいては……その、大丈夫なのかしら」


 と、ついそんな事を言ってしまったのは、彼女が世間で言う『き遅れ』と言う年齢に差し掛かってしまうことを危惧した為だ。


「貰い手が無くなるくらいの年齢になっても、きっと年齢なんて気にしないでくれる誰かが私を貰ってくれると思いますから」

「テティなら多少婚期を逃しても、引く手数多だわ」

「……引く手は一つで充分です。フローティア様」


 ひっそりと微笑みながらテティがツイと視線を流し、「それはそうだわね」などと頷いてなんとなく彼女の視線を追えば、シェムスが火の世話をする暖炉の向こう側の窓、うろこ雲が浮かぶ夕空が見えた。

 空を行くのは隊列を組んで飛ぶ渡り鳥。


 あれはアリアラ海を渡る雁の群れだろうか?


 ユーシズでは既に秋の狩猟シーズンが始まり、春に花を咲かせた果樹園では実りの季節を迎えている。

 炉棚の上の足付きの銀盆に盛り付けられた果実やナッツは果樹園からの収穫物だろう。

 私は真っ赤に色づいた林檎を一つ手に取って、ふらりと部屋を出る。


 来春嫁ぎ行くフェイスには林檎の花を贈ろう。彼女が枯れ果てる事無く実り多い人生を過ごすよう祈りを込め、あの可憐な花を花束にして幸せな花嫁の白い手へ。


 象牙の杖を突きつつグラントが午後の仕事を終える筈の執務室へとたどり着くと、私は扉を叩き中からの返答を待ってドアノブを回した。

 この場所で彼の心を傷つけてまで別離を告げたのは、もう何年も前の話。

 人一人寝そべっても平気な程に大きなオークの机から顔を上げ、日焼け色の顔に魅力的な笑みを浮かべるグラントの前、私は甘い香を放つ林檎を一つ置いて彼に問う。


「ねえグラント、林檎の果実の花言葉を知っていて?」


 と。




 ───林檎の果実の花言葉は『誘惑』。

 グラントが甘い香りを放つ果実に唇を寄せ、そっと歯を立てた。


 




 

 林檎の花や実の花言葉は、聖書のアダムとイブやギリシア神話などからの物のようです。fluere fluoriteの世界に現実世界の宗教は存在しませんけれど、その辺はお目こぼしを。


 誤字脱字等ございましたら、ご報告願います<(_ _)>


 本編の方は終了しているので完結済みにチェックを入れましたが、あと何話かの番外編投下を予定しております。(2013・1・2)


誤字脱字、句読点改行など微調整(2013.1・24)

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