『金の杖』
海辺に建つサイノンテスの古城で、ゆったりと時を過ごす。
春と夏との境目。灰色の城壁に絡むモッコウバラの開花にはまだ早く、グラントの祖母リリアシータ様が手ずから植えられた芍薬の淡紅色の蕾が、目前の花期を待つ季節。
草木の香りに混ざる海の気配を感じつつ、ゆらり揺れるハンモックの上、私はグラントの厚い胸に頭を乗せて彼の言葉に耳を傾けていた。
「あそこもなかなかいい街だよ。青い空と緑の丘の上、垣間見える白い王宮。オリーブの潅木とオレンジの果樹園。……それから、背の低い白い家々の街並みと強い日差し。……真っ黒な影の落ちる小道には猫がいて、街中の大きな宿には噴水のついた中庭があるんだ」
彼が語るのは、数日後に渡航予定のモスフォリア国王都スフォールのお話。
去年の滞在時、私は殆ど王宮内だけで過ごす事になり、グラントも機密漏洩を忌避する任務の性質上、半ば軟禁状態を強いられていた。
でも、今回の渡航は以前とは違う。
グラント自身が『筆頭経営者』を務める商会の商館設置のためにスフォールへ行くのだから。
「夏はこの辺りより少し暑いけど、日中ゆっくりと休憩する習慣があの街にはあるんだ。噴水の風下で涼を取りながら冷えた酒を飲むのもいいし、木陰に寝転んで本を読むのも気持ちがいい」
一応仕事での渡航である筈なのに、彼の様子はまるでバカンスにでも出かけるかのよう。それを揶揄する私の頬の下、笑いの気配に厚みのある胸郭がゆらりと揺れる。
「今までの事を思えば、バカンスのようなもんだろう?」
上機嫌なグラントの言葉に、私の唇も自然とほころんだ。
彼の言う通りだ。今こそこうしてハンモックに揺られ寛いでいるけれど、昨日までは比喩的表現ではなく本当に馬車馬のように《・・・・・・・》働き通しだったのだもの。
渡航後にやるべき事はキチンとやるけれど、少しくらいの楽しみがあっても罰は当たるまい。
今を説明するに語るべきは、昨年末、大公との『交渉』からが適当だろうか?
───バズラール卿を退け新造船の設計図を奪還した自らの功績に対し、グラントは二つの褒賞を要求した。
一つはバルドリー家所領ユーシズ~サイノンテス間の街道の拡幅と、サイノンテスの漁港を大型船の利用が可能な港湾として開発する為の許可申請。
もう一つは、自分をとある商会の筆頭経営者として認めるように、との要望。
二つの要求を耳にして、大公はどんな顔をされた事だろう。
一つ目の『許可申請』はあくまでも裁可を求めるものであり、資金提供や援助要請ではない。だから実質『褒賞』としての意味ははなく、もう一つの方はと言えば、ある意味政治の中枢に引き入れられる事への拒絶に他ならなかったのだもの。
彼が筆頭経営者となることを希望したある商会とは、昨年の夏にブルジリア王国のノルディアークに商館を構えたアグナダ公国の情報機関でもあるあの商会のこと。
ノルディアークの商館設立がグラントの指揮下成されたのは、彼を大公の側近として迎え入れるにあたり、その能力を疑問視する人々への示威的意味合いあってのことだった。
グラントを政治の中核へ参入させる為の布石に過ぎなかったその仕事を今後も継続して、しかも自分の采配で動かしてゆきたいとの意志を彼は表明した。
商会経営の筆頭に名を連ねれば、アグナダの出先機関と言う裏の顔だけではなく商業機関の健全な運営にも責任を持たねばならない。
商会は今後経済と情報の網を拡充するべく周辺各国への商館設置が予定されて、そんな仕事を引き受けた人間が、片手間に『大公の側近』などやれるわけがないのだ。
新造船が普及しホルツホルテ海航行が通年可能となれば、レグニシア大陸は今以上に他大陸との交流を深めることとなるだろう。
めまぐるしく変動する世界情勢を正しくいち早く理解せねば、アグナダ公国が他国に良いように利用される事態にもなりかねない。
これからの国際社会に『情報』が重要なモノとなるのは確かだけれど、グラントの意志を知った時、大公は驚き呆れたのではないだろうか。
だって、情報組織と言う裏の顔の存在など世間には公表できないのだもの。
事情を知らぬ他貴族達からすれば、グラントは商いなどと言う金儲けの俗事に血道を上げる下賎な人間と見られても当然なのだ。
だけど、それが彼が求める夢なのだからしかたがないではないか。
世界を巡り商業活動を通じて世の中の動きを知る。
経済と言う動きを辿っていつか『神の目』を手に入れたいとの彼の望みを、私は手伝いたいと思っている。
彼は大公の側近になってもきっと誰にも文句の付けられぬ成果を上げただろう。これは私の欲目だけじゃなく、冷静に彼の能力を鑑みれば自明のこと。
だけどそんなの、グラントと言う人材の無駄遣い以外の何物でもない。
政治の才を持つ人間は他にいても、商いに情熱を持ち商機を見出す能力と他国王家などへのコネクション、それを十全の形で活用しうる地位・知識・機転、それから呆れるくらいの口の巧さを併せ持つ人間なんて、彼以外にそうそう存在するとは思えないもの。
彼を政治の中枢に縛り付けたりせず自由と多少の助力を与えれば、結局のところグラントのやろうとしている事はアグナダ公国にとっても有益な物となる。
大公は、それを最終的にお認めくださった。
彼の商会の商館をスフォールに設置すべく、私達はモスフォリア国へ向けて出発しようとしていた。
スフォール商館の主力商品として予定しているのは、ユーシズ産の帆布と造船に使われるリアトーマ産の木材。
ユーシズ産帆布は他商会によって既にモスフォリアへ輸出されているが、その荷はユーシズ~黄金街道~タフテロッサと言う長い道のりを運ばれる為ため幾重にも通行税が科せられ、グラント曰く『無駄に高い商品』になってしまっている。
だけどこれからは違う。ユーシズからサイノンテスへの街道が整備され、塩害で亜麻の生産が思うように根付かなかったサイノンテスは、大型船の就航可能な港湾都市へと変貌すべく改修工事が進められているのだ。
現在サイノンテスでは急ピッチで港湾事務所や倉庫などの設備建設が行われ、この秋にはリアトーマ国アリアラ海側の各地との定期便の試験運行も開始する運びとなっていた。
海外航路の第一号としてモスフォリア国のスフォールへの便が予定されている。
その航路が整えばユーシズで生産加工された亜麻の帆布はバルドリー家所領内だけを通過し、最小限の通行税と関税の加算だけでスフォールへと持ち込まれることになる。
価格はこれまでのものよりも安価。品質はバルドリー侯爵家の保証付き……と、既にブランド化済み。
これだけでも他業者との戦いに優位な条件が整っているにもかかわらず、グラントは『設計図を取り戻した』と言う貸しまでモスフォリア国に対し有しているのだ。
多少あざとい気がするけれど、あざとさを理由に商機を逃すような商人など商人ではない。
彼が持つ武器はこれに留まらない。
私の大叔父はリアトーマ国有数の良質な木材産地エヴシル河流域を所領としている。リアトーマ国で今後建造されるモスフォリアの新造船技術を使った軍艦はこの木材を使って建造されるし、アグナダ公国内の軍艦も同じ材料を使うことが決まっていて、グラントはオドスティン卿との間に帆布と木材の直接取り引きの密約を結んでいた。
ユーシズの亜麻製品は帆布だけに留まらず生活に根ざしたリネン製品の素材にもなるし、ブルジリア王国の商館を通じては、鉄や鉄製品、琥珀等も流通させられる。
リアトーマ国の王都フルロギにはこの春、すでに商会の支店たる商館が設置され、王都近くのジーラの街の薔薇色大理石なども商品の一つとして取り扱いが決定していた。
……なんと言うか、今回はたまたま褒賞と言う形で自身の自由を得る事になったけど、それがなくともグラント、結局自分の能力で周囲に彼の道を認めさせることだって出来たんじゃないだろうか。
まぁ……彼が彼らしく生きるのを少しは早めることが出来ているようだから、私としては喜ばしいことではあるのだが。
だけど喜ばしいなんて手放しで言っている暇など、その後の私達には存在しなかった。
グラントには領主としての通常業務と街道拡幅工事や港の改修工事の準備と言う仕事に加え、商会経営者筆頭として取扱商品の開拓、今後競合する商会へ向けての挨拶や根回し、新規商館設置の為の人材の選出など、やらねばならないことがそれこそ山のようにあったのだ。
所領の仕事に関しては家令やサラ夫人の助けもあったのだけど、それにしたってとんでもなく忙しい日々……。
確認する書類の山……山、山。
面接に面談に会談に会合に懇談、それから懇親会。
大規模な商活動には少なからず上流階級の人間が関わっているもの。グラント一人で出かける事も勿論多いけれど、妻帯が求められる場面も当然のように激増。しかも……いいえ。これは自分が希望しての事だから文句を言う気など無いけれど、ユーシズの領民が亜麻布加工用の『機』の購入に使う資金援助基金への梃入れに、バルドリー侯爵夫人として関わったものだから、その基金の目処が立つまでのあの忙しさったら……!
冗談事ではなく寝る間も無いような状態が昨日……そう、本当にほんの昨日までずっと続いていたのだ。数日後の渡航まで、のんびり過ごす自由くらいあってしかるべきだと思う。
***
「モスフォリアは真珠と宝石珊瑚が有名だからね。とりあえず今回は、向こうでお嬢さんに真珠を選ぼうと思ってる。巻きの厚い大粒の物……もちろん色味も上等の最上級の品質の真珠を見つけるんだ。フロー、キミはそれでどんな物を作りたいか考えておいてくれよ?」
目元の笑い皺を深め、暗色の瞳に甘やかな色を浮かべたグラントが言う。
……仕事尽くめ。多忙さで二人の時間が無いのをぼやき続けていた彼は、スフォールでは私を手放しに甘やかすつもりらしい。
真珠の装飾品を幻視しながら耳朶や首元へ辿るグラントの指先から逃れるよう、私は笑って身を捩る。
「商人さん。せっかくの儲けを妻になど貢いでしまっては世間に笑われてよ?」
「貢ぐなんてとんでもない! 俺はまっとうな『商人』だから、キミからだってお代は厳しく取り立てるさ。なにしろ気合を入れて厳選する最上級の真珠なんだ……そうだな、一粒につき情熱的なキス一つってところか」
丈夫な縄で編まれたハンモックの網目をギシと軋ませ、半身を起こすグラント。
ゆらり揺れる中空の座所から長い足を地に下ろし、彼の左腕は私の肩を抱き寄せた。
「まだ仕入れてもない商品の代価を支払わせる気なの? なんて悪辣な商人なのかしら……!」
寄せられた顔を両の手で押し返すと、早くも伸び始めたグラントの髭がチクチクと私の手のひらを刺激した。
「違うよフロー。代金はキミからのキスじゃなきゃ。だから、これは真珠とは無関係に、ただ俺がしたくてするキスだ」
もとより非力な私の抵抗など蟷螂の斧。
───ハナから本気で抗う気持ちなど無かったけれど───ほんの少し力を込めた彼の右手に、簡単に両手を一絡げにされてしまう。
「仕方の無い人ね」
不愉快そうな表情を取り繕うも、あからさまに気の抜けた笑いを含む声色ではせっかく眉間に刻んだ縦皺も無駄と言うもの。
「まったくもって同感だ」
ふ、と吐いた笑いの吐息が唇の上を掠めるのを合図に、私はそっと瞼を閉じる。
───これは、戯れ。
なんと言うか、グラントだけじゃなく私も昨日までの生活にストレスを感じてはいたのだ。
望んで飛び込んだ忙しさに文句を言うつもりなど無い。ただ、過密な日程の中の余暇とも呼べぬようなささやかな空き時間までもが奪われる日々では、不満くらい覚える。
『ささやかな空き時間』を奪い、私のストレスの原因となったのは、プシュケーディア姫とグラヴィヴィスの二人……。
***
年明けからの私達はユーシズやサイノンテス・リアトーマへと移動が多く、セ・セペンテス別邸に滞在する日数はさほど多くはなかった。
その少ないセ・セペンテス滞在を外すことなく、どうしてかプシュケーディア姫からお茶会への招待状が届く。
プシュケーディア姫は現時点、殆どそのサロンを活動させていない。
この国へ嫁ぎ来た経緯上、少なくとも殿下との間に男児が誕生し、国内での足場が確固となるまで極力目立たず無難に……と言うのが妃殿下として彼女に求められるスタンスだから、これは致し方ないことだろう。
必要最小限の行事参加と小規模な茶会等の主催以外、彼女は大公城に引き篭もるような生活を送っている。
国許で父王や家臣らに甘やかされ、どんな場にあってもちやほやされる生活を送ってきた筈の彼女だが、意外にもこの隠遁生活に痛痒を感じている様子はなかった。
……いいえ。それどころか寧ろ嬉々として大公城での日々を過ごしているようにすら見受けられる。
思うに、彼女はもともと父王や周囲に過剰に構われ続ける事に鬱積を覚えていたのではないだろうか。
そう言えば彼女のスフォールの私室はその形に見合わずやけに地味で落ち着いた物だった。装飾過多な子供じみた衣装も、本来の彼女の嗜好にはそぐわなかったのかも知れない。
望まぬ環境を生きる苦しさは私にも理解出来る。今の穏やかな生活が彼女の望む物であるのなら、それは喜ばしいことではあるのだけれど……。
彼女の招待が嫌なわけではないのだ。
小規模な茶会だがドルスデル卿夫人厳選の淑女達の集う素晴らしい場だし、そこで得られた友誼や人脈は、私の今後の人生においても重要な意味を持つものとなるだろうから。
問題なのはただ一つ。サロンの主催者であるプシュケーディア姫の私に対する態度。
たぶん私のセ・セペンテス滞在のスケジュールを彼女に漏らしているのは、フェスタンディ殿下だろう。
グラントの商会は公国の情報機関でもあるのだ。責任者である彼の所在と移動予定は当然のように大公らへ予め報告されている。彼と行動を共にする私の所在やスケジュールの推測も容易な事だろう。
だけど何故そうまでして呼び出した私にプシュケーディア姫はあのような振る舞いに出るのか。
茶会の席、彼女は決して私に話しかけてこないし目線を合わせようともしない。
その癖、私が同席する誰かと話しをしているとチラチラと様子を窺ってくると言うのは、一体なに?
私が嫌ならお茶の席に呼ばねばいいのに……。それとも招待しておいて無視するのは嫌がらせ?
彼女がそこまで陰湿な性格をしていないのは承知しているけれど、疑心暗鬼になっても仕方の無いと思う。
同じことが続けば他の招待客にも悪い影響が出るのでは、との危惧は、ドルスデル卿夫人やアズロー公爵夫人ヘンリッタ様が一笑のもとに否定なさる。
なんでも私が欠席の時のプシュケーディア姫は、私をやたらと絶賛しているのだとか。
褒めてくれるのはありがたいのだけれど、こちらとしてはどうして欲しいのかさっぱり分からなくて困ってしまう。
ああ……プシュケーディア姫に関して困ってしまうと言えば、もう一つ。
大公城に同行したテティやフェイス経由で聞いた話によれば、彼女はいま習い事に夢中らしく、音楽や絵、乗馬などの他に、モスフォリアから同行した侍女のカチュカの手ほどきで刺繍や編み物に打ち込んでいるらしい。
夢中になれる何かがあるのは素敵だと思う……けど、招待状の中に手編みのドイリー───レース編みの円形の敷物───を忍び込ませるのは如何なものか……。
確かに以前ドイリーの一枚も上手に編むことが出来ないと言った事があるけれど、これに対して私にどう反応しろと……?
私達が気安くお喋り出来る状態にあるならまだしも、話しかけられもせず目も合わせない相手に、何の説明文もなく招待状に同封されてるドイリーへのリアクションなど取りようもない。
こちらの戸惑いをよそにその後も一枚、また一枚と、パターンの違う手編みのレースは私の元へと届けられている。
プシュケーディア姫に関しては……有る意味まだ『良し』と言えるかもしれない。
でも、グラヴィヴィスの方はそうも行かない。
サラ夫人の友人としてセ・セペンテスやユーシズの本邸に出入りを始めた彼は、何を血迷ったのか私に対し───既婚者である事を承知の上で───『求婚』すると言う非常識な行動に出始めたのだ。
それも、グラントが同席していようがいまいがお構い無しに……!
そんな日常に晒されていたのだもの、ストレスが貯まらない理由がないではないか。
まったく、苛立たしい。
***
唇の上に少し乾いた温かい唇がそっと触れ、すぐに離れた。
グラントの力強い腕に支えられ、柔らかな革底靴に包まれた両足が地面へと下ろされる。
「名残惜しいが、続きは後回し……か」
私がハンモックの吊り紐に掴まるのを確認したグラントが、柳の下に立てかけた杖をさっと手渡してくれた。
どうやら、ゆったり出来る時間は終了のようだ。
灰色の石組みに蔦の纏わる庭への出入り口扉がギィと軋みながら開かれ、戸口から顔を出したのはシェムス。
グラントが彼へ向けて一つ頷くと、厳つくも忠実な使用人は静かに礼をして再び扉の中へと消えて行った。
何しろ小さな古城。風向きしだいで正門から訪れる馬車の音はこの奥庭にも届く。
シェムスが顔を出すのを待つまでもなく何者かの来訪がある事は気づいていた。
私は小さく嘆息しつつ渡された杖で地面をトンと突き、簡素ながらも見苦しくは無い筈のローブの裾を小さく持ち上げ、自分のつま先を見た。
「今回は杖はあるし、靴も履いているから多少の事なら耐えられるわ」
馬車の音には数騎の騎馬の馬蹄の響きが混ざっていた。馬車だけならユーシズかセ・セペンテスからの書類や手紙を届ける定期便かとも思うが、騎馬の同行となれば普段に無い事が起きている可能性が出てくる。
それでもまあ……のんびりした時間が終わっても早馬の使者が駆け込まないだけあの時よりマシと言うもの。
手の中にはローズウッドの杖。当座の普段使いにと購入した間に合わせの既製品ではあるけれど、ちゃんと杖はあるのだ。
視線を上げた先、グラントの口元に浮かぶのは苦笑。私の顔にも同じ表情が浮かんでいるに違いない。
この庭でメレンナルナ姫の訃報を受けたのは一昨年のこと。あの時私は部屋着同然の衣服を着け手には杖も無く、素足のままにハンモックの上に置き去りにされた。もし仮にこれから何かが起きたとしても、あの時ほど心が折れることはあるまい。
「とりあえず、私は一旦部屋へ下がった方が良いんじゃなくて?」
馬車に騎馬。となれば、同行しているのは恐らくは護衛。それなりの立場の貴人の来訪も想定される。
家の事はサラ夫人や家令が采配しているし、私の『基金』絡みの仕事に緊急事態の余地は無いのだから、イレギュラーの発生はグラントの仕事関係の筈。
もしも私にも同席が求められるのであれば声を掛けて欲しい……と続けようとした私だけれど
「いや、その必要はないようだ」
と、あっさりと否定された。
庭から城内へ入って正面の窓へ向けられたグラントの視線を追えば、今まさに正門を立ち去ろうとしている馬車と、軽鎧を着けた四騎の騎兵。客人の来訪では無かったようだけれど、だったら護衛はどういうことだろう?
そう言えば客人の来訪ならシェムスが詳細も伝えず立ち去るわけがないのだし、馬車自体はいつも手紙や荷を運んでくるものと同じ───とすれば、警護の者が必要なほど重要な何かが届けられたと言う事なのだろうけれど。
「……どうも、予定していたのとは違う『荷物』も届いたようだな……」
不審気に首を傾げるグラントの呟きから、なんらかの荷物の到着は予定されていた事は察せられた。
届けられたのが重要書類で仕事関係での問題が発生したと言うことであれば、出発の延期もあるのでは……との疑問を口にするも
「それは勘弁願いたいな。真珠の仕入れが出来なけりゃキミへの代価請求が出来なくなるじゃないか」
ボヤキを口にするグラントの表情を見れば、そんな間抜けな可能性は無さそうだ。
ここで首を傾げていても埒は明かない。私達は手紙や荷が運び込まれる書斎へと向った。
もともと砦として築城されたこの古城の居住空間は狭いが、仕事関係の客人を通すこともある書斎はそれなりに設えられていて、石組みの床には分厚い絨毯が書架を除いた壁面には精巧なタペストリーが何枚も貼られている。
開口部が狭く古風な室内に一際存在感を示すオーク材の両袖机の上、数通の手紙がと二つの荷が置かれていた。
荷は、私の背丈の半分以上は長さがある四角柱の物と、平たい長方形の物が一つ。
「予定の荷物はあって?」
「この木箱の筈だ……けど───それよりも」
細長い木箱から残る一つへと目線を移した彼の眉間には、くっきりとした縦の皺。
私の眉も訝しげに寄せられ縦皺になっていることだろう。
平たい長方形の箱は藍色のベルベットに丁寧に包まれ、金の房飾りがついたやたらと立派な錦の上に鎮座ましましていた。
……どう考えても先の護衛はこの箱の為だろうが、その表情から見て彼もこれがどういうものか承知している様子は無い。
オークの机の前に立ったグラントが、しっとりとしたベルベット布地の角を四度持ち上げる。
中から現れたのは黒檀木地に金彩で繊細な唐草文様の描かれた豪華なジュエリーケース。
そして、ここ最近やたらと見覚えのある手編みのドイリーが一枚ヒラリと……。
「うう……」
うめき声を洩らす私をチラリ一瞥し、錦の敷物と箱の間、机の上に置かれている手紙類をざっと確認後、グラントは小さく肩を竦める。
ドイリーの送り主を知っている彼がズイと目の前へ押して遣したジュエリーボックスを、私は溜息しながら見下ろした。
「手紙もカードの類もない。と言うことは、これはお嬢さんへ……って事だろうな」
「……これ、何だと思って?」
「中身に関しては、宝飾品の類だろうって事以外分からないけど……たぶん、キミへの『お礼』だろ?」
「お礼??」
「あ……と、時間のある時と思ってまだキミに言っていなかったか。こっちに来る前日だったかな? モスフォリアから去年の『あの事件』に関する最終報告書が届いたんだよ」
彼が言うあの事件とは、説明するまでも無くバズラール卿の事件の事。
スティルハートの自白内容を裏付けるべくモスフォリアで行われていた捜査が終了。この件に関わる人々の処分が執行され、正式な結果報告が提出された時点で政治的には今回の事件は結着となった。
そのタイミングに合わせ、『設計図』復元を行った私に対する謝意を示すためにこの贈り物はなされたのではないかと言うのが彼の見解だ。
「設計図が奪われたことも焼失して復元されたことも、公に出来やしないだろう。かと言って先方は功労者たるキミに何の褒賞も無しと言うわけにも……行かないんだろうなぁ……たぶん」
彼の言う通り、対外的に設計図の盗難自体無かったことになっている。
グラントが大公から引き出した褒賞も、彼以外の人間にとっては褒美には見えないもので、つまりある意味彼が求めたモノは、大公らにとっても都合の良い物でもあったのだ。
私もあの件で設計図の復元作業をしたけれど、女性が政治の前面に立つことのないこの国において、グラントが商会の筆頭経営者の立場を手に入れた時点で私の分もまとめてバルドリー侯爵家への論功行賞は成されている。
グラントの頚木を外すことこそが望みだったのだから、私自身褒賞を受けたも同然なのだけれど、プシュケーディア姫はそれでは気がすまなかったらしい。
美しい木地を見せる黒檀の箱の表面にそっと指を滑らせた。微かな凹凸を皮膚に伝えるのは金彩による華麗な唐草文様と、黒檀に無花果の意匠を象嵌する紅い鼈甲と螺鈿。箱の金口は海馬を繊細に象った意匠だ。
この箱だけでもとんでもない一級品。
「困ったわ……」
との呟きは、紛うことなき心の声。
ジュエリーボックスの掛け金は、モスフォリア王室の紋章にも使われる海馬を模していた。だが、以前見た正式な模様と若干違う。仮にモスフォリア国としての贈り物であれば、品とともに使者が派遣されてくるだろうからその線は無いだろう。恐らくプシュケーディア姫がモスフォリアの父王に融通させた……と言うトコロか。
「受け取ること自体は確定だろう?」
「……返品なんかしたらきっと、今以上に彼女の扱いが面倒になってよ」
栄位に有る人間からの感謝の気持ちを突き返すのが野暮なことかくらい分かっているけれど……悩ましい問題がいくつか。
胸中に嘆息しつつ、私は海馬を刻んだ金具に指を掛ける。
たぶんこれはモスフォリア王女としてのプシュケーディア姫からの個人的な贈り物と判断するのが正しいだろう。でも本当なら私にはモスフォリア国からお礼やら褒賞を貰う理由は無い。
スティルハートはモスフォリアの人間だが、厳戒態勢が敷かれていた筈の大公城城内で盗難事件は発生していて、それがどういうことかと言えば、アグナダ公国側にも瑕疵はあったと言うことだ。
しかもそこにボルキナ国元軍務大臣まで関わってくるのだから、問題の規模は『国』と言う単位であり、謝罪や補償は国同士で行うべきもの。それがあの件に対する関係各国のスタンスとなる。
アグナダ公国からは既にバルドリー家への論功行賞がなされているのだから、妃殿下の立場でプシュケーディア姫は余計なことをする訳に行かないのだろう。
手紙やカードどころか彼女の筆跡や名、身元や身分を明かす物がここに何一つないのは、フェスタンディ殿下か侍女のカチュカ辺りの指示あっての事か。
ただ、プシュケーディア姫はまだ若い。政治的立場と感情の折り合いもつき辛いことと思う。感謝の気持ちの品物を受け取ることで、彼女が私に抱いている不必要な『負い目』が解消されるのであれば、それはそれ。まあ……これを切欠にあの妙な態度を改めてくれる事も、淡くだけれど期待していないこともない。
だが、この頂き物を受け取った後の反応を如何にするかが悩ましい。
新造船の設計図盗難は公に出来ない出来事だもの。下手に礼状など書いて後の世に歴史資料など残すわけには行かない。
考え過ぎと笑う人がいるかも知れないけれど、私達だって書簡や様々な資料から過去の歴史を読み解いている事実があるのだ。迂闊なことはするものじゃない。とは、レレイスへの相談の手紙の事があって得た教訓だ。
掛け金を外した箱に手を掛けて、そっと開口部を持ち上げた。やはりジュエリーボックスの中にもカードや手紙の類は入っていない。
……それは想定の範囲内の事なのだけれども。
「? どうしたんだフロー?」
机の天板を挟んだ向こう側に立つ彼からこの箱の中身は見えていない。唐突に顔を強張らせ、開いたばかりの箱の蓋を閉める私の様子に不審を覚えるのも当然の事。
言葉を発する気力も無く、私はグラントにジュエリーボックスを押しやった。
「……これは……最上級だな。傷や窪みは極小。形に……巻きの厚さも言うまでも無い。一粒残らず花珠と呼ばれるグレードの珠が、この数でこの大きさ……」
渡された箱を開き、ゆっくりと瞬きを一つ。グラントは中から艶かしくも美しい艶と輝きを放つ大きな真珠をつまみ上げ、手の中の宝珠の仔細を観察しながら言葉を紡ぐ。
そこに微かに無念さが混ざっているのは、けっして気のせいだけじゃないと思う。
───そう。ジュエリーボックスの中に入っていたのは、真珠。
『白』と言う色の中に、ルビー、サファイア、エメラルド、黄金に白銀、ダイアモンド……数多の宝石の色彩と輝きを幾層にも纏わせたまろい形の美しい粒。それが、箱の中にみっしりと……。
「アリアラ海の向こう側は真珠の一大採取地ではあるけど、やはり王家の威光ってトコロか。……さすがにこれ以上の品物は俺にも探しようが無いな……」
プシュケーディア姫の私を気遣う気持ちはありがたい。そして、この贈り物を受け取ることで彼女の気が済むのであればそれはそれだとは思うのだけれど、どうしてよりにもよってコレなのか……。
ふらふらとオークの机の外周をまわってグラントと机の間に割り込み、顎の下に頭を潜り込ませてコメカミと頬を温かな胸から喉元へかけての部分に摺り寄せる。
「真珠、選んでくれるの楽しみにしていたのに、あんまりだわ……」
せっかくグラントが私の為に真珠を探してくれると言っていたのに。
宝石が欲しいわけじゃない。最上級の花珠じゃなく小さな屑石だろうと、彼が私のために選んでくれると言うのが嬉しかったのだ。
それを……それなのに……。
自分がいい年齢をした大人である事くらい分かっているけれど、私は分別も無く拗ねていた。
暫しの間グラントの胸元にぐりぐりと頬を擦りつけ、その温もりで自分の心を慰める。
プシュケーディア姫の事を我侭者だと言う権利なんて今の私にはありはしない。表情を取り繕うことも出来ずに上げた私の顔は、涙目の膨れ面。
駄々を捏ねる子供のような振る舞いにグラントは呆れているかもしれないけれど、これまで溜め込んでいたストレスのせいか、どうにも感情の制御がままならない。
「フローお嬢さん……」
数秒間。困ったように眉根を寄せる彼を見上げる私は、恐らく酷く情けない顔に映ったことだろう。
見下ろすグラントの唇の端になんとは無し……『困惑』と表現するには怪しい痙攣を視認した刹那、視界が奪われた。それがグラントの厚い胸板に再度抱き寄せられたせいだと気づいたのは、頭頂部にぐりぐりと頬や顎を擦り付けられたせいだ。
伸びかけのお髭が上半分を緩く結い上げた髪に引っかかるのが頭皮へと伝わってくる。
「ああ……まったく、どうしてそう、キミは……」
吐息に紛れるような低い呟き声。
両の腕で頭部を抱え込まれ、あやすように後頭部を撫でられて……じわり。
胸に羞恥心が湧いた。
「そうだフローお嬢さん、珊瑚を買おう。……そう、お嬢さんの唇の色の宝石珊瑚だ。モスフォリアの近辺は真珠だけじゃなく上質な宝石珊瑚が獲れるからね」
泣く子に飴玉を与えるような言葉を頭上に聞くに至り、蘇った分別に頬どころか耳朶までもが羞恥に熱くなったのだけれども───後の祭り。
今さら何事も無かったかのように澄まし返ることなど出来ないし、怒り出すのもまた滑稽。
私はただ頬を燃やしながらもしおしおと、テティが結ってくれた髪を大きな手と伸びかけのお髭で乱されるに任せるしかなかった。
私が抱擁から解放されたのは散々に髪型を乱された後のこと。
「お嬢さんにも思うところは多々あるだろうけど、物に罪は無い。まあ……今すぐにとは言わないが、何かコレを使って誂えたい物を思いついたらキミの要望に添うよう出来うる限り取り計らうから、いつでも言ってくれ」
更にトドメとばかり、掌でくしゃくしゃと頭を撫でながらグラントが言う。
酷い乱れ髪だ。人が見れば有らぬ誤解を受けそうな有様になってしまったが、彼は私を慰めようとしてくれたんだろうし……ちょっと口元が緩んでいたのが気になるけど、それに文句を言えない振る舞いをした自分が悪いんだろう、と、黙ったまま崩れた髪を整え直す。
片腕を背にまわしたグラントがオーク材の両袖机の上、ジュエリーボックスを向こう端へと押しやり、長方形の細長い木箱を目の前へと引き寄せた。
「最上級の花珠真珠を見た後じゃ霞むかもしれないけど……とりあえずこの箱を開けてみてくれないか」
分別無く拗ねて甘えた自分への羞恥だもの。こんな風に優しく気遣われる方が辛いのだけど……。
気恥ずかしさから無言でいる私は彼の目に未だ不貞腐れているように映ったのかもしれない。
引き出しから銀のペーパーナイフを取り出すグラントの横顔から、慣れた仕草で木箱の封蝋を剥がす手元へため息を押し殺しながら視線を移す。
長細い木箱の木地のこげ茶の焼印に、なんとなく見覚えがあった。
……随分以前の記憶だ。
私は目にした物を記憶する能力には長けているけれど、記憶力自体が優れているわけじゃない。それがいつどこで見た物なのかに首を傾げるうち、木箱を縛る麻紐は切り解かれ、銀のナイフの鋭く細い切っ先がぴったり閉じた開口部を持ち上げ、緩めた。
私はローズウッドの杖を机に立てかけると差し出された木箱に手をかけ、いつもの魅力的な笑みを片唇に浮かべるグラントに見守られながら思い出す。
この焼印を以前目にしたのは、たぶん私がまだエドーニアに館を構える前の少女時代。
木蓋を開けて出てきたのは、湿気よけの油紙に包まれた長細い何か。
柿渋色の艶やかな薄紙を手渡された銀のナイフで切り裂き始めてから、やっとそれが何なのかを思い出した。
油紙の間から見える密度の高い細長い木地。揺らめくような独特の斑紋を見せる木材はレターウッドと呼ばれるクワ科の中高木。
象嵌細工等の木工芸品にも使用されるけれど、私にとって一番馴染みが深いのは───
「杖……?」
───そう。あの焼印は、私が一人立ちの決意を込めて象牙の握りの杖を誂えた工房の刻印。
どうして?
とは思わない。必要以上に私に甘いグラントの事だもの。取り急ぎ入手した今の杖があまり手に馴染まぬことを知っていて、前の杖と同じ工房へ新しい杖の注文を出していてくれたのだろう。
細かく注文を出して作らせたあの象牙の握りの杖ほどと言わずとも、同じ工房で製作されたものなら少なくとも今の物よりは使い易いに違いない。
切り裂かれた油紙の隙間に差し入れた手に触れるレターウッドの滑らかな木地の柄を辿り、切り損ねた紙を握りの部分へ向けて剥がして行くと、現れたのは月桂樹の葉を刻んだ真鍮製の結合部。
ああ、これはこの工房の特徴なのかしら……私のあの杖と同じ……。
そしてその上に、濃厚なクリームのような色の象牙を刻んだ馬の頭が───
「…………!!」
ガサガサと乱暴に油紙を破り取り、私は箱の中からその『杖』を取り出した。
艶かしい赤茶に焦げ色の斑紋を浮かべる滑らかな木地の上に乗ったのは、見間違いじゃなく象牙細工の馬の頭。
「シェムスにお嬢さんが杖を注文した工房を聞いてね、発注しておいたんだけれど……どうだい?」
鬣を表現する刻みの流れかた、それに額から頬にかけての凹凸も記憶の中にあるあの杖の握りの部分と殆ど変わらない。
「どうって……いくら同じ工房だからって、どうすればこんな……」
私の杖はあの時、確かにバラバラに砕けて壊れてしまっていた。この象牙の握りにはそれを修復したような痕跡はないし、手擦れして飴色がかった色味となっていた部分も、くすみの無いアイボリーカラーだ。
不思議がる私に目元の笑い皺を深めながら、グラントは引き裂かれた油紙の残る木箱の隅の方から布にくるまれた何かを取り出して机の上に置いた。
分厚いフランネルの布の中には、砕けた象牙の馬首。
「あの杖を作ったのはもう結構前になるんだろう? だから、もしかしたら駄目かもしれないとは思っていたんだけど、運が良い事にキミの注文で象牙の握りを刻んだ職人がまだ工房に残っていたんだ。あの造作には随分と細かな注文をつけていたらしいね? 砕けた頭を見本に可能な限り同じ物をと頼んだんだけど『見本なんて必要ない。未だに夢に見るくらいに良く覚えている』と言っていたそうだよ」
象牙の杖を手に持って、トントン……と床を突く。その、やけに手に馴染む感触。
そりゃあ鬣の毛筋の刻みの数や位置には多少の違いはあるけれど、持った時に感じる違和感は微々たるもの。
「───気に入って、もらえたようだな」
私の様子を見たグラントの口から漏れる、笑いの吐息。
「気に入ったなんてものじゃないわ……ああ……グラント! 申し訳ないけれど、国宝級の真珠が霞むほどよ。もしこれを金の杖と取り替えようと言われたって私、絶対に首を縦に振ったりしないわ」
「金の杖を注文しなかった自分を褒めたいところだな。……お嬢さん。少し外でも歩いてみるか?」
肩を抱く腕から抜け出して、杖を突きつつ部屋の中を歩き回っていた私に、グラントが手を差し出してくれる。
自分が酷く浮かれていることは承知している。でも、こんなに嬉しいことはそうはないのだもの。
「私、サイノンテスの古風で小さなお庭はとても大好きなのよ。だけど、今だけはこのお庭がもっと広かったらって思わずにいられなくてよ」
彼のエスコートで部屋を出て、私達は再び日差し溢れる初夏の庭へと踏み出した。
銀の杖は使い易いけれど、美しくヒンヤリとしていつも他所行きのすまし顔。馴染もうと努力したローズウッドの杖は、どうしてかいつまでも借り物のような気がして自分の物とは思えなかった。
だけど、この象牙の杖は違う。
……紛うことなく『私の物』だ。
「あまり広い庭じゃフローお嬢さんがふらりと何処かへ消えそうで恐ろしいな」
ククッと喉を鳴らして笑うグラントの表情を見るまでも無く、彼がバズラール卿の件で私が突然桟橋に現れたことを皮肉っている事はすぐに分かった。
「失礼ね。私は多重債務者でも煙でもないんだもの消えたりなんてしなくてよ。それにもし仮に私が消えうせたなら、きっと貴方が探し出してくれるのでしょう?」
「勿論。俺の鼻は猟犬並みに利くからね。キミが何処へ姿を眩まそうが地の果てまでも追い回すだろうさ」
「まぁ……それは恐ろしいのか頼もしいのかとっても微妙だわ……」
昔風の庭に色を添えるフランネルソウの青ずんだ紅の色と、マーガレットに良く似た除虫菊の白い花の間を軽口を叩いて笑いながら歩く。
風が草花の間を渡り、ハンモックを吊るす柳の緑のカーテンをサワサワと靡かせる。葉擦れの音に混ざり、庭を取り巻く石組みの塀の向こうから微かに海鳴りが聞こえた。
猫のような鳴き声は海上を飛ぶ海鳥か。
「怖がることなんて無い。俺がこの手を離さなければいいだけなんだから」
グラントは低く響きの良い声ではっきりとそう言って、繋がれた手指に力を込めた。
「だったら……安心して二人でどこまでも歩いて行けるわね」
きゅっと彼の手を握り返しながら、私は自分の唇が自然に笑みの形を描いてゆくのを感じていた。
左の手にはこの黄金にも勝る象牙の杖を握り、右に誰よりも頼もしく……誰よりも愛おしい大きな手があるのなら、私はきっとどこまでも歩いて行ける。
この庭の外に広がるレグニシアの大地も、海原を越えたその向こうへも。
グラントの歩みに添い、彼の目が映す広い世界を、それが動き変化してゆく様も、彼の傍らで共に見る事が出来るだろう。
サイノンテスの古城の庭で、私は草木の馥郁たる香りと冒険的な気配を漂わす海の香で胸を満たし、手に馴染む杖を供にグラントとちょっとした逍遥を楽しんだ。
瑣末な不満に翳った心も、明るい日差しに洗われた。
充分に気持ちの元気を取り戻した私は念入りに、そして情熱的にグラントへ感謝の気持ちを伝えて、少しばかり疲れた身体と満たされた心でプシュケーディア姫へ手紙を書いた。
今まで一度も触れることが無かった彼女作の『ドイリー』への賛辞だ。
贈られた真珠へのお礼を暗に込めた上、浮き立つ気持ちに任せて文章を綴ったせいか、少しばかり褒め言葉が過ぎてしまっていたかもしれない。
その後、私の元へプシュケーディア姫からレース編み作品が頻度を増して大量に届くようになってしまった。
***
十年に近い時が流れ、プシュケーディア姫がアグナダ公国内の地盤を確固としたものとなした頃、リアトーマ国とアグナダ公国の貴婦人達の間に手編みのレースが流行することとなった。
きっかけは、妃殿下のサロンに招かれた貴婦人たちが目にしたプシュケーディア姫の応接間。シックな色合いの落ち着いた部屋を彩る、手編みのレース達。
暗色の壁を飾る芸術性に富んだボビンレースは、複雑にして繊細。クッションの縁に愛らしさと素朴さを与えるリネンレースも、一流職人の製作と言われても納得するような華麗で豪華なレースの付け襟も、全てが妃殿下自らの作と知った人々は、その高い芸術性と完成度に驚嘆し心からの賞賛を贈った。
以降、アグナダでの貴婦人の集まりにお茶や音楽、詩に加え『レース編み』と言う会が加わり、編み物が苦手な私をおおいに困惑させることとなったけれど、それくらい些細なこと。
「本当に辛かった時も、支えてくれた夫と友達。それに、打ち込める趣味があったから耐えられたのよ」
……と、幾度かの死産と流産を経て漸くに健康な男児を授かったプシュケーディア姫は、後に語る。
腕にお包みの中で健やかに眠る赤子を抱き、優しげな灰色の眼差しで庭に遊ぶ金色の巻き毛の女児を見守るプシュケーディア姫は、華美ではないが可憐にして強かな存在感を持つ木香薔薇のよう。
そこにはもう自分が『顔のない花嫁』だと嘆いた面影は無い。
次期大公フェスタンディ殿下に長く男児が授からぬ事で、近年では側妃の擁立を推し進める動きもあったらしい。
だが、動きが具体的な形を得る前にそれを全て蹴ったのは誰でもない。フェスタンディ殿下……。
王子と王女が結婚し、物語には『二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ』……とのエンドマークがつくけれど、現実にはその後の日々の中に幾多の苦難や悲しみも待ち受けている。
だけど、それでもやっぱり
『幸せに暮らしましたとさ』
と結んでいいのかも知れない。
プシュケーディア姫の場合は、二人ではなく小さな公女と公子との四人ではあるけれど。
グラントと私の物語にも、幸せなエンドマークがきっとつく事だろう。
今も私の左手は象牙の杖を握り、右の手は彼の大きな掌にしっかりと包まれているのだから。
終わり
本編はこれで終わりになります。
番外編群・アダムの林檎へと続きますのでよろしければどうぞ。




