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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
89/97

『顔の無い花嫁』58

「……洗濯女を言いくるめて、予め色ごとに暗号を割り振ったハンカチやスカーフなどの色布を、指定の順序どおりに物干し場に吊るさせておくのですわ……」


 スティルハートが語るのは、アグナダ上陸後の花嫁道中に外部……つまりバズラール卿の仲間達と連絡をとった方法についてだった。


 事情聴取を終えた彼女が会議室へ連れてこられたのは、つい今しがたの事。

 設計図が持ち出されたのはこの大公城からではあるけれど、明日の引き渡しまでその所有権はモスフォリア国側に帰属する。曲がりなりにもモスフォリアの貴族階級出身であるスティルハートを、アグナダがいつまでも拘束しておくわけにはゆかなかった。

 しかしアグナダ公国のみならずレグニシア大陸全体の安全が脅かされた事実がある以上、黙ってなにもせずスティルハートを開放する事は出来ない。

 アグナダ公国がするべきは、速やかに一連の事件について取れる限りの証言を取り調書を作成する事。

 調書の内容に基づいて国内での事件を調査検証し、場合によっては協力者などを摘発するのだ。


 復権を果たしたバズラール卿に取り入る夢に破れたスティルハートは、形而上及び形而下における一切の抵抗を諦めているのか、問われるままに知る限りを答え、調書の作成は速やかに終了したらしい。

 今現在行われているのは調書を前にしての質疑応答。書類の内容に不足が無いかを両国の責任者達が閲し、疑問点を本人の証言によって埋める作業である。


「下働きの洗濯女達は『まじない』を口実に使って簡単に言いくるめる事が出来ましたわ……」


 よくもそんな妙な依頼を受ける人間がいたものだ……との疑問に、スティルハートが光の無い瞳、抑揚の無い口調で状況の説明をはじめた。


「……私達美しい侍女に囲まれたプシュケーディア姫が、人の目にどう映るのかお分かりになりますでしょう。滅多に無い他国からの花嫁行列。……投宿した先々の屋敷の中に話はあっという間に広がりますわ。皆『まじない好き』のモスフォリア王女に同情したのか、たいそう協力的でございました」


 プシュケーディア姫がフェスタンディ殿下のもとへ嫁ぐ事になったのは彼女の姉メレンナルナの早世がきっかけ。メレンナルナ王女の訃報はアグナダ公国国民にも広く知れた話だ。

 この結婚自体が姉姫の不幸の上に成り立っている上、モスフォリア国の『侍女』がどういう意味合いを持つのかは面白おかしく尾ひれをつけて伝播でんぱされていたらしい。

 大抵の者は王女の『まじない』に親切に協力し、日にさらし風に当て終えた美しいハンカチと小銭を礼にと言えば、喜んでそれらを引き受けたのだとか。


 輝かんばかりに美しい『愛人候補』の侍女達に囲まれ、歳若いプシュケーディア姫が『まじない』や験担ぎの類に頼ろうとするのを不審に思う者は殆どおらず、容易に丸め込む事が出来た───とは、スティルハートの言。

 洗濯女などの屋敷裏の下働きは町場の出の者よりも験担ぎや願掛けでの小さな『まじない』が生活の中に自然に行われる田舎出の者の方が多い。

 『まじない』にかこつけて暗号の掲示を行わせるなんて随分と上手いことを考えたものだ……と、そんな場合では無いがつい感心してしまう。


「スフォールの王宮勤めの間も、バズラールとは何度も手紙のやり取りをいたしておりました。……王女付きの侍女ですもの……手紙の検閲なんてございません。『あの王女の相手は大変だろう』……と、周りの人達が気遣いをしてくれはしても……疑われた事など一度もありませんわ。差出人は適当な女名前でさえあれば友人だと言い逃れられますもの。え? ……手紙でございますか? 王宮を出発する前に全て焼却しましたから、残っていませんわ」


 スティルハートの言葉を聞くプシュケーディア姫の表情には、隠し切れぬ不快さがにじみ出していた。

 それはそうだろう。プシュケーディア姫はけっして醜い娘ではないけれど、美しい侍女達に囲まれた自分が下働きの使用人に同情されるくらいに見劣りがすると聞かされては、気分だって良くはなかろう。

 それに夫や舅となる人間もいる前で、自分に仕える侍女は周囲に同情されるくらいに大変だと故国で同情されていたなんて暴露されては、堪ったものじゃない。


 ……だけどスティルハートには王女を怒らせようとの意図があるわけではなく、ただありのままに彼女にとっての事実を述べているだけだ。

 実際フェスタンディ殿下との婚約が決まった後のプシュケーディア姫はそれに反発し、周囲が手を焼くほどに酷い荒れようだったのだもの。

 それをなだめつつ彼女の世話を焼き、さらには嫁入りの為の衣装や装身具の手配をするスティルハートやカチュカを、周囲の人々が労い大事に扱っていたと言うのも頷ける話。


 会議室の椅子の上、私は腹立たしさに胸をムカつかせながら彼女のこの証言を聞いていた。……但し、私の怒りの対象はスティルハートではなくプシュケーディア姫に対するモノ。


 設計図の復元作業が終了した後、私はプシュケーディア姫に対して自室で休むように誰も言葉を掛けてくれない事をずっと訝しく感じていた。

 立場上王女からそれを言い出せない事くらいみんな承知しているだろうに、疲れを気遣ってくれてはいても、けっして『もうここはいいから』との言葉が出てこないのだ。


 その理由に私が思い至ったのは、スティルハートが会議室へ連れて来られてからのこと。

 公国の屈強な兵士に両脇を固められた彼女が入室して来た頃には、設計図復元作業で席を外して貰っていたエグザ公爵やレバイック卿ら大公のブレイン達と、プシュケーディア姫の後見役であるエムリア公爵やボートナム卿らは既に部屋の中に戻っていた。

 私がこの席に残されたのはプシュケーディア姫の介添え人であり、事件にも係わった人間だからだろう。

 そしてグラントもこの件に関してはだろうが、行きがかり上大公のブレインの一人としてここに残る事になったようだった。


 それにしても……私はどうしてこの場面に来るまで大公やフェスタンディ殿下らがプシュケーディア姫を部屋に戻らせてくれなかったのかを考えなかったのだろう?

 事情聴取が終わり調書の作成が終了したなら次にすべきことは何なのか、ちょっと頭を働かせれば分かったものを。

 ……やっぱり私はグラントの頚木を外す強力なカードの入手で浮かれすぎていたのだ。

 スフォールの王宮滞在時からずっと


『特権を受けるにはそれなりの責任が伴う』


 ……つまり、権利と義務が一体のものである事をプシュケーディア姫に言っていたのは私なのに、彼女が『ここにいる』事に対して疑問と危機感を抱かなかった自分の迂闊さが悔やまれる。


 プシュケーディア姫は本来エムリア公に事態をまかせ、自室で全てが終わるのを待っている立場にあったのだ。

 彼女がここにいるのは彼女自身がモスフォリア国の『責任者』として自分はここにいるべきと主張したからこそ。

 エリルージュが失踪し、更にはエリルージュ捜索の協力をしている筈のスティルハートが設計図盗難の容疑者であると知らされ、しかも介添え役である私がスティルハートを追って行き先知れず。

 王女が不安になるのは当然だったと思う。でも、プシュケーディア姫はやり過ぎたのだ。


 恐らく事件の情報が真っ先に入って来る会議室への入室を主張しただけであったなら、彼女は今ここにいる事を強いられたりはしなかったと思う。そこまでなら彼女の行動は幼いなりの正義感と責任感として受け取られた筈だ。


 だが……その先はいけない。


 設計図の復元作業を行う現場に彼女が立ち会う必要の有無についていま冷静に考えてみれば、そこは『否』と言う以外に無い。

 彼女はスティルハートが捕縛され介添え人の私が大公城に戻り、焼失した設計図が復元可能であると確認した時点で大人しく部屋へ引き上げるべきだったのだ。

 しかし王女はそうしなかった。

 私は自分の事で一杯一杯。その時のやり取りを聞いてはいなかったけれど、彼女は大公やフェスタンディ殿下、それにアグナダ公国側の要人達の耳目もある場所で、これ以上は『出すぎた振る舞い』であると彼女をやんわりと咎めるエムリア公爵を逆に叱責し、公爵ではなく自分こそモスフォリアの責任者である……と主張してしまったのだとか。


 ……これではどうにもならない。


 プシュケーディア姫はこの先、フェスタンディ殿下が大公位を継承すれば大公妃となる人間。公爵としても彼女相手にそれ以上みっともなく揉めるわけにも行かなかったのだろう……。

 私個人としては、多少揉めたとしても王女の暴走を止めて欲しかった気もするけれど、スフォールの王宮では父王に溺愛されていたプシュケーディア姫に意見をする人間などおらず、人々は彼女を甘やかしていた。

 周囲の人間が彼女の意向を通す事にあまりにも慣れ過ぎてしまっていたのだ。


 なんて馬鹿なことをしたのだ……この娘は……。

 急激に芽生えた責任意識ゆえの暴走かもしれないけれど、自分に見合った引き際と言うモノがあるのに。

 エムリア公爵が示したその引き際に従ってさえいれば、王女はここに座って彼女にとって不愉快極まりないだろうスティルハートの供述を聞かされる事は無かったのだ。

 それに、二十歳にも満たない娘に求められるには酷すぎる『決断』を迫られる事だって……。


 バズラール卿との関係がいつからどのように始まったのか、アグナダ公国に渡ってきてから起きた花嫁行列襲撃事件時の役割について等、スティルハートは問われるままに答え、またその供述も整合性に欠くことはないようだった。


「発生事案と供述の間に齟齬は見当たらないようですね……。公国内での出来事については明日からさっそく調査に入るよう段取りを……という事でよろしいでしょうか?」


 公国側の調査官の言葉に大公が頷く。

 エムリア公爵は神妙な面持ちで調書の写しを受け取り、大公らに一礼した。


「では……モスフォリア国での捜査が終了次第、改めてアグナダ公国に捜査結果の報告をさせていただきます。なにぶん海を越えての事。早急に国には連絡いたしますが、報告まで日数がかかることを予めお詫び申し上げます……」


 公爵の声には疲労の色が滲む。

 プシュケーディア姫の後見役として渉外関係を任されたエムリア公爵は、恐らく外交面に優れた能力のある人物なのだと思う。……が、如何せんこの花嫁道中は想定外の出来事が起きすぎた。

 なんとか無事にセ・セペンテスに到着したと思えば、とどめとばかりにバズラール卿……。

 いくらモスフォリア王とは縁戚関係にあたるとは言っても、彼の出来ること、その処理能力には限界だってある。


 だから私は結局プシュケーディア姫の『我が侭』を通してしまった公爵を責める気持ちにはなれないけれど……。


「それでは、侍女スティルハートのアグナダ公国としての取調べは終了という事でよろしいですね?」


 ひととおり調書の検分を終えてフェスタンディ殿下が口を開き、同意の頷きを一座が返した。

 公国側の兵士と調査官に代わりボードナム卿が室外から衛士を呼び寄せ、この時点をもって彼女の身柄はモスフォリアへと引き渡された。


「……プシュケーディア姫。……スティルハートをいかがいたしますか……?」


 その問いがエムリア公爵の口から発せられるまで、王女はたぶん傍観者の気持ちでこの場に座っていたのだと思う。

 声と言葉には出なかったけれど、プシュケーディア姫が


『……え?』


 と言う軽い驚きの表情を浮かべたのが私にも分かった。


 ……やはりこの娘は自分がどうしてこの場に残されたのかを理解していないのだ。

 チラと目を走らせた先、エムリア公爵は何か言いたそうにしながらも何も言えずにいる。

 ……それはそう。


「王女が自分の立場を奪ったのでスティルハートの処分についてを決めるのは貴女です」


 ……なんて、彼の口から言える訳がない。

 ボートナム卿は衛士の長に過ぎぬ人間。ここで彼が口を出すわけには行くまい。


 ……胃がしくしくと痛む気がした。


 胃くらい痛んで当然……。結局……この場でプシュケーディア姫に状況を説明する人間は私以外にないのだもの……。


「……プシュケーディア姫。ちょっとこちらへ」


 私は銀の杖を握る手に力を入れて立ち上がり、王女の肘をそっと……いや、そっとに見えるが実はかなり力を入れて掴むと、強引に彼女を立ち上がらせた。

 案の定、私の動きに口を出す人間は一人もいない。それどころか目の端に捕らえた大公やフェスタンディ殿下、それに……それにグラントまでもがどこか気の毒そうな表情を浮かべてこちらを見ているではないか。


 灰色の瞳に驚きと……それから微かな不満の色を浮かべる王女を、私は部屋の端に引きずるように連れて行った。


「────── 一体……なんなの?」


 ひそめられた抗議の言葉を無視し、プシュケーディア姫をキッとばかりに睨みつけた。


「ご説明さしあげますから、口を挟まず聞いてください」


 勿論私は大きな声など張り上げてはいないが、尋常ではない気配に気づいたのか、王女は開きかけた口を閉じる。


「王女、貴女はエムリア公爵を差し置いてモスフォリア国の代表……責任者の立場にあるのは自分だと主張なさいましたわね? ──────反論は無用。もう既に既定の事実ですので、貴女が何を仰ってもその事実を動かす事は不可能と諦めてください」


 プシュケーディア姫の瞳が大きく見開かれた。

 ……気のせいではなく本当に胃が痛んで来た……。


 私は口早にモスフォリア側としてスティルハートを如何に処断するか、それをプシュケーディア姫が采配してアグナダ公国へ告げる必要がある事を彼女に告げる。

 プシュケーディア姫は基本的に馬鹿な娘ではない。私の言葉に即座に顔面を蒼白にしたのだから、理解力自体は優れているのだと思う。

 我が侭を許容されて来たことと生育環境のせいで世の中を知らず、そのせいで踏まなくて良い地雷を彼女は踏んでしまったのだろうとは分かるのだが……。どうしてこんな酷いタイミングで強情に我を通したりするのかと腹が立つ。


「……モスフォリア国の責任者としてアグナダに『けじめ』を示す事が貴女に求められている役割だとご了承ください」


 神様でも魔法使いでも無い私に彼女を助ける術は無く、出来ることと言えばただこうして、言葉を飾り婉曲な表現を取る時間的精神的余裕もないままに酷な現実を突きつける嫌な役目を遂行する事だけ。


 スティルハートはモスフォリア国の貴族階級の人間。彼女をアグナダ公国が裁く事は便宜上出来ない。

 しかし、彼女のせいで国家安定の危険と迷惑をこの国は蒙っている。

 モスフォリアとしては自国でのスティルハートの動向や共犯者の有無などを調査し、それを詳らかにアグナダ公国側へ報告する事、そしてスティルハートに対してどのような処罰を行うのかを示す事が求められている。

 プシュケーディア姫は血の気の失せた顔で唇を震わせていた。

 ……人を裁くなんて役目をこんな世間を知らない若い娘に負わせるのは酷に過ぎる。だが、それを無自覚とは言え強引に選び取ってしまったのは彼女自身。

 ……もしも時間を巻き戻せるのであれば、この考えなしの娘が我が侭を言い出した瞬間に戻り、銀の杖で思い切り向こう脛をぶってでも、馬鹿な振る舞いを止めさせたものを……。


「貴女一人で決められないのでしたら、エムリア公爵やボートナム卿と相談の上……と言う方法もございます」


 氷のように冷たい王女の手を取って、私は小声で彼女に告げた。


 スティルハートの罪は彼女が設計図の窃盗犯と確定した時点で分かりきっていた。それなのにこの場に来てバタバタ協議を始めるなんて非常に格好がつかないけれど、プシュケーディア姫に自分の侍女の処罰を決められないのであれば周囲の人間に相談するより方法はあるまい。


「それに、スティルハートの処遇について明日の結婚式が済むまで『保留』にしてしまうという事も……まあ……可能ですわ」


 ……今更ばたばた相談を始めるのもみっともない話ではある。しかしそれ以上に彼女の評価を下げてしまうのがこの『保留』と言う逃げの方法……。


「だけどそれって……」


 プシュケーディア姫がはっきりと眉根を寄せた。

 彼女にもそれがどういう事かは分かったようだ。


 明日の結婚式が済んでしまえばプシュケーディア姫は『モスフォリアの王女』ではなくアグナダ公国の公太子妃となる。時間切れを狙って全ての責任を再びエムリア公爵へと押し付けると言うのがこの『保留』と言う方法。

 まあ……そんな事をしてしまったら、王女は責任感の無い我が侭で勝手なだけの娘であるとの評価は避けられないだろう。

 でも、たぶんプシュケーディア姫にとっては一番楽な方法ではあると思う。


「どうするかは……自分自身でお決めください。プシュケーディア姫……」


 怒りと情けなさ、それに様々な感情のごた混ぜに胃がしくしくと痛む。

 ここまで来て差し伸べられる手など無く、王女の手をきつくきつく握りながら私はこみ上げる感情を殺して硬い声でそう告げる事しか出来なかった。


 私の言葉に王女が白い顔で一つ頷いたのは確か。ただ……どうやって元の席に私達が戻ったのかをあまり憶えていない。

 椅子に腰掛けた王女はしばし目を閉じて何事か黙考した後に、周囲への前置き無し、唐突にスティルハートに向けて口を開いた。


「スティルハート。あなたはカチュカと二人で私の世話をしてくれた。嫁入り仕度だって、私に似合う美しい物を一生懸命整えてくれていたように見えてたわ」


 若干の震え混じり。

 だがしっかりした王女の言葉を受けたスティルハートに視線を向けると、彼女は感情の見えぬドロリと澱んだ暗い目のままに唇だけを動かして抑揚なく喋りだす。


「……美しく生まれつけなかった王女さま。娘盛りになっているのに……港口の子供らみたいに構いつけなく、日に焼けて雀斑そばかすだらけ。しかも手入れもしないみっともないおぐし。……見ていてお可哀相でなりませんでしたもの。少しでも『まとも』に見えるようにして差し上げなくてはね……」


 血の気を失っていたプシュケーディア姫の頬がこれを聞いて俄かに赤く染まる。

 ボートナム卿に呼び寄せられた衛士らがこの失礼な発言を叱責しようとするのを王女は遮り、さらに彼女に質問を重ねる。


「どうしてあんな馬鹿なことをしたの……スティルハート……?」

「まぁ……私を馬鹿と仰るのですか……それこそなんて馬鹿なことを。……憎らしい娘だわ。……美しく生まれついてもいないくせに、生まれた家が良いだけで大国の公太子妃だなんて。世の中は不公平。……ワタクシが三人姉妹で一番美しかったのに、一番幸せになれる筈だったのに……………………」


 言葉を切ったスティルハートが俯けた顔のまま暗い目だけを王女へと向けた。

 相変わらずその瞳には光の欠片もなかったけれど、唇だけ微かに笑みの形に歪んでいるように見える。


「最初に侍女としてあの花嫁に同行した時だってそう。ワタクシが一番若くて美しかったのですわ。だから一番最初に旦那様のお手つきにだってなった。旦那様のお気に入りになった。……お可哀相な奥様の寝所に旦那様はほとんど通われなかったのに、私があまり縫い物が得意じゃないとか、手癖が悪いとか。……嘘を付いて国許へ追い返すなんて……。奥様のものに手をつけた事など一度もないのに。裁縫だってその辺の役立たずな町娘たちよりも……よっぽど玄人はだしだと言うのに……。だって……私が三人姉妹の中でもっとも賢くて器量よし。なんでも出来るって父さまも母さまもたいそう自慢していたのよ。一番素敵な旦那様を得る権利があるはずじゃないの? 馬鹿にしていると思いませんか……?

アドラ姉さんは家柄だけは良い不細工な地方貴族へ嫁ついで、イーダ姉さんはみっともない商人の後添え。……イーダは一番器量で劣るから……これは仕方ありませんわ。それにアドラ姉さんの嫁入りで随分と無理をしたから、お金だって必要だったし。……ねぇ? それでどうして私には青もやしのような木っ端役人との縁組なんだと思いませんか、プシュケーディア姫? 間違いなく出世するって父母そろって私に勧めて……。小役人の嫁? 私が?? 一番美しくて賢い私が? 二度目の奉公先では上手く行きそうだったのに……私に相応しい男を見つけたのに。私の美しさに嫉妬した奥様……。お嬢様のお気に入りの私を旦那様が死んだ途端、威張り腐って放逐するなんて……」


 スティルハートの二度目の奉公先はモスフォリアの隣国。彼女の女主人であるモスフォリア王の血縁女性の赴いたのは、その国の大臣の後妻の口だ。

 老齢に近かった大臣は彼女に手をつけることはなかったが、先妻との間の娘がスティルハートを気に入って傍に置きたがった様だ。

 彼女がバズラール卿と関係を持ったのは、その娘がボルキナ国のフィフリシスの学校へ留学した際のこと。


「バズラール様は私の事をとてもお気に召してくださっていた。奥様よりも美しくて賢いワタクシに、傍にいてもらいたいと仰っていたのに」


「──────うまくゆかないのですわ」


 ……と、スティルハートは言う。


 モスフォリアに戻った彼女を待っていたのは、弟の刃傷沙汰によって生家が取り潰しになりそうだとの凶報……。

 彼女の父母は家と跡継ぎを守るため、スティルハートをその地方の貴族社会に強い発言力を持つ男へ差し出したのだとか。


「家の為……後継ぎの弟の為……父さまと母さまが泣いて私に頼むから……そうじゃなければ誰があんな汚らわしい……脂ぎった芋虫のような男に体を許したりするものでございますか。あの悋気持ちのしみったれの囲われ者にされて、何年もの時を無駄にして……。やっといやらしい毛虫男が死んで解放されたとホッとした私に、七人もの大きな子供のいる田舎の……貴族ですらないやもめ男の妻の口を持ち込むなんて……」


 スティルハートの美しい唇が震えながら不意に醜く歪んだ。


「三人姉妹の中で一番賢くて器量よしのワタクシに、そんな話しか持って来れないなんてありましょうか? それも……ワタクシがもう若くないからだなんて……一体誰のせいで時を無駄にしたと言うんですか……? ワタクシが一番美しかったのに、賢かったのに……気働きの利く器用な娘なのに。幸せになるための努力をして何がいけないと仰いますか?」


 スティルハートは一度たりとて激高する様子を見せなかった。

 言葉はあくまでも淡々と抑揚の無い呟きとして彼女の唇から漏れ零れたものなのだが、なんだか聞く者に常軌を逸した『ズレ』を感じさせた。

 確かに彼女は不運な女性と言えばそうなのかもしれない……だけど……。


「あ……あなたが幸せになる為なら、戦が起きても構わなかったってこと? 言っている事がおかしいわよスティルハート。あなたが罪人になったら、両親も弟も困った事になるのに……!」


 スティルハートの言葉の薄気味の悪さよりもその身勝手な内容に反応し、プシュケーディア姫は眉を逆立てた。


「そりゃあ……私は偉そうな事を言えるほど立派な人間じゃないかもしれないけど、でもアンタの行動でたくさんの人死にが出たかもしれないのよ! 一人二人じゃない、たくさんの人と街が戦火に焼かれるところだったんだから……っ。それなのにアンタは……自分が幸せになりたかったなんて勝手なこと……勝手な事をっ」


 自分自身の言葉でさらに激してか、王女は言葉の途中で立ち上がり両の拳で分厚い長テーブルの天板をドンっと殴りつけた。


「……生まれ落ちた先がたまさか王の娘だったと言うだけで、女らしさの欠片もなく、その程度の容貌で公太子妃の座を得られる……お幸せなプシュケーディア姫さまには分かりますまい……」


 俯かせていた顔がゆっくりと上げられ、スティルハートはプシュケーディア姫を真っ直ぐに見据えた。

 しかしその表情は虚ろ。怒りをあらわにする王女への反応も薄く、こちらを向いている筈なのに彼女の光の無い目は何処を見ているとも知れぬ。


「ワタクシが一番若くて美しかったのでございますよ。……三姉妹で一番良いお相手と添うことが出来るだろうと言われて来ましたわ。最初の旦那様のところへ行った時にはグリーナより若く、エリルージュなどより何倍も美しい娘でございました。ワタクシが一番だと……一番だと誰もが……」


 熱に浮かされたかのような呟きがスティルハートの歪んだ唇から漏れ零れ続けていた。

 私は灯火に照らされた彼女の目の下に醜い弛みがあるのに気がついた。

 一度気づいてしまえばほんの数時間前、昼の光の下で見た時にはなかった筈の幾筋もの皺が彼女の美貌を侵食しているではないか。

 乱れたままの髪と理性的だった両の目の下のくすんだ隈が、今この瞬間にも秒単位、スティルハートに残されていた女性としての瑞々しさを容赦なく食い荒らして行っているように思えて……私はぞっと寒気がした……。


「一番若くて……美しかったのです……ワタクシが……ワタクシが……。バズラール様と……幸せになれる筈でしたのに……それこそがワタクシに相応しい未来だったのです……」


 怒りで赤く染まっていた王女の耳朶からすぅっと血の気が失せてゆく。

 人と言うのはこんな短時間のウチに……これほど激しく面変わりしてしまうものなのだろうか……?

 ここにいるのは私やプシュケーディア姫が知っている涼やかな美貌を持った女性では無かった。

 夢破れ、心までも壊れてしまった……中年女。

 これまで何くれと無く自分の世話をやいてくれた侍女の異変に気づき、激高から醒めたプシュケーディア姫は今や微かに体を震わせていた。


「プシュケーディア姫様……」


 王女の様子にエムリア公爵が声をかけるも、プシュケーディア姫は気丈そうに


「大丈夫」


 ……と公爵に向けて頷いて再びスティルハートへと顔を向ける。

 ほっそりと華奢な胸郭を深呼吸に大きく……ゆっくりと上下させる王女。


「……理由はどうであっても……スティルハート。あなたが私を少しでも立派に見えるように嫁入りの仕度を手伝ってくれたのは確かだわ。……その事は……感謝してる。…………だけど……」


 体の左右に下ろしローブのひだ飾りを握る王女の拳の関節が、込められた力で白くなった。


「あなたのやった事は犯罪だわ。モスフォリアだけじゃなく、このアグナダ公国も……隣国のリアトーマも巻き込む許しがたい重大な犯罪なの。私にはあなたの主人として罰を与えなければならないのよ。……確か……市井では盗みを働いた人間には盗人の印をつけるのよね……? 何度かそんな話を聞いたことがあるわ。──────そうよね、ボートナム?」


 自分に質問のお鉢が回ってくるとは思わなかった卿は、虚をつかれた様に一瞬どもりつつ、その通りだと肯定の答えを返した。

 モスフォリアでは悪質な盗みを働いた罪人……特に女性に向けて下される刑罰があるのだとか。


「……では……ボードナム、今すぐスティルハートの額に盗人の『焼印』の準備を……」


 声を震わせながらもプシュケーディア姫は、きっぱりと一座に届く大きさでそう宣言をした。


 スティルハートの処分について、王女はエムリア公爵とボードナム卿に相談を持ちかけるか、最悪、時間切れを狙っての『保留』を言い出すだろうと私は思っていたから、これを聞いてとても……本当にとても驚いた。


「スティルハートのしたのは大変なこと……。……アグナダ公国の皆々様にあり得ないくらいの迷惑を掛けておきながら手緩いと思われるかもしれませんが、今私が下せる彼女への罰は、貴族としてではなく名もない罪人と同様の刑罰をスティ……『この女』に与える事です。モスフォリアでは貴族としての身分の剥奪と、それから貴族への死罪の申し渡しが出来るのはモスフォリア国王だけ。本国に送還された暁には確実に身分の取り消しが行われるでしょうし、その後で罪に相応しい厳罰が必ず与えられるだろう事は私がお約束いたします。あの……主人としての私の目が行き届かなかったせいで大変な迷惑をおかけしました」


 プシュケーディア姫がアグナダ公国の面々への謝罪を口にする間、命令を受けた衛士らによって火掻き棒が暖炉の熾火に差し込まれて真っ赤に焼かれた。


「……ワタクシにこそ幸せになる権利があったのですわ……。ワタクシがもっとも……誰よりも美しい娘だったのですもの……」


 なされるがまま石の床に仰に体を抑えられたスティルハートは、火掻き棒を突きつけられるまでぶつぶつと虚ろな顔で呟きを零し続けていたのだが、さすがに目の前に熱く焼けたソレが触れんばかりになって正気づいたのだろう。死に物狂い、体をのたうたせ拘束を逃れようと暴れながら、大声で衛士や王女を罵り始めた。


「プシュケーディア姫はワタクシの美しさが嫉ましいのだわ……! だからこの顔に……このワタクシの顔にそんなものをっ! やめてっ……やめてやめて……やめてっ! いやぁあああぁあああああああ……っ!!!」


 着衣の裾を乱し、太ももまでもを露わにして怨嗟の言葉を絶叫するスティルハートの姿とあの声は……きっと死ぬまで私の記憶から消える事はないと思う。

 会議室にいた面々は皆青ざめて言葉も無く、妄執の果てに身を滅ぼした彼女をただ黙して見ることしか出来なかった……。



 プシュケーディア姫は気丈だったと思う。

 叫び、暴れ、ぐったりと半ば失神したようになったスティルハートが連れ出されるまで、彼女はたったの一度もそこから目を逸らしたりせず背を伸ばして立ち続けたのだもの……。


 女性の顔に焼印と言うのは野蛮で残酷な刑罰だったかもしれない。しかし、考えてみれば自分の美しさを過信するあまり現実を乖離した野望に自分以外の人々を犠牲にしようとしたスティルハートには、ある意味もっとも相応しい罰だったのではないだろうか……。


 モスフォリア王女、そしてアグナダ公国の公太子妃となるべき人間として思っても見なかったほどの意地を見せたプシュケーディア姫ではあったが、スティルハートが運び出された後はその張り詰めた緊張の糸がぷつんと切れてしまったのだろう。

 王女は蒼白な顔をしてテーブルの上に両手を突きカタカタとその華奢な体を震わせていた。


「プシュケーディア姫……」


 私は立ち上がり握り締められたまま真っ白に血の気を失っている拳の上に自分の手をそっと乗せる。

 冷たい……まるで氷のように冷え切った手……。

 プシュケーディア姫は怒ったような表情で私を見、小さく一つ頷いた。

 でも……それで限界。

 力を失いへなへなと床の上に崩折れかけた彼女を抱きとめたのは、こちらの異変を察知して素早く駆け寄って来たフェスタンディ殿下だった。


「大丈夫ですか……プシュケーディア姫……!」


 抱きとめられ、暫く放心状態でぼんやりと殿下の胸に身体を預けていた王女が、やがて自分がどこにいるのかに気づくと蒼白だった頬を赤く染めて自力で立ち上がろうともがき出す。

 ……とは言え、これまでの一連の出来事は若い彼女の心の容量を遥かに越してしまっていたのだろう。プシュケーディア姫はどうにも上手く四肢に力が入らない様子。


「ご……ごめんなさい……私……」


 しどろもどろ、頬どころか首までを真っ赤に染めて狼狽の様子を見せる王女にフェスタンディ殿下が優しく声をかける。


「気になさらずに、プシュケーディア姫。……貴女は本当に立派でした」


 数瞬の間をおいて、プシュケーディア姫の灰色の瞳に涙が滲み、大きな雫となって滑らかな頬の上をポロポロと零れ落ちるのが見えた……。


 なんとなし、そっと二人の傍を離れた私のすぐ傍にはいつの間にかグラントがいて、力強く頼もしいその腕で私の肩を抱き寄せてくれた。


「フローお嬢さん、大変だったな。……疲れただろう?」


 労わりを込めた深い声に、私はそっと息を吐く。


「大変だったのは私だけじゃなくてよ」


 言いながらチラリと目を向ければ、プシュケーディア姫がフェスタンディ殿下に励まされ、慰められつつ会議室から出てゆく後姿が映る。


「……でもそうね……確かになんだか少し……疲れてしまったわ」


 こんな出来事の後だもの、きっと暫くの間王女の涙は乾くまい。そしてフェスタンディ殿下はそんな状態の彼女の傍を離れたりする薄情な方ではないのだ。


 どうやら私はいつの間にか介添え役と言うよりは『お邪魔虫』の立場になってしまったらしい。二人のいる部屋に私まで戻るのも気が引けるし……さてどうしたものだろう……。


 力なく肩を竦めた私の眺めるものに気づいたグラントの眉が大きく上下した。


「一緒に屋敷に戻ろうか?」


 それを言い出したのはグラント。

 普通だったら私も何を馬鹿なことを……と、冗談として流していただろうけれど。


「……そうね……そうしようかしら」


 と。


 私が彼の提案に同意したのは懐かしい『我が家』への里心に負けたと言うよりは、なんとなく自分の介添え役と言う役目が既に終わっているような気がしていたからだと思う。

 部屋を出るプシュケーディア姫とフェスタンディ殿下の後姿は中々に『似合い』に見えたのだ。

 優しく彼女に言葉を掛ける殿下に答える王女の表情も、まんざらでもない様子。

 ……私と一緒ではプシュケーディア姫は意地になり、疲れていても甘える事など出来はしないだろう。

 こんな日くらいフェスタンディ殿下に思うさま甘やかしてもらった方がきっといい……。


 ……別に構わないではないか。明日の朝、プシュケーディア姫とフェスタンディ殿下の結婚式までに私はこの大公城に戻れば問題なんてないのだ。

 駄々を捏ねて殿下との結婚を嫌がっていた王女はもういないのだし、私の役目は終わったも同然。

 結婚式を前にして、もしも王女と殿下に何か間違いがあったとしても……それはそれ。

 たったの一日くらい、なんてことはない話だもの。


「すぐに馬車の用意をさせよう」


 と、グラントが手を取り私を会議室から連れ出してくれた。

 出た先が本来私が向かうべき行き先方向と違う事は、部屋に残っていた人々にも分かっていた筈だけど、誰も私を呼び止めたり苦言を呈する事は無かった。




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