『顔の無い花嫁』57
「さあフローお嬢さん、チーズをもう一切れどうだ? スープのお替りは?」
入浴を済ませスッキリした顔で清潔なガウンを身につけたグラントが、同じく夜着の上にガウンを羽織った私に食べ物を勧める。
寝室の明々と燃える暖炉の前に持ち込まれたテーブルの上に並べられたのは、料理人モスランが誂えた、急ごしらえとは思えぬ夕餉の皿達。
ユーシズのバルドリー家自家農園産野菜とベーコンを煮込んだスープはシンプルだけど熱々で、ベーコンの旨みと野菜の滋味に溢れた素朴なお味。お肉の皿はハーブで風味をつけた鶏の冷製肉だ。これには粗挽き麦をスープで炊いてバターを絡めた物が添えられおり、旨みを吸った麦の甘さと食味がたまらない。
他にも数種類のチーズと薄く切った固焼きの黒パンに、コーンスターチでとろみをつけた黄金色のチキンスープを表面に張った蕪のフランと、シャンピニオンと玉葱挽肉入りのまだ温かい半円形の一口パイもある。
それからクローブと肉桂で香りをつけた無花果の砂糖煮に、さっくり焼けた小さなメレンゲ菓子……。
本当にこの家の料理人頭は優秀だ。
時間の無い中用意したにも係わらず、味が良いだけじゃなく夜遅い時刻に食べても翌日に響かないよう脂の軽い胃への負担が少ない料理を作ってくれているのだもの。
普段から健啖なグラントだけど、今日はことさら気持ちの良い食べっぷり。聞けば彼は朝からまともな食事を摂れずにいたらしい。
そこに来てあの桟橋での大立ち回りではそりゃあこれ以上なく空腹にもなろう。
しかし朝から食べはぐれているグラントがお皿まで食べそうな勢いなのはさておいて、私と彼では体の大きさだって違うのだ。いくら私も空腹だからって彼と同じだけどんどん皿の上に盛り付けられて、食べきれるわけがないではないか。
「もう結構よって……さっきから何度も言っているじゃない! 私はいいから貴方がそれを召し上がってっ」
一体私がどれほど空腹だと思っているのかグラントは!?
出荷前のフォアグラじゃなし。そう詰め込まれては堪らない。
「そうか? じゃあこれは俺がいただいておこうかな……」
グラントが冷めぬように暖炉の上に掛けていたスープの鍋を取り、レードルも使わずザッと自分のスープ皿にあけた。
私も彼も使用人無しに靴の紐も結べない『本当の貴族』と違ってインチキ臭い貴族だから、食事の給仕くらいなら自分で出来る。
今日の私達の話題はどうしても今日の出来事になってしまうだろうことは目に見えていた。
噂としてだって外に漏れては拙い話なら、周囲に耳目などないに越したことは無く、使用人達はとうに部屋から帰してしまい、室内には私と彼との二人きり。
空腹も充分に癒され落ち着いた頃、冷めぬようスープ同様暖炉の火の近くに置かれていたポットから、グラントがお茶を淹れてくれた。
「ねぇ……グラント。あれで良かったのかしら……?」
眠りの邪魔をしないカモミールの香りを胸いっぱいに吸って、私はふぅ~っと大きく吐息した。
それは、この夜を大公城で過ごす筈だった私が帰宅することになったアレコレの出来事について、心に残るぼんやりとした不安への呟き。
……どこから説明するべきか分からないが、とりあえずは私が会議室で設計図の復元作業を終えた辺りから時を巻き戻すことにしよう……。
***
「書き終えたのか……もう!?」
そう声を上げたのはフェスタンディ殿下。
殿下は何故か私本人にではなくグラントに設計図の復元作業の終了の確認をしていた。どうやら私には声をかけ難かった様子だ。
……やっぱり私は少しばかり張り切りすぎていたのだと思う。
グラントは私の作業の様を、『交霊術中の憑代』に例えていたけれど、一同が呆然としているのは私の作業が常識を超えてあまりに素早く終わってしまったせいであったらしい。
そういえば右の腕と手がシェンバルで技巧的な難大曲を弾いた後でもあるかのようにパンパンに張って疲れていた。
「あ……あの……急いで書かなくては覚えていた数字を忘れてしまいそうでしたの……」
なんとなくその場の雰囲気に居た堪れずにそんな事を言い訳たが、果たして『数字』としても『記号』としても認識することなく、天地逆に数字や記号を物凄い勢いで書き連ねた私の台詞に説得力があったかどうか。
私の作業の邪魔をしないよう離れた場所にいた人々がこちらに来て、テーブルの上の『設計図』を覗き込んだ。
「信じられんな……これだけのものを憶えていただなど……」
「全くです」
大公とフェスタンディ殿下が腕組みの上から図面を眺めて何度も頷き、首を傾げていた。
二人とも……いいえ、二人だけじゃなくプシュケーディア姫までが何か問いた気な目で私の事をちらと見たけれど、グラントがすかさず私の前、人々の視線を遮るように体を割り入れてその背に庇ってくれた。
「お疲れ様。フロー」
持ったままだった硝子ペンを私の手から取り上げ、ペン立てへ戻した彼は、私の強張った腕を揉み解しつつ労いの言葉を掛けてくれる。
会議室の分厚いドアがコンコンと叩かれたのは調度その時の事。
室内にグラントの回収したいま一枚の絵図面が持ち込まれたのだ。
桟橋で奪還した設計図は、あの状況で随分とシワよれてしまっていた。
だけど目の前に持ち込まれた図面は、多少の皺は残っているものの見苦しくない程度に表面が整えられていた。
たぶん火熨斗でもかけたのだろう。
一同が見守る中、二枚の『設計図』が重ね合わされる。
もしかしたら多少の歪みがあるかもしれないと私は危惧していたのだが、二枚の四隅に描かれた『十』のマークは寸分の狂いもなくぴったりと重なってくれた。
描き込んだ数字の配置も、どうやら間違いは無かったように見える。
……なるほど。
こうして二枚重なりあった状態を見たのは初めてだけど、記号や数値の一部が絵図面の線と重なって見難くなるのを嫌い、この設計図は二枚に分けられたのだと納得出来た。
「……私の記憶の限り、間違いなく全て書き入れたつもりではありますが、万一と言うこともございます。モスフォリアの造船技術責任者の方に抜けや誤りをご確認いただきますようお願いいたします」
開発に携わった技術者なら記号や数値の全てを記憶していないにしても、明らかにおかしな部分があれば気づくことが出来るだろうと思ったのだ。
けれどその後私は何も言われていない。どうやらあの設計図にさしたる問題はなかったようだ。
設計図の復元作業が終了してしまえば、この場に私のすべき事は残っていない。後はプシュケーディア姫と共に部屋へ戻り、モスフォリア王女の介添え役として最後の一夜を過ごすだけ。
私以上にこの場にすべき事などなかった筈のグラヴィヴィスが、大公やフェスタンディ殿下、プシュケーディア姫などへの退席の会釈を送り、私のところへとやって来た。
焼け焦げたマントから衣服を改め、再び貴公子然とした姿の彼がグラントに小さく会釈して、いつもと同じ不思議な光の浮かぶ明るい茶色の瞳をこちらへと向ける。
「鳩の姿を見分けるだけではなく、こんな面白い特技をお持ちだったとは。……驚きましたが大変興味深く拝見させていただきました。本当に貴女と言う人は不思議な方ですね、フローティア殿。貴女は陽の下に湧き出し踊る泉水のように、飽くことなく私を惹きつける方だ。今日は貴女とたくさんお話も出来てこれ以上ないほど楽しい一日でした。本当ならもっとフローティア殿の傍に侍っていたいところではありますけれど、立場上そうもゆきますまい。……名残は尽きませんが、今日のところはこれにて失礼させていただきます。貴女の上に善き夢の訪れんことを……おやすみなさいフローティア殿。ああ……それから……バルドリー卿も」
私の腕を揉み解してくれていたグラントの手から、浚うように私の手が掴み取られた。
丁寧に腰を折り、そのまま手指の上に唇を落とす王弟殿下。
……一国の王女でありフェスタンディ殿下の花嫁でもあるプシュケーディア姫にさえ退出の挨拶を会釈で済ませておきながら、私に対してこれはないと思うのだけど……。
彼本人はさっさと部屋を出て行ったから良いようなものの、私のこの居心地の悪さをどうしてくれるのか。
グラヴィヴィスに私は今日とても世話になった……と言うか、助けられてはいるのだが、彼の行動を私は心の底に恨まずにはいられない。
グラントが憮然とした顔をするのは当然として、先刻まで感心した様子と好奇心に満ちた目をしていたプシュケーディア姫も、今は微かに眉をひそめてグラヴィヴィスの出て行った扉を見ているのだもの。
私とプシュケーディア姫の関係が良好……もしくはせめて『普通』であれば別に構わない。そしたら王女はただグラヴィヴィスを『変人』と認定するだけで済むだろう。
でも私に対して好意の他に変な対抗意識やこだわりを持っている彼女の前でこんな事をされると非常に困る。
さっきまでは好奇心の光が宿っていた王女の灰色の瞳に、今は不満の影が燻っているのが見えた……。
もしかしたら私はこの一件をきっかけに王女との関係の改善を図れるのでは……と、無意識に期待を抱いていたのかもしれない。
プシュケーディア姫はスティルハートを追って城を出て行った私を心底心配してくれた。それは大公城に帰城した時の様子を見ればわかる。
子供じみた態度で『王女』としての責任を理解していなかった彼女が、今この場に自分の意志でいると言うことだけでも大変な進歩。
だが今は、なんとも不服そうな彼女の様子。
設計図の復元が終了しグラヴィヴィスが去っていった室内に、レバイック卿やエグザ公爵、モスフォリアのエムリア公爵に衛士の隊長ボードナム卿などが次々と戻って来ていた。
プシュケーディア姫はモスフォリア国の代表として、明日アグナダ公国は引き渡される設計図の復元に立ち会った。
設計図は二枚まとめて再び彼女の嫁入り道具の納められた部屋に戻されることになっている。
奪われた設計図は今現在まだモスフォリアの所有物だが、犯罪が行われたのはこのアグナダ公国の中。捜査に関する主権は当然公国側と言う事になるのだから、もはや彼女がここにいる理由はなくなっている。
色々あったこの半日。
体も気持ちもなんだかくったりと疲れてしまっていて、私はセ・セペンテス別邸に戻れないまでもせめてグラントと一緒にいたくて仕方なかった。
だけどこの夜で私の介添え役としての仕事はお終いだと言うのに、エリルージュのように職務を投げ出して逃げるわけには行かない。
プシュケーディア姫が自室に下がれば介添え役の私も一緒に行かねばなるまい。
だが王女の様子からすると、部屋に戻ったところで先刻と同じようにその場に留めおかれながら存在を無視される居心地の悪さを味わうことになるのではないだろうか?
私はゲンナリと胸中にため息していたのだが。
……この頃の私はあまりにも暢気が過ぎる。
私はもう少し彼女がこの部屋に残って設計図の復元作業を見ることが出来たのは『何故か』、と言う、その意味を深く考えるべきであった。
後の彼女の様子から察するに、どうやらプシュケーディア姫も我を通してこの部屋に残った結果がどうなるか、深く考えてはいなかったようなのだけれど……。
なんとなし。そろそろ部屋へ引き上げる潮時と思われた頃、大公とフェスタンディ殿下のもとへプシュケーディア姫が歩み寄り、自分の侍女の不始末と、彼女らを監督すべき立場にありながら目の行き届かなかった己の不明とを謝罪し、その上で二人の侍女の身柄と設計図を取り返してくれたアグナダ公国への礼と感謝の気持ちを口にした。
言葉は若干拙く、つかえつかえではあったけれど実に立派な態度だ。
普通の……と言っては失礼かもしれないが、彼女と同年代の一般的な娘でも王女ほどに健気に、しかしけっして卑屈にならずにこんな大事件に対処することなんて、そうは出来ないのではなかろうか。
ドルスデル卿夫人をてこずらせる程プシュケーディア姫が我が侭であった事は、大公も殿下もご存知のコト。
彼女の目覚しい成長ぶりや報告に聞いていた状態とのギャップに、フェスタンディ殿下は『成長せざるを得なかった』王女の境遇を思い胸に感じるモノがあった事だろう……。
プシュケーディア姫は設計図奪還の立役者であるグラントへも丁寧な礼の言葉を伝えに来た。
「今回の事だけじゃなく、道中も数々の苦難からお護りいただいていたのに礼の言葉どころかまともに挨拶も出来ずにおりました。今更ながらですけれど、私を無事にここまでお連れくださってありがとうございましたバルドリー卿。……それに……この度のことも……。どれだけ感謝の言葉を連ねても伝え尽くせませんが、国許の父……いいえ、モスフォリア国の民全てに代わって礼を言わせていただきます」
私の愚痴を幾度も聞かされてたグラントは、王女が少し……いや、かなり困った娘である事を知っていた。
だがグラントは大人だ。敵意も害意も示すことなく謝意を表明する年若い娘に対し、それに相応しい態度で当然臨む。
桟橋での戦闘の名残り。煤や埃に汚れたままの手でプシュケーディア姫の手を取る事はなかったが、自分の胸に手をあてて恭しく彼女へ腰を折るグラント。
「私の方こそ道中の有事に紛れ、ご挨拶が後回しになり失礼をいたしました……プシュケーディア姫」
「それは……気になさらないで下さいバルドリー卿。だってそれだけアグナダ公国の方々にはご苦労をかけたと言うことなんですもの。それにバルドリー夫人にも私、王宮にいる時からこちらへの旅のあいだ随分と……物の道理とか自分の立場への自覚についてとか、本当ならとうに承知していなければなかなかったことを忍耐強く教え諭して貰って……。ありがたく思っているんです……」
グラントと話をするプシュケーディア姫の表情も様子も本当にしおらしく、素直さのある可愛らしいものだった。
……私はこれまでの彼女との経緯のせいかプシュケーディア姫への見方が斜めになっているのかも知れない。
先刻、王女の瞳に見た影や棘もうがち過ぎた私の目の錯覚だったのか。そう思い直したのだけれども……。
プシュケーディア姫はグラントへの挨拶や礼の言葉を言い終えエムリア公爵やボートナム卿の方へと去って行った。
もし彼女がそろそろ自室に引き上げるのであれば、私もついてゆかねばならないだろう。
明日になればセ・セペンテス別邸に帰宅できるのだもの。別にもう一晩くらい何てことはないのだけど……何てことは無いつもりなのだけど、怖い目に遭ったせいで私は少しばかり気弱な気持ちになっていたのだと思う。
思わず知らず傍らに立つグラントを見上げる私の目に、心の中の不安が出てしまっていたのだろう。
「大丈夫かフローお嬢さん……?」
私の額に落ちかかったほつれ髪をグラントが気遣わしげな表情でそっとかき上げてくれた。
彼の手は頬から首にかけてを優しく辿り、両の肩に温もりといたわりを伝えながら私の事を引き寄せてくれる。
……頭頂部の髪の上にキスの気配。
しっかりと厚みのある彼の胸板に頬とこめかみをぺったり押し付けると、埃と煤、それから皮製のジレの匂いが体温と共に鼻腔から胸までをたっぷりと満たした。
頭上に聞こえた切なそうな吐息は、きっと私の心中との共鳴。
分かちがたい心と体温を引き剥がすことが出来たのは、理性や社会的責任をなんとか励ましてのこと。
頑是無い子供のようにぐずぐずしたがる気持ちを叱り付けながら唇に笑みの形を浮かべると、私はグラントに一つ頷いてみせた。
「嘘でも見栄でもなく、随分とバルドリー卿とは仲が良いらしいのね」
そんな言葉を掛けてきたのは、フェスタンディ殿下に呼ばれたグラントを見送る私のすぐ傍に、いつの間にか寄って来ていたプシュケーディア姫。
彼女の気配に気づかずにいた私はぎょっとしてそちらへと目を向けたのだが、どうしてだか王女は私から微妙に顔を逸らしているようだ。
「フロー。……私、あなたにはモスフォリアの王女として本当に言葉に出来ないくらい感謝しているわよ。……だけど、ちょっと楽器が弾けて、ちょっと物覚えが良くて、絵が上手だからと言って、偉ぶらないでちょうだい」
……断っておくが、私は今の今までプシュケーディア姫に対して自分の趣味や特技を自慢した事など一度だってありはしない。
呆然と見上げた王女の斜め横を向く頬の線が、ぷっくり空気を口中に含んで丸くなっている。
……唇を尖らせ、膨れ面をしているのだ。
「偉ぶるなんて、私は──────」
「うるさいわよ。分かってるから黙って。でもね、少しばっかり勇気があったり機転が利くからって、フローだけがこの世で一番夫に愛されている幸せな女みたいに思わないで。私だってきっと……ううん。絶対に、幸せな花嫁になってみせるもの! なによ、それくらい少し頑張れば誰だって簡単に出来ることじゃないのよ!」
先刻までのあのしらしさや可愛げは何処へ行ったのか。私は言葉を失った……。
『ソレ』が彼女なりの私への褒め言葉であったのだと理解出来たのは、帰宅後の遅い夕食の最中、グラントにそれを指摘されてからのコト。
「……褒め言葉? ……アレが??」
そんなことを言われても俄かには信じがたく、眉間に縦皺を刻み首を傾げる私にグラントは苦笑い。いや、苦笑いを装いつつ面白がっている風情だ。
「まあ……多少、天邪鬼ではあるけどね」
もしアレが本当に私への賛辞のつもりであるのなら、彼女の天邪鬼さは『多少』なんて可愛いものではない気がするのだが……。
しかし……なんだかもうプシュケーディア姫とは『そういうもの』である……と、既に半ば諦めが付いて来た気がする。
彼女の可愛気無さは私に対して限定らしいもの。私さえ気にしなければいいだけの話。
褒め言葉の天邪鬼さはさておいて、フェスタンディ殿下との将来について前向きになっているのは喜ばしいことではないか。
……大公城到着時から見ていた限り、殿下はどうやらプシュケーディア姫の夫としてお眼鏡に適ったようだし、フェスタンディ殿下の方も王女を何くれと無く気遣っていて……。
結婚の決まった経緯や年齢の差などはあるけれど、実のところなかなか悪くない縁組だったのではないか。
私はそんなふうに思っていたのだけれど……。
だけど……彼女をあんな風にあの場に置いて来て、本当に大丈夫だったのかしら?
それがどうにも気になってしまう……。
今頃プシュケーディア姫はどうしているのかしら……などとうっかり考えかけて、私は慌てて自分の頬をパチンと叩いた。
「フロー……!?」
ゆったりとお茶を楽しんでいた中での唐突過ぎる行動に、グラントが驚きティーカップを落としそうになっている。
「な、なんでもなくってよ」
一瞬の下世話な想像のせいで耳が熱く火照っているけれど、下ろした髪で隠れて見えぬはず……。
「今日はあまりにも色々な『毒気』に当てられてしまったから……落ち着かなくて……」
強引な言い訳ではあったが、グラントはどうやらそれを納得してくれた様子。……だって、今日色々な人間の『欲望』を目の当たりにしたのは事実なのだ。
ボルキナ国内での権勢を取り戻し、さらにはレグニシア大陸の覇権を狙おうとするバズラール卿の野望は、私やこの大陸に住む人間達にとってはまさしく『毒気』以外のナニモノでもない。
それから、己の失点を取り返そうと桟橋上に必要の無い混乱を巻き起こしたシザー卿の強い自己保身欲も、ある意味では『毒気』だったと思う。
だけど……色々あった今日と言う一日の中で最も私の……いいえ、私だけでなくプシュケーディア姫やあの会議室にいた人々の気持ちを酷く削り取ったのは、恐らく……プシュケーディア姫の侍女であったスティルハートの事。
彼女の事を思い出した途端、なんだか体と心から力が抜けてゆくような気がした。
私の記憶力は時に役に立つ物でもあるけれど、父様の死の記憶のように私の心を苦しめることもある。強いて考えまい、忘れようと努力しているのだが、やはりどうにも嫌な気持ちが胸を離れてくれなかった。
『あの時』の彼女の表情のみならず、室内にいた人々の様子の細部までをも覚えこむ、困った私のこの記憶力の事は、なんと言うか……もう半ば以上諦めているし、ある程度の折り合いもつけられる……つもりでいた。
中身など殆ど残っていないカップが異様に重く感じられて、私はテーブルの上にカップとソーサーを持ったままの両手をぐったりと乗せて小さく頭を振る。
私の中から追い出したくても追い出せずに耳の奥に残るスティルハートの怨嗟の言葉が、瞼の裏……頭の奥の彼女の表情を鮮明に引きずり出し、私の胸をズッシリとふさがせた……。




