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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
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『顔の無い花嫁』56

「昔、ダダイの顧客に『交霊会』やらに誘われたことがあるんだ。俺はそんなものに興味がなかったから、呼び出したのが『霊』なのか『精霊』なのか定かじゃないけど。こう……巫女と言うのか、霊か精霊かの憑代よりしろが催眠状態になって、手にしたペンで神託を羊皮紙に書き込んでゆくんだけれど、それが、紙をろくに見もせずに凄い勢いでね。手だけが踊るように動いているとでも言うのか。さっきのお嬢さんの姿を見ていたらそのことを思い出したよ」


 馬車の中、大公城での設計図復元作業の様子をグラントが語りだす。


「……もう、それは言わないで。さっきはちょっと張り切りすぎてしまったのよ。私に取り憑いたのは霊でも精霊でも神様でも悪魔でもなく、調子にのった自分だわ」


 彼が私をからかっているのではなく感心してくれているのは分かっているけど、あの時の自分の興奮状態を思い出すと恥ずかしくて頬に血が上る。


 馬車はバルドリー家のセ・セペンテス別邸を目指し走っていた。

 本当は私が屋敷に戻るのは明日の予定だったのだけれど、まあ……それについてはまた後にしよう。

 普段なら店も閉まり、人々はそろそろ暖かな寝床へ潜り込もうかと言う時刻になっていたが、フェスタンディ殿下の婚儀を明日に控えたセ・セペンテスの街は、いまだ多くの人々で賑わいを見せていた。


 賑やかな市街地を抜けると、大きな邸宅が建ち並ぶ閑静な高級住宅街。大きな屋敷が林立する住宅地を奥へ進むにつれ、家と家の間隔は大きくなり、一軒一軒が大きな敷地を持つセ・セペンテスの中でも選ばれた人々だけが暮らす地区へと入る。

 バルドリー家はこの区域の最奥の場所に別邸を構えていた。

 馬車は綺麗に石畳で敷かれた馬車道を辿り、敷地を石塀や鉄柵に規則正しく区切られた宅地を抜けて、こんもり茂る低木や小さな樹林等、自然の中にポツポツと邸宅が見え隠れする奥へと入ってゆく。

 セ・セペンテス別邸が近づくにつれ色々有りすぎた一日に疲れ果て、ぐったりとり馬車に揺られていた体に急に力が戻ってきた気がした。


 私が初めてこの道を通ったのは……そう、メイリー・ミーをボルキナ国から救い出し、ホルツホルテ海を渡る船『amethyst rose』の船内で毒のナイフで怪我をした時の事だった。

 あの時点では私は彼にとって何処の誰とも素性の知れぬリアトーマ国の女諜報員。

 どうしてこの人はそんな私の事を好きになってくれたのだろうかと、今でも時々不思議に思うことがある。

 グラントは貴族……それも侯爵位を持つ上位貴族だと言うのに。


 バルドリー家のセ・セペンテス別邸は曲線使いも軽やかな流行の建築とは違い、古めかしく角ばり、どっしりとした造りの建物だ。

 上物うわものも時代めいているが、その基礎となる土台は更に古い年代に築かれた物で、ジェンフェア・エドーニアのフルロギの屋敷の物見塔と同じくらいは年数が経っているかもしれない。


 建物は古いがバルドリー家の貴族としての歴史は浅い。

 遡ればグラントからほんの三代。百年にも満たない歴史しかない成り上がり貴族だと彼は言うけれど、その浅い歴史のうちに騎士爵から侯爵位まで上り詰めるなど、並の功績貢献では出来ない事。

 彼の祖父様であるカゲンスト・バルドリー卿はリアトーマ国でも知らぬ者のない有名な人物。

 グラントがそのカゲンスト・バルドリー卿の孫にして現バルドリー家当主だと知らされた時、私がどれほど驚いたことか……。


 そんな事を思い出すうちに私達の乗った馬車は、バルドリー家のセ・セペンテス別邸の門扉を潜り広大な前庭へと乗り入れていた。

 普段この時間には閉ざされているはずの門扉が開かれていたのは、大公城を出る前に私達の帰宅を告げる連絡をしていたせいだろう。

 自分一人の帰宅なら裏門へ回らされるのに、この待遇の違いはなんなのだ……とは、グラントのぼやき。


「そんなの仕方が無くてよグラント。初めて私がここへ来た時だって貴方、サラ夫人になんの連絡もなくいきなり私達を連れて戻ったのでしょう? いつもその調子でフラフラしていた癖にそんな文句を言うなんて、勝手な人ね」

「手厳しいな……でもいいさ。フローお嬢さんだってどうせ俺に連れまわされているうち同じような扱いになるんだ」


 言っている事は憎らしいが彼の言葉に弾んだ色を感じ、私はそれを見てなんだか胸が一杯になった……。


 久々に私はこの別邸の扉を潜った。

 遅い時刻であるにも係わらずサラ夫人は私達を出迎えてくれる。


「お帰りなさいフロー良く帰ってきたわ。それにグラントも」


 玄関ホール。サラ夫人がその胸に私をぎゅっとしっかり抱擁してくれる。

 抱擁を解いたサラ夫人の暗青色の瞳が私の上に不審気に注がれた。

 ……気のせいか鼻がヒクついているようだ。

 隣に立ったグラントへ彼女の暗青色の瞳は転じられ、しばしそこに留まる視線……。


「……おかしいわね。あなた達、大公城から帰ってきたのではないの!?」


 訝しそうな呟きも当然の事。

 設計図の復元作業の為に手は綺麗に洗った。顔も拭いはしたけれど……桟橋での火災でたっぷり煙に燻され私達からは焦げ臭い匂いがしているのだもの。

 髪は乱れたままだし、ドレスのスカートは力任せに重ね履きしたパニエごと押しつぶされて、酷い形に歪んでいる。グラントにいたっては顔が煤で汚れたままな上に……腿に点々とついているのは、もしかして返り血かしら?


「ええ、大公城から戻ってきました」

「……なんだか火事場強盗とでもやりあったような『なり』ね」

「まあ……色々ありまして……」

「貴方がふらふら怪しげなことをしているのはいつものこと。ですが、フローまでどうして焦げているの。……フロー……貴女まさか怪我などしていないわね?」

「あ……はい。あの、グラントがちゃんと守ってくれましたわ」


 鋭く見つめられて慌てた私はこう言ったけれど、余計なことを言ったかもしれない。

 だって私は大公城でプシュケーディア姫の傍に安全にいたはずなのに。


「……グラント……」


 普段は息子の行動に干渉などしない彼女だが、私までが絡んでいる事を知って穏やかではいられなかったようだ。

 浅く日に焼けたサラ夫人の秀でた……グラントに良く似た額と眉間に、怒りを示す線が刻まれる。


「母上。俺はどんな場面においても『もう二度と』フローには怪我などさせません。──────命に代えても。でも俺にはお嬢さんを残して死ぬつもりはないし、怪我をして彼女を心配させるつもりもありませんけれど」


 人が聞けばグラントの台詞はこちらの希望ばかりの勝手な言い分だとは思う。だけど……だけど、これを言ったのは『グラント』なのだ。

 有言実行。彼は口に出したからには絶対にそれを貫き通す……。思い定めたら確実にそれを押し通す。


 二人の間にチリリと火花の散る数瞬の睨み合い。


「フン……そんなの当然です」


 切り捨てるように言いながらこちらを向いた時、サラ夫人の暗青色の瞳には優しい光が宿っていた。


「既に貴方は一度自分の不甲斐なさに歯噛みしたのですから。……二度目があったら私が許しません」


 グラントが彼女の後ろで微かに肩を竦める。


「勿論です。ですが……母上、最近俺以外にも命がけで彼女を守りたいと言う騎士候補が彼女には現れて……」

「ちょ……グラントっ」


 いきなりなんてことを言うのだこの人は。

 慌てて彼を睨みつける私の手を取り、背後を振り向きながらサラ夫人は鼻で笑う。


「魅力ある女性がモテるのは世のことわりです。いざと言う時の守り手が貴方だけより、よっぽど頼もしいではありませんか。グラント……せいぜい捨てられないようになさいな」

「……肝に銘じます」


 右の頬に深く皺を刻んで、グラントは苦笑いを浮かべている。


「さあ、それよりも外は寒かったでしょう。あぁ手もこんなに冷えて……。貴女が戻ると聞いてすぐに部屋を暖めておきました。お風呂の用意もさせておいて良かったわ。……グラント、ついでに貴方の分のお風呂も出来ています。さっさとお入りなさい」


 冷え切った私の手を暖かな手の中に包みながらサラ夫人は優しく微笑まれている。

 どうして彼女は私を細やかに気遣い、こんなに優しくしてくださるのだろう?

 アグナダとリアトーマ国、私のような脚の不自由な人間に対する考え方の違いもあるけれど、それでもやっぱりどうせ嫁いでくるのなら、健康な娘の方が望ましいに決まっている。

 にも係わらずサラ夫人は……そう、私のせいでバルドリー家の血筋が絶えるかも知れないとご存知なのに、最初から私にこの家に嫁いでもらいたいと仰ってくださったのだ。

 それどころか結婚前、子が成せない体を理由にグラントが私をエドーニアへ帰すことにしたのではないかと疑いそれを怒ってさえくださった。


 なんて大きな人なのだろう彼女は……。

 ふと胸に兄様の結婚披露の日に見た母様の面影が浮かび、私の心を締めつけた。

 どうして私の母様は、サラ夫人のような方じゃないのだろうか……。

 なんだか泣きたいような気持ちになったけれど、私は泣き出すかわりに笑みを浮かべた。


 母様は母様。私を生んでくれた人。

 ……もう、それでいいではないか。それで充分ではないか。

 私はもう、与えられぬ母様の愛情を求め続ける小さなフローティアではないのだもの。


 すっとそんな言葉が私の心に浮かぶ。

 言葉はずっと胸の奥にあったものだと思う。頭で思っているだけの事と、心からの納得とは別のもの。私の中の小さなフローティアが今の今までその言葉を受け入れることを拒み続けていたのだけれど、サラ夫人を見ていたら、なんだかあまりの『違い』に私は馬鹿馬鹿しい気持ちになってしまった。

 決意を込めて戦って、それでもほんの小さな事で私を挫けさせ敗走させかけるほどだった強い拘りが、まるで冗談のように今、するんと解けてしまった。


 母様は母様。

 私を生んで母様なりには愛してくれた。彼女が私を生んでくれたから、私はここにいる。

 ……それだけで充分だ。


 グラントがいてサラ夫人がいて、今は大事な友達だっている。

 それは母様が私をこの世に生んでくれたからこそのこと。

 胸の中に微かに切ないものは残るけれど、私は笑いながら


「やっとここに帰ってこれて私、本当に嬉しいですわ」


 ──────と心から言う事が出来た。




「ついででも風呂を用意してくれたのはありがたいですね。こう焦げ臭くては眠れない。ところで……母上、実は俺もお嬢さんも非常に空腹でして……。何か軽く食事をいただきたいのですが」


 階段を上りかけた私達の元へと駆け寄りながら、グラントは自分のお腹の上に手を当てて情けなさそうな表情。

 ……実はそう。私も酷くお腹が空いているのだ。

 手足がひんやり冷えてしまっているのも、空腹が過ぎたせいだと思う。

 だってお昼を軽くつまんで以来なにも口にしていないのだもの。


 午後はスティルハートの追跡でそれどころではなかったし、桟橋での騒動の後も設計図の復元作業やなんやかやあったから仕方が無かったとは言え、こんなにお腹が空いては眠ることなど出来そうに無い。


「まったく……なんてこと。いくら明日の婚礼の仕度で忙しいとは言え、大公の城は一体どうなっているのですか!? グラントはさておき、花嫁の介添え役に食事すらまともに貰えないなんて」


 呆れと怒りの中間。

 サラ夫人は、私達がこの煤けて焦げ臭い体を清めて湯に温まっている間に食事の準備をさせるようと、出迎えに出てきていた使用人達にてきぱきと指示をしながら慌しく屋敷の奥へと急いで行く。


「モスランはまだ明日の食事の仕込み中ね? 急いで彼に食事の用意を。何か温かいものとすぐに出せるものを見繕ってグラント達の寝室へ持ってゆくように───」


 サラ夫人のすらりとした長身が厨房の方へと消えていった。


「ちょっとグラント。貴方の言い種ではお城がとんでもない場所のように思われるじゃないの」


 ねめつけた先、グラントは可笑しそうにクツクツと笑う。


「窃盗団が火をつけて暴れて、食事すら出てこない城か。……確かにそれはとんでもないな」


 何を馬鹿なことを言っているのかと私が文句を口に出す前に、突然彼の腕が私の事をひょいと抱き上げる。


「な……なに?」

「キミは今日大活躍だったから疲れているだろう? ……なんて、本当はバズラールやらリネやらで……なんだかお嬢さんを初めてこの家に連れてきた時のことを思い出してね……」


 大立ち回りの後で空腹なはずなのに、私を両腕で抱きかかえて階段を歩くグラントの足元に不安定さは無い。

 そう。

 あの時も彼はこうして私を抱き、揺るぎの無い歩調で青い蝶の部屋まで運んでくれた。


「……まさか私……この屋敷に住むことになるなんてあの頃は思いもしなかったわ」

「そうかい? あの時には俺は、キミを一生自分の傍におくと決めていたけどね」

「勝手な事を言うわね」

「全くだ」


 と、グラントが笑う。


「だけど俺は……どんな手段を使ってでもお嬢さんの事が欲しかったんだ」


 軽い会話の中にぽんと投げつけられたグラントの気持ちに、冷えていたはずの私の頬が熱くなった。

 時々彼は、こうして私の心に強烈な攻撃を仕掛けてくるのだ。


「い……今、私はここにいてよ」

「一端は逃げただろ」

「でも……ユーシズを出る時、貴方見送ってもくれなかったじゃない……」

「勘弁してくれよフローお嬢さん……。俺の元から去ろうとしているキミを傍で見たら、自分でも何をしでかすか分からなかったんだあの時は……」


 廊下を歩きながらグラントは吐息した。


「怒っていたの? まだ怒っていて?」


 そっと問う私に小さく首を振りながら苦く笑う。


「一生あれは忘れられないな」


 青い蝶の部屋の入り口で私をそっと下に下ろしながらグラントが言った。


「尤も……あの時もその前も、その先もずっと俺はキミを諦めるつもりなんて微塵も無かったけどね」


 過去の記憶から来る苦みを瞳に残しながら、グラントはいつもの笑みを浮かべて彼を見上げる私を見下ろした。

 そっと両の頬を包み込む、大きな掌。


「……それに、お嬢さんが随分と苦しい思いをしてくれていたようだとテティやジェイドから聞いて、俄然やる気がでた」


 考えれば当たり前だけれど、私がアグナダからリアトーマへ渡る船の中ずっとめそめそと泣き続けていたことは、同行してくれていたテティやジェイドにずっと見られていたのだ。

 彼らの口からそれが伝わっても何の不思議もないと言うのに、どうしてだか私は彼に言われるまでそんな事思ってもみなかった……。


 恥ずかしさのあまりいつもの私であればなにか憎たらしい言葉の一つも彼にぶつけるのだろうれど……。

 駄目。

 だって……悪態よりも言うべき言葉、言いたい言葉があるのだもの……。


「あ……ありがとう……グラント」


 こんな私を諦めないでくれて、本当にありがとう。


 グラントの暗色の瞳を見上げようとしてそれを果たせず、私は耳を火照らせ俯いた。

 感謝の言葉も素直に言えない私に呆れたのだろうか?

 目の前のグラントの胸郭が動き、大きな溜息を吐き出した。


「本当に時々キミは凶悪だな……」


 再び吐息。


「突然……そういうしおらしい事をそんな風に言い出されたら、食事より先にキミを貪りたくなるだろう」


 掬い上げられるように上向かされた私の顔の上に、屈んだ彼の顔が近づき唇が重なった。

 深く、深く……。唇だけじゃなく、抱き寄せられて互いの体もぴったりと重なる。

 本当にグラントに食べられてしまいそうな深くて激しい口付けに、私はうっかり溺れてしまわぬよう必死に理性をかき集めて抗わねばならなかった。


 ここは他人の屋敷ではなく、すぐそこには私達の寝室もある。

 この雰囲気では下手をすればこのまま寝室へ雪崩れ込むなんてことになりかねない。


 でも……だめ。

 絶対にいや……。


 数十秒。

 何度も溺れそうになりながらも、私は何とか抗いぬいて彼の腕の中からもがき出た。


「い……今こんな事をされても困るわ……っ!」


 いつの間にか外されていた胸元のリボン結びの乱れを慌ててかき合わせながら、私はグラントをドンと力任せに押しやって、部屋の中へと逃げ込んだ。

 扉を閉める直前に見た彼は少し驚いたような顔をしていたけれど、きっと怒ったりはしていないだろう。


 ……多分。


 でも、だって……だって……グラントは別にいいけれど、私は自分がこんな埃や潮、油煙で変な匂いの私をこれ以上彼に嗅がすなんて……絶対に嫌なんだもの。


 私は激しく呷る胸で大慌て、寝室の奥にある私用の湯殿へと急ぎ向かう。

 廊下に取り残されたグラントは、私の剣幕への驚きから我に返ると


「お嬢さん……よっぽど……空腹で耐え難いんだろうな……」


 と、思ったのだとか……。



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