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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
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『顔の無い花嫁』55

 私達の乗った馬車は大公城の正面入り口ではなく、平生、大公一家が私用での外出時に使用する出入り口からひっそりと城内へと入って行った。


 ……起こったコトがコト。

 大公城にいたはずの私やブルジリア王国王弟が正門から出入り出来ないのは当然だし、外部の人々や城内の事情を知らぬ人達に少しでも事件の気配を感じさせるわけには行かない。

 通されたのは、私がエリルージュの似姿をボートナム卿に手渡した廊下からすぐの会議室。

 大公城に帰着した時間が、だいたい夕餐の後半くらいの時刻。明日の結婚式とそれに続く宴の為に、各国から祝いの使者達も既に城には到着しているのだから、大公やフェスタンディ殿下は彼らのお相手に忙しくその場にいないと思っていたのだけれど、どういう口実で座から抜けたのか、エグザ公爵やレバイック卿とともにフェスタンディ殿下の姿も会議室にあった。

 でも何よりも驚いたのはプシュケーディア姫までがそこにいて、私が室内に入った途端に飛び掛るように抱きついてきたことだ。


「フロー……っあなた無事なの!? なんて危ないことをしているのよ! 馬鹿じゃないの!?」


 言葉面は優しくないけれど、彼女が私の事を心配してくれたのは分かった。

 それはありがたいのだが忘れてもらっては困る。私の片方の脚はあまり健康とは言えないのだ。

 いくらプシュケーディア姫がほっそりした娘とは言っても、そんなに勢いよく飛び掛られては、二人分の体重など支えきれない。しかもプシュケーディア姫ときたら私のマントと右の靴の先を踏みつけるのだもの。

 これでは踏ん張りも効かないし、体勢を立て直すことも出来ないではないか。

 もしグラントとグラヴィヴィスがとっさに私を支えてくれなかったなら、会議室の堅そうな石の床の上、私はプシュケーディア姫に押し倒されて後頭部を打ち付ける羽目になっていたに違いない。


「……随分と酷い格好をしているじゃないの、手も顔もすすだらけだわ! 一体何があったの!? 怪我は無いの!!?? 大丈夫なの???」


 後々思い返せば笑い話になるけれど、私は背中と腰を両側から二人に支えられて斜めに倒れそうになったまま、顔と両手、肩の辺りをプシュケーディア姫にまさぐられ、おたつく事しか出来なくて……。


 だって、まさか貴女がそこをどいてくれたら『大丈夫』になる……なんて言うわけにも行かない。

 どうやら、この事件で心細くしているだろう彼女を気遣ったフェスタンディ殿下が部屋へ見舞いに行った時、モスフォリアの王女である自分も事件の経過を知る義務があるのだと彼女が強硬に主張したらしい。


 人の上に立つ自覚が出来て来たのは喜ばしいが、出来ることなら私の爪先を踏んでいる自覚も持って欲しかった。

 フェスタンディ殿下が興奮状態の彼女を私から引き離してくれなければ、いつまで苦しい体勢でいなければいけなかったことか。


 私が製図用のペンを手に、まっさらな設計図の紙の前に立つことが出来たのは、それから暫くの時間が経過した後の事だった。


 まあ……それは仕方が無い。ものには順番というものがあって、しかもそれがバズラール卿なんて言う大物が絡んだ事件ともなれば、立場の違う人間がそれぞれの立場にそった『報告』をしなければならず、その後、こちらには思惑を通すための『交渉』だってあったのだもの。

 仔細に書けば長くなるので大まかに説明すれば、シザー卿との間に責任の所在を巡るちょっとしたゴタゴタがあったのだ。


 ……これは予想通りと言えば予想通りの展開だろうか。

 シザー卿が会議室に現れたのは、私達が入城して暫し後の事。

 桟橋の落馬時に怪我をしたらしく、卿の左の腕は真っ白な三角巾で痛々しく吊るされていた。顔色も腕を吊った布と同じように白い。


 怪我の程度は分からないけれど、彼が血の気のない顔をしているのも当然だろう。

 目に見える形の『結果』だけを見れば、花嫁行列襲撃からの一連の黒幕と目されるバズラール卿は逃亡し、二枚の設計図のうちの一枚は焼失。残る一枚だって軍とは関係のない一貴族に過ぎぬグラントが回収してしまっているのだもの。


 設計図の一枚が焼失したのは早馬での知らせで周知済みだが、この時点、焼失した設計図の内容を私が完璧に記憶出来ている事はまだ明かされていなかった。

 交渉のカードとして使う為と言うのもそのことを伏せた理由の一つだが、それ以上に大勢の人に私の……なんと言うか、この映像記憶と言う妙な特技を知らせるわけには行かなかったのだ。


 重苦しい雰囲気に包まれた『報告』の場で、最初に口を開いたのはシザー卿だ。

 私は彼の報告によって、エリルージュとその恋人がセ・セペンテス市街で身柄を確保された事を知った。

 エリルージュはスティルハートに囮に使われただけであり、彼女にもその恋人のゲオルギ青年にも調査と聴取の結果、政治的な背後関係は見つからなかったらしい。

 多分彼女が罪に問われるとすれば、王女の侍女としての『職務放棄』だけ。

 彼女に厳罰が下されることはなさそうで、こんな場ではあったけれど少しほっとする。


 エリルージュほか、モスフォリアの衛士らから改めて詳細な聴取を行った結果、私が疑った通り、貴重品保管室内に単独で出入りしたのはスティルハートだけだった事も判明した。

 桟橋で捕縛されたスティルハートの身柄は既に軍に引き渡され、現在事情聴取が行われているのだとか。


 シザー卿はますます血色を悪くした唇を開き、エリルージュ確保後の自分の行動報告を続ける。

 セ・セペンテス市街でエリルージュの身柄の確保後、卿は私達の保護及びスティルハートの身柄確保の為にリネへ急行したのだそう。

 彼が港湾地区入り口付近で先行部隊であるカルカロー卿麾下の騎士エズベグから桟橋へ行く私の目撃情報を得たと言う話を聞いて、私は驚いた。

 リネ市街と港湾地区への分岐点、周囲に人影は無かったと思ってのだが一体いつ人に見られていたのだろう?

 そんな事すら気がつかないとは……やはり私は隠密活動には向かないと言うことだろう……。


 とまれ。シザー卿は私の姿を追った桟橋でバズラール卿と交戦中のグラントに遭遇し、状況から判断してグラントに加勢したのだそうだ。

 敵も味方もなく突進してきたアレが『加勢』だったとは呆れたけれど、報告に耳を傾けていた私の眉間に深い縦の皺を刻ませたのは、卿が最後に零したグラントへの苦言だ。


 バズラール卿に逃亡を許し設計図の一枚を失う結果になったのはシザー卿曰く、軍人でもないグラントが貴重な情報を独占し、軍との連携を取ろうとしなかったせいであるのだそう。


「戦いは戦いの専門家に任せるべきだ」


 と、言うのがシザー卿の主張だ。

 だけど、花嫁行列への複数回の妨害によりセ・セペンテスとその周辺の警戒に多くの戦力が割かれている中、物証も確証も無い状態で、軍の出動要請を出来なかったこちらの事情くらい彼にもわかっているはずだ。

 だってグラントが貴重な情報を独占したと言うけれど、昨夜の時点で彼は花嫁行列襲撃事件が『陽動』の可能性があると警鐘を鳴らしている。それを誇大妄想と切り捨てておきながら、今更そんな事を言い出すなんて……。

 だいたいグラントがリネに怪しい大型船が夏以降停泊しているとの情報を得たのは今日この日になってから。昨日の今日、シザー卿が現実と妄想の区別がついていないと馬鹿にしてた相手の意見を信じるとは思えないのに、一体どうしろと言うのか。


「妙ですね」


 と、首を傾げたのはグラントだ。


「シザー卿が到着される暫く前、こちらの手の者とエズベグ隊は接触済みでした。殿下やレバイック卿、エグザ公爵にも城を出発する前にお話しした通り、リネでの戦闘が予想されましたので、エズベグにはいざと言う時の加勢と桟橋への一般人の立ち入りの制限を要請していたのですが?」


 不思議そうな声色と表情を装い、グラントは自分が大公の許しを得て動いていた事を強調した。


「……どうにも話が可笑しいな……シザー卿」


 フェスタンディ殿下の横でレバイック卿が険しく眉を顰めて唇を曲げた。


「そもそも卿がバルドリー侯爵夫人らを追って『リネ』方面へと向かったのは何故なのだね?」

「な……何故とは? ブルジリア王弟殿下らを捜索するに、リネ方面を重点的にとの通達が届いておりましたからに他なりませんが……」

「貴公がリネへと馬首を向けた時にはまだ、バルドリー夫人のセ・セペンテス市街での足取りは発見されていなかったのだよ。なのに貴公にリネ方面を探索すべしとの通達があったのは、リネにバズラール卿が潜む船舶があるやも知れぬとの情報をバルドリー侯爵が城内に報せ置いてくれたからだ」

「……」

「大公は騎士エズベグらにリネへの街道でのバルドリー卿夫人の捜索と、リネ港湾地区でのバルドリー卿への協力とをお命じになられたのだ。しかしエズベグと接触しておりながらバルドリー卿の事を聞いていないとは、奇異な話ではないかね?」


 私が立っていたのはシザー卿の斜め後ろ。

 正面に立つフェスタンディ殿下へ報告をするシザー卿の顔は今は見えないが、あまり血色が良いとは言えなかった彼の耳の後ろ辺りが急激にどす黒いくらいに赤く染まるのが見てとれた。

 ……無理も無い。だって彼の言うことの矛盾は、端から見ても明らかなのだもの。


 大公は騎士エズベグを隊長とする部隊に私達の捜索とグラントのフォローを命令したと言うのに、エズベグと接触して私達の情報を得たシザー卿が、グラントを軍と連携しないと非難するなんて可笑しな話ではないか。


 時系列にそって考えれば瞭然だけれど、騎士エズベグの率いる部隊の斥候に現れた時には、既にグラントらの桟橋への布陣は完成していた。

 海上のバズラール卿らの目を盗み不穏さを悟られることなく桟橋周辺で体勢を整えるには、何よりも時間が無ければどうにもならないのに、場を軍人に任せるべきだと非難するなんて……。

 しかも彼の桟橋でのあの行動。シザー卿が功を焦って暴走したのだと言うことは明白だった。


 降格と無期謹慎。

 この処分が重いものなのか軽いものなのか、私には分からない。

 会議室を退出したシザー卿の顔がまるで死人のように土色だったことを考えれば、彼にとって取り返しのつかぬものである事は間違いなさそうだ……。


 スケープゴートのようにシザー卿が全ての責任を負わされたのは気の毒ではあるけれど、彼がグラントへ責任転嫁を試みた事に気づいた時点、私の同情心は消え失せた。

 淡々とそれぞれがこの件の報告を行えば、シザー卿の行動と言動の矛盾などあっと言う間に暴かれるのに、なんて愚かしいのだろう……。



 ***


 製図用の硝子のペンとインク。

 会議室の大きなテーブルの上に紙を広げ、私は意識をまぶたの裏に焼き付けた映像へと集中させた。

 室内にいるのは大公とフェスタンディ殿下、グラントとプシュケーディア姫と……何故かグラヴィヴィス。


 桟橋での出来事の報告の後、各国の使者との歓談を早めに切り上げた大公らとその側近、モスフォリア国の責任者とで、焼失した『設計図』をどうするかが話し合われることになっていた。


 絵図面は残っている。それに、船の開発に係わった技術者もいるのだから、新造船の技術が完全に失われたわけではない。

 残された絵図面を仔細に計測し、技術者の記憶などと照らし合わせれば、失われた『数値』を復活させることは不可能じゃないのだが、如何せん……それでは時間がかかり過ぎる。


 リアトーマ国からの使者が明日の午前中には『設計図』の確認を行う事になっていた。

 設計図はすぐに複製され、お使者は出来上がった複製を携えて帰国する運びになっているのだ。

 アグナダ公国を信頼し、新造船技術の受け取りをアグナダ公国に任せてくれたリアトーマ国。

 大公城の中で設計図が盗み出され、二枚の設計図のうち一枚が焼失だなんてアグナダ公国の面目丸つぶれも良いところだ。

 たとえ図面の一枚が焼失しても、せめてバズラール卿の首級でもあれば多少の体面は保てたのだろうが、今となっては後の祭り。

 設計図の奪還やバズラール卿の捕縛は軍の仕事だが、失われた設計図についてどのように釈明するかについては『政治』の領分。

 重苦しい雰囲気に包まれた会議室から、一通りの報告を終えた軍関係者が退出して行く。

 大公の参謀としてまだ正式に任命を受けてはいないグラントと、行きがかり上この件にかかわっただけの私も当然退出を求められたのだけれども……。


「設計図の件で内密にお話したいことがあります」


 ……と、大公と二人きりの密談の場を求めたのはグラントだ。

 そこからは比較的話しが早かったと思う。


 軍の関係者が去ってしまえばその場に残っていたのはこの国の政治トップと、モスフォリア国のエムリア公爵にプシュケーディア姫だけだ。

 モスフォリア側は言うまでも無く当然として、アグナダ公国は隣国リアトーマに対して是が非でも国として面目を守りたいのだもの。焼失した『設計図』が復元出来ると聞いて、飛びつかぬわけが無い。


 そして今、硝子ペンを持つ私を五人の人間が食い入るように見つめていた。

 本当は人の目が無い方が集中して作業を行い易いのだけれど……仕方ない。

 モスフォリアには国の平和が、アグナダ公国には国家としての威信が私の仕事にはかかっている。それに、私のような普通の女の言う『設計図の数字と記号を覚えています』……なんて言葉をそのまま信用出来るわけがないのも分かる。

 彼らが責任ある立場の人間として作業の状況をつぶさに確認したいと考えるのも当然の事だろう。

 実際タネも仕掛けも無いのだけれど、作業風景を見せずになんらかの不正を疑われるのも面白くないし。

 グラヴィヴィスはこの中では異色な立場だけれど、彼がこの作業を見守ることを巻き込まれた一連の騒動に対する『沈黙』の条件に提示したとなれば、私にはどうにもならなかった。

 その他にも彼には彼の思惑もありそうだけれども……。


 明々と灯された灯火の下、私は硝子のペン先をインクに浸した。

 ペンについた余分のインクをビンの口で払い落とし、テーブルの上の紙へと視線を移す。

 グラントが回収したのと同じ材質のまっさらな紙がペーパーウエイトで固定されていた。紙のサイズも回収されたものと同じ。


 私は記憶の中の設計図を目の前の白紙の上へと投射した。

 うねる波の上、踊る光源で見た設計図の『歪み』を脳内で調整しながらペンの先を紙面へとつける。歪みを調整するためには、まずその基準となる四隅の『十』の記号から。


 ……そう、これでいい。


 四つの印を記入して、ペンの先のインクを用意してもらった布で拭う。これはインクがどれくらいの速度で乾いてペンの先を鈍らせるようになるかを確認する為でもあるし、書き込んだばかりの四隅の印が乾燥する時間を稼ぐ為でもある。

 乾ききらないインクを手指でこすりでもしたら、一から作業のやり直しになってしまうのだ。自ずと慎重になると言うモノ。


 室内が乾燥しているせいか思ったよりもインクの乾きが早いようだ。こまめにペンの先を拭わねばすぐに線が太ってしまうだろう。

 私は右手が利き手。インクを手で擦ってしまわない為には、左の上から右へ、一列終わればまた左から右へと書く必要がある。

 罫線のある便箋に文字や記号を書き込むのとは違い、文字の配置はもう一枚の『絵図面』の図への数値の説明である為に不規則に固まり、また分散している。私は頭の中でざっと自分が書き込むべき手順を組み立てると、私の一挙手一投足を見守るオーディエンスを意識の外へと追い出して、その『作業』に取り掛かった。


 これは本当に『作業』以外の何物でもない。

 人の似姿を描くには、記憶の中の人物の顔からどの線をどういう風に描くかの選択があり、より対象物の特徴を分かりやすくするために誇張する部分や削る部分を私が自分で決めることが出来るのだけれど、これは……違う。

 ただ、ただ、記憶の通りのものをそれに忠実に紙に乗せてゆくだけ。

 一定の量の線を引いてはペンの先を拭い清め、またインクをつけて一息に記憶にあるとおりのモノを描き出す。


 作業に集中させた意識からオーディエンスの存在は追い出していたのだが、全く何も聞こえず見えずと言う訳ではなかった。


「これは……」


 と、小さく感嘆の声を零したのは大公だろうか。

 これは私も理解出来ることだけれども、グラントは私の映像記憶に関するこの妙な能力を人に知られることを危険だと考えているようで、この設計図の復元に関しては絶対の他言無用をオーディエンス達に確約させている。

 それはもう他言無用の上に、今後私を『利用』することが無いように……との署名入りの念書まで要求するくらいの念の入れ方だ。

 更に念を押すように彼は、映像記憶に関して人とは違う能力を持っている事実を伏せて、私がただ数字や記号を覚えるのを得意としているから設計図の復元が出来るのだと彼らに説明したらしかった。


 ……のだけれども。


 私の復元作業を見ていた人間が、グラントの説明を信じたかどうかは甚だ怪しい。

 だって、私は数字を『数字』として覚えたわけではないのだもの……。ただ、見たままのものを記憶しただけ。

 ええと……その……海に浮かんでいた設計図が私から見て天地逆だったのだ。だから私は天地逆の数字や記号を紙の上に書き込んでいた。

 これは真っ当に『数字』や『記号』を記憶している人間の遣り方じゃないような気がするのだが、どうなのだろう?

 まあ……グラントは苦笑い。

 出来上がったものが完璧であれば、とりあえず今回は誰もそれに言及しないだろうと言ってくれたから、私もそう思う事にしておこう。


 私のこの能力は使い方によってはとても危険なのだと、以前彼が言っていた。

 ……記憶した人の顔や姿を似姿にして兄様に描き送ることをかつて自分の生業としていたけれど、やりようによっては色々と『使われる』恐れがあると言うのだ。

 例えば私は、一目見ただけでは読み終えることも出来ないような長文の機密文章や暗号文を『画像』として記憶することが出来る。

 私自身には理解出来ていない言語や記号だって、見たままを記憶して描き出すことが出来てしまうのだ。


 あれはいつの事だったか……。

 たぶん一度目のブルジリア王国からの帰国後の事だと思うのだが、対象物が目の前に無い状態で風景画を描く私を眺めつつ、グラントがしみじみとした様子で


「フローお嬢さんは由緒ある家格の高い家に生まれて本当に良かったな」


 と言い出したことがあった。

 突然そんな事を言われて何事かと一瞬私は訝しんだのだけれど、確かにそう……。

 父様の死に顔を描き続けていた時もそうだったけれど、気味の悪い娘として母や若い女中らに忌み嫌われても生きて行くのに支障が出ずに済んだのは、一重に『家』のお陰なのだ。

 私がジェンフェア・エドーニアの家とは無関係な市井の娘であれば、もしかしたらこの妙な力を利用しようとする人間が現れていたかもしれない。

 単純に見世物として扱われるならまだしも、場合によってはエドーニアで私が行っていたよりも危険でえげつない諜報活動を強要されていたかもしれないのだ。


 あの当時、アグナダとリアトーマは一触即発の時代。

 もしもジェンフェア・エドーニアの家や兄上の庇護がなかったなら、私はどんな人生を歩むことになっていただろう?

 ああ……それは昔だけではなく、今だってそうなのだ。

 私を娶ってくれたのがグラントでなかったのなら……私は自分の意思とは関係なしに利用される人生を生きていたかもしれないのだもの。


 見た物を見たままに鮮明に覚えこむと言うこの能力に随分と苦しめられたこともあった。

 かつてはこんな変な能力など無ければいいのに……と、心の底から思ったものだ。

 ……だけど、今は違う。

 ブルジリア王国での白い鳩の神事の時も、そして今回も、私はグラントの役に立つ事が出来ているのだ。


 いつもグラントに言われていたことだけど、私はひどく自己評価の低い人間なのだと思う。だって……評価できる部分なんて無いではないか。

 私にはレレイスのように輝かんばかりの美しさも華も無く、この通りに左脚は不自由だし……グラントの子供を生むことだって出来ないかも知れないのだ。


 ……彼はそんな事気にするなと何度も言ってくれるけれど、そんなの無理な話。

 だって……私が彼の子を望むことをやめられないのだもの。

 自分でも怖くなるくらいに彼の事を愛しているから、グラントの子供をこの身に宿したい……。


 ああ……そうだ。だからこそ彼が私のせいで自由を失う頚木をかけられてしまった事に、私は自分で認識していた以上の負い目を感じていたのだと思う。

 私はグラントに対してなんと言うか……返済困難な負債を抱えているような気持ちをずっと抱いていたのだ。

 でも……だけど今は……。


 カリカリと、許す限りの速度で記号と数字を紙面に書き込みながら、私は心の高揚を抑える事が出来ずにいる。

 口元を引き締め、笑みの形に唇が歪まないようにするのが困難なくらいだ。

 私にも彼の為に手伝えることがあるのが嬉しくて……嬉しくて仕方ない。

 この仕事を無事に遣り果すことが出来れば、彼の頚木は外される。

 グラントは元のような自由を手に入れることが出来る。

 社交と政治の世界に窮屈に閉じ込められることなく、海原を越えて馬に揺られ、刻一刻と風の匂いが変わる広い世界を歩き回ることが出来るのだ。


 そうなれば……そうなったら私は、グラントの愛情と庇護に身を縮めて恐縮するのではなく、堂々と顔を上げて向き合う事を自分に許すことが出来る。

 彼の愛情を受ける資格を自分の上に認め、あの暗色の瞳を見つめ返すことが出来るのだと思うと、胸の底から震えるくらいの喜びがわき上がってきた。


 ……いや、実際には震えたりはしなかったけれど。

 だって、震えたりしたら設計図の復元など出来ないではないか。

 ただ、どうやら私は端から見て『取り憑かれたように』ペンを走らせ続けていたらしい。

 それも……鬼のような物凄い勢いで……。


 薄い紙の上、先刻までまっさらだった紙の右下に最後の一文字を描き入れ顔を上げた時、部屋の中は口を開く者の一人も無くしんと静まり返っていた。



 

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