『顔の無い花嫁』53
これから起こるだろう出来事に対し、予備知識がある場合と無い場合、どちらがよりその場に相応しい対応を取れるか……と問われれば、恐らく大概の人間は予備知識があった方が良いと答えると思う。
それがただの『知識』であれば確かにそうだと私も言えるのだが、その『知識』が『経験』を伴うものである場合、いっそ予備知識などない方がいい事もあるのではないだろうか。
……少なくとも熱せられて割れ弾ける油の樽に関しては、最初に目の当たりにした時に私の口から悲鳴なんて飛び出しはしなかった。
だけど今回は違う。さっきよりも近い場所の樽にさっきのように火柱が上がる事を知っているのだもの、悲鳴ぐらい上がる。しかも、みっともなく叫びながらも身を伏せるでもなく……予備知識を無駄にしている辺りが情け無い。
どうやら私は運動神経もだが、反射神経にもさほど恵まれてはいないようだ。
ともかく、樽は炎と共に破裂した。
水が緩衝材となったお陰でそれほど酷い破裂ではなかったけれど、油のついた樽の木片が飛び散って、桟橋の横にバチバチといくつか当たったし、油はすぐ傍まで……設計図の至近にまで飛んで来て小さな炎を上げている。
図面本体に炎のついた油が掛からなかっただけ幸いと言うべきか。
それにしたって切羽詰った状況であることになんら変わりは無い。
風はますます熱を帯び、黒い油煙を上げながら吹き付けてもう一つの樽……これも喫水の高さからして完全な油の樽であろうソレをすぐそこまで押し流して来ている。炎の帯も油樽の破裂で勢力を増していた。
これではここに船をまわせたとして設計図に近づけるかどうか……。
「大丈夫か、フロー!?」
「フローティア殿、大丈夫ですか!?」
私の悲鳴に、グラントもグラヴィヴィスも自分の相手と無理やりにケリをつけ、走り寄りながら聞いてきた。
「だ、大丈夫。火傷も怪我も無いわ。それに設計図も今は無事。……だけど待って……待って……」
そんなことよりも……。
炎の接近により設計図の無事は風前の灯となってしまったが、光源が近くに出来たせいで、海面に広がって浮かぶ設計図がはっきり見えるようになった
やっぱりこの図面は私がプシュケーディア姫とアリアラ海上の船内で見た物とは全く違う。
グラントの持っている方は見る人間にそれが船の断面図や各部位、完成図等を細密画で表した『図面』と分かるものだったけれど、こちらはそもそも『図』ですらない……。
上下が逆になって分かり難いけれど、こっちは数字や矢印などの記号の羅列にしか見えないのだ。
本当にこれは『設計図』なのかしら……?
何かの間違いではないの?
こんなものが必死に奪い合い、護り、回収しなければならない物なのかとの思いが胸にきざした私の頭の中に、あの……船の中で設計図を見た時に覚えた『疑問』が唐突に蘇える。
そうだ……あの時……私は向こうの『設計図』にも疑問を覚えたんだ。だって、あの図面には一つも……本当にたった一つも数字が書き込まれていなかったのだもの……!
新たな目で私は炎に明るく照らし出されるその数字と記号の羅列である『設計図』を見つめ直した。
紙の大きさは向こうの図面と同じ。紙質も同じ。
それに……ああ……そうよ。
紙の隅に描かれた『十』と言う記号……その位置も同じ!
もっとも私は図面の全体を広げて仔細に見つめたわけではないから、片側の端に書き込まれていた『十』の印しか見ていないけれど、たぶん『そういうこと』なんだと思う。あの図面には船の断面図や全体図・各部位の詳細な説明を細密画によって描き出し、こちらの紙には各部分の正確な角度や長さなどの数値が記されていたのだ。
紙の端の上下についたのは、二枚の『設計図』を重ね合わせる時の為の印。薄い……ごく薄い紙だから、重ね合わせれば下に書かれた図や数字は透けて見える。
『図』と『数値』
……そう。
「これ……二枚で一つの『設計図』なんだわ……!!」
口中に叫ぶ私の覗き込んだすぐ下……桟橋の橋脚に、さっき破裂した油樽の方から火のついた木片がバチンと爆ぜ飛び、ぶつかった
炎の帯はすぐそこまで迫り、熱風と油煙で海に顔を突き出しているのが苦しいくらいだ。
「フローお嬢さん、これ以上は危険だ。すぐに避難を」
「──────駄目よ、待って!」
私は肩に掛かったグラントの手を振り払う。
船は寄せられない。もう背の高いグラヴィヴィスだろうが彼より大きいグラントだろうが、杖を突き出しても剣を突き出しても設計図には届かない。
長い棒を探している余裕も無ければ、棒を探してここまで持ってくるのもこの状況では難しい。
油と炎が迫る中に飛び込むのなんて完全な自殺行為だし、そんなこと誰にだってさせられやしない。
風は炎に煽られさらに強く吹きつけ、今まさに残された油樽がその中に飲まれたところ。……あれが破裂するのはもはや時間の問題だろう。
それより先に設計図が炎の中に呑まれるか、それとも樽がはじけて炎と油まみれになるのが先か……。
「いま私が……設計図を記憶するから、あと少しだけっ!」
ああ……波が邪魔だわ。
それに、照明用に灯されたランプやランタンとは違って、海の上で踊る炎は気まぐれに光量とその高さを変える。もしもこの目の前の『設計図』がグラントの持っているような細密な絵図面であったなら、到底それを正確な筆致で再現することなど私には出来なかっただろう。
……私が描く『絵』と『設計図』に描かれた細密な『図』では線の質自体が全く違う。
あの線を引けるようになるには相当な修行と研鑽が必要。でも、この数字と記号であれば私にも何とかなるかもしれない。
ただ問題なのは、その数字の位置取りと大きさを正確に記憶しなければならないと言うトコロ。
私の背後では最後の猛攻。グラントとグラヴィヴィスがバズラール卿の部下達と激しく剣を打ち交わす音が聞こえていた。
不思議と不安な気持ちは無い。
グラントは命を失うどころか怪我一つせずにきっと私の事を守ってくれると信じている。それに……グラヴィヴィスも大丈夫だろう……多分。
大きく海面がうねり、図面が都合よく私の正面に真っ直ぐ盛り上がった。お誂え向きに近くまで来ていた炎がそれを照らす。
熱風に顔を炙られながらも、私は精一杯桟橋から顔と体を乗り出して、その千載一遇の瞬間を眼へと文字通りに焼き付けた。
視界の端、炎に飲まれた最後の油樽が奇妙な形に歪むのが映る……。
目を向けると樽の『タガ』は熱でぐにゃりと曲がり、その負荷に耐えかねた鋲が持ち上がり始めているようだった。
ザブン。海面がまたうねり、海面の炎の帯とその頂点で炙られた油樽を私の前へと持ち上げてきた。
樽の『タガ』は真っ黒に変色し、締め付けるタガの歪みで鋲が飛んだ。
私は海へ限界まで乗り出していた体を咄嗟に引いていた。
焦げた木の蓋が外からの熱と内側からの圧力で少し持ち上がるのが見える。
……今ここで炎が樽を破裂させたら私は火達磨になってしまうと言うのに、私に出来たことと言えば、銀の杖をきつく掴んで後ろへわずかにいざる事くらい……。
ああ、駄目。
どうしよう……樽が、もうあんなに……!
胸の少し下くらいの場所が突然グイっと、締め付けられた。
油樽に吸い寄せられていた目線が突如としてそこからもぎ離され、夜空を映す。
初冬の夜空は瑠璃のように銀の粒を散りばめた深い藍の色で、そこに空よりも明るい千切れ雲が鉛色の濃淡を散らして浮かんでいた。遠い空で雷が閃き、それら全てを青白く染め上げる。
青白い空の下に橙色の炎が弾けたのは、グラントがその右腕で私を浚い上げ退避しているのだと気づいた瞬間の事。
ボンっ……と音がした。間の悪い事に、樽が弾けたのはその危険物を載せた波頭が盛り上がり桟橋に寄せた瞬間。
熱せられた油が吹き上がり、それを炎が追うのを見た。
たぶんだけれど、油の樽が桟橋の橋脚にぶつかったのではないかと思う。でなければあんな風に、油と炎が桟橋の上にまで吹き上がるわけが無いもの。
視界が急に狭くなって設計図のあった辺りが見えなくなった。
暗色のマントをまとったグラヴィヴィスが視野を大きく占めている。
飛び散る熱い油や炎のかけらを私が浴びぬよう彼が気遣ってくれたのだと気づいたのは、そこからグラントが大きな数歩を進んでからの事。
上下に揺れながら右から左へと移動する視界に、色々なモノを見た。
足元に油の飛沫を浴びた馬が、熱に驚き後っ跳ねをし、転がっていた水の樽を蹴り壊す。その水と油で前肢を滑らせたシザー卿の乗馬が卿を振り落としながら転倒した。
桟橋突端には未だに炎が燃えている。
最後まで桟橋に残って戦っていたバズラール卿の部下数人がボートに飛び乗り、彼らを追っていたジェイド達は転倒して暴れる馬が障害物となり、立ち往生していた……。
チリリと小さく閃いた遠い……遠い雷光に、既に海へと漕ぎ出した船上バズラール卿の立ち姿とその背後、大きな船が慌しく出航準備をする黒々としたシルエットとを照らし出し、消える。
炎の外側は灯りの無い状態よりも暗く感じるものだ。
青白い雷光が消えると、バズラール卿の姿ももはや見えなくなってしまう……。
「怪我は無いかフロー?」
「わ……私は大丈夫。もう下におろして頂戴、グラント……」
弓兵がバズラール卿を射た場所。身を隠すのに使った木箱の辺りまで離れ、私はようやく地面に足をつけることが出来た。
桟橋上、未だに大小の炎がそこかしこで燃え上がり、馬達が蹄を落ち着き無く踏み鳴らしているけれど、剣と剣とを打ち合わせる剣戟の響きはもう聞こえてこない。
ザッと見渡した限り、負傷の有り無しに係わらず『動ける』人間は、グラントの部下や仲間達。それからシザー卿の率いてきた騎馬兵と、グラヴィヴィスが手配した湾岸事務所の警備兵だけのようだ。
物言わぬ骸となって桟橋上に横たわっているのは、全てバズラール卿の部下達。
……確かに多勢に無勢ではあったけれど、遺骸となった彼らの全てがアグナダ公国側の人間との戦いで致命傷を負ったわけではなかった。
毒だ。
軽傷重傷問わず、桟橋からの脱出成らずと判断したバズラール卿の部下は全て自ら身につけていた毒物によって命を絶っていた。
……以前、フィフリシスからアグナダへ渡る船『amethyst rose』の時と同じ……。あの時も、グラントらが捕らえた工作員達は毒を使って事切れていた。
骸を検分したところで恐らく国籍身元を示す物など何も出てこないと思う。転がっているのは、ただの身元不明の死体と言うこと。
ふと目を向けると固定式屋台の裏の辺りにスティルハートの姿があった。
……生きている。
屋台建物の影に隠れるように座り込んでいたところをグラントの部下二人に両側から腕を捉えられ、拘束されている。
スティルハートはこの件唯一の生き証人。バズラール卿は彼女をボートに誘導しなかったのだろう。
……と言うことは、あの混乱の最中に身を隠さねば彼女もまた、桟橋上に物言わぬ骸となって転がることになったのではないだろうか。
「フローティア殿、本当にお怪我は?」
グラントが私の顔や手に火傷や怪我が無いかを確認する中、グラヴィヴィスも気遣わしげな目を向けて私に問うて来た。
「大丈夫。本当に私は大丈夫よ。───グラヴィヴィスこそ怪我はなくて? 今だって炎から私の事を庇ってくれたのでしょう? 火傷などしなかった?」
「あぁ……ええ。どうやら何処も痛くも熱くもないようです。ただ……借り物のマントの裾は少し焦げましたが……」
マントの裾を持ち上げてグラヴィヴィスはその焦げ穴を示してみせる。
「私もすっかり焦げ臭い匂いがついてしまっているわ……」
私は自分が身につけたマントに鼻をつけ、小さく首をふって傍らに立つグラントを見上げた。
「これ、お城を出る時に借りてきた物なのよグラント。帽子も借りたのだけど休憩小屋の隅に乱暴に押し込んでしまったから、きっと型崩れしているわ。これでは弁済して差し上げなければいけないわね……」
溜息混じりの私を見下ろすグラントが、なんだか妙な表情をしているのは何故だろう?
ああ、そうか。
「城内からスティルハートが出て行こうとしているのをたまたま見つけたのよ私。それで、グラヴィヴィスが彼女を追うのを手伝ってくれて」
私がこの場に現れたことだってとんでもない予想外の事だっただろうに、グラヴィヴィスまでがここにいるのだもの。グラントだって一体どういうことかと思っているに違いない。
「──────『王弟殿下』」
「この国ではただの『グラヴィヴィス』です。バルドリー卿」
「……なるほど。此度は私の『妻』がお世話になってしまったようで」
二人は顔を見合わせながら、互いに手にしていた剣をそれぞれの剣帯に吊るした鞘の中へと鮮やかに納め、手を伸ばして握手を交わした。
「フローティア殿は私にとって命の恩人。此度はその恩の一端をお返しする機会に恵まれただけですから、バルドリー卿に礼の言葉を仰っていただく必要はございません」
「いいえ。それでも敢えて言わせていただきます。『妻』を護ってくださりありがとうございました」
「……では、言葉だけを」
二人の間、なんとはなし変な空気が漂っているような気がするけれど……二人ともにこやかに握手をしているのだもの。私の思い違いに過ぎないだろう。
桟橋の事後処理を港湾事務所の警備兵らに引き渡し、私とグラント、それからグラントの回収した設計図とグラヴィヴィスは四頭立ての馬車に乗り込んだ。
私の隣にグラント。向かい側にグラヴィヴィス。
私達の後をスティルハートを拘束したジェイドらの馬車が続く。
……先触れの早馬をグラントを手伝った騎士の一人が申し出て、今頃街道をセ・セペンテス大公城へと急いでいるだろうが、城へ報告が届くのには時間がまだ掛かる筈。
今頃プシュケーディア姫はどれほど不安な気持ちで過ごしている事だろう。
車内、グラヴィヴィスもグラントも口を開こうとせず車輪の響きと馬たちの蹄の音だけが周囲を満たす。
桟橋でのあの短い会話以降、二人は言葉を交わしていないようだ。
グラヴィヴィスはこの国の人間ではないし、下手な事を言うわけには行かないのだろうし、グラヴィヴィスにしてもその辺は弁えた人だ。
……だけど……私はどうしてもグラントに訊ねたいことがある。
チラリと隣のグラントを見上げ、それからグラヴィヴィスへと目を向ける。
私と目があったグラヴィヴィスが微かな笑みを返してきた。
本当ならばこんなところで話すべきことではないのかもしれないけれど……。
「あの……グラヴィヴィス。お願いがあるのだけれど聞いてくださる? これから先の私達の……私とグラントの会話は聞かなかったことにしていただきたいのだけど」
暫しの逡巡の末、突然そんな言葉を口にした私に対して、グラヴィヴィスはグラントにチラと視線を向けてから頷きを返してくれた。
「勿論。私としてはフローティア殿の願いは最大限お聞きする所存でおります」
少しばかり大袈裟な台詞だけれど、まあ……いいだろう。私は改めて隣に座るグラントへと目を向けた。
車内、ずっと無言ではいたし、ちょっとだけ複雑そうな表情をしているのが気になるけれど、別に彼は不機嫌と言うわけでもないのだと思う。
それとも私に気を使ってくれているのだろうか?
車内の光源は壁掛け式の小さなランプが一つだけど、グラントの暗色の瞳を覗き込むのに光量は事足りる。
大公城で最後にお茶を戴いたのが最後。水気のものを摂っていないせいか、急に唇が乾いて言葉が喉に引っかかってしまいそうだけれど、いくら私が頭を抱えて悩んだところで『答え』など出そうにないのだ。
ここは意を決して……と言うか、諦めてグラントに訊ねる以外にはないだろう……。
「ねえグラント。『この件』で私……結局貴方の邪魔をしたの? それとも少しはお役に立てたの?」
これを聞きたくなる私の気持ちを察してもらいたい。
……だって、私がスティルハートを追わなくても、グラントはリネの港にいたのだもの。私のいるいないにかかわらず、バズラール卿は『設計図』を奪い去ることなど出来なかっただろう。
それに、私がグラヴィヴィスとともにスティルハートを追尾しているとの走り書きが無ければ、シザー卿があんな風に桟橋に乱入してくることは無かったのだ。
少なくともバズラール卿の捕縛成功の可能性は高くなっていた筈。
海に落ちた『図面』の一枚は焼失してしまった。
内容は私が覚えたから大公城帰城後に復元は可能だが、それだってシザー卿らが場に混乱をもたらさねば焼失自体がなかったような気もする。
『設計図』盗難と言う国家の一大事において出来うることをしようと必死になった結果の行動。意味も無く彼に謝罪する心算はない。
だけどもしも私の行動が著しくグラントの邪魔をしていたのであれば、反省しなければいけない部分もあると思うのだ。
……ランプの照らす車内、グラントの顔をじっと見つめる。
じっとじっと見つめる。
韜晦の上手いグラントの表情を見落とさぬよう、言葉の微妙なニュアンスを聞き逃さぬよう、目と耳を研ぎ澄ませ、私は彼の答えを黙って待ち設けた。
灯火用の油の癖にありえないほどの爆発力……。
ガソリンでも入っていたのかと突っ込み裏拳。




