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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
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『顔の無い花嫁』51

 私はバズラール卿と言う人間に対して畏れの感情を抱かずにはいられない。


 一体どんな頭脳を持てば海を隔てたアグナダ・リアトーマの財を搾取してそれを二国の戦の火種とし、搾取した財を使って自国の軍備を強化。更にはモスフォリア国にレグニシア大陸侵攻の為の新造船を開発させる……なんてとんでもない計画を考えつくと言うのだ。


 結局彼の野望は老ラズロの死を切欠に、グラントらの働きもあってついえることとなったけれど、そうじゃなかったなら今頃どうなっていたことか。


 いわゆるトカゲの尻尾切り。ボルキナ国はバズラール卿を国政の中心から切り捨てることによって、一応この件の『けじめ』と言うか結着としたけれど、ボルキナの中枢部では彼の失脚に胸を撫で下ろした人も少なからずいたのではないだろうか。

 彼ほど野心家で、かつ統率力のある人間が、他国への侵略だけで満足するとは思われないもの。

 レグニシア大陸を侵攻後、その成功を足がかりに自国での王位簒奪もバズラール卿の野望の先にはあったのでは……との考えも、あながち穿ちすぎではない気がする。


 それに、今回の状況で新造船設計図を奪取しようだなんて、尋常な頭の持ち主では考えもつかぬこと。しかもその指揮を海上から執っていたなんて……。

 確かにアグナダやモスフォリアに上陸すれば目撃情報等をつかまれる可能性もあったが、まさか船の中に何ヶ月もの間バズラール卿がいるとは思いもしない。

 レグニシア大陸侵攻計画は十年以上の時をかけて進めて来たものだ。それにくらべて僅か数ヶ月の海上生活と本人は考えているのかも知れないが、その胆力たるや、常人を越え想像を絶するものがある。


 くどくどしく言い訳をしても仕方が無い。

 正直に白状するならば、私はバズラール卿に対して畏怖の念を抱くどころかすっかり『萎縮』していたのだ。

 数瞬とは言え、見開いた目に何も映らず耳には何も聞こえてこないと言うていたらく……。

 我知らず強張っていた肩の上、グラントの大きな手がそっと乗せられた事に飛び上がりそうな程驚いてしまったなんて、情け無くて人には言えない。


「……フロー、絶対に俺のそばを離れるな」


 私に引き替え、グラントは揺るぎ無い。

 身を屈め、耳に吹き込む言葉には緊張から生じる険しさはあるけれど、私のような竦みや怯みなど彼の中に存在していないようだ。

 ただあるのは調弦済みのウードの弦のように程よくピン張った意識と体だけ。


「お嬢さんの事は必ず守る」


 彼の口元に普段見られる不敵な笑みは無い。

 だけど……彼の言葉を私は信じる事ができた。


 確かにバズラール卿と言う人は恐るべき人物ではある。でも、彼が仕掛けたアグナダ公国とリアトーマ国の間の火種はグラントらの手によってそのカラクリを暴露された。

 フドルツ山金鉱からの不正流出の『金』を資金源として開発した新造船の設計を、プシュケーディア姫の持参金との体裁で返還させることになったのも、もともとは、ユーシズ生産の亜麻を原料とするカンバスのモスフォリア向け輸出量の変化にグラントが気づいた事をきっかけにしている。


 それに……そう。

 彼はかなり早い段階から花嫁行列への襲撃や妨害を、バズラール卿の『陽動』と見抜いていた。

 グラントがこの場所にいるのは、設計図盗難の犯人として疑わしい人物を追ってたまたまここにたどり着いたわけではない。彼は彼の持つ情報網と彼自身の分析によって導き出した結論からここに至ったのだ。

 グラントが私のようにバズラール卿に気圧され萎縮するなんて事、あるわけが無い。だって、彼はこれまでずっとバズラール卿と同じ土俵の上で対等に渡り合ってきた人なんだもの……!


 調子が良いと失笑を買いそうだが、私はこの暗がりでさえ強い意志の光を宿すグラントの瞳から力を得た。

 バズラール卿に対する畏れの感情は未だ心に残っているけれど、グラントが私を護ると言ってくれたのだもの。私は彼の言う事なら信じられる。

 グラントはブルジリア王国で私と約束してくれたではないか。

 私が危険に晒されたなら、どんなことをしてでも護ってくれる。その為にグラントが命を失ったりなど、絶対しないって。


 私は肩の上に乗った、誰よりも好ましく頼もしい人の手に自分の手指をそっと触れさせ、暗色の瞳を真っ直ぐ見つめ頷きを返した。

 強張った体から不必要な力が抜けると途端、周囲の景色や音、気配が戻ってくる。


 二艘のボートに分乗し、結構な人数がやって来ているのは、荷の積み込み作業の為と言うよりバズラール卿への警護の意味合いからだろう。

 今現在グラントの手勢が何人いるのかは分からないけれど、馬車を御していたあの男が帰ってきたと言うことは、グラヴィヴィスも港湾事務所の警備をこちらに向かわせる手配を終えていてもおかしくない。

 バズラール卿側は海上の大型船内にも兵力を持っているだろうが、比較的容易に戦力の増員が見込めるこちらの方がどう考えても有利だ。

 この場に留まれば留まるほどに危険が増す事は向こうも承知しているのだろう。荷の積み込みをする人々は作業を急いている気配がある。

 誰一人無駄口をたたく者は無く、波や風・雷鳴以外に聞こえるものと言えば、必要最低限の指示の声とスティルハートの鼻に掛かった言葉。それに応えるバズラール卿の声。


「──────貴方のご指示通りに動けば大丈夫だって事は信じていたの。だけど、もしもコトが露見したらって……震えるほど怖かったんですのよ? 私……頑張りましたでしょう?」

「ああ……お前のように賢く勇気のある女がいてくれなければ、そもそも計画自体が成り立たなかった」

「そんな……なんとか事をやり果せたのはバズラール様を思えばこそのこと。……私、貴方の面目を取り戻す為なら何でもいたしますわ。バズラール様は人の上に立ってこそ輝くように生まれついた方ですもの。だからほら、私だってこうして頑張ることが出来たんですわ。私、そんな貴方の近くでお役に立ちたいの。すぐ近くで……」


 拗ねたような甘え口調で自らの苦労を語り、成しえた『功』の価値を高く吊り上げる。

 それらすべてはアナタを思えばこそ……と、あざといくらいに分かりやすく彼女は自分をバズラール卿に対して売り込んでいる。


 べったりと『女』を感じさせる言葉も声も……いつも背筋の伸ばしててきぱきと仕事をこなしていた見知ったスティルハートの姿とは百八十度違うが、なにも驚くことなどあるものか。人間というモノは表面に見えている部分だけが全てではない。場合により、相手により、見せる顔が違うのなんて当たり前の事。

 プシュケーディア姫に振り回され目が向かなかったのもあるけれど、ぬるま湯のような暮らしで私も随分お人よしになったものだ。


 スティルハートが『侍女』として三度花嫁に同行している事は、彼女自身の口から聞いた話。

 一度なら家の事情と言う可能性もあろうが、失敗すればレイナリッタさんのように高級娼婦の道を選んだり、平民でも金回りの良い商家の後妻辺りに入ることも出来たはず。

 此度は教育係としての同行であり例外と考えるにしろ、二度まで『侍女』の道を選んだと知った時点、スティルハートが強烈な上昇志向を持つ人間である事に気づかなければいけなかった。

 彼女が手に入れようとしているのは、ボルキナ国で権勢を取り戻したバズラール卿の妻の座。

 それを承知の上、バズラール卿は彼女をたった一人でモスフォリア・アグナダが護る機密書類の近く潜入させた。


「勿論だともイナンナ。……さあ、それを……」


 身を寄せ合う二人の間に果たして『愛情』などと言うものがあるのかどうか。

 胸元からスティルハートは後生大事にしまいこんでいた二枚の紙を取り出した。プシュケーディア姫と私がアリアラ海を渡る船上で見た、あの二枚の設計図……。

 渡す彼女と渡される彼がどんな表情をしていたのか、私は知らない。

 バズラール卿が設計図をその手にしようとした瞬間、私の目の前に青白く輝く長剣の刀身が閃いた。グラントが左腰に吊るした長剣を右の手ですらりと抜いた、その輝き……。


「──────それを、こちらに渡してもらおうか」


 グラントの声は、風と波音をいて桟橋にいる人間の耳へと響く。

 もう一本。長剣の下に吊るしていた短剣を左手で抜いた彼が建物の陰から姿を現すよりも早く、バズラール卿の配下らはそれぞれに腰の得物を抜刀していた。


 ……この素早い身のこなし。

 私が固定式屋台の建物から顔を覗かせた時には、バズラール卿とスティルハートは幾重もの物騒な人垣の後ろに匿われている。

 やはり彼らは船員などではなく、戦うことを生業にしてきた人達だ。軍人か私兵かは知らないが、相当の訓練を積み、戦いと修羅場に馴れていなければこんな反応などできるわけがない。


「何者だお前は」


 誰何すいかは当初グラント個人に向けて発せられたものであったが、私の背後……木箱の陰や桟橋に係留されていた船からジェイドらグラントの手勢が現れた途端、グラントが『誰』なのかよりも、『何者なのか』と言う問いに変じていたのではないだろうか。


 初めて目にしたバズラール卿は、非常に押し出しの良い人物に見えた。

 秀でた形の頭部は暗がりの中では禿頭と見誤るほど短く刈り込まれ、この場でほぼ唯一の人工的光源であるスティルハートの持ち込んだランタンが、しっかりと太い顎から美しく楕円のラインを描く頭蓋骨の形を浮き上がらせている。


 頬と顎には黒々とした髭が立ち、精悍な印象。太ももの上部までの丈の暗色の詰襟コートの襟カラーが夜目にも白い。

 装飾に乏しいその外套はあまり見かけぬ形状だが、バズラール卿の左右に張った肩や、驚くほど厚みのある胸板の線を綺麗に描き出している。

 上等な仕立ての衣服に包まれたバズラール卿の体には緩みや弛みが見受けられない。顔の細部までは逆光で見て取れないが、体つきは鍛え上げられた人間のそれ。


 いいえ、体躯だけじゃない。

 幅広の長剣を抜き放つ様になった様子からも、彼が頭脳労働専門の人間では無い事が窺われた。

 そしてなによりも……バズラール卿には内側から溢れだすような強い覇気がある。

 こうしてグラントの傍にいなければ、私は再び彼の存在感に気圧されてしまっていたに違いない。


「人に名前を聞く時にはまず自分が名乗るものとは教わりませんでしたか? もっとも、こちらは貴方が何者なのか承知しておりますがね──────バズラール卿。その女性が貴方に渡したモノは盗品ゆえ、こちらにご返還願えませんか? ……もし貴方がボルキナ国の要職を失職後、盗人ぬすっとの元締めに転職したと言うのなら、交渉の余地なしとして手荒く奪還させていただくことになりますが、さて?」


 平生、ついぞ耳にしないほど小馬鹿にした彼の言い種に、バズラール卿本人よりもその部下達から剣呑な気配が漂った。


 ふだん人を喰った物言いをすることはあっても人を『馬鹿にした』事など言わないグラントが、何故ことさら場を煽るような言い方をするのだろう。何かの意図あっての事であろうが、一体……?


 胸の中の疑問に、私はこの時すぐには答えを得ることは出来なかった。

 悠長にそんな事を考えている場合ではなくなってしまったからだ。


「バ……バルドリー夫人……!? どうして……王女と一緒に大公城にいた筈の貴女が……っ」


 バズラール卿の肩越し、この事態を呆然の態でうかがっていたスティルハートの口から、驚きに上ずった言葉。

 長短二本の剣を手にして自分達の前に現れた男の後ろにいるのが私である事に、彼女が気づいたのだ。


 プシュケーディア姫は一度もグラントと正式に対面せぬままセ・セペンテスに到着したのだが、スティルハートもどうやらグラントの顔をしかと認識していないらしい。

 遠目では何度かは見かけているだろうけれど、今の彼は花嫁行列に参加していた時の羽飾りの帽子や緑の美々しいマント姿ではなく、皮の肘当てのついた上着に皮のベストと言った凡そ貴族らしからぬ身形なのだ。彼女が気づかなくても無理からぬ話。

 一方の私はと言えば、この銀色の杖が嫌でも人目を引くのだもの……。


「この国の貴族女か? ─────尾行されたな、イナンナ」

「そ……そんな」


 バズラール卿の忌々し気に吐き捨てる声にスティルハートはの呻きを漏らす。


 この場に私が存在することがグラントらにとって都合の悪い事にならないかしら?

 一瞬心配になった私だが、ここはアグナダ公国。大公城から物好きな貴族女がたまたまの巡り合わせでスティルハートを追尾したとして、なにも問題ない筈だ。

 私の存在が不都合どころか、グラントが言葉で煽り、みずからへ集中させようとしていたバズラール卿らの意識が策せずこちらに向いた事は、彼にとって好都合だったよう。


「軍属か? いや……その女がイナンナを追尾してここにたどり着いたなら、あまりにも手回しが良すぎる」

「アグナダ公国の諜報……?」


 バズラール卿へ疑問を投げかけたのはあの、御者台にいた男だ。


「この国にそれほど高精度の諜報組織などなかったと思うが……」


 随分な言われようだけれど、確かにそう。

 周囲を海に囲まれたこのレグニシア大陸は海の外の諸外国から侵略を受ける事もなく永の年月を過ごした為か、外界の情勢に疎くなりがちだ。

 だからグラントはそこに危惧を抱き、商業を通じて情報の収集分析を行う専門機関を整備するよう大公らに働きかけを行って来たのだもの……。


「ふむ……二本の剣を下げた背の高い男……。どこかでお前の報告を聞いたように思うが」


 遠雷を通奏低音に、バズラール卿がその独特の嗄れた声で独りごちた。

 彼の言うのは恐らくメイリー・ミーをフィフリシスから奪い返した時に目撃されたグラントの事だろう。

 あの時メイリー・ミーと接触するなど表だった動きをしたのは私だけなのに、彼の情報までバズラール卿の耳に届いていたのは、ボルキナ国の諜報機関の能力を賞賛するべきか。


「……まあ、良い。残念ながらこの設計図は渡すわけには行かぬよ。これは『ボルキナ国の開発した船』だからな」


 このまま設計図が奪い取られ海を渡ってしまったなら、彼の言うとおり、ボルキナ国は新造船の設計を自国のものとしてしまうだろう。


 ──────と。彼の国に設計図が奪われればそうなるだろうとは、随分前にグラントから聞いた話だが……バズラール卿の言葉は彼の考えを裏打ちしていた。


「エディ、ニズルム。ボートへ! 卿……ここは我々に任せて船へお戻りを」


 私のような素人尾行に気づかなかったと言う失点の穴埋めか。御者台の男が剣を手に前進しながら言った。

 岩礁に波が砕ける音にも似た遠雷の響きと冷たい風の中、樽の上のランタンが、スティルハート目掛けて手を伸ばした卿の姿を照らし出す。


「──────来い、イナンナ」


 渡しそびれ、未だにその手の中にしっかり設計図を掴んだままのスティルハートから、バズラール卿が『設計図』をひったくるように取り上げるのが見えた。

 あまりにも色々な事がほとんど一時に起きたように思う。



「いやぁああああっ!」



 ……と。

 気合の声を上げながら御者台の男が切りかかるってくるのを合図に、桟橋の上での剣戟が幕を開ける。


 鋭い剣を、手にした細身の片手剣の刀身で受け止めたのは、すかさずグラントの前へと出たジェイド。

 桟橋の突端、この男に名を呼ばれたエディとニズルムと思しき二人が舫ったボート目掛けて走り出すのが見えた。

 バズラール卿がその手に設計図を持ち踵を返し、一拍遅れ、スティルハートが慌ててそれに続く。


「フロー……離れるな!」


 声と共にグラントは右手の長剣を横様にぎつつ力強く前へと踏み出し、突きかかって来た頬髭の男の剣を力任せ、弾き払う。

 勢いと膂力りょりょくに勝るグラントの一太刀で流された剣は、彼の協力者となった騎士の一人が間に割るように入って受けた。

 組み合う二人をその場に残し、私を大きなその背に庇いながら前進するグラント。必死に後を追う私。


 ……ニズルムとエディがボートに飛び乗る。バズラール卿を追うグラントの行く手は、分厚い刃の長剣で向かってきた鷲鼻わしばなの巨漢によって阻まれた。


 なかなかの手練。

 ……巨躯ながら重さを感じさせぬ素早い踏み込みとその重い斬撃ざんげきを、グラントは長短二本の剣をクロスさせる事でしっかりと受け止めた。

 ギリと軋る刃……。衣服の上からでもその背に力がこもるのが分かる。

 二人の両眼から火花の散るような数瞬の睨みあい。バズラール卿がもやったボートに行き着いた時、グラントの背が不意に下へと沈んだ。

 拮抗する力の人間が力比べをすれば膠着状態を生むのが当然……と、正統派の剣術を身につけた人間ならば誰でも思う場面。

 常道を覆し、グラントは急激に身を沈めながら交差させた二本の剣で相手の剣を絡め取るように右下へ、勢い良く引き落とす。

 鷲鼻の男の剣先が石組みの桟橋に激しく当たり、火花を散らした。

 渾身の力を込めての力比べのつもりが、突如力を受け止める支えを失ったようなものだ。

 向かって左。この急激な重心の移動で僅かに浮いた足元目掛け、容赦の無い足払いを見舞うグラント。

 鷲鼻の男がたたらを踏みながらも転倒を免れたのは、賞賛すべき身体能力と訓練の賜物だろう。

 だが男が体勢を立て直した時には既に、グラントの部下の一人が相手を引き受けるべくその男の前に立っていた……。


「フローティア殿……ご無事ですか……!?」


 グラヴィヴィスの声が背後の物騒な喧騒の中から聞こえた。だけど私には振り返り、彼の姿を確認する余裕などない。だって、エディとニズルムの二人がいつでも沖に向け漕ぎ出せるよう待ち構えているボートに向けて、バズラール卿が今まさに飛び乗ろうとしていたのだもの。


 このままでは設計図が奪い去られてしまう……!


 もしもバズラール卿が無事ボルキナ国へたどり着いてしまったなら、レグニシア大陸に待つ未来は……炎と流血の戦乱。

 絶望的な気持ちに襲われかけた私の背後から、弓弦ゆんづるの響きが聞こえた。

 いえ、それが聞こえたかどうかは分からない。ただ私の視線の一部を何かが物凄い勢いで飛来して行っただけ。音はその正体に気づいた後、私の記憶の中に捏造されたものかもしれない。


 グラントが自分に注目をひきつけている間、先に私が身を潜めるのに使った木箱の陰へ待機していた弓兵が、飛び乗った箱の上からボウガンで矢を射出したとは後で知ったこと。

 暗雲の夜空を切り裂き飛んだ矢は、狙い違わずバズラール卿の設計図を持つ手に突き刺さり


「ぐあああぁ……ッ!」


 ……と、バズラール卿の口から苦鳴をほとばしらさせた。


 風が吹いていた。

 北西から東南へ向けて……海から陸へ向けての冷たい風が。

 海風が透けるほど薄い二枚の紙をバズラール卿の手から空へ巻き上がらせるのが見えた。それから、ボートに積むため横倒しに転がされ放置されていた油樽に、射られた衝撃でバズラール卿がよろめき当たる姿も、空を舞う設計図を追った目の端に映った。


「バズラール様……!」


 ボートで卿を待っていた二人の口から同時に声が上がる。


「バズラール様……っ!」


 スティルハートの叫びはそれよりも一瞬遅れで発せられた。


 ドボン、ドボン……と水音を立てたのは水中へと落下した幾つかの樽だろう。風により吹き飛ばされた設計図のうち一枚は、バズラール卿のすぐ近くの地面へと落下した。

 ……もう一枚は風に流され、こちらへ。


 風に折りを解かれ、翼を広げた白鷺のように広がった設計図を、咄嗟に上へと掲げた長剣に引っ掛けるようにして受け止めるグラント。


「バズラール様……お逃げくださいっ!!」


 剣戟の響きと人の揉みあう物音で満ちていた背後から、先刻の御者台の男と思しき叫びが上がった。

 設計図を痛めぬようにはずすグラントから、桟橋入り口側へ視線を向けた私の目に映ったのは、激しく戦う人々と、それを掻き分けすぐそこまで駆け寄ってきていたグラヴィヴィスの姿と、それから──────





 ──────それから、グラントの部下もバズラール卿の護衛も関係なく、蹴散らす勢いで馬蹄を轟かせこの桟橋へシザー卿率いる騎馬の一団が乱入してくると言うあり得ない光景。



 

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