『顔の無い花嫁』50
明らかに筋肉質な両の腕が私の上半身をがっちりと押さえ込み、大きな手が顎から目の下までを覆う。
杖を握った両手は杖ごと掴まれていた。
首は口元を覆う手のせいで動かないから振り向いて自分を捕らえた人間の顔を見ることは出来ないし、声を出すどころか息すら出来ない状態だ。
人間と言うのは時に物凄い勢いで思考を巡らせる生物なのだと思う。こんな命に関わる非常事態には殊更に。
捕らえられて数瞬の間、私はその短い時間の間に平常時にない速度で働いた。
──────私の身元はスティルハートの証言によりすぐに明らかにされてしまうだろう。
メイリー・ミーのフィフリシス救出からフドルツ山金鉱事件が明るみに出たのだから、バズラール卿はこの件の報告は絶対に受けている筈。メイリー・ミーと接触を図り彼女を連れ出した『杖をついた女』───つまり私の事も報告書には書かれているに違いない。
その女はアグナダ公国の工作員と考えるのが普通であり、リアトーマ国から嫁ついで来た私と結び付けたりしないのが普通だろうけれど、バズラール卿も『私』と報告書の女工作員を別人と結論づけてくれるだろうか?
もしもボルキナ国まで連行されたなら、あの時の女が私であるコトが知られる可能性はぐっと上がる。
リアトーマ国の貴族女がボルキナ国で諜報活動。……これが知れたら不味いことになるのではないだろうか?
しかも今現在その女はアグナダ公国の有力貴族の妻だなんて、どう考えても都合が悪い。私の存在を切欠に、グラントが諜報活動をしていたコトまで掴まれる可能性もある。これがアグナダにとってもリアトーマにとっても今後の良い材料になるとは正直思われない……。
だが───それ以前。人質として連れ去られるよりここで殺される可能性が一番高いことに、私はすぐに気づいた。
彼らの目的はとにかく新造船の『設計図』だもの。それを持ち去るに目撃者など残しておくわけには行かない。
この件にはあくまでもボルキナ国は関与しておらず、新造船はあくまでもボルキナ国が開発した物。彼らはそう主張するはずだ。
『嘘が通れば道理が引っ込む』ではないけれど、嘘を通して道理を引っ込ませることなど北大陸最大の軍事国家ボルキナ国には造作も無い事だろう。
私が偶然この場に居合わせた一般市民であればあるいは見逃してもらえたかもしれないけれど、アグナダ公国の『有力貴族の妻』が、設計図を持ち出したスティルハートとバズラール卿がリネの港で会っていたコトを証言すればどうなるか……。
そんな証言は捏造だと言い張るだけと言えばそうだろうが、最初から私の口を封じてしまえばそんな面倒事自体が発生しない。
バズラール卿は馬鹿じゃない。
この場面で面倒ごとの起きる可能性を残すと考える方が可笑しいのだ。
グラヴィヴィスを巻き込みこんなところまで来て……私は殺されてしまうの?
突然の出来事に麻痺していた感情が、突然蘇った。
設計図も取り返せず、そのせいでエドーニアもユーシズも……フルロギもセ・セペンテスも、新造船が運ぶボルキナ国軍の軍靴に踏みにじられ血で穢されるかもしれないのに、なにも出来ずに私は死ぬの……?
私を捕まえているのはかなり長身の男だ。力強く上半身を抱え込まれているせいで私の両足は殆ど地面から離れてしまっている。
……グラントは私が今も安全な大公城の最奥にプシュケーディア姫とともにいると思っているだろうに、彼の知らないところで私が死んだりしたら……彼はどうするだろう?
この場に死体を放置してくれれば彼も私の死やその理由を知ることが出来るだろうが、殺されて沖合いで投棄されでもしたら……。
ぞっとした。
生死所在の分からぬまま自分がグラントを見失いでもしたらどうなるかなんて……想像しただけで気が狂いそうになる。
死にたくない。
昨夜アズロー邸で最後に見たグラントの顔が、急にはっきりと胸に蘇った。
身を捩ろうとするも鍛えあげられた体の揺ぎ無く安定した体幹はびくともしない。
こんな暗くて寒い吹きさらしの桟橋の、朽ちかけおんぼろ屋台の裏で人生を終えるなんていやだ……!
ここまで、恐らく私が拘束されて二~三秒の事。抵抗をはじめた私の体に巻きつく腕は先刻よりもきつく締まり、両の足はいまや完全に地面から浮いて離れてしまっている。
なんとかこの拘束を振り払いたい。必死に脚を動かそうとするのだが、何枚も重ねたパニエが邪魔をする。
思い切りこの男の脛に蹴りを入れたいのに……ゆらゆら脚を揺らすのが精一杯なんてあまりにも情け無いではないか。
私は死にたくないのだ。
グラントに逢いたい。
彼の姿はまるで目の前にいるかのように鮮明に思い出せるけれど、彼の温もりや彼の髪の匂いは吹き付ける冷たい海風と潮の香りの中に紛れ記憶の中にも蘇ってくれない。
なによりもあの低く響く素敵な……大好きな彼の声を聞きたいのに、彼の声が聞きたいのに……!
あまりにもそう強く願っていたせいだろうか。
「まったく……」
と。
グラントの呆れ声が聞こえた気がした。それも……すぐ耳元で。でもまさかそんな事があるわけがない。
空耳?
幻聴?
「フローお嬢さん。キミって人は……本当にとんでもない女だな」
ごく小さく潜められた声。だけど間違いなく彼の、響きとツヤのある声が耳朶をくすぐる場所から確かに……溜息混じりに……。
目の下までを覆っていた拘束者の手が少しだけ緩められ、私の顔を右側へと傾げさせた。
スティルハートの持ち込んだランタンの灯りと殆ど消えかけの残照、それに時折海の上に弾ける遠雷くらいしか光源はないけれど、ずっと屋外にいて暗さに馴れた私の目は、右肩の上からこちらを覗き込むその顔をぼんやりとだが視認することが出来た。
心臓が跳ねた。
いや、心臓はけっして跳ねたり飛んだりするものではないと分かっているけれど。だって……たった今の今まで瞼の裏にはっきりと思い出し描いていたその人が、少し険しく、だけど口元に苦笑いを浮かべてそこにいるのだもの。
ああ……瞼の裏の記憶とはちょっと違う。
昨夜出かける時に被っていた鍔広の皮帽子はグラントの頭の上には載っていない。この吹きさらしの桟橋でそんなもの邪魔でしかない事は、私もよく承知していた。それに、無精ひげも伸び始めている。
口元を押さえ込んでいた掌が外され、私は新鮮な酸素を胸いっぱいに吸い込んだ。
彼は自分の口元に人差し指を一本立てて、私に静かにするよう身振りで示す。
グラントに沈黙を指示されなかったところで驚愕が過ぎて声など出そうも無かったけれど、そう。今はそれどころじゃない場面。
グラントは屋台の横手にある潜り戸から私に屋台の内部に入るように誘導する。
戸口を潜る際少し手間取った。狭い間口、嵩張ったパニエが引っかかってしまうのだ。
……本当に何から何まで私ときたら隠密活動に向いていない。
膨れたローブの裾はグラントが力ずくで押し潰し、なんとか入り口から身をもがき入れることが出来た。続いて彼も大きな体を屋台の中へと滑り込ませ、私に覆いかぶさるようにして身を伏せた。
内部はとても窮屈だったけれど、ルルディアス・レイでグラヴィヴィスに押し込まれた櫃の中より夏場じゃない分こっちの方が幾分マシか。
まあ……あの時には私達に命の危険などなかったけれど。
風と波の音に混じり、二艘のボートがギイギイと力強い漕ぎ手によって近づきつつある音が聞こえた。それから……桟橋を急ぎ足で歩いてくる足音が微かに……。
馬車の御者台にいた男がこちらに向かって来たのだろう。
私達がさっきまでいた場所はスティルハートからは死角だったが、この男の歩いて来た方向からは丸見えになっていた筈だ。
屋台の中に隠れたのも本当にギリギリだったのだもの。あのままスティルハートを襲撃を敢行したら私は桟橋の入り口でこの男とかち合う事になっていただろう。
仮にスティルハートから設計図を奪い返しても、私の脚では男からは逃げ切れない。グラントが私を取り押さえてくれなければ危ないところだったのだ……。
回避出来た危険と今現在の状況への緊張で、激しく鼓動が煽る。まるで耳の奥に心臓でもあるように鼓膜が鼓動で震えた。
グラントが何故ここに今いるのかとか、彼は何をしようとしているのかとか気になることはたくさんあるけれど、今はそんな質問を彼にぶつけるに相応しい時ではない。
自分の心臓の音に混ざってグラントの胸も激しく打っているのが伝わって来た。
……この建物は『屋台』なのだ。完全な密閉空間なんかではなく、前面は商品を並べる台の高さで外部に開口している。片膝を冷たい床につけ、私に覆いかぶさるように壁に左手をついて身を伏せた彼の背が、なんとか台の陰になっているかどうかと言うところ……。
もしも御者台の男が奥の方を覗き込みでもしたら、中に人間がいる事は簡単に気づかれる。
グラントは半身を伏せながらも剣帯の下げた剣の柄に右手をかけている。
でもこの狭い空間、咄嗟に動くのは容易な事ではないのだ。こちらに気づかず男が通り過ぎてくれればいいのだが……。
自分の心臓の音が外にまで聞こえているのではないかなどと、あり得ないことが本気で気になった。
外の音と気配に気持ちと耳を研ぎ澄ます。近づいてくる足音には微かに金属的な重い異音が一定のリズムで混ざっている。
……これは腰に帯びた剣の音。
護身用に短剣を持つことはあっても、腰に段平を下げて歩く一般人なんてそうはいない。
桟橋の突端方向から聞こえるオールが金具に擦れる軋みや水音、人の気配の近さからボートは今まさに接岸しようとしているトコロまで来ている筈だ。それまで早足、一定の速度で歩いていた御者台の男の足音が至近に来て急に早まった。足音は本当に私達が隠れている屋台のすぐ手前。
もしも戦いになればグラントはこの男だけじゃなくボートで上陸してきた人間も相手にしなければならなくなってしまう。
グラントの四肢に緊張が漲るのがわかった。
まさか気づかれたか……と身構えるも、どうやらそれは杞憂だったらしい。
ゴンっ……と乱暴にボートの縁がぶつかる音に続き、舫い綱が桟橋へ投げ上げられる音が聞こえ、男は小走りに屋台の横を通り過ぎて行った。
「綱は自分がやる。……ここにあるのが水の追加と油、最後の荷だ。急いで船に積み込め」
どうやら彼は船を舫う為に急いだだけのよう。
ボートから何人もの人間が岸に飛び移る気配。波や風の唸り、遠い雷鳴ばかりで人の気配の薄かった桟橋が俄かに騒がしくなり始めた。
ガタガタ言う音はボートの船べりと桟橋を繋ぐ渡り板を架ける音だろうか?
グラントは床から膝を離して身を起こし、屋台の開口部から人の気配に溢れる桟橋突端方向を窺っていた。
私も極度の緊張で力の入らぬ脚を励ましつつ、音を立てぬようになんとか立ち上がる。
またも空に弾ける遠雷。海から吹きつける風に乗り、さっきよりも近くの空で雷光が弾けた。
青白く染まった私の視界は桟橋突端をそっと覗くグラントとは反対方向。ちょうど私達二人が入り込んでいるこの固定式屋台の潜り戸……桟橋の入り口側。ここの陰に隠れるまで私がいた木箱の山の後ろに、見覚えのある顔……ジェイドの顔が一瞬覗くのを見た。
いいえ、ジェイドだけじゃない。そこにはセ・セペンテスやユーシズの屋敷出入りする見知った顔が幾つもいたのだ。
薄闇に目を凝らして見れば、木箱の後ろだけではなく最初に私が物音を聞いた小型船の積載貨物の裏にも二人……三人。ボートに荷を積み込む男達からは死角になる場所に、何人もの人の影。
なんとはなし、グラントは大公城から抜け出した私を追ってここに来てくれたのだと思っていたのだけれど、この時になってやっとそうでは無いと気づくことが出来た。
私を追いかけここに来たのでは、こんな風に人を手配し配置することなんて時間的に出来るわけがない。彼がここに『現れた』のではなく、私が彼の敷いた布陣の中に『紛れ込んで』しまったのだ。
大公城の中で安全に護られている筈の私がこんな危険な場所にのこのこ現れたのだもの、彼に『とんでも無い女だ』と言われても仕方ないわ……。
私がここに現れ、彼がどれほど驚愕し慌てたことか。身が縮む思いとは……まさしくこの事だ。
後ろざま。足を忍ばせ屋台の建物から抜け出すグラント。
申し訳なさに胸を一杯にした私がそれに続いて出ると、グラントは耳元に唇を寄せ物陰に隠れて身を守るようにと私に小声で指示をした。
その直後だ。
「バズラール様……っ!」
桟橋の突端。
モスフォリアのスフォール王宮からこれまでずっと共に旅をしながら、一度も耳にしたことの無い情感的な声でその名を呼んだのは、スティルハート。
ボルキナ国の冷徹な元軍務大臣……『バズラール卿』。その名が出た瞬間から自然、私の全神経は外部の音を拾うことへと集中した。
昨夜彼が花嫁行列の襲撃や妨害への関与を示唆して以降、幾重もの紗の向こうを見るように、気配だけは感じながらもその存在をはっきり確認することが出来ずにいた人物がほんの目と鼻の先にいる……。
きゅっと胃の腑が縮んだ。
レグニシア大陸に対する壮大な野望を綿密で周到、狡猾な計画によりいま少しで果たすところまでもっていった人。
彼がどれほどの時間や精力をその計画に注ぎ込んだかは知らないけれど、凡人では全生涯全精力を注ぎ込んだところでそんな計画を実行に持ってゆくことすら出来ずに終わる筈。
「お逢いしとうございましたわ。バズラール様」
再び口を開くスティハート。私の立ち位置からでは見ることは出来なかったけれど、何者かがボートから桟橋へと素軽く飛び移った事が足音と微かに響いた鍔鳴りの音で分かる。
「息災だったか、イナンナ? こんな危険な役目をお前に……申し訳ない」
少し嗄れた……だけど力強い声。
アグナダ公国とリアトーマ国と言う二つの国の中枢の目を欺き、何年にも渡ってフドルツ山金鉱脈から金を不正に海外に……ボルキナ国とモスフォリアへと流出させた大事件の立役者。
フドルツ山金鉱の監査委員を務めていたメイリー・ミーの父、ラズロ・ボルディラマが自死を選ぶことになった原因を作った人物。
いいえ、老ラズロだけじゃない。監査委員やその周辺で命を失った人は少なくないのだ。
アグナダとリアトーマ国はフドルツ山を巡り今にも戦が始まる一触即発の状態に追い込まれたし、モスフォリアではフドルツ山から不正流出した『金』を資金源として、新造船が開発された。
それら全ての糸を裏で操っていたのがこの……ボルキナ国元軍務大臣バズラール……。
急激に喉が干上がり、手足がカタカタと震えだす。
実在の人物だという事は勿論分かっていた。
だけど……空に輝く星のように、それとも歴史書の中の偉人のように、その実存性を熱として感知出来る距離にこうして彼が来るなんて……。




