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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
80/97

『顔の無い花嫁』49

 ***


「わ・私……私……父やゲオルギの姉様達に、私が姫様の『侍女』として同行する事が実家やゲオルギにとって一番良い選択だって言われて、この国まで来てしまったんです。でも、や、やっぱり怖くなってしまって。も……申し訳ございません。まさかこんな大事になるとは思いもせず……わた……私」


 侍女エリルージュは自分の周囲を取り巻く兵やシザー卿を血の気の失せた顔で見上げ、震えながら言った。


「違うんです! 悪いのは自分です。自分が姉らが彼女や彼女の実家にそんな圧力をかけていたと気づいてさえいれば……。あの、決して王女や故国、勿論このアグナダ公国にも迷惑をかける事はいたしません。だからどうか……どうかこのまま自分達をお見逃しいただけないでしょうか!?」


 ガタガタと震えるエリルージュを庇い、彼女の前に回りこんだのは低い背にガッシリとした体つきの生真面目そうな貴族青年だった。


 彼女らに『設計図』の所在を聞いても望むような答えは返ってこないだろうことを、シザー卿はこの時点で半ば確信していた。

 大公城を抜け出した侍女にも彼女と合流したゲオルギ青年にも、一切の『身構え』が無かったのだ。


 彼らが発見された場所はセ・セペンテスで待ち合わせ場所として有名な二頭のユニコーン像の噴水前。……待ち合わせ場所がありふれすぎるほどにありふれた観光スポットであることは、まあ置くとして、心に後ろ暗い部分のある逃亡者であれば合流後は速やかにその場から立ち去るであろうに、彼らは感動の再会を果たした後、まるで普通の恋人同士が逢瀬を楽しむが如く噴水前に建ち並ぶ祝祭日の露天や大道芸人の技に目を遊ばせ、楽隊の音楽に耳を傾けのんびりと周辺を散策していたトコロを捜索の兵らに発見されたのだと言う。

 彼らを確保するべくシザーが駆けつけた時も、二人は人ごみの中を分け入って来る兵士らが自分達を捕まえに来たとは考えもせず、何事が起きたかと好奇心に満ちた様子で逃げもせずに眺めていたのだ。


 大体にしてエリルージュの身形は城を出た時の姿のまま。ゆらゆら揺れる噴水のような駝鳥羽の帽子飾りはバルドリー卿夫人の描いた手配書の人相書きにある通りで、人ごみの中にあっても見つけるに容易い。しかも部下の報告によればゲオルギ青年は市内の大きな宿に実名で宿泊している事が明らかになっている。

 ……これが国家を揺るがす重大犯罪を犯した人間が取る行動である訳が無い。


「見逃すわけには行かぬ。……とりあえず二人とも大公城まで同道願おう。……無駄な抵抗はなされぬことだ」


 抵抗も何も……怯えきった娘も彼女を庇おうとする青年も、兵やシザーに逆らう素振りなど微塵も無く、大人しく誘導先の護送用の馬車の中へと乗り込んだ。


国許くにもとの生家か……どこかから何か手配が回っていたのですか……? しかし自分は自分の生前贈与された財産以外には不当に持ち出してはいないのです。ただ家を出奔しただけで、誰にも迷惑などかけていない筈なのに……!」


 事態を飲み込めず、自分達が捕まった理由に対して誤解しているらしい青年が訴えかける言葉を、シザー卿は片手を挙げて無言で制した。

 エリルージュと言う娘はただの逃亡侍女に過ぎず、目の前の青年もただの駆け落ち相手に過ぎぬだろうと承知しつつ、一応の確認の為にシザーは大公城から持ち出したものは無いかとエリルージュに聞いた。


「あの……あの……。私、プシュケーディア姫様から貸与たいよされたお仕着せを広間脇の使用人控え室に置き去って来てしまったのです。あれは王女にお返ししなければならない物でございますのに」


 申し訳なさそうに言うエリルージュ。


「いや、そうじゃなく……。お前は王女の花嫁道具の部屋から何かを持ち出しはしなかったか?」


 重ねての問いにエリルージュは大きく目を見開いて真っ青な顔を左右に振った。


「め……滅相もございませんっ! 何故……!? 私にそんな事できるわけがございません! 自、自分の私物以外にお城から持ってきたのはスティルハートさんがくださったこの帽子と襟巻きくらいで……!」

「くれた? 『それ』を、スティルハートと言う侍女がお前に!?」

「あの……いいえ、その。ス……スティルハートさんは悪くございません。私がいけないんです。彼女はただ私の事を本当に親身に考えてくれただけで……」


 エリルージュの話によれば、スティルハートと言う侍女は大公の城を脱出する為の手助けとしてエリルージュに自分の帽子と襟巻きを身につけさせ、『貴族らしく振舞うように』……との知恵を与えて彼女を部屋から送り出したのだとか。


「とりあえずこの二人は大公城に」


 シザー卿は馬車から降りるとそう指示を出し、集まった野次馬達に速やかに進路から散るように言うと自分の馬へと大急ぎに跨った。


 ……これは、どう考えてもシザー卿にとって『不味い事態』であった。

 セ・セペンテス到着の前夜……つまり昨夜、花嫁行列に対して再三行われた妨害がボルキナ国元軍務大臣バズラール卿の『陽動』であるとのバルドリー侯爵の主張を、彼は一笑に付してしまっている。

 だがしかし、設計図の盗難事件が実際に起きるまではグラント・バルドリーの主張など、誰が聞いても荒唐無稽な三文小説の筋立てか、性質の悪い妄想の類と聞き流したに違いないのだ。

 勿論シザーは名目上の花嫁行列総指揮官ジョルト卿と協力し、プシュケーディア姫を無事に大公城に案内し送り届ける責務はきっちり果たしてはいる。……少なくともこの部分には誰にも文句を言われる隙は無い筈だ。

 だが……そもそもエリルージュと言う侍女が容易く大公城から逃亡出来たのは、大公城出入り口周辺の警戒を行おうとしているバルドリー侯爵らの動向を知りながら、彼の協力者らの足止めをしたシザー卿の行為が遠因となっていた。もしも調査が入れば、花嫁行列警護の軍人達の解散式で卿がうっかり口にしたグラント・バルドリーに対する批判的発言や、彼へ協力しようとしていた一部騎士や兵らに対する引き止め行為などが明るみに出る可能性が高い。


 ……いま少し状況を見てから動くべきであった……。


 馬上、部下らを苛立ちのままに一睨いちげいし、シザー卿は侍女スティルハート捜索への合流を宣言して馬首をリネ方面へと巡らせた。


 卿がエリルージュ捜索に名乗りを上げ、先陣を切り乗り出したのには自分の失態を埋め合わせる意図もあった。しかし、侍女エリルージュに続き、今一人の侍女スティルハートが大公城から抜け出すなど、彼にとっては予想外も良いところ。


 バルドリー侯爵夫人とブルジリア王国王弟グラヴィヴィスが侍女スティルハートを追って城外へ出て行ったとの情報は、比較的早い時点で彼の元に届いてはいたのだ。

 昨夜の時点でグラント・バルドリーが訴えていたのは、ボルキナ国の元軍務大臣の恐るべき周到さ。

 二人目の侍女が城から行方をくらましたという話を聞くに至り、シザー卿もこの件の『本命』が侍女エリルージュではなくスティルハートであろう事を予測した。

 だがまさか、エリルージュ捜索の先鋒として出発した自分が現場を放り投げ勝手に目標を変えるわけにも行かず、こうなれば一縷の望み……と奪われた『設計図』がエリルージュ側にあることを願い捜索を続行するも、結果はあの悲劇の恋人同士を発見すると言うモノ……。

 大公城に到着後、エリルージュと彼女の駆け落ち相手は手荷物や身につけた物を調べられることになるだろうが、恐らくは彼らから『設計図』など発見されることは無いだろう。失地回復を狙った彼の行動は空振りとなってしまった。


 ……まったく腹立たしいことこの上ない。

 この上はなんとしてでも今一人の侍女、スティルハートの身柄を自身の手で確保するか……いっそ女の背後にいると言うバズラール何某なにがしを発見捕縛でもせねば、今回の件で無駄に評価を上げそうなグラント・バルドリーとの間の差が埋まらないではないか。


 シザーは国を挙げての慶事にわき、祝いに賑わい街に溢れる人々の列をもどかしい思いでかき分け進む。


 ……グラント・バルドリー……どこの国から流れてきたとも知れぬ傭兵くんだりが、何が偉そうに『侯爵』などを僭称しおって。歴史と由緒ある家系がいくつも絶え消えたあの戦さえなければ、あのような卑しい出自の者が貴族名簿に名を連ねるなどあるわけが無いものを……。


 ───運だけはやたらと良い一族。

 それがシザー卿や彼の生家、デュグクフの家の人間のバルドリー家に対する評価であった。


 運が良く、しかも自己顕示欲の強い出しゃばりな男が。

 ……この騒動を予測していただと?

 ……ただのまぐれ当たりをさもさも自分の手柄のように演出する。


「シザー卿。やはりグラヴィヴィス殿下らはリネへの道を北上して行った模様です」

「……先行の責任者は誰だ?」

「カルカロー卿の麾下、騎士エズベグ殿と聞きましたが」

「ああ、カルカローのところの青二才か。……よし、急ぎ追いつき現況を聞き出すんだ」


 人の多い市街地を抜け出しリネへ向かう街道へ入ると、シザーら一行は馬の尻に鞭を入れ冬の空気に乾いた石畳に埃を蹴立てて走り出した。リネ方面へと家路を急ぐ人々は轟く馬蹄に驚き、何事が起きたかと慌てた様子で左右に割れて道を譲る。

 なんとしてでも先行のエズベグに追いつき、侍女スティルハートを追ったバルドリー卿夫人らの動向を聞き出すのだ。

 カルカローは爵位も軍人としての地位もシザー卿の下。さらにその麾下きかにある騎士エズベグには現況報告を要求するシザー卿に逆らう権限は無い。


 ……それにしても……グラント・バルドリーの妻はどうなっているんだ?


 レレイス公女の輿入れに同行したグラント・バルドリーの一目惚れが二人の馴れ初めとされているが、歴史のある血統を身内に欲しいバルドリー家と、リアトーマ国内では貰い手の無い不具の妹を持て余したエドーニア領主との間で打算的に取り決められたものだろうと、シザーは思っていた。

 しかし、彼のそんな認識も今は若干の揺らぎを見せている。


 由緒ある家柄の貴族女はグラント・バルドリーの妻のような常識外れな行動など取りはしない。

 国家的犯罪を犯している人物を諜報員よろしく追尾……しかも他国の王族を巻き込んでそんな危険な真似など、淑女の行動であるものか。

 ……ドルスデル侯爵夫人はあの女を随分と買っていたが、あの年代の奥方達の一部はサラフィナ・バルドリーに異常に心酔していて手に負えぬ。

 何が……女剣士サマ……だ。ただの野蛮で粗暴な女ではないか。

 グラント・バルドリーの妻の行動もあの野蛮な女の仕込みか?

 血統こそリアトーマ有数の歴史ある家系ではあるが、あのみっともないびっこ引きめ。……まったく、いくら血統が良くてもとんだ食わせ者だ。

 下賎な傭兵上がりと似合いの夫婦ではないか!


 海上に不気味な雷光が閃く日暮れ時、シザーら一行は港への分岐路近くで身を潜めるように周辺を警戒していた、騎士エズベグらを発見した。

 馬を降りることなく鞍上あんじょうから歳若い騎士に現況の報告を求めるシザーに、騎士エズベグは何か言いたそうな様子を見せながらも求められるまま、現在掴んでいる状況を報告する。

 どうやらバルドリー侯爵夫人フローティアらは、この先のリネ港湾地帯へ向かったらしい。


「市街地と港湾地区の分岐近く、侯爵夫人と王弟殿下らしき男女の目撃情報が入っております。証言によれば、現在侯爵夫人と王弟殿下と見られる人物は、別行動をとっている模様で──────」

「どういうことだ?」

「──────は。王弟殿下は港湾事務所などが立ち並ぶ方面へ街道を直進したようですが、バルドリー侯爵夫人の方は途中馬を降りて桟橋方面へ向かったらしく。……証言をした倉庫番の言に拠れば、桟橋方面へは侯爵夫人が向かう前にも女が一人馬車から降りて行ったとか」


 フェスタンディ殿下の婚儀前日だ。

 物見遊山。リネの街からも多くの人が吉事に賑わい沸くセ・セペンテスを見物に出かけ、夕刻、馬車や馬で帰宅して来たようだが、ホルツホルテ海を渡る航路が使えぬこの季節、リネ市街への出入りはあれど港湾地区へ向かう者は決して多くはない。


 倉庫番の男は自分の任された倉庫の二階の宿直室の窓を開け放ち、海と街道とを眺めながら煙草を楽しんでいたのだそうだ。

 市街と港湾地区との分岐の十字路。馬車を降りる女の姿が彼の目を引いたのには理由がある。


 女の乗る貸し馬車の返却口が港湾地区内でも港湾管理事務所などの建ち並ぶ直進方面にあることは、ここで長年仕事をしている男は無論承知していた。だから、貸し馬車が街道を直進して行くのは今日だけでも何度も見かけた珍しくも無い光景だった。

 だが、降りた人間が市街ではなく海側に左折……桟橋方面へ歩いて行くのは如何にもおかしな話だ。この季節にホルツホルテ海を渡る船はないのだから。

 いや、ホルツホルテ海を岸沿いに近隣の港まで行く船もあることはある。だが、夜になろうと言う時間に岩礁もある沿岸指して出航する船などありはしない。


 港がほぼ休眠状態にあるこの時期、しかも日も暮れようと言うこの時間にあの女は桟橋に一体どんな用があるのか?

 ……と、倉庫番が気にするのも当たり前の事。


 そこへ来て、さらに彼は二人乗りの鞍に跨りセ・セペンテス方面から来た男女のうち、脚を引きずった女が周囲を気にした様子で先行の女を追うように桟橋へ行くのを目撃したのだ。

 これが印象に残らぬわけが無い。


「……王弟殿下と思しき人物に関しては、今現在部下が湾岸事務所方面へ確認に向かっております。殿下と接触出来ましたらもう少し詳しい現況が明らかになるかと」

「だが、侍女はバルドリー夫人が追ったのではないのか!?」


 肝心なのは『設計図』の在り処。それに……グラント・バルドリーの推測が当たっていればだが、その背後にいると言うボルキナ国の元軍務大臣の所在と動向。


 『設計図』を盗み出したと思しき侍女スティルハートを追ってグラント・バルドリーの妻が桟橋方面に行ったと言うのに、何故このエズベグと言う騎士はこんな場所でもたもたしているのか!?


 苛立つシザーの心を敏感に察知し、彼の跨った馬がバタバタとその場に蹄を踏み鳴らした。


「桟橋方面にも部下をやって状況を見ております。……が、この件に関して城からの追加情報があり、バルドリー侯爵と卿の率いる私兵らが桟橋周辺に出向いているとの事。下手な動きで卿の邪魔をするわけにも……」

「──────何!? バルドリー侯爵が!?」


 強引に馬を治めるシザー卿の胸に、またぞろあの出しゃばりな成り上がり者が……と言う怒りと焦りが生じる。


「あ……シザー卿。折り良く桟橋方面に探察が戻ってきたようです。おい、状況を報告しろ」

「はい。バルドリー侯爵夫人が桟橋に向かったのは間違いありません。それに、大公城から失踪の侍女も。現在、女の合図で海上に停泊している大型船からボートが二艘、桟橋に向けて航行中で、程なく接岸を──────」

「それは……バズラール卿の手の者か!?」


 暴れる馬を強引に治め、シザーは上ずった声を上げた。


「運よくバルドリー侯爵側と接触が出来ましたので卿側の見解を聞きましたが、バズラール卿自らが出向いて来ている可能性も高いと」


 北西に目を向けると遠くで閃く雷光が、黒々と海上の大型船と海へ伸びる桟橋のシルエットを照らし出した。

 一瞬だが青白く照らされた海の上、今まさに接岸しようとしている小船の姿がシザー卿の目に映ったような気がした。


 桟橋付近にはグラント・バルドリーが私兵を待機させていると言う。


 こんな場面にまで運の良いあの傭兵上がりは手柄を自分の物にしようと出しゃばって……。

 だが、この事件の黒幕、バズラール何某はなんとしてでもこの手で身柄を拘束確保せねば。


 シザーには強い焦りがあった。


「こんな場所でぐずぐずしている場合ではない……行くぞ!」


 ほぼ力技。桟橋方面へと馬首をめぐらせるべく手綱を引くシザー卿。

 両の前肢を上げ乱暴な乗り手への抗議の意を伝える馬に、内腿での締め付けと容赦の無い叱責。体を被せての体重の移動で言う事を聞かせる。


 グラント・バルドリーの妻の動向の報告はなされなかったが、ブルジリア王国王弟はエズベグの部下が接触を図っているとの事。

 海以外に逃げ場の無い閉塞的な空間である桟橋とは違い、港湾事務所の方面には港を護る警備の人間もいる。王弟殿下に関してはその身の安全に憂いはあるまい。桟橋に向かったバルドリー夫人の方は……グラント・バルドリー本人かその私兵がなんとでもするだろう……。


 今この国家の一大事に最も優先するべきは、奪われた『設計図』の確保。

 侍女スティルハートがボルキナ国元軍務大臣と繋がっているのなら、事件の首謀者ごと『設計図』を確保するのはグラント・バルドリーではなくこのシザーでもなんの問題も無い。


 あの成り上がり侯爵が世に知れた剣豪の孫であろうと、軍人としての経験も無い素人にこの場を任せては、設計図も首謀者の身柄も全て失う結果になりかねぬ。


「シザー卿……!? お待ちください……っ」


 彼なりの理郎武装は完成した。

 騎士エズベグの驚愕の叫びを聞き流し、シザーとその部下らの一団は石畳に蹄の音を響かせて桟橋へと向かって行った。


 彼らの現地への参戦が桟橋上の状況に思わぬ混乱を呼ぶことになるのは、この少し先の話だ。



 ***



 後に全てが終わり冷静に思い返せばこそ分かったコトだけれど、私と私が巻き込んだグラヴィヴィスの身の安全が『優先事項として配慮されている』……そんな当たり前の事に、その時の私は思い至らずにいた。

 どういう事かと言えば、大公の意を受けた兵士らが私達を追い馬を駆り、颯爽とここに登場してくれない事についてだ。


 人で混雑したセ・セペンテスの市街を抜けるまで結構な時間がかかった。それに、リネの港湾地区へ至るまでの街道を小一時間も移動していたのだもの、私には考える時間が無かったわけではない。

 なのに、私は兵士らが私達の安全を確認した上でなければ動き難いという当たり前の事を考えもしなかった。


 ……これまで幾度も危険な目に遭い危地を乗り越えて来たと言うのに、どうしてこんなに私は間抜けなままなのか。だいたい兵士らが砂塵を巻き上げ私達を必死に追いかけて来たりしたら、スティルハート達だってそれに気づいてどんな逃げ方をするか分からないと言うのに。

 でも、こんなことは後々思い返して腑に落ちたコトだ。


 殆ど夜闇に沈みつつある桟橋の上、冷たい海風にローブやマントの端が巻き上げられ身を潜める固定式屋台からはみ出し翻らぬように押さえつける私には……到底そんな当たり前の事を当たり前と感じる心の余裕など、ありはしない。


 ……とにかく、時間が無かった。

 チラリと振り返り見た桟橋の入り口には、人の姿は見えない。御者台の男の姿も無いが、私を助けに来る兵士の姿も見えず。

 このままでは大型船からこちらへ向かっているボートが桟橋へと到着してしまう。……それに、馬車を返しに行った男だってもう直ぐそこまで来ているかもしれない。


 私は追い詰められていた。

 設計図がこのままスティルハートからバズラール卿の手に渡ってしまったら、アグナダ公国の威信が完全に失われるだけでなく、卿が無事海を渡りボルキナ国が新造船の技術を手中に収めれば、レグニシア大陸の平和と安全が脅かされる事態になるのだもの。


 このまま手段がありながら手をこまねいて戦の始まりを待つか、それとも無謀な賭けに出るかの二択。


 本当にどうして今この場にいるのがこの、おおよそ戦いや暴力には向かぬ私のような人間なのだろう……。

 グラント……グラント……私、どうすればいい??


 自問自答しながら私は朽ちかけの屋台から一瞬顔を出し、スティルハートの後姿と目に入った景色とを瞼の裏へ刻み込んだ。


 『どうすればいい』……も何も、考え思い悩む時間なんて残されていない。出来ることがあるのなら、しないわけには行かないではないか。そうでなければ……『戦争』が始まる。


 多くの血が流され私が必死に守ろうとしたエドーニアの美しい景色も、グラントやサラ夫人、カゲンスト・バルドリー卿が豊かな実りある大地へと育てていったユーシズの大地も、このリネやセ・セペンテスも……全てが醜く悲惨な戦いの中に汚されてしまうのだ。


 眼裏に刻んだ景色を頭の中、しっかりと見つめ私は考えた。

 桟橋の突端に立つスティルハートの意識は海上のボートに釘付けだ。彼女の横には幾つもの大きな樽が積み上げられている。

 たぶん……少しだけ身を低くして行けば桟橋より低い海上から私の姿はスティルハートの後ろに到達するまでぎりぎり見つからない筈。

 風は海から陸へ向けて吹いている。低く唸りを上げる波と風、それに遠雷の音が私の足音を隠してくれる……と、そう信じよう。


 マントの中から私は氷のように冷たい金属の杖を引っ張り出し、両手に握り締めた。そっとスティルハートの背後に近づいて、この杖を思い切り振りかぶるのだ。

 上手く彼女が昏倒してくれれば良いが……。上手く行かなかったとしても、もう思い悩む時間は無い。


 覚悟を決めるしかない……。


「グラント……力を貸して……」


 ……私に勇気を。


 私は軽く目を瞑り口中に小さく呟いて、胸いっぱいに息を吸い込んだ。


 さあ……ボロボロの屋台の陰からスティルハート向けて踏み出さなければ。


 そう思った瞬間の事。


 ──────背後に人の気配を感じた。

 振り返る余裕など無い。気づいた時には既に私の体は何者かにがっしりと捕まえられ、身じろぎも出来ぬように拘束されていた。叫びをあげる隙も皆無。




 大きな手が口どころか鼻までもぴったりと覆い、私は息も出来ない状態にされてしまった。



 





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