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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第一章
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『木の杖と初夏の花嫁』6

 見送りも無しに出発する事になったシュトームには申し訳ないけれど、とても呑気な朝だった。

 かつて住んでいた私の館で誰に気を使う事もなく自由に起居し、馴染んだ家具に囲まれて過ごすことのこの気楽な心地よさ……。

 母様や兄上の住むエドーニアの本邸よりも手脚を伸ばし楽に出来る事実が微かな罪悪感を抱かせるが、明らかに心に掛る重圧感が違うのだ。


 それに、私は夕べの内にシェムスの言質を取る事に成功していた。

 彼への交渉は明日になってからにすれば良いのでは?

 ……と、私の移動疲れを気遣ったグラントは言ってくれたけど、この事がはっきりしない内にはゆっくり休むなんてコト、出来そうになかったのだ。


 ……まあ……はっきりしても、誰かのせいでゆっくり休むことは出来なかったけれど……。


 館に到着した馬車は私達と荷物を降ろした後、裏にまわして馬から馬車を外す事になっている。

 厩番であるシェムスがその作業に当たるのだが、私は御者とグラントに断ってそのまま馬車に乗っていた。

 馬車を外す作業を始めたシェムスの前、馬車の扉を開けて顔を出した私にどれだけ彼が驚いた事か。


「お……お嬢さま……」


 四角い額の厳ついシェムスの顔が懐かしかった。

 私は彼の顔を見るのが嬉しくて、笑みを浮かべる。


「シェムスお久しぶりね」

「……お元気そうで……何よりです」


 あまり表情の変わらない彼の顔で、その灰色の瞳だけがほんの僅か和むのが灯火の下に見て取れた。


「貴方も元気そうで良かったわ。あのね、兄様やお母様には既に了解をいただいているのだけれど、今日こうしてここに来たのは……貴方にまた前のように私のトコロで働いてもらいたいからなの」


 馬車の中、私はさんざん彼をどうやったらアグナダ公国へと連れて行けるのかの算段をした。

 グラントがあの『グラント』である事の言い訳をどうしようかと、頭を悩ました。

 だけど……。


「お嬢さまの所……って……そりゃ……」


 絶句する彼が二の句を継がぬうち、私は畳みかけるように話を続ける。


「いま私は貴方もご存じのとおりアグナダ公国に住んでいるわ。グラントのトコロよ。……貴方も何度も翡翠かわせみ亭で会っているでしょう? 『あの』グラント」


 そこまで言って言葉を切ると、シェムスの灰色の目が大きく見開かれた。

 ……シェムスと言う人は言葉数は少ないけれど、決してバカな人間ではない。


「お嬢さま……それじゃ、お嬢さまのお母上様やご領主様は騙されておいでだと言う事ですか……!?」


 何秒間かの間、私は黙ってじっとシェムスの目を見つめた。

 色々な嘘が頭の中に過ったけれど、やっぱり嘘をついてで誤魔化すのだけは嫌だ。


「いいえ。あのグラントがアグナダ公国の侯爵家、バルドリー家の当主なの。……私も、兄様も母様も誰も騙されてはいないわ。だけど、なにがどうしてそうなっているのか……ごめんなさい、どうしても言うわけには行かないのよ。この事では私、シェムスには顔向けできない程の心配と迷惑を掛けてしまったわ。何度貴方に謝っても足りないくらい」


 シェムスも私の目を真っすぐに見つめ返してきた。きっと私の言葉と瞳の中に嘘が無いか、その灰色の実直な目で推し量っているに違いない。

 やがて角ばった彼の肩から、少しばかり力が抜けたように見えた。


「……分かりました。自分が知っているお嬢さまは人をたばかる事を好しとするような人間じゃあございません。だけど……お嬢さまのトコロで働くと言うのは……」


 国を離れ、海を渡って自分の知らない場所へ行くと言うのは勇気のいる事だ。私にはシェムスが尻ごみする気持ちがよくわかる。


「シェムスのお母様がずっと前に亡くなっていた事……聞いてよ。ごめんなさいね、私はそんな事にも気付かない未熟な雇用主だったわ。……でも、だからこそシェムスに傍にいて欲しいのよ。……勿論、あなたがもう私のようなあるじの元で働くのは嫌だと言うのなら、私にこれ以上お願いする事は出来ないし、そう思われていたとしても仕方が無いくらい駄目な主だったのだけれど……」


 もしもここにグラントがいて私がこんな『ずるい』話の進め方をするのを見られたなら、彼は馬車の中でもさんざん言っていたように、私の事を『怖い』とか『やり手』だとかと面白がってバカにするかもしれない。

 だけど、私は本当にシェムスに……私の近くに来てもらいたいのだ。

 そして……彼が歳を取り、働けなくなった後も彼の人生が安楽なものになるよう……出来る限りの手を尽くさせて貰いたい。

 だから多少の『ズル』は……させてもらうつもりだ。

 そう言ったら彼は反論するかもしれないけれど、こういう交渉の仕方はグラントを見ていて覚えた様な気がするのだけど……。


「そんな……お嬢さま、とんでもない話でございます……」


 へりくだり自分を卑下する私に、シェムスは動揺して小刻みに何度も首を横に振った。


「シェムスが厩番の仕事は嫌いじゃないと言っていたのは覚えているわ。馬が好きだって言っていたわよね。……あのね、向こうにも大きな厩があってよ。たくさんの立派な馬がいるわ。私……前までのように、シェムスの御す馬車でドライブがしたいのよ。シェムスが御す馬車に乗っていて足や腰が痛んだ事は一度も無いの……でも今は……。いいえ……なんでもないわ……。大丈夫よ。いいえ本当よ……。皆、良くしてくれていることよ。……ダメね私、いつまでもこんな甘えた事を言っては」

「お嬢さま……」


 あざとく同情を引く言い種に向けられる心の底からの心配顔に、微かに痛む良心を……今は黙殺しなければ。


「この国に誰か置いては行けない人がシェムスには、いて?」


 彼の肉親が今は結婚して家庭を持つ彼の姉家族しかいない事を、私は知っている。

 彼自身には家族は無い。


「いいや……そんな人間はおりはしませんが……ご存じの通り自分はこの歳まで一人者ですから」


 彼の口からその言葉を聞いて、私は強引に話しをまとめる決意をした。


「だったら、来てくれるわね? グラントも貴方に来てもらえれば安心だと言っているのよ。あのね……ちょっと前に私、ブルジリア王国と言う国に行っていたのだけれど、そこで人浚いに浚われかけたの」


 実際には『浚われかけた』のではなく『浚われた』のだけれど、まあ……それはいま言う必要はないだろう。


「……っ!! んな……っ!?」


 妙な声を出して絶句するシェムスに構わず、私は言葉を続ける。


「もしもシェムスが私の従者としてついてきてくれてたなら、あんな危ない事は起きなかっただろうって、グラントも言っていたわ」


 ブルジリア王国へ行った時、私は商人であるグラント・バーリーの妻として同行したのであり、そんな身分の者達に従者などついていたら不自然だったことを、私はあえて伏せていた。

 ……だけど、嘘じゃない。

 私は嘘をついているわけではない。


「まさかお嬢さまがそんな危ない目に……どうして……グラント……様は、一体どうしたってお嬢さまをそんな危ない場所に従僕も連れずに連れ出したり……」


 普段こんなに言葉を発しないシェムスだがこれには相当に驚いたらしく、口中にぶつぶつと呟き暫く経つと何か覚悟を決めた表情で私を見返してきた。


 グラントごめんなさい。ちょっと貴方を悪者にしてしまったけど……許してくれるわよね。

 ……もうひと押しだわ……。


「それでね、近いうちにまたその国に渡らなければ行けない用事があるのよ。……ねえ、シェムス?」


 気弱そうに見える表情を作る事に少しばかりてこずった私だけれど、シェムスにはその表情の嘘っぽさに気がつかれずに済んだようだった。


「あい……分かりましたお嬢さま。自分でお役に立てるんでしたら……。近いうちにお屋敷を辞してお嬢さまのところへ参じさせていただこうと思います」


 彼の口から重々しい口調でアグナダ公国へ来るとの言質を取る事に成功した私は、思わずニッコリと満面に笑みを浮かべてしまった。

 嬉しかったとは言えこんなにあからさまに喜ぶのはうかつだったかもしれない。

 ……と、内心慌てたが、どうやらシェムスはその笑みを私が心から安心してのものと解釈してくれたようだ。

 何とも言えない不憫そうな、優しい灰色の目でこちらを見るシェムスの気持ちが変わらぬうちにサクサクと話を進めるべきだろう。


「……ありがとう、シェムス。だったら明日には荷物を纏めに屋敷に戻るといいわ。さっき言った通り、お母様達の許可はとってあってよ。三日の後には私達アグナダに向けて出発するから、その時に一緒に来てくれるわよね?」

「え? いや、お嬢さま、そ……そんな急に……」

「急かもしれないけど……明日の朝、私達に随行してくれているシュトームは用事でいなくなってしまうのよ。そうしたらグラントと私と……それに侍女のテティだけになってしまうの。ホルツホルテから出る船の治安はいいけれど……ここから港まで三人きりと言うのは、さすがに少し不安だわ……」


 ……貴族の夫婦に侍女一人。

 国での階級を考えればこれは護衛や従僕も連れずにとんでもない話しと驚かれるだろうけれど、グラントは強いし場馴れも旅慣れもしている。

 本当のところ別にどうということもないが、シェムスにとっては充分に衝撃的な話だったと思う。

 もしかしたらシェムスはグラントの事を『侯爵』とは名ばかりで、まともな従僕を雇う事も出来ない力の無い貴族だと思ったかもしれないけれど、どうせ向こうに行ってしまえば誤解を解く事は出来るし。


 ……まあ……構わないだろう。


「……なんてこった……。あ、いや失礼しました。仰る通り明日にでも屋敷にお暇請いとまごいと荷づくりに向かわせて貰います。必ず、直ぐに戻ってきますから」


 下手に考える時間があると私の言った事の粗が色々と発見されてしまうかもしれない。

 だけど……正直で嘘をつかない彼の事だ。

 一度自分が「行く」と私に断言したのだから、これを撤回する事はあり得ないだろう。

 私はシェムスの手を借りて馬車を降りると、象牙の杖を手にホクホクとした満足顔で懐かしい館へと入ったのだった。



 エドーニアの屋敷での出来事は心踊るものばかりでは無かったけれど、久しぶりの帰郷は概ね楽しいものだったように思う。

 以前とは状況が変わり、改めて……お互い警戒しなくて良い相手としてグラントと私の二人、馬を並べて歩く湖沼地帯の空気は爽やかで優しく、穏やかだった。


 新緑の天蓋から零れ落ちた緑の光が揺れる泉水はあくまでも冷たく、青く澄んで、大きな湖の水辺の枝にはコバルトブルーの翼に錆色の腹が目にも鮮やかなカワセミが止まり、または水面近くを低く飛びながら澄んだ声でさえずっていた。

 昼食を摂りに立ち寄った「翡翠カワセミ亭」には、以前より少しふっくらしたラウラが二人目を宿したお腹をものともせず、クルクルと機敏に立ち働く姿があった。


「まぁフローお嬢さんじゃありませんか! それに、グラントさんも! まぁ……お元気そうでなによりです。最後にお会いしたのはもう去年のお話になるんですよね。あの時はこの子に、お祝いを頂戴してありがとうございました」


 『この子』と言う時にラウラが手ぶりで示した先……厨房のマスターの背に負ぶわれた愛らしい赤い頬の子供の姿があった。

 ラウラの夫であるトレロは彼女の結婚披露の宴の席で一度見たきりだけれど、赤ん坊は見事なまでにトレロの面影を無視し、ラウラの母でありこの翡翠かわせみ亭の女将であるエッダに生き映しだ。


「ラウラが結婚して家を出ちまったらさぞかし淋しい事だろうと思っていましたけど、お嬢さん。毎日昼間はラウラがこうして子供連れで手伝いに来てくれますからね。淋しいどころか、前よりもにぎやかになってますんですよ」


 マスターの背に負ぶわれた子に頬を付け、エッダは幸せそうに笑う。

 夜はさすがに子供連れで店の手伝いにラウラが来ることはないようだけれど、近所に住むと言うラウラの友達の妹が店の手伝いをしているようだ。


「明るくってそりゃもー良く動く子なんですよ。口と同じだけ身体を動かせるってのは、こう言う仕事をしてるもんには大事な資質ですからね」


 両手に何枚もの大皿を器用に乗せ、昼の食事を摂りに来た客達の元へ足を運びながらエッダがこう言うと、たいそう説得力がある。


「どんな子かしら。今日はお昼にここに来たから夜は館で食事を摂るでしょう? 明日はお弁当を持ってちょっと遠出して……夜にでも寄ってみる?」

「明後日の朝こっちを出発するんだ。キミが今、飲み過ぎないように自分を律することができるかどうかで判断しようかな」


 冗談めかしてグラントが笑った。


「まあ失礼ね! 昼間っからそんなに飲んだくれたりしなくてよ。……そうね、でもちょっとだけ冷えたエールを頂くわ。そのくらい構わないでしょう? グラントもいかが? ……じゃあ大きいジョッキに2杯下さるかしら。ねえラウラ、今日は何がお勧め?」


 ラウラは店の奥へとエールのオーダーを告げた。


「ちょうど春鱒が季節ですよ。それにルッコラにマスタードの葉っぱにエンドウ豆。肉料理なら冷たいローストビーフとミートローフ、いつもの牛の頬肉の煮込み……」

「じゃあ私は春鱒のフライ……それにルッコラとベーコンのサラダとライ麦パンを頂くわ。パンの上に溶かしたチーズを乗せてね?」

「俺は鱒の酢漬けとミートローフを貰おう。それにエンドウ豆のクリーム煮と、胡桃くるみのパンに焼きベーコン」


 大きな屋敷や城で食べる雅やかで上品な料理も美味しいけれど、こういう店の飾り気の無い素朴な味はそれに勝るとも劣らないと思う。

 美味しい物を美味しいと感じながら食べ、素晴らしいとは言い難いけれどそれなりのお酒を楽しく……ほどほどに飲み、綺麗な空気と景色の中を大好きな人と過ごす。

 また暫くは目にする事の叶わない『フドルツ山の西側』の美しい景色を目に焼き付け、シェムスを連れた私達はアグナダ公国へと戻る為馬車に乗り、街のあちこちで水色のリボンの揺れるホルツホルテからアグナダ公国へ帰る船に乗り込んだ。


 本当に伸び伸びと過ごした数日間だった。

 だけど、アグナダで何ものにも動ぜずしっかりと屋敷を護ってくれるサラ夫人に再び会えるのは嬉しい事だ。

 少し先のブルジリア王国への渡航を前に、あれこれ忙しくやらねばならない事は待っているけれど、ずっと心に懸っていたシェムスの件もなんとか上手く片付いたことだし、そんな瑣末事どうということもない。

 ……と、思っていた。


 それを心の『油断』と人は呼ぶのかもしれないけれど、『それ』を予測するなんて私には絶対に出来なかったと思う。

 普通に考えるならこんなことが起きるとは予想しない話だし、それは頭が良いグラントすら思ってもみなかった事だもの。どうして私に分かると言うのか。


 グラントと私とがエドーニアから帰るのを待っていてくれたのは、サラ夫人やセ・セペンテスの屋敷の使用人達だけではなかったのだ。


 ……だいたい、セ・セペンテス別邸が見えてきた時点で妙な感じはしていた。

 感じていたと言うよりも、あれに気がつかない人間がいるとしたらその人の目は正しい意味での『節穴ふしあな』だろう。


 屋敷の玄関前には見覚えのある軍服に身を包んだ人達がうろついていた。

 街を守る衛兵の制服に似ているけれど、基本の色が紺と赤で違う上、制服には肩章や銀のモールで華やかな装飾がされているから、それが衛士……しかも宮廷で貴人の警護にあたる近衛の制服である事は一目瞭然だ。

 だけど……どうして近衛が屋敷の周囲に立っているんだろう。

 彼らが守るべきは王宮に住む大公一家。

 それがここにいると言う事は、王宮の住民がこのセ・セペンテス別邸へ訪れていると言う事だ。

 まさか大公ではあるまい。それに殆ど王宮から外出なさらない大公の後妻、セルシールド夫人やその子供らと言う事もないだろう。

 以前なら、レレイスが時々グラントやサラ夫人に会いに来ることもあったらしいけれど……。


「……フェスタンディ……か?」


 車窓から衛士の姿を見たグラントが、眉間に微かに皺を寄せて小さく呟くのが聞こえた。

 グラントとフェスタンディ殿下は同じ学舎で学んだ友人同士。

 しかし次期大公位を継がれるフェスタンディ殿下は近年では血気盛んなお若い頃のように気安く街に出歩く様な事をされなくなっている。

 グラントの方から自発的に、または呼び出されて殿下を訪ねて行く事が殆ど。

 もちろん何らかの行事や宴があればフェスタンディ殿下も足をお運びくださるし、ユーシズの屋敷には秋の狩猟の時期にご滞在なさったりもするけれど……。

 グラントの様子をみれば、このご訪問がなんら前触れ無くなされた事は明らかだった。


 訝しげなグラントの表情に微かな不安を覚えた私ではあったが、フェスタンディ殿下が屋敷に足を運んでまで訪ねてきた相手がまさか自分だとは……この時点ではまだ、夢にも思っていなかった。


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