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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
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『顔の無い花嫁』48

「……一つの『仕掛け』で貴方はどれだけの収穫を狙うつもりなの……? これだけ使い尽くせば丸一羽の鶏だって肉も内臓も無い。残った骨だって出汁のひとかけらも出ないでしょう……」


 つい妙なたとえを口にしてしまったのだが、私は既に驚きも怒りも通り越し脱力の域に達していた。

 まあ……それに彼が噂を流布させたのはあくまでもホルツホルテ海の向こう、ブルジリア王国内でのこと。アグナダ公国内にそんな噂をばら撒かれたのではたまらないが、彼の事だもの意味も無くそんな事はしないだろう。


「鶏どころじゃない牛一頭でも足りないほどの収穫ですよ。フローティア殿。エダシダやラダニーの排除が上手く行ってから加速度的に教会の組織としての力が弱まってくれたのですから」


 ……確かに現時点教会内に問題があったのであれば、グラヴィヴィスがこの国に渡航して来ること自体出来なかっただろう。

 チラリと背後を振り返り見ると、機嫌よさ気に微笑を浮かべる彼の顔には貴公子然とした色よりは少年のような悪戯っ気が見え隠れしている。

 なんだかもう……他国の王族だからと遠慮がちに彼の名を呼ぶのが私はなんとなく馬鹿馬鹿しくなってしまった。


「あまり聞きたく無い気もするのだけれど、気にはなるから一応お伺いするわグラヴィヴィス。……貴方、一体何人の縁談をその……さっきの方法でお断りしたの?」


 たった一人の娘が縁談を断られただけならば国にいられない程の事態にはならないと思う。だいたい、彼がそのトンでも無い『お断りの言葉』を言った相手が縁談の本人かその親御さんにかは分からないけれど、縁組を断られた不名誉な事実など、普通であればそう外に漏れるわけが無いのだ。


「……ええと。……確か教会関係者からの推薦で直接お会いしたのが三人で、お会いする前に口利きしてくださった方に一度。親族からのご紹介が二名に。最後は兄上の肝いりで先代宰相の孫娘殿とノルディアークの王城で……ですね。これはさすがに兄上の怒りを買いまして……まあ、兄の目の前でのことですから仕方の無い事ですけれど」

「目の前……って……」


 フォンティウス王の目の前で……と言うこと……?

 呆れて声も出ないというのはこの事だ。


 先代宰相の親族と娶わせようとフォンティウス王自らが動き、その『見合い』が王の目の前で行われてというのなら、それはそもそも断る事が許されるような物ではなかったのではないだろうか。

 ブルジリア王国国内の貴族間勢力図など知らないが、ノルディアークの王城でグラヴィヴィスが襲撃を受けたのは、彼を次期ブルジリア王国国王に……と望む人間がいるからこその話。

 その縁談にはグラヴィヴィスがフォンティウス王陣営へ取り込まれた事を示す目的もあったのではないのだろうか?

 それを断ったと言う事は、王への恭順を示すことを拒否したも同然……。


「そんな事をしたのでは、国を追い出されても当然だわ……」


 追い出されると言うより、彼は『国にはいさせる訳には行かぬ』……と、そう判断されたのだと思う。


「ああ……兄上もフローティア殿と同じように呆れてそう言いました。やはり貴女は良くお分かりになってくれる」

「分かるも何も、そうなって当然の事を貴方はしたのでしょう……」


 既婚女性に入れあげるような枢機卿はサリフォー教会においておくことは出来ないし、現国王陣営に素直に取り込まれぬ王弟は、治世を安定させるためにも王位継承権第一位の王子の足元が固まるまで国から遠ざけておきたいと言うのがフォンティウス王と王の派閥の考えだろう。

 王妃の出自が力の弱い下級貴族となれば、余計にだ。


 ……しかもグラヴィヴィスは白い鳩の『神事』を成功させてしまった人なのだもの。


 強大過ぎる教皇派勢力を殺ぐためにも『神事』の成功は不可欠だったとは言え、あの成功のせいでグラヴィヴィスのカリスマ性は上がりすぎてしまっている。

 いくら彼が王位継承権を放棄していたとしても、国の始祖と同じ神事を成した彼を王に……との想いが民衆の間に芽生えるのは至極自然な成り行き……。

 フォンティウス王陣営としては、グラヴィヴィスが彼を次期国王に望む勢力と結びつくのを恐れるのは無論だし、そう言った政略に結婚が使われることも多い。

 彼が当たり障りの無い相手と結婚するまで帰国を禁じるのは間違ったやり方でもないような気がする。


「どうしてそれほど国を出たかったのグラヴィヴィス?」


 この人が考えなしにこんな事態を招くような人間じゃ無い事は重々承知。成り行き上こうなったのではないのなら、それは彼が望んで……と言う事になる。

 再び背後を振り返る私の目に、夕日を受けたグラヴィヴィスの穏やか過ぎるほどに穏やかな微笑が映る。


「だって……もう充分働いたと思いませんか、私は?」


 どこかしんみりとしたその口調に胸を突かれ、私はグラントに聞いた彼のこれまでの人生を思い出す。



 ───十と数年前。

 グラヴィヴィスはボウル時リア王国内に内乱を起こそうとしたサリフォー教会へ、まるで人質同然の立場で入信する道を選ぶ事となった。

 もともと内乱自体当時の王室が国教同然のサリフォー教を軽視しているとの不満から発生したもの。王位継承権第二位の王子がサリフォー教会に帰依するとなれば、教会側も怒りの矛先を収める以外に無い。


 入信にあたり教会内でグラヴィヴィスに与えられた地位は『主管枢機卿』と言うもの。

 当初、なんの権威も権限もないただの名誉職であったそれを、名実共に『主管』たる枢機卿へと変化させたのはただ一重に彼の努力の賜物。

 堕落しきった教会の中枢にあって彼は厳格にサリフォー教の原典的戒律を遵守し、王族出身でありながら奉仕的精神を忘れることなく振る舞っていた。


 ブルジリア王国を襲い多くの人々が命を無くした流行り病の最中にも、病院組織を押さえ、薬の売買を専売化していたにも関わらず罹患を恐れ、早々に門扉を閉ざした教会本部からグラヴィヴィスは病の巷へと飛び出し、彼に賛同する協力者たちを組織し病人達の世話を行い、私費を投じ、薬剤の配布をしたのだとか。

 これ以降、グラヴィヴィスは清廉さと若さに見合わぬ精神性を持つ枢機卿として、民衆や教会内の原典的教義を遵守するべきと訴える派閥からの支持を強く受ける事となった。


 この流行病で彼も父である先代ブルジリア国王を失っている。

 考えてみればこの頃、グラヴィヴィスはまだ二十歳になやならずやの若さだった筈。

 ……十代前半から二十代半ば過ぎである今まで、グラヴィヴィスには自由に過ごす時間や気を抜くことが許される環境など、殆ど無かったに違いない。


「小人閑居して不善を成す……と、申しますから」


 グラヴィヴィスの半生に思いを馳せていた私は、彼の口から唐突に飛び出した言葉に一瞬虚を突かれた。


「え?」


 と、聞き返す私にグラヴィヴィスは感情の窺い知れぬ微笑みを浮かべたまま


ことわざです」


 と答えた。

 それが諺だという事はもちろん私にだって分かるけれど……突然そんな事を言われる意味が分からない……。

 一体誰が『閑居』する『小人』だと言うのだろう?


「暇なのですよ。……もうサリフォー教会は弱って行く一方。本当はあんなもの一息に壊す方が面白いしすっきりするのでしょうけれど、無駄に混乱をきたすようなやり方はスマートではありませんし……。沈み行く船の舵を取るのはあまり楽しい作業ではありませんね」


 話の流れからすれば、どうやら彼は自分がなすべき事と思い定めたサリフォー教会の解体を半ば成功させ、今はやるべき事を失ってしまったと言いたいらしい。

 なんだかサリフォー教会が彼にとって飽きが来た玩具のような扱いなのが気になるけれど、それはそれとして……『不善』……と言うのは……?


「小人ってグラヴィヴィス、貴方自身の事? 貴方が一体どんな不善を働くというの?」

「……例えばですが、あのまま国許に残っていた場合、周囲に乗せられたふりをして兄王の地位の簒奪さんだつに乗り出してしまうこともあり得ました」

「…………」


 私はあきれ返って言葉を失ってしまう。

 だいたい『王位の簒奪』なんてこんな風にさらりと他人に言うような事ではないし、しかもそれを周囲に乗せられた『ふり』をしてというのはどういう事なのか。


「悪趣味だわ」


 思わず口をついてしまったこの言葉に、グラヴィヴィスが頷く気配。


「そうですよね。……だからこそ、しばらく国を離れることにしたのです」


 ……なんだか分かったような、分からないような……。

 やっぱりグラヴィヴィスと言う人はつかみどころの無い人だ。

 聖職者然とした落ち着きと、よわいを経た智者のような英知を感じさせると思えば、時に少年のような屈託無さもあり、生まれに違わぬ貴公子としての彼もいる。

 今まで私はグラヴィヴィスはそれらの顔を時と場合、とるべき立場によって使い分けているのだと思っていたのだけれど、彼自身がそれに振り回されている部分もあるように見える。


「普通なら一生掛かっても出来なかったかもしれない仕事を貴方はしたのだから、お休みくらい貰っても罰は当たらなくてよ。ブルジリア王国に滞在中にグラントが言っていた話だけれど、教会関係者の中には貴方の財産に対して善からぬ考えを持っている人間もいるとか」

「ああ……ええ、そうです。さすがにバルドリー卿……そこまで察していられたとは、つくづく明敏な方だ。実際、私に縁談が複数持ち上がってから幾度と無く洒落にならないような事故が周囲に起こるようになりまして。まあ、それも国を離れる名目が必要だった原因の一つです」

「それも……ではなく、自分の命の事なのだから『それ』を一番の理由として挙げてはいかが? 貴方は行動にも言動にも、一つの事にあまりにもたくさんの意味を持たせすぎているわ。なんだか韜晦とうかいが過ぎて、どの部分が一番肝要なのかさっぱり見えてこないもの」


 とても現金な話ではあるけれど、私がグラヴィヴィスに対してここまで踏み込んで容赦なく口をきくようになったのは、彼が既に王位継承権を放棄した人間である事も大きく関係しているのだと思う。

 彼自身も言っていたではないか。

 自分はこの国では『ただのグラヴィヴィス』である……と。


「……手厳しいですねフローティア殿は。そんなことを言われたのは兄と喧嘩した少年時代以来無かったことです」

「気を悪くして?」

「まさか」

「そう……良かったわ。ここに来て腹を立てられて放り出されたのではたまらないもの」


 なんだかこんな時、こんな場合に話すような内容ではない話題も飛び出しはしたけれど、私とグラヴィヴィスはそれなりに馬上の会話を楽しんでいた。

 本当にそれどころじゃないのに一体何をしているのかと自問自答するけれど、半ばくらいは現実逃避の気持ちも入っていたのではないかと思う。


 既に私達はリネの港のすぐ手前まで来てしまっていた。背後を振り返るが未だに私達を追って兵らがやって来る気配がない。

 先刻まで明るいオレンジ色に海を染めていた太陽が海の上の不気味な暗雲に隠されていた。

 落日の反対側は既に銀色の星が輝く夜の色。

 今現在街道を照らすのは暗灰色の雲間から弱々しく漏れ零れる錆び茶色の残照と、海上の乱雲の合間に時折閃く青白い雷光のみ。

 海から陸へ向かって吹きつける冷たい風が、嵐の雲をこちらへ運んで来ているようだ。


 どうして誰も私達を追ってこないのかしら……?

 私は一体どうすれば……。


「……馬車が止まるようですよ。ああ、貴女の追っておられた侍女が降りますね……」


 港湾地区とリネの市街地への分岐点辺りで馬車が止まり、灯りのともるランタンを手にスティルハートが降車するのが行く手に見えた。

 道は十字路。直進と左折は港湾地区へと続き、右に折れるとリネの市街地へと向かう。

 どうやらスティルハートは左折……港湾地区の桟橋方面へと行くようだ。


 私は慌てて銀の杖をマントの内側へと引っ張り込み、左右を窺う彼女に顔を見られぬようグラヴィヴィスの方へと上体と首を捻った。


「そのまま彼女が向かったのとは反対側……右手へ折れて進んで下さる? 曲がると直ぐに何軒か貸し倉庫が並んでいるから、建物の隙間にでも馬を止めて私を降ろしてもらいたいの」


 引き下げた帽子の鍔の陰から窺い見ると、スティルハートはやはり桟橋の方へ向かって歩いていた。彼女を降ろした馬車はそのまま直進……港湾地区内でも事務所などが多く建ち並ぶ方面へと進んでゆく。恐らく港湾事務所の向こう側にある貸し馬車屋の返却口へと向かうのだろう。

 援軍の姿は見えず先の展望は見えないけれど、ここまで来て彼女を……『設計図』を見失う訳には行かない。


「グラヴィヴィス……こんな妙なことに巻き込んでしまってごめんなさいね。本当にお礼の言葉も無いくらい感謝していてよ。……もう一つお願いしたいことがあるのだけれど、よろしくて?」


 私はグラヴィヴィスの助けを借りて馬をおりながら、彼の返答も待たずに口早に言葉の先を進める。


「馬車が向かった方へ行くと、港湾事務所があるわ。赤いレンガの一番大きな建物で、入り口の脇に金の看板が掛かっているからすぐにわかってよ。そこに『助け』を求めてもらいたいの。……そうね、大公からの命令だとでも言えば警備兵は動いてくれると思うけれど……さっきの馬車も向こうへ向かったから、出来ればあの御者台の男に気づかれないようにこちらへ向かって貰いたいのよ」

「勿論フローティア殿の願いならなんとしてでも手をお貸ししますが、しかしそれでは貴女が危ない目に遭いかねないではないですか。待ってくださいフローティア殿、私が侍女の後を……───」


 馬から下りてスティルハートの後を追おうと歩き出した私の手を、グラヴィヴィスが慌てた様子で掴む。


「───この鞍では私、一人で馬に乗り降り出来ないわ」


 私の脚で歩いて事務所へ……だなんて時間が掛かりすぎて駄目だ。

 馬に乗って向かっても乗り降りに手間取れば同じこと……。


「それに、私はグラントや貴方のように口が巧くないから、港湾区の警備兵に動いてもらうなんて出来ないわ」

「しかし……それでは……」


 私の手首を掴んだグラヴィヴィスの手指は、すんなりと長細い癖に万力のようにがっしり力強く巻きつき、簡単には離れてくれそうにない。

 こんなところで押し問答をしている時間は無かった。

 グラヴィヴィスの左手には私の手首、そして右の手には今まで二人を乗せていた馬の手綱。


「ごめんなさい。申し訳ないけれど貴方にお願いするしかないの……」


 私は詫びながら、銀の杖で馬の尻の下の方をバチンと叩く。

 途端、突然叩かれた事に驚いた馬は揃えた後ろ脚で空を蹴り、続いて前膝を畳んでバタバタと棹立った。


「……なんて事を……! フローティア殿……!」


 手首の拘束が緩んだ隙に、私はグラヴィヴィスの手を振り払う事に成功した。


「後は……お願い」


 人馴れした馬が驚き暴れるのを宥めることくらい、馬に馴染んだ生活をする人間であれば出来るはず。


 私は薄暗い道を桟橋方面目指して脚を引きながら急ぎ行く。銀色の杖はマントの中に引き込んで内側で突いた。

 ……歩き難いことこの上ないけれど、時折青白く閃き輝く雷光にこの銀の杖は目立ちすぎるのだもの、仕方無い。


 スティルハートが桟橋の突端目指して歩いて行くのは彼女が手にしたランタンのお陰で直ぐに見つけることが出来た。

 海辺に私の姿を隠してくれる遮蔽物があるかどうか心配だったが、船に荷を運ぶ荷役の人夫らの休憩小屋や、客船の降乗客らに土産物を商う半坪程の簡素な造りの出店、陸揚げされた小型船、そちこちに積まれっぱなしになった木製コンテナや樽などが散在していて何とかなりそうな気配。


 スティルハートを追うため桟橋に立った私は十字路を素早く振り返ったが、人の気配はない。

 貸し馬車屋は港湾事務所からもっと奥まった場所にあり、御者台にいた男はもうしばらくはこちらへ来ることは無いだろう。

 彼女の歩いて行った行く手を見ると、桟橋突端には幾つもの樽と木箱が積み上げられている。見る限りでは周囲に彼女以外の人間はいないよう……。

 そろり……そろりと私は脚を引き、スティルハートの様子を伺いながらゆっくりと前進した。


 海へと伸びる桟橋の両側には係留された大小の船舶。強くなりつつある海風と波に船は揺られ、ギィギィと音立てて船体が隣の船や桟橋に擦れ軋む。

 荷役の人夫が夏場に日を避け休む為に設置された扉の無い休憩小屋へと滑り込み、私は並んだ木製ベンチの隙間にパニエで嵩張るローブの裾を引っ張り込んだ。グラヴィヴィスが拝借して来た鍔広帽子を固定していたスカーフを解き、借り物の帽子をベンチの陰へ押し込んで、入り口からスティルハートの様子を窺う。


 建物の陰から顔を出した途端、遠い海の上に雷光が閃いた。

 瞬間的に青白く照らされた海とその向こうに停泊する大きな船を背景に、手にしたランタンを自分の頭上高くに掲げたスティルハートの姿が黒く浮かび上がる。


 ……一体彼女は何をしているのかしら……?


 右回り、左回り、手にしたランタンの灯りで交互に大きく円を描く。


 何かの合図?

 ……もしかして、あの船に??


 もう少し近くで様子を見ようと、私は行く手と背後を確認してから次の遮蔽物……木箱の山へと足を進めた。

 緊張に胸がドキドキする。


 途中、係留された小型艇からガタンと音が聞こえた気がした。

 驚いて木箱の陰へと隠れ船の周囲を窺うも、船上には積載された水の樽や防水布で覆われロープで固定された木箱の山しか見当たらない。


 ……ロープでも緩んでいて荷箱同士が当たった音だったのだろうか?


 耳を澄ますが船の軋みと波と風の音、それから遠くに唸り響く雷の音くらいしか聞こえてこない。

 こんな場面では当然かもしれないけれど、どうにも神経が過敏になっているようだ。

 ……雷の音は苦手だ……。父様が亡くなられたのも雷の鳴る日だったから。


 木箱の陰から顔を出し、暫く目を離してしまった再びスティルハートの様子を確かめようとする私の目に映ったのは、海上の大型船舶から二艘のボートが海面へと下ろされる場面。

 距離がありしかもこの暗さではっきりとは見えないが、船の上には何人もの人間が乗っているようだった。


「ああ……どうしよう……」


 思わず声に出してしまったが、呟きは海風と波にかき消され誰の耳にも入らなかったことと思う。


 私は一体どうすればいいのかしら?

 海から陸に向けて風が吹いているのだもの。ボートはあっという間に桟橋に到着することだろう。

 もしかすると、船にはあのバズラール卿がいるのかしら?

 この季節、荒天のホルツホルテ海を渡るなんて自殺行為にしか思えないけれど……。ああ……そうだ。

 バズラール卿にはもう後がない。

 起死回生を狙うのであれば、自分や仲間の命を賭したっておかしくはない。

 もし無事に国許へ生還出来たなら、彼は冬季にもホルツホルテ海を渡ることが出来る新造船を手土産に出来るのだもの。


 ……結局、フドルツ山の事件はレグニシア大陸のアグナダ及びリアトーマとボルキナ国間で玉虫色の決着を見てしまったけれど、何年にも渡ってボルキナ国はフドルツ山金鉱脈から『金』を不正に得ているのだ。

 その資金で整えた軍備を持ち、さらに新造船を得た彼の国が、今後どういう行動に出るかは考えるまでも無い。


 スティルハートはボートの方に気を取られ私の存在には全く気づいていない。

 恐怖と緊張で手足が震え、心臓は口から飛び出してしまいそうなくらいに激しく呷っている。


 ボートが桟橋に到着するまでにスティルハートの背後に忍び寄ることは……なんとか出来る……と、思う。

 だけど、私に彼女から設計図を奪い取る事が出来るだろうか?

 もし仮にそこを巧くこなしたとして、御者台の男が戻ってくるのと私が桟橋から逃げ出すのと……どちらが先になるか。

 ボートの人達もそのうちには桟橋に到着するだろうし……。


 ……どうして私はこんなところに一人でいるのかしら?

 武器も無く、走ることの出来る足も持たない私が……。


 私は歯を食いしばり木箱の陰から抜け出すと、古くなり屋根の傾いだ固定式の屋台を目指して踏み出した。




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