『顔の無い花嫁』47
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「──────どうしたもんでしょう……」
馬事訓練場管理人がバルドリー侯夫人から言付かったという手紙を届けに来たのは、シザー卿らがモスフォリア王女の侍女を捜索へと出立し、ほどなくの事だった。
バルドリー卿夫人フローティアはプシュケーディア姫の介添え人として侍女失踪から『設計図』盗難発覚までの一部始終を目撃している。
当然彼女はこの会議室で今一体何が行われているのかを把握していると言うこと。そのフローティアから『火急に』と言い含められた使者の登場となれば、時を待てない何事かが起きたのだろうとフェスタンディのみならず室内の面々も身構えたに違いない。
だがしかし、今一人侍女が……しかも『設計図』盗難の真犯人の可能性のある者が遁走と言う報が入るとは予想外も予想外。それだけでも一同に衝撃を与えるに充分だったのに、現在その侍女の追跡を夫人自らが行い、さらにはブルジリア王国王弟グラヴィヴィスがそれに協力しているとは……。
一同はこの展開に唖然とし、ついで呆けている場合ではない重大事と認識し我に返ると会議室内は騒然とした空気に満たされた。
「どうしたもこうしたも……緊急捜索すべき人物のリストにバルドリー侯爵夫人とグラヴィヴィス、それから侍女をもう一人追加するようにとシザー卿に至急伝令する以外にないでしょう。城からも彼らを捜索追跡する兵を出す……で宜しいですね、父上」
「うむ。……殊に、リネ方面へ出る街道には細心の注意を払うよう伝えおくように」
フェスタンディの言葉に大公は重々しく頷き、馬事訓練場の管理人に城を出る直前のフローティアとグラヴィヴィスがどんな身形をしていたかを訊ね、それらの情報を纏め携えた伝令が慌しく城外へと出立して行った。
「急ぎモスフォリア側にこの……バルドリー侯爵夫人らが追った侍女の身元照会を求める必要がありますなぁ。先に失踪の侍女は、恋人との駆け落ち。このスティルハートとか言う侍女からはどんな事情が出てくることか。モスフォリアにも事由があるとは言え、一体どんな無理無体を彼女らに強いているのやら……」
溜息のエグザ伯爵に大公は小さく首を振る。
「そう言うなエグザ。南の大陸は落ち着かぬ地域。小さな国は生き残るに必死を尽くすのだよ。モスフォリアの慣習について聞き及んでおりながら、それを前もって断らなんだこちらにも非が無いとは言えぬ」
「……街の中には警備の兵が大勢配備されています。伝令が行けば速やかに彼らの行方は知れるでしょう。そうでなければコレを予見して事前に忠告をくれていたグラントに申し訳が立たない。……しかも、彼の奥方絡みでもし何かあったりなどしたら……」
考えるだに恐ろしい……と、フェスタンディが金色に波打つ髪をかきむしった。
先年結婚した彼の友人、グラントの妻への溺愛ぶりは一部では有名な話だ。
大公城からレグニシア大陸の平和安定を脅かす可能性もある新造船設計図が盗まれると言う事自体が重大な不祥事なのに、更にこれを防ごうと協力した貴人の身が害されなどしては、目も当てられない。
「それにつけても、何故に侍女が城外に出る前にバルドリー卿夫人はその者を衛士にでも捕縛させなかったのかねぇ」
「手紙には『侍女エリルージュ捜索協力の侍女スティルハート、使用人出口より城外へ。設計図盗難犯の可能性有り。ブルジリア王国王弟と追跡。捜索手配を』……とある。さっきの使いが馬事訓練場の者であれば、訓練場の先に騎馬騎兵の出入り口だな……」
「ああ……使用人出入り口は渡り廊下側から見ればその向こうですね、父上。では途中までは正規のルートを件の侍女は通っていたことになる。両卿、ご自身のお屋敷をお考えになれば分かると思いますが、この……大公や貴人の使う城の表側とは違い、兵の訓練や使用人らの領域に衛士はそうおりません。しかも彼女はあの通り歩く事に障りのある方。駆けて行って助けを呼ぶわけにも行かなかったか……と」
時間の無い中で走り書き同然にしたためられた手紙には、余計な情報や説明は一切書かれていない。
とかく女性の手紙は要領を得ない長文になりがちだが、彼女の手紙は非常に簡潔ながら読み手が頭を使いさえすれば大量の情報を含んでいるよく出来たものだった。
『エリルージュ捜索協力を申し出た侍女』と言う言葉だけで、その人物が王女のそば近くにおり『設計図』盗難に関わる事が出来る立場にあった事、『捜索協力』をした侍女ならば騎馬や騎兵の出入り口以外の出口へ至るルートを外れるまで彼女を衛士に捕縛させることが出来なかった事情なども窺える。
それに馬事訓練場の管理人が手紙を持って来た事から、バルドリー卿夫人がどういう道筋で彼女を追ったのかも理解しやすいし、彼に尋ねればどのような身なりで夫人と王弟が城外へ出たのか書く必要も無い。
城内の様子や彼女の状況を考えれば、衛士に助けを求めるどころかその侍女の怪しさに気づくことが出来た事自体に感心する程。
侯爵夫人と言う立場の女性が自ら疑惑の侍女を追う選択をした事に驚きはすれど、鑑みれば彼女の取った手段以上に最良のモノがその時に存在したとも思えない。
「ま……あのバルドリー侯爵が伴侶に選ぶに相応しいと言えば相応しいお人ですが……。それにしても協力を求めるにブルジリア王国の王弟殿とは。……バルドリー侯爵が夫妻でフォンティウス王の披露宴に出席している事は存じております。夫人と王弟殿は知己ではあるのでしょうが……しかし」
レバイック卿の言葉にフェスタンディは思わず溜息した。
「知己と言うか……本人から聞いた話では、グラヴィヴィスは暴漢に襲われた折にバルドリー侯爵夫人とその従者に命を救われた事があるそうで。……彼女はまあ、グラヴィヴィスの命の恩人にあたるらしいのですよレバイック卿」
「なんと……むう。……それではお若いグラヴィヴィス殿が自分で恩を返そうとされるのも当然か……」
腕を組み硬い会議室の椅子の背もたれに体を預けるようにして唸るレバイック卿を目の端に、フェスタンディは自分も唸り声を上げて頭を抱えたい気持ちを押し殺していた。
年下の従兄弟が友人の妻に恩義以上の気持ちを抱いている事に彼は気づいていたのだ。
……それだけではない。ホルツホルテ海が嵐に閉ざされるこの時期、故国で重要な地位にある従兄弟が春まで帰国できないのを承知で兄王の名代を引き受け渡航してきた裏にも、どうやらフローティアの事が少なからず関係あるらしく……。
設計図の盗難と言う大事件の渦中にあって、自分の従兄弟が友人夫妻に横恋慕……。
前半の部分だけでも国の威信とレグニシア大陸の平和安定を脅かす重大事。
しかもバズラール卿などと言う恐ろしい人物の名前までが事件には見え隠れしている。
そのバズラール卿の存在を捕捉し彼を確保しようとグラントが奔走する中、彼の溺愛する奥方が安全な城内から現在は行方知れず。
しかもその傍らには彼女に岡惚れしているらしいブルジリア王国の王弟グラヴィヴィス……。
これ以上頭の痛い状況がこの先の人生の中で一体どれ程あるだろう……と、フェスタンディは途方に暮れる思いだった。
だがしかし、この場でそんな醜聞や弱音をぶちまけるわけにも行かない。
「……暴漢に襲われて以来、グラヴィヴィスは相当に厳しく剣の鍛錬をし直したとか。こっちに来てからも兵舎へ出入りして、騎士らとかなり激しい手合い稽古を毎日重ねておりました。……抜き身を晒す事態にならぬのが一番ですが、騎兵長のお墨付きの腕。滅多なことでも無い限りは恐らく大丈夫かと」
グラントの妻フローティアとグラヴィヴィスはあくまでも城から抜け出した侍女を『追跡』しているだけだ。二人ともに愚かな人間で無い事はフェスタンディも分かっている。それぞれ身分を弁えた慎重な行動を取ってくれる筈……と、信じるしかない。
「まあ……どちらにせよ、今はまだこの件の真犯人が侍女エリルージュなのか侍女スティルハートなのか判明しておりません。セ・セペンテスとその周辺に配備している兵らがこの両者を見つけ出すのを待つしか……今ここに残された我々にしうる術はありませんね」
フェスタンディの言葉に一同はそれぞれ重々しい頷きを返した。
もしも『設計図』を取り戻すことが出来なかったら。
もしもそれが既にバズラール卿の手に渡ってしまっていたなら。
もしも侍女を追ったバルドリー侯爵夫人やグラヴィヴィスの身に何事かがあったなら。
それとも、リネの港へ向かったバルドリー侯爵らに何か善からぬ事態が起きたなら。
国家としての威信と、平和安定。
リアトーマ国との間の信頼関係と、隣国に嫁いだレレイスの立場など……。
皆口に出さないまでも、それぞれの胸の中でそれぞれの危惧を抱いているに違いなかった。出動した騎士らもシザー卿も、今頃は必死に動いている事だろう。
しうることに力を尽くし、働いていられる人間が羨ましいとフェスタンディは思った。
息子である彼の目から見て、大公は重々しい沈黙を保ちながらもどっしりと臣下らの働きを信じてそこに座す最高権力者に相応しい印象を見る者に与えていると思われた。
それこそがここに残る大公の務め。
自分はまだその域には達することが出来ていない自覚が彼にはあった。きっと、内心の不安が顔に出てしまっているに違いない。
ふと、フェスタンディは今現在しうることも無く、不安に押し潰されそうになっているに違いない年若い花嫁の存在を思い出した。
一体今王女はどれほど辛い思いをしている事だろう……?
***
「さすがに今日はこの季節にしてはリネの街へ行く人々は比較的多いようですね。……ですが、街中の往来より随分人が減っています。念のためもう少しあの馬車からは距離をおきましょう。……ええと……それで……フローティア殿のご質問の答えですが、私が貴女を見つけたのは、モスフォリア軍の方と貴女がお話なさっていたところからでした。すぐにお声をかけようかと思ったのですが、どうやらとても取り込んでいらっしゃる様子でしたので」
私とグラヴィヴィスとは馬首を北北東へ向けホルツホルテ海を左に見ながら馬の背に揺られていた。
彼の言ったとおり、セ・セペンテスを出てからは周囲の馬や人・馬車の姿は随分と減っている。
春から秋にかけてならこの時間もまだリネの港さして行き来する人々は多いのだが、今の季節、港がほぼ休眠状態のリネとセ・セペンテスを繋ぐ街道は閑散とする。
それでも今日はプシュケーディア姫の輿入れの列を見るためにリネ方面から出てきた見物客も多かった。
時間的には今頃が日暮れ前にリネに帰着しようとする人々がセ・セペンテスを出る時刻にあたる。
全く人気の無い道にスティルハートの馬車を追うようなことにならなかったのは幸いだったかも知れない。
……確かにグラヴィヴィスの言う事も一理ある。言葉も無く一心に追跡する馬車を見つめるのは不自然だ。それに、黙り込んでいるよりは口を動かした方が不安な気持ちも少しは和らぐかもしれないではないか。
「ボードナム卿と話し終えてから渡り廊下まで、結構な距離があったと思いますけれど……?」
「……フローティア殿をお見かけしたのがわりと離れた場所だったのです」
背後で帽子の角度を調節しながらそんな言葉でグラヴィヴィスは言い訳けたが、セ・セペンテスの大公城は市井の町屋でもなければ犬小屋でも無く、大きな『城』。
私はこの通り杖をついて脚を引いて歩くのだし、グラヴィヴィスは背も高ければ脚だって長い。少しだけ足を早めれば彼がこちらに追いつくのは簡単だった筈。
ただ進行方向が同じ私の動向を結果的に見ることになったと言う可能性もあったけれど、それは彼自身『すぐに声をかけようと思った』との言葉で否定してしまっている。
「……滑稽な場面を見られてしまったわ……」
まあ……どうでもいいことと言えばそうなのだが、下手糞な尾行姿を見られてしまった気恥ずかしさに思わず大きな溜息が出た。
「そんなこと全く思っていませんよ」
「でも……このとおり、妙なことに巻き込んでしまったし……」
「そうせざるを得ない『緊急事態』だったと私は了解しています」
グラヴィヴィスの声にも言葉にも余裕があるのは、彼が事情を理解していないからだろうか?
この道の先にレグニシア大陸侵略の構想を描き、計画の半ばまでを現実化させていた人間がいるかも知れないと知ったなら、グラヴィヴィスの反応も違っていたかも知れない。
申し訳なさに萎れる私の後ろでグラヴィヴィスが微かに笑う気配……。
「……先ほども言いましたけれど、こんなことでもなかったら、私はこのようにフローティア殿と相乗りで遠出する機会などありませんでした。……それに……貴女に呼び捨てに名を呼んでいただくことも無かった」
彼に言われてはじめて気づく。
そうだわ……私、さっきから彼の名前を失礼にも呼び捨てで……!?
「も……申しわ」
「───謝罪などしたら馬から降りていただきますよ、フローティア殿」
「そんな……っ」
「今この道中だけはそのままに願います。……どうでしょう、この追跡の私への『駄賃』代わりにと言うのは? 実は今、私は本当に楽しくて仕方ないのですよ。……申し訳ありません、貴女にしてみればそれどころじゃないと承知しているのですけれど……。いけませんね、どうにも感情の制御が上手く行かなくて……遺憾です」
遺憾などと言う重い言葉の割にはやはり彼の声には気楽さがあるように見受けられる。
グラヴィヴィスの少年期から置かれていた状況……それに、主管枢機卿としての姿を思い返しても彼が状況把握の能力の高い人間だと言う事は明らかなのに、こんなに緊張感無くいられるなんて一体どうなっているのだろう?
彼を巻き込んでしまった私に対して気を使っている……と言う風でもないようだ。
進行方向左側、海へ向けて太陽はどんどん傾いて行っていた。
西日は海上に浮かぶ不気味な乱雲に時折遮られつつも眩しく私の目を射る。
気流の関係でリネやセ・セペンテスがあの雲に覆われることは少ないが、それでも海辺は街の中よりも吹き付ける風が冷たい。
「種明かしをすれば、フェスタンディとモスフォリア王女との結婚が訳ありだと言う事は、私も察していたのです。無駄に早くセ・セペンテス入りしてしまったので、普通の縁組には無い様子など、見るとは無しに知るとは無し切れ切れに知ってしまいまして……」
笑い含みの述懐。
外部には漏れ出なくとも、大公やフェスタンディ殿下のそば近くにいれば確かに見えてしまう物もあるだろう。しかも彼はグラントと張るくらいに頭の良い人だもの、ほんの少しの材料から状況の大半は補完出来たと思う。
「先刻も仰っていましたけど、一体何時こちらに渡航されて来たのですか? お祝い事ではありますけど、こういう季節の行事なら……なんと言うか……貴方のような要職にある人間は来ないのが普通だと思うのだけど……」
どこまでを彼が知っているのか聞いてみたくはあったけれど、下手な質問は薮蛇のもとかも知れない。私は話を逸らそうとこの質問を彼に投げかけたのだが……。
「ああ、ええそう。肩書きだけは高位の老人か、生まれだけは高貴なボンクラなら暫く帰ってこなくとも問題は生じない。……まあ私も似たようなものと判断されたわけですが……」
「え?」
「いえ、それは後ほど。私がこちらに来た時期は、ほぼ貴女達夫妻がリアトーマ国へ発たれたのと入れ違いだったようですよ」
話によれば、サリフォー教会の革新派が春以降推し進めて来た組織体制の見直し作業が、この夏のエダシダ司教枢機卿及びラダニー主教の退任以降急速に進展したのだそうだ。
私はサリフォー教会内部の事情に疎いので詳細は理解出来ないのだけれど、かつては信者から搾取した富に肥え太り腐敗しきった組織に殆ど自浄作用などは働かなかったようだが、今現在は過剰な程に浄化と粛清が叫ばれているようだ。
一瞬だけそんな中なら余計彼が国許を離れて良かったのか……とも思ったのだけれど、そう言えばそう。
グラヴィヴィスの目的は最初からサリフォー教会の解体だったのだもの。寧ろ現状は彼の望むところであるはず。
「浄化粛清の波からグラ……貴方は避難して来たと言う事ですの?」
彼は、先代のブルジリア国王から多額の遺産を相続しているという話を聞いている。
旧弊な組織の大掃除で不当に貯め込まれていた資金の発掘も出来るだろうし、女神サリフォーの翼の意匠を使った装飾品と言う財源を教会は開拓したが、『病院』『薬局』などと言う財源と幼少時からの洗脳により新規信者の獲得を望める『学校』と言う機構は、既に教会の手から離れてしまったのだもの。
斜陽を迎えたサリフォー教会の誰かがグラヴィヴィスの持つ『財』に善からぬ目を向けることなど無いだなんて……誰にも言えない事だと思う。
「グラヴィヴィスとどうぞ呼び捨ててくださいフローティア殿。……ええ貴女の仰るとおり。余計な説明が不要で貴女との会話はとても楽しい。こちらに来てから随分女性達と接する機会も増えましたが、暗愚なお嬢さん達にはぐったりさせられる事が多くて……」
サラリと零れた辛辣な言葉に私は少しばかり驚いた。
「信者が聞いたらひっくり返りますわよ……」
「信者相手なら幾らでも自分を取り繕うことが出来ますけど、ここはアグナダ公国。今の私はただの『グラヴィヴィス』です。今はまだ兄王の子が幼いため先送りにされていますが、いずれ封爵を受け、適当に官爵を授かることでしょう。……対等な立場の貴族としてまともに会話出来ないような女性達には、社交辞令すら面倒になるものですよ。……この状態でしたら春以降どころか暫くは帰国出来そうもありませんね……」
帰国出来ない?
「……どう言う事ですの?」
グラヴィヴィスにこう訊ねながらもなんとは無し、私は嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
「実は、国許から『結婚』するまで帰ってくるな……と、放逐されてしまいまして……」
……愕然とした。
まさかそれは、もしかして私とのあの『噂』が原因なのではないだろうか?
私がブルジリア王国に滞在中『噂』は実体の無い無責任な変化をしながら流布してはいた。それが原因でサリフォー教会発注の装飾品請負の件であらぬ疑いを掛けられて揉め事が起きはしたけれど、あれはあの時点で片付いた話でグラヴィヴィスが国から追い出されるようなモノではなかった筈。
だったら……。
「一体国許で何をなさったのグラヴィヴィス!?」
驚きのあまりついきつい詰問口調になってしまったのだが、私の言葉にグラヴィヴィスは本当に嬉しそうな声で笑う。
「そう、そういう感じで会話は楽しむものですよね、フローティア殿」
たぶん、私は設計図盗難の件で藪から蛇が出る事を防ごうとして、別の藪を突いてしまったのだと思う……。
「でも私はそれほど大変な事をしたわけではないのですよ?」
グラヴィヴィスに持ち上がった既婚女性との不適切な関係の『噂』はあっという間にブルジリア国内に流布していった。
大概の分別ある人間は噂はただの噂に過ぎぬと聞き流していたようだけれど、グラヴィヴィスは夫婦や家族、小さなコミュニティー間の絆と結束を大事にするのが基本原則であるサリフォー教会の主管枢機卿。例えそれがただの流言に過ぎないにしてもそんな事がヒソヒソされるのは喜ばしい状態ではない。
そう言えば私はルルディアス・レイで最後にグラヴィヴィスに会った時に本人の口から聞いていたけれど、彼には今回の既婚女性……つまり『私』相手の噂だけではなく、同性や子供相手の性愛趣味があるとの噂も囁かれていたのだとか。
こんな流言が流されるのも、そもそも彼が未婚でいるのが問題なのではないか……と、周囲が心配するのも可笑しな話ではない。
「私はただ、持ち上がった幾つかの縁談をお断りした。……ただそれだけで」
……と言うそのグラヴィヴィスの口調からして既に笑い含み……。
これで彼が普通に縁談話を断ったと信じるほど私はお目出度い人間ではない。
「どんな断り方をしたの?」
「縁談が持ち上がったのは初めてですので、断り方が良く分からずに」
「分からずに?」
「本当の事を言ったのです」
「い……一体何を……!?」
「ですから好いた相手がいる事と、それが現時点では倫理的問題があって添うに添えぬ女性なのだ……と」
「───なんて事を……!」
追求の挙句に出てきたのがコレだなんて、これなら本当の藪をつついて蛇を出した方がまだマシと言うモノ。
つまり、彼は流布した噂の裏づけを自ら進んでやったと言うのだ。
何が『断り方が良く分からずに』……なものか。
これは確実に『わざと』ではないか。
……だけど……そう。ああ、そうだわ。彼は最初からあの噂をブルジリア王国内に流布させたのは『わざと』だったと言っていたではないか。
その理由としてグラヴィヴィスが私に説明した理由は三つ。
サリフォーの翼の装飾品納入権がらみで不正の存在を匂わせ、教皇派の勢力そぎ落としを狙う為の撒き餌として。
それから浮ついた噂を巻くことにより、グラヴィヴィスと言う人間が足元を掬うに易い人物であると思わせるため。
今ひとつはもともと彼の周囲にあった男色趣味や子供相手の性愛趣味への疑いを払拭する為。
それだけでも十分に一つの『噂』を有効活用した彼だけれど、一応の気持ちで更に追求した私に対し、グラヴィヴィスは噂をばら撒くにもう一つ理由がある事を明かし、それは
「いずれお分かりになる事と思います」
……と、そう言ったのだった。




